※【ホラー】大変センシティブな内容を扱っています。終始救いのないお話ですので、場合によっては気分を害される方もいらっしゃると思います。この先の閲覧は自己責任でお願いいたします。
※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
玄関で脱いだ靴をそろえる気力もなく、ぶら下げた買い物袋を台所に放り落とす。疲れた体を締め付けるスーツもそのままに、母親としての仕事が再開する。
「ユウタ、すぐにご飯できるからね」
まだ幼い息子に声をかける。うまく笑えていただろうか。自信がない。冷蔵庫の扉で顔を隠すようにして、静かにため息をつく。
今日、上司に言われた言葉が頭の中で繰り返される。
『何回言わせるんだ。こんな仕事、バカでもできるぞ』
単純なミス。数字の打ち間違い。育児も睡眠不足も言い訳にはできない。それでも冷たい刃のような言葉は、容赦なく胸を抉るように突き刺さる。
ユウタはタブレットを見ながら笑っていた。
画面では最近人気の芸人が腹を出しながら、大して笑えないギャグを披露している。ユウタも真似をするように変なポーズを取る。
そんな息子の無邪気な姿が、今の私にとっては唯一の救いのように感じた。
――そう思っていた矢先のことだった。
「ねえ、ママ見て!」
息子がタブレットの画面を差し出しながら、屈託のない笑顔をこちらに向ける。
「この人、変なの――『バカ』みたい!」
息子の言葉に、私の思考が一瞬止まる。
「いま、何て言ったの……?」
思わず声に出ていた。目の焦点が合わず、呼吸が荒くなる。
「えっ……、バカみ――」
「ユウタ!」
言い放った瞬間、ユウタの肩がびくりと震えるのが分かった。
「そんな言葉使わないの。『バカ』なんて絶対に言っちゃダメ。二度と使わないって約束して」
どうしよう。止まらない。――こんなの良くないのは分かってるのに。
タブレットから笑い声が響く。嘲るような笑い。
「もし約束破ったら――」
これ以上は言っちゃいけない。こんな脅すような言い方。頭の中で上司の声がする。『バカ』と罵る言葉が何度も私を責め立てる。
「ママ、ごめんなさい――」
気づくとユウタはそう言ってとぼとぼと奥の和室へと歩いていた。叱られたときのいつもの行動。ふすまを閉め切ってしばらく黙り込む。そこでいつも私は冷静になる。
「ごめん、ユウタ――」
いまさらそんな言葉をかけたところで、口から出てしまった言葉をなかったことになどできるはずもない。返ってこないユウタの声がまた虚しく心を抉る。
それからしばらく経ったある日、夕飯の支度をしながら手が震え、私は思わず包丁を手放した。
あの忌々しい上司の声が今日もトラウマのように頭に響く。
『いつになったら、ちゃんとできるようになるんだ』
『お前、もう何年目だ?』
胃がキリキリと痛む。疲れがどっと体を覆い、重たい空気がキッチンを満たしていく。
「バカ上司……」
つい口から漏れて、はっと息を呑む。あの日の約束を思い出して、思わずリビングで遊んでいるユウタの背中を見る。
それまではしゃいでいた息子が、まるで何かに取り憑かれたようにぴたりと動きを止めた。
「ママ、――いま何て言ったの……?」
ユウタが私に背を向けたまま言う。息子の口から出ているとは思えない重く冷たい声だった。
「ちがうの、ユウタ……。これは――」
焦りからかポロポロと弁解が口を割って出る。
ユウタはおもむろに立ち上がり歩き出す。和室のふすまが静かに閉まり、部屋がしんと静まり返った。
どうしてあの日、あんなことを口走ってしまったんだろう。息子にはあんなことを言っておいて、私は自制なんてできないでいる。『約束』なんて言う言葉を軽々しく使っておいて、私はそれすらも守れないでいる。
スッ――とふすまが開き、ユウタが顔を出す――。
ずんと暗闇に沈み込んだような顔が和室の向こうに浮かんでいる。
顔の下でぎらりと何かが光った。ぬっと飛び出たそれが和室の裁縫箱にしまってあった『布裁ち鋏』だと気づくのに時間はかからなかった。
「ユウタ、それ――」
私の声にユウタの声がかぶさる。先ほどよりもずっと重たく黒い声。
「約束破ったらどうなるか……覚えてるよね」
――私はあの日、何を言った?
冷たい汗が頬を伝い、全身の毛が逆立つようにゾワリと悪寒が走る。
思い出そうとすると頭がズキズキと痛む。上司の声ばかりが頭に響く。あの日の自分が発した言葉すらも、ぼんやりとして輪郭を持たない。
和室から静かに近づいてくる無表情のユウタを前にして、私の体は何故か硬直したように動かなかった。鼓動が激しくなる。口を開いても言葉が出てこない。
「約束破ったら――ベロ……ちょん切っちゃうんだよね」
私はそんな酷いことを言っていたのか。
ユウタの手元で布裁ち鋏の重たい鈍色が光る。後ずさりする足が上手く動かず、その場に腰から崩れ落ちる。ユウタと視線が合う。生気のない眼差しの奥に闇が広がっていた。
「ユウタ……、ごめんなさ……」
私の声を遮るように、鋏の冷たい感触が唇に触れる。
ユウタの姿をした約束の権化がゆっくりと首を傾げながらニタリと笑う。
「言ったことは――守らなきゃ」
押し当てられた刃先が唇を開き、乾いていく舌先に鉄の味がじりじりと滲んでいく。じりじりと……。じりじりと。。。
#ささやかな約束
世界には、祈りがそっと羽根を得る瞬間がある。
人が胸の奥で願いを結ぶと、その言葉は小さな光の粒となり、白い羽根を持つ『祈り鳩』へ姿を変えるのだ。祈り鳩はどんな遠いところへでも、風や星を味方につけて飛んでいく――そんな不思議な生き物だった。
ある朝、一人の少女が海の向こうに立ち上る日の出を見ながら、胸の前でそっと両手を組んだ。目をつむり、心の中に語りかけるようにして、ずっと心の中で温めてきた願いに想いを託す。
「この祈りが……できるだけ遠くまで届きますように」
少女が囁いた瞬間、小さな光の粒がキラリと光り、一羽の白い鳩が目覚めた。祈り鳩がゆっくりと羽ばたきを始めた翼の先には、ほんのり金色の光が混じっているように見えた。
「いってらっしゃい」
少女が微笑むと、祈り鳩は勢いよく空へと舞い上がり、雲の中へと進んでいく。
空の上は思いのほか忙しい世界だった。祈り鳩は雲の切れ間で、風の兄弟と出会った。
南風の兄が言う。
「おい、そこの小さな白いの。いったいどこへ向かっているのだ?」
祈り鳩は胸を張る。
「できるだけ遠いところへ行くんだ」
「ほぉ、遠いところか。ではちょっと試してやろう」
北風の弟が顔を出す。兄弟は祈り鳩をおちょくるようにくるくると風向きを変え、その度に祈り鳩は右へ左へ振り回される。
それでも鳩は諦めずに、より高いところを目指して羽ばたき続けた。
すると風の兄弟は、おもしろそうに目を丸くした。
「思ったよりも根性がある。よし、特別により高いところへ運んでやろう」
ふたりは鳩を雲の遥か上まで押し上げ、青空の天井近くへと導いた。祈り鳩は「ありがとう」と小さく礼を言い、また羽ばたきを続ける。
その先で、星の民が操る『星舟』に拾われた。夜空を渡る巨大な舟の中で、星の民は光の粒を磨きながら言う。
「やぁ、祈り鳩。どこへ向かうんだい?」
「できるだけ遠いところへ」
「そうか、では私達の航路を進むといい」
祈り鳩は舟と並び、流れる星々のあいだを進む。けれど行く手を漂う『忘却の嵐』と呼ばれる黒い霧に飲み込まれる。
なぜ飛んでいるのかを見失いそうになりながら、少女の祈りまでもが輪郭を薄くする。
――だめだ……忘れちゃ……。
必死に羽根を震わせると、祈り鳩の体からまばゆい光があふれた。光が霧を押しのけ、星舟の周囲には再び無数の星が瞬く夜空が広がった。
「よくやったな」
星の民が鳩の背を撫でる。祈り鳩はくすぐったそうに羽根をぱたつかせ、星舟を背中で見送り、先へと進む。
やがて鳩は『宇宙鯨』と呼ばれる巨大な生き物に出会った。島のような体で、青白い光をまといながら泳ぐその姿は、まるで夜空の海を漂う大きな夢のようだった。
「小さな翼の者よ。どこへ向かう――」
「できるだけ遠いところへ」
宇宙鯨は静かにうなずき、ヒレで空間をかき混ぜた。夜空を漂う銀色の粒が、寄り集まっては渦を巻き、中心にぽっかりと真っ黒な穴があいた。
「この先は境界だ。行けば二度と戻ることはできぬぞ」
祈り鳩は迷わなかった。少女の祈りはただ『遠くへ』行くことを望んでいる。
「ありがとう、宇宙鯨さん」
そう言って、鳩は穴の中へと吸い込まれるように進んでいく。
その瞬間、世界は一変した。
風が止み、光も音も消えた。
色も重さも温度さえも存在しない、完全な『無』――。
祈り鳩は自分が飛んでいるのか、止まっているのかすら分からなかった。そこにはただ進んでいるという確信だけがあった。
どれほど進んだ頃だろうか。
――ッッッッッッッ……
暗闇の中に小さな波が立ち始めると、祈り鳩はようやく羽ばたいている感覚を取り戻す。
――トクトクトクトク……
波の音がはっきりしていくにつれ、闇の奥に朝焼けの色が滲みはじめる。ぼんやりとした桃色の薄明りが鼓動に合わせて小刻みに揺れ、世界がほんの少しずつ輪郭を取り戻していく。
それは母なる海の中に漂う――生命だった。祈りには『果て』なんてなかったのだ。
祈り鳩は静かに悟る。少女の心から遥か遠く、果てだと思った場所は、新たな始まりだった。祈りは絶えることなくどこまでもつながっていくのだと。
祈り鳩は新しく生まれた命の中で、小さな光の粒となって永遠に羽ばたきを続ける。いつか、この命が願いを胸に宿した時、その想い再びを遠くまで届けられるように――。
#祈りの果て
掌編連作『寄り道』第六話
※また少し間が空きました。2025.10.31投稿『光と影』の続きです。
ママさんと二人、失踪した僕の父親探しの物語。
【前回までのあらすじ】
父と親しかった孝雄からの情報で、父親の女らしき『メグミ』の影を追って港町のスナックを訪れた僕とママさん。ママさんの先輩である玲子からメグミが勤めていた店の情報を得るが、僕はまだ自分の気持ちに整理がつかないでいる。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
玲子の店を出ると、潮の匂いを含んだ夜風が頬を撫でた。港町のネオンは夜の闇の中に半分生気を吸い取られたようなぼんやりとした光を放っている。
「こんな濃い一日は久しぶりだわ」
ママさんがぼそりと呟く。僕も同じことを思っていた。
孝雄の部屋を訪ねてからまだ半日も経っていないのが信じられないほど、多くのことが頭の中で入り乱れている。
仕事熱心で、真面目で、叱られた記憶などほとんどなかった優しい父。
一方で、夜の街で酒を煽り、ツケを残して女と消えた父。
どちらが本当の父なのか、はたまたどちらも本当の父なのか、あまりにも乖離が大きすぎてその差を埋めるのが難しい。
分かれ道と行き止まりの連続はまるで迷路のように僕を迷わせる。しかも刻々と形を変えるタチの悪い迷路だ。
先の見えない曲がり角の向こうに何が待っているのかが怖くて思わず足が竦む。この感情は最終的にどこかにたどり着くんだろうか。
唐突にぐぅと腹の虫が鳴る。頭の中は悩みでいっぱいなのに、胃の中は空っぽなのが妙に可笑しく思えてくる。
「何か食べに行こうか――」
ママさんがほぼ同じタイミングで言ったので、僕は虫の音を聞かれたのだろうかと恥ずかしくなる。
少し車を走らせ、港町にある唯一のファミレスへとたどり着く。
店内の暖かい照明に、耳馴染みはあるが名前の分からないクラシック音楽が薄く流れている。
二人で窓際の席に腰を下ろすと、ママさんはメニューを開いてこちらに差し出す。
「好きなの頼みな」
僕は無言で頷きながらメニューを見る。今となってはありふれたファミレスのメニューですら、過去に僕を引き戻す。
「じゃあ、ハンバーグで……」
遠慮しがちに僕が言うと、ママさんは呼び出しベルを押して店員を呼んだ。
ふと窓の外に目をやると、夜の闇の中で窓ガラスが鏡のように自分の顔を映し出す。客観的に見ると目は虚ろで、とても疲れているように見えた。
視界に駐車場の街灯が滲み、ふと母の顔が浮かぶ。
――いってらっしゃい。
そう言って父を見送る母はいつも笑っていた。
なんとなくだが、母は父が少しずつ離れていることに気づいていたのではないか。自分ではない誰かに、家庭ではないどこかに、心を預けていることに。
僕だけが、何も知らずに『幸せな家族』を信じていたんだろうか。僕は家族の表面だけを見ていたのかもしれない。
僕は窓に映る自分の迷いから逃げるように、テーブルへと視線を落とす。
「母は知っていたと思いますか?」
気づけば声に出していた。
「その――、父の別の姿のことを」
僕の言葉にママさんは少し考えて、言葉を選ぶように口を開く。
「さあ、どうだろうね。でも、もし知っていたとしても、口には出さないだろうね」
「何でですか?」
僕は顔を上げた。店内の明かりがママさんの横顔を照らす。
「人ってのはさ、守るものがある時には、それを壊さないように動くものなんだよ」
ママさんが窓の外に視線を外す。まるで自分に向き合うように。
母の守りたかったものとは何なんだろう。家族の形か、それとも僕か。もしくは、父という人間を信じる自分自身だったのか。
行き着く先の見えない思考の中を右往左往しながら、行き止まりに阻まれては、後ろを向いて引き返す。
店員の声とともに料理が運ばれ、皿の音がテーブルを打つ。目の前のハンバーグが、黒い鉄板の上で食欲をそそる香りを放ちながら微かな湯気を上げる。
「とりあえず食べな。腹が減ってちゃ、まとまる考えもまとまんないだろ」
ハンバーグを一口頬張る。
――出来すぎた味だ。
なぜかそう思った。きれいに成形された、美味しく感じるように作られた味。母が作った歪なハンバーグはどんな味をしていただろうか。
ママさんは、無言で食事を続ける僕をじっと見つめていた。
「美味いかい?」
「はい……」
ママさんの言葉に頷きながら答える。ママさんはホッとした表情で頷き返す。
僕は、父の行方を知りたいというより、母が見ていた父の姿を知りたいのかもしれない。母はどんな思いで、あの人を見送っていたのか。
変わりゆく迷路が、僕の中で目的地すら変えていく。
父を探すことよりも、彼をひとりの人間として知りたくなった。今の僕には、まだ今の父を受け入れることはできない。会う前にちゃんと心構えをしないといけない――そんな気がした。
#心の迷路
#寄り道
※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結婚二十年目の記念にと訪れた沖縄旅行。国際通り近くにある小さな土産品店で、『やちむん』と呼ばれる焼き物を前に、妻はしゃがみこんだまま動かない。
俺にとってはどれも同じように見える陶器のカップを、彼女は真剣な眼差しで見比べている。
食器の類に大したこだわりもない俺は、旅行の疲れもあって店内に小さな椅子を見つけて腰を下ろす。
「カップが変わったところで、紅茶の味は同じだろ?」
俺が妻の背中に声をかけると、彼女は手にしたカップの舌触りを確かめるかのように、エッジを指でなぞりながら答える。
「まったく、相変わらずロマンがないんだから。なにも紅茶の味は舌だけで決まるわけじゃないのよ」
「はぁ、そうですか」
妻のカップ収集癖は数ヶ月前から通っている市民教室の『紅茶の淹れ方講座』がきっかけだった。食器棚には日に日にカップが増えていくが、中には一度しか使われず棚の奥に追いやられているものも少なくはない。
「五感と、それに心の在り様も……、全部合わせて『味』になるんだから」
俺が興味薄に苦笑いしていると、店の奥から店員が近づき、声をかけてきた。
「奥様のおっしゃる通りですよ。器が違えば飲み物の味も変わるんです」
「え、本当に?」
俺が思わず口にすると、店員は沖縄独特のなまりを交えて説明を始める。
「やちむんの表面には細かい穴がたくさん空いているんです。その穴が香りを広げて、苦みもまろやかにしてくれるんですよ」
確かに陶器のざらつきは無数の穴の集まりに見えなくもない。
「なるほど……そういうことなんですね」
「私の言葉は全然信じなかったくせに」
妻が拗ねたように小さく頬を膨らませる。
「あなたのも選んであげよっか?」
しばらくして妻が笑顔でこちらを振り返る。
この店に入ってすでに三十分以上が経過していた。俺は時計を気にしながら返事をする。
「俺は今のでいいよ。使い勝手もいいし気に入ってるから」
自宅にある百均のマグカップ。どうせ紅茶やコーヒーの味なんて分からないのだから、俺にはそれで十分だった。
「ねぇ、さっきの店員さんの話、聞いてた?」
妻が呆れたように笑う。
妻は同じ魚の模様のカップを二つ手に取り、どちらの表情がより好みかと最終の決断に迷っていた。
「外で待っとくよ」
俺はレジへと向かう妻に背を向けて店の外に出る。
夕暮れ時、木陰に涼しい風が吹き、沖縄にも秋はあるんだなと実感する。
「おまたせ」
小さな紙袋を一つぶら下げて店から出てきた妻の顔はとても満足げだった。
国際通りで夕食を済ませた後、ホテルの部屋に戻った俺たちは、ほっと一息ついて窓際のソファに腰を掛ける。
窓の外に広がる那覇の街灯りが、漆黒の海と空へ境目もなくつながっている。
「紅茶でも淹れようか」
やちむんの入った紙袋を手に妻が言う。新聞紙をほどくと、器に描かれた魚の模様が、部屋の温かい照明の中でふわりと光る。
妻は教室で習った手順を思い出すように、時間をかけて紅茶を淹れてくれた。茶葉を蒸らす間、部屋全体が紅茶の香りに包まれる。
しばらくして妻が二つのカップを手に戻ってくる。やちむんのカップは妻の手に残り、俺の前にホテル名の入った白いマグカップが差し出された。
一口含むと香りとともに紅茶の温かさが体の中に染み渡る。今日一日の疲れがフッと抜けるようだった。
「私のも飲んでみる?」
妻がそう言って、カップを差し出す。
あんなことを言ってしまった手前、俺は少し照れながらも口をつける。うまく説明はできないが、言われてみれば確かに陶器で飲む方がふんわりと香り高い気がする。
「……なんとなく、まろやかだな」
妻がくすりと笑う。
「でしょ?」
そう言いながら妻はそっと紙袋を引き寄せ、中から新聞紙に包まれた塊を取り出した。開けば、それは妻のものと同じ模様をした、もう一つのやちむんだった。
「実はあなたのも買っちゃった」
「なんで今頃?」
嬉しそうにカップを見せる妻に問いかけると、彼女は笑いながら言う。
「だって、先に出したら『無駄遣い』って言うでしょ? でも違いが分かった後なら納得する。あなたはそういう人」
「まいったな……」
妻の笑っている顔に、思わず俺の口元も緩む。
俺は再び自分の白いカップから紅茶を一口すすると、心なしか、さっきよりも香りが立っている気がした。
――心の在り様も全部合わせて『味』になるんだから。
妻が店で言っていた言葉が、湯気の中にやわらかく蘇る。この時間が愛おしくて、俺はしばらく黙って紅茶を見つめていた。やちむんの中で漂う細かな茶葉に二十年という時間の流れを感じながら、その日、二人の夜はいつもよりも長く続いていた。
#ティーカップ
※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
バイト帰りに立ち寄るスーパーマーケット。午後五時の店内は多くの客で賑わっている。
俺は買い物かごも取らずに自動ドアをくぐり、店内をまっすぐ進む。
半額のシールが貼られた弁当を手に取り、冷蔵ケースからエナジードリンクを一本手に取ってそのままレジに並ぶ。体に染みついたいつものルートだった。
レジに並びながら、入口を入ってくる老婦人に目をやる。
毎日同じ時間にやってきては、商品を陳列している男性店員に話しかける。
老婦人は腰も曲がり、かがんでいる男性店員とほぼ同じ背丈だった。買い物かごと呼ぶにはあまりに小さい籐籠を左手にぶら下げて、右手には杖をついている。
「この前、駅前のパン屋さんでね――」
「あれ、納豆ちょっと高くなったんじゃない?」
忙しそうに野菜を並べる店員の後ろで、老婦人の大きなおしゃべりは止まらない。店員も手を止めずに彼女の話に付き合っている。
――店員さん、毎日大変そうだな……。
俺はそんなことを思いながら、レジのカウンターに商品を置いた。
会計を終えたころ、老婦人はようやく「じゃあ、またね」と店員の肩を叩いた。
結局、手ぶらのまま小さく体を揺らしながらトボトボと帰っていく。
――何も買わないのかよ……。
心の中でそう吐き捨てながら俺も店を出て、使い古したマイバックを自転車のかごに放り込む。
自転車を走らせ、先ほどの老婦人の脇を通り過ぎる瞬間、チラリと脇目で彼女を見る。
――ああいう老人にはなりたくないな。
あっという間に老婦人の姿は後方に流れ、小さくなっていく。
いつものように誰もいない真っ暗な玄関に向かって「ただいま」と独り言つ。
六畳一間のワンルームは決して掃除が行き届いているとはいえなかった。
弁当をレンジに突っ込み、エナジードリンクの缶を開けながらパソコンの電源を入れる。
上着をハンガーにかけ、パソコンが起動を終えたころ、薄暗い部屋にレンジの音が響く。
ショート動画を流し見ながら、エナジードリンク片手に生暖かい弁当を食らう。
――ああいう老人にはなりたくない。
数週間後、相変わらずの帰宅ルート。
ただ、その日はあのスーパーに老婦人の姿がなかった。
俺はレジに並びながら、無意識に入口へ視線を向ける。いつも老婦人に対応している男性店員は業務をこなしながらも、時折心配そうな表情で外の方に目をやる。
店を出ようとしたとき、男性店員と店長らしき男性の会話が耳に入る。
「来てないですね……」
「ちょっと連絡してみようか」
俺は家路に自転車を走らせながら、なぜかあの老婦人のことを考えていた。
何の関係もないはずなのに、胸の奥にもやもやとしたものが漂っている。
形の定まらない不安が、膨張と収縮を繰り返す。
冬の近づいた空は薄曇り、信号待ちの体に冷たい風が吹く。思わず上着のファスナーを顎まで上げた。
次の日も老婦人は店に姿を見せなかったが、店員の表情は昨日より明るかった。
「早めに見つかってよかったよ」
「ええ。本当に……」
どうやらあの後、店長は老婦人の家に電話を掛けたが繋がらず、念のため救急に連絡したところ、家の中でぐったりとしている彼女が発見されたという。
まるで心の痞えが取れたようだった。と同時に自分の境遇と重ねて別の不安が募る。
半額の弁当を手に取った時、ふと近くの冷蔵ケースでプリンが安くなっていた。
レジに商品を置いた俺に、レジの女性店員がバーコードを読み取りながら言った。
「何か、いいことありました?」
俺は一瞬固まって、首を横に振った。
「いや、別に……」
彼女は軽く微笑み、その後は淡々といつも通りのレジ業務をこなす。
外に出ると、空は薄い紫に色づいていた。マイバッグがプリンの分だけ少し重い。
玄関の暗闇にただいまを告げて、いつものようにパソコンを起動する。
薄暗い部屋で弁当を食べながら、画面を流れていくショート動画の内容がほとんど頭に入ってこない。
――何か、いいことありました?
あの女性店員の声が頭をよぎる。あの店は老婦人にとって居場所のひとつだったのだろう。何を買うわけでもないが、周りもそれを受け入れている。気づかなかっただけで俺もその輪の中にいる。
俺はプリンを一口含む。甘いカスタードと仄かに苦いカラメルが喉を通って体の一部になっていく。
なぜ俺はあの時プリンを手に取ったのだろう。安堵からくる喜びの衝動なのか、はたまた将来に対する不安への自己防衛なのか。
いつもより広く暗い部屋にプリンの甘い香りが薄く漂っていた。
#寂しくて