【ホラー】※この物語はフィクションです。実在する人物および団体とは一切関係ありません。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
中嶋康介は一人、夜のオフィスに残っていた。一人きりの夜というのは善悪の境目を曖昧にする。殊更、ここのところ残業が続き、疲労からか体調も優れない。朦朧とする意識が余計に倫理観を鈍らせる。
一刻も早く残った業務を終わらせて帰りたかった中嶋は、もうかれこれ三十分もの間、仕事も手につかず同僚である篠宮真由美のデスクを睨み続けていた。
静寂の中、時計の秒針が時を刻む音と、唸るようなエアコンの稼働音が頭に響く。
初めは視界の隅に映り込むものの正体が分からなかった。整頓されたデスクにぽつんと置かれたそれは、まるで意図的に中嶋の視界に入り込もうとでもするように、ちらちらと部屋の明かりを照らし返した。
それが手帳の留め具だと分かった瞬間から、彼の中に眠る卑しい部分がぬらぬらと顔を出し始める。
中嶋から見た篠宮は、決して社内で目立っているタイプではない。どちらかと言えば大人しい方で口数も少なく、外回りの多い中嶋とは、あまり会話を交わすこともなかった。
それ故なのか、中嶋は手帳の奥にある彼女の内面に触れてみたいという衝動に駆られた。そこが禁忌の領域だと理解しながらも、中嶋の手は湧き上がる欲求を抑えられず、手帳へと伸びていく。
中嶋は手帳を持つ篠宮の小さな手を想像した。ペン先を握るか細い指。篠宮がページにしたためる文字はどんな形をしていて、どんな筆圧を持っているだろうか。そして、その文字はどんな言葉を紡ぎ、どんな意味を成すのだろうか。中嶋の中で膨らむ妄想が、手帳への欲求をさらに掻き立てる。
罪悪感に抑圧された好奇心ほど恐ろしいものはない。それは抑えるほどに黒く大きくなり、強いては罪悪感の根源に正当な理由をこじつけ始める。
篠宮はこの手帳を置いて帰った。しかもデスクの見える位置に堂々と。つまりそれは中身を見てほしいという主張にほかならない。
少なくとも中嶋の穿った解釈を否定するものはこの場にいない。
中嶋は額にじっとりと汗をかきながら、じわじわとその指を手帳へと近づけていく。手帳と指先があと数センチまで近づく。その短い距離がなかなか埋まらない。罪悪感が邪魔をする。
三センチ……、二センチ……、あと一センチ……。
カツ、カツ、カツ。
床を打ち鳴らす靴音がドアの向こうに響き、中嶋は反射的に手を引いた。慌てて自分のデスクに腰掛ける。
ガチャリ……と開いたドアから慌てた様子の篠宮が入ってくるなりデスクへと駆け寄った。篠宮の視線に一瞬の疑いを感じたのは気のせいか。
中嶋は適当な書類を手にとり、さもそれまで読んでいたように装う。額の汗をワイシャツの袖で拭い、何もなかったのだと自らに言い聞かせるように呼吸を整える。
「おつかれさま、何か忘れ物?」
中嶋は震える声をかけながら、何か変な証拠は残っていないかと、不安な視線をデスクの上で泳がせる。
篠宮は変わらない様子の手帳を見てホッとした表情を浮かべると、それを手にとって中嶋に見せた。
「これ……」
短い返事のあと、彼女は照れたように微笑む。その表情を見た中嶋は罪悪感だけではない何かを感じていた。
「あまり無理しないでくださいね」
そう言って足早に去っていく篠宮の後ろ姿を、中嶋は静かに見送る。
再びオフィス内に秒針とエアコンの音だけが響く。
――危なかった……。もう少しで決して跨いではいけない一線を越えてしまうところだった。
安堵が罪悪感と重なりながら中嶋の胸の内に広がっていく――。
◆◇◆
篠宮真由美はオフィスを出たところで、高鳴る心臓の音を抑えるように深呼吸をする。
――危なかった……。
篠宮はオフィス向かいの物陰に身を置き、手帳の留め具を外す。手帳にすき間なく記された文字。
【朝から疲れた顔。夜中何度か起きてたもんね。今日は青に金のストライプのネクタイ。先週駅前の百貨店で選んでたやつ。右の頬にカミソリ負けの跡。不器用なところかわいい】
篠宮は一日を振り返りながら思わず頬を緩める。
【トイレ行く時スマホ置きっぱなし。暗証番号誕生日とか全く無用心なんだから。今日もお昼はコンビニのおにぎり。口元にご飯粒つけてた。取ってあげたい。かわいい。お昼寝の時間。寝顔ずっと隣で見てたい。今日も外回りに出る時間か。憂鬱。早く戻ってきて】
ページには中嶋康介の一日の行動が事細かく記されていた。篠宮はペンを手に取り、続きを記すように細く繊細な文字で言葉を綴っていく。
【手帳忘れて焦った。見られたかな。でも最近残業続きで心配。昨日も会社出てきたの十時過ぎてたし。家着いてすぐ電気消えたから、相当疲れてたんだと思う。あまり無理しないで】
篠宮は手帳を閉じ、まだ煌々と光るオフィスの窓を見守るように微笑んだ。窓の向こうに中嶋の影が揺れるたび、篠宮は彼のもっと深いところに触れたい衝動に駆られるのだった。
#心の境界線
人は総じて羽根を持っているものと思っていた。だから公園のベンチに座る羽根のない女性を見かけた時、僕は彼女のことが気になって仕方がなかった。
誰にも信じてもらえないが、僕は小さい頃から人の背中に羽根を見ることができた。
どうやら羽根の大きさは、その人がどれだけ自分の人生を受け入れているかで決まるようだった。自分の信じた道を歩く人の羽根は大きく、不平不満を漏らす人の羽根はとても小さく見えた。
なぜそれが見えるようになったのか、具体的にいつから見えているのか、自分でもよく覚えていない。
彼女に出会ったのは、秋の初め頃だった。本を片手に佇む女性の表情は落ち着いた笑みを抱いて、人生への不満など微塵も感じさせない。
羽根のない人の心の内とはどんなものなのだろうか。最初は純粋な興味だった。
「ご一緒してもいいですか?」
気づけば話しかけていた。彼女は僕の言葉で顔を上げ、何を言うでもなく小さく微笑み頷く。
シンプルな生成りのブックカバー越しにチラリと見えた本はどうやら詩集のようである。
「詩がお好きなんですね」
僕が尋ねると彼女はまた小さく頷く。
「詩は私の知らない自分に気づかせてくれる。言葉の表層として現れるのはほんの一部分だけど、その奥には無限の行間が広がってる」
普段詩を読まない僕にはよくわからない感覚だったが、彼女の言葉には、心の中にすっと入り込むような優しく穏やかな響きがあった。
それから僕は、公園を訪れてはベンチで本を読む彼女に声をかけた。彼女のことをより理解したくて詩集も読み始めた。
次第に僕の興味は、彼女の人生を満足させるために何ができるかに向いた。
僕は彼女にいろんな景色を見せたくなった。知らない世界に触れれば、彼女の羽根が動くような気がして。
僕は彼女に様々な提案をし、彼女はそれを一切断ることはなかった。不平不満も漏らさず、その表情は常に落ち着いていて、詩集を読んでいる時の顔と何ひとつ変わらない。
不思議と彼女といる時間には、妙な落ち着きと安心感があった。でもその正体は分からないまま時は過ぎていく。
やがて冬が訪れ、冷たい空気が街を包んでいた。
空には今にも雪を落としそうな灰色がかった雲が立ち込めている。それを雪催と言うのだと、彼女は教えてくれた。
「君と出会って僕の世界は大きく変わった気がする」
「私もあなたのおかげで生きている心地がしてる」
彼女の返事に胸の奥にすっと澄んだ空気が入り込む。
「ただ、どうしても君の羽根だけが見えないんだ」
僕の言葉は、はたから見れば詩的に聞こえるかもしれない。それを彼女がどう受け止めたかは分からない。
「見えない透明な羽根……、なんだか素敵ね」
彼女はいつものように全てを柔らかく受け入れる。
思えば、僕が彼女を満足させようとしてきたことは、僕の勝手な思い込みでわがままだったのかもしれない。でも彼女はそれを否定することもなく、僕のやりたいようにさせてくれた。
全てを受け入れてくれる感覚、それが彼女に感じていた安心感の正体なのかもしれない。
ふと、雲の切れ間から淡い光が漏れ、彼女の背中に静かに落ちてきた。冷たい風を含んだ空気がキラキラと輝き、背中にぼんやりとした輪郭を浮かび上がらせる。
その輪郭は、行く先を持たず空気の中に溶け込んでいくようだった。まるで、この世界を満たす空気すべてが彼女の羽根であるかのように。
そうか――。彼女には羽根がないのではなく、あまりにも大きすぎて、僕の視界には収まりきらなかったのだ。
彼女の気配に満たされた空から、白い雪の結晶がふわりと風に乗って落ち始める。
「見えないものに気づけるのは、たくさんの見えるものを取りこぼさずに拾ってきたからよ」
彼女の言葉が、足元にぼんやりと映る僕自身の影に落ち、雪とともに僕の中に溶けていく。
その影の背中にはとても小さな羽根が生えていた――。
「僕にも羽根があったんだ……」
僕がそう言うと彼女は優しく微笑む。
僕はこれまで人の背中ばかりを見て、自分の背中にも羽根があることを忘れていた。そして誰かの羽根を広げるために自分の時間を削ってきた。
でも彼女と出会ってからは、それすらも肯定できるほどに、内面から湧き上がる衝動に生きてきた気がする。
そこに僕の生きる理由があったのかもしれない。
「たまには自分の羽根も羽繕いしてあげてね」
彼女の言葉が雪として落ちるたび、地面に映る影の羽根は、少しずつ大きくなっていく気がした。
彼女と二人見上げた雪の交じる冬の空はとても澄み渡っていた。空気を満たす彼女の透明な羽根に包まれるように僕の心はじんわりと温かくなる。
#透明な羽根
沖縄の夜は長い。
夜の七時になり、今日もいつものようにスマホの通知が鳴り、『書く習慣』からお題が託されました。
仕事終わり、特に予定もなく家路についていた私は、そのお題を見て少し憂鬱になりました。
『灯火を囲んで』
真っ先に浮かんだのはバースデーケーキでした。
十一月七日、私の誕生日。ひとりで過ごしていることを除けば、今日という日にぴったりなお題です。
なんとも皮肉なものです。
食事は外食で軽く済ませようと近くのチェーン店に車を停めたところで、スマホに着信がありました。
「やー、なにしてる?」
職場の先輩からです。
「帰り道の途中です」
そう答えると、「飲んでるけど来るか?」と誘われました。
飲みニケーションというやつは好きでも嫌いでもないですが、今日は何だか一人で過ごすのもさみしい気がして、せっかくなので合流しました。
――今日はお話書けないかもな。
そんな言い訳じみた事を考えながら、
先輩に教えられた住所は、先週オープンしたばかりのおしゃれなフレンチの店でした。居酒屋だと思っていたので少し驚きましたが、他にも同僚数名も呼ばれていて、既にみな顔を赤らめています。
その店は先輩の友人のお店で、フレンチのコース料理ですが、急遽合流した私の分も用意してくれました。
食べ慣れないフランスの料理ですが、どれも美味しくて、普段はビールか泡盛の私がワインをたくさん飲みました。
仕事の愚痴や近所のニュース、その他諸々他愛もない話をして、楽しく時間が過ぎていきます。
思いがけず、ひとりの誕生日は免れました。
あっという間に最後のデザートが運ばれてきます。
すっかり出来上がった私たちの前に運ばれてきたのは、瓶に入ったプリンでした。
すると、驚いたことに私のプリンにだけ小さなろうそくが刺さっています。
『灯火を囲んで』
なんとも皮肉なものです。思いがけない灯火でした。
とても小さなサプライズでしたが、なんだか嬉しくなりました。さすがにこの歳になって、ドラマのように泣きはしませんが、
その後も時間の許す限り飲み明かし、深夜二時まで飲みました。沖縄では普通です。
代行で帰って、しばしの休眠。
お察しの通り二日酔いです。お話も浮かびません。
なので、昨日の出来事を日記のように綴ります。
今日も仕事です。しかし、少し気分がいいです。
みなさんも良い一日をお過ごしください。
#灯火を囲んで
昔々、遠い南の果てに『夏しか知らない国』がありました。
そこでは一年じゅう太陽が照り付け、色鮮やかな花が咲き乱れていました。人々は常に半袖短パンで過ごし、常に太陽のように陽気に暮らしていました。
ある日、北の空から一羽の白い鳥が飛んできて、王様の前に降り立ちました。
「王様、もうすぐ北の国から『冬』という名の旅人がやってくるようですよ」
「冬?」王様は聞き返しました。「それはどのような客人なのだ?」
「白い衣を身にまとった、冷たく静かで何とも厳かな雰囲気のお方です」
王様は顎に手を当ててしばし考え、やがて陽気に叫びました。
「それはぜひ歓迎せねば! 客人をもてなすのはこの国の誉れであるからな」
さっそく王様は家臣たちを広間に集め、玉座から大きな声で命じました。
「この国に間もなく『冬』という名の客人がやってくる。冬殿はジェラートのように冷たく、クーラーのように寒いお方らしい」
家臣たちは互いに顔を見合わせてざわつき始めます。
「冬殿はきっと温かいものをお好みになるだろう。よいか、国にある『ぬくもり』を全部集めるのだ!」
王様の言葉で家臣たちは大慌てで準備を始めます。
料理長は「温かいスープを千鍋作りましょう!」と叫び、織物係は「私は毛布を山ほど織りますわ!」と走り出す。
詩人は「では私は、心温まる歌を捧げましょう」と竪琴を抱えました。
それからというもの、城下町の広場はまるでお祭りのような騒ぎでした。中央では大きな焚き火が赤々と燃え、たくさんの毛布が地面に並べられました。香ばしいチキンとパンの匂いが風に流れ、人々は大粒の汗をかきながら湯気の立つスープを運びます。
王様は高みからその光景を眺めながら、満足そうな笑みを浮かべます。
「ふむ、これだけ盛大にお饗しをすれば、冬殿もきっと喜ぶにちがいない」
やがて日が沈みきった頃、空が白く霞み、北から風が吹いてきました。キラキラと輝く氷の粒を含んだ、とても冷たい風です。
とうとう『冬』がやって来たのです。
真っ白な衣をまとい、音も立てず静かに歩くその姿に、誰もが息をのみました。
冬は何も言わず、ただゆっくりと広場へと進みます。王様は両手を広げて冬を迎えました。
「ようこそ、遠い国の客人よ。温かいお食事とぬくぬくの寝床をご用意いたしました。ぜひ心ゆくまでおくつろぎください」
王様の自信に満ちた振る舞いとは裏腹に、冬はただそっと微笑んでその場に佇むだけでした。
先ほどまで湯気の立っていたスープは表面に薄く氷を張り、毛布には白い霜が降りました。焚き火の火は冷たい風に揺れ、空からは白い結晶が舞い降ります。
「おぉ、空から冷たい何かが降ってきておるぞ」
王様は寒さに身を震わせながらも、初めて見る雪にわくわくが止まりません。しかし、家臣たちは全く手のつけられていない饗しの数々を前に、呆然と立ち尽くします。
「王様……、どうやら冬殿は何にも手をつけていらっしゃらないようです」
王様は空から降る雪を両手で受け止めながら、相変わらず陽気な声で言いました。
「では、お土産に持って帰ってもらおう。毛布もスープも好きなだけ!」
けれど冬は、何も受け取らず、ただ静かに頷きました。そして空の彼方に広がるように溶けていくと、冷たく澄んだ空気が国を覆いました。
どうやら冬はこの国が気に入ったようで、なかなか帰ろうとはしませんでした。
地面には白い雪が薄く積もり、空は澄み渡る冷たい空気に包まれています。人々の吐く息は白く、みな頬を赤く染めながら体を震わせます。
「せっかく用意したお土産はどうしたものか」
王様は肩をすくめて言いました。
「仕方がありません、私たちでいただきましょう」
震える家臣たちはたまらず地面の毛布を手に取ります。
それから王国では、毛布にくるまり、温め直したスープを飲み、焚き火を囲んで笑う人々の姿が絶えませんでした。詩人の歌が焚き火に乗って、冷たい空をふんわりと温めます。頭上には満天の星空が輝き、まるで冬が一緒に笑っているようです。
こうして、夏の国に初めて訪れた冬支度は、人々にたくさんのぬくもりを残しました。それから毎年、この国にも冬が訪れるようになったとさ。めでたし、めでたし。
#冬支度
地下深く、配管と歯車に囲まれた壕の中で、僕は時を刻み続けていた。
右足、左足、右足――。
僕が床のペダルを踏みこむと、巨大な歯車がグワングワンと音を立てて回り、目の前の巨大な文字盤の上で、秒針がチクタクと一定のリズムを刻んでいく。
世界が正常に進んでいく音を聞くのが僕の生きがいだった。
世界の時を動かすために、僕はずっとこのペダルを踏み続けている。昼も夜も一所懸命、力の限り。
僕の足が世界の時を動かしている。
僕の足によって、風が吹き、水が流れ、動物たちが歩き出す。世界が回る。
だから僕はリズムを刻み続けるんだ。
ある日、僕の前に少女が現れた。
機械の上に頬杖をつきながら、僕の方を見つめている。
しかし、彼女に気を取られてリズムが狂わないように、なるべく彼女のことは見ないようにした。
右足、左足、右足――。
ペダルを踏む僕の隣で少女が口を開く。
「ねぇ、君さ――」
「気が散るから話しかけないでください」
声を遮るようにそう言うと、彼女は不貞腐れたように頬を膨らませる。
「もう時間なんて止めちゃえば?」
少女の声で一瞬ペダルを踏む足が止まる。秒針の動きがブレる。
その瞬間、カンカンカン!と頭上の鐘がけたたましく乾いた音を響かせる。
――ヤバい!
僕は再び足を動かす。呼吸を落ち着かせ、一定のリズムを意識する。再び秒針は元のリズムを取り戻し、正確な時を刻み始める。
世界の時が止まらないように、僕はずっとこのペダルを踏み続けなければいけない。昼も夜も休むことなく、ただひたすらに。
世界の時のために僕は足を止められない。
僕がこの足を止めると、風が止み、水が止まり、動物たちが死んでいく。世界が止まる。
だから僕はリズムを刻み続けなければいけない。
その日から毎日少女は現れた。
そして、その度に「止めちゃおうよ」と僕をそそのかす。
「そんなことをしたら世界が壊れてしまう」
彼女はわかっていないんだ。世界が時を止めれば、多くの命が失われる。季節は巡らず、命は巡らず、世界の秩序は崩れていく。
「時が動いてても、君の世界が何も変わらないなら、それは時が止まってるのと同じじゃない?」
彼女の言葉に僕は思わず苦笑する。そんなこと言ったってどうしたらいい。世界を犠牲にして僕に止まれと言うの?
その日の夜、何度も少女の言葉を思い出しては足が止まりかけた。そして、その度にあのけたたましい鐘が鳴る。
世界はいま、止まったり動いたりを繰り返して、とてつもなく混乱しているに違いない。休んじゃだめだ。僕は時を刻み続けなきゃ。
でも、僕は世界の中で本当に時を刻んでると言えるんだろうか。それで僕の世界は何か変わっているだろうか。
そもそも外の世界は本当に時を刻んでいるのだろうか。僕の視界の中で、時が動いているのを確認できるのは目の前の歯車と秒針の動きだけ。
風が吹き、水が流れているのも、動物たちが歩いているのも――、何なら日が沈み、また昇ってくるのすら、この地下室からは見ることができない。
本当は既に世界の時は止まっていて、僕は無駄に足を動かしているだけなんじゃないのか。
そう思った瞬間、途端にすべてがバカバカしく思えてきた。
段々とペダルを踏むリズムはゆっくりになり、再びけたたましい鐘が鳴る。
いっそのことこのまま鐘を鳴らし続けてみようか。
僕の足が完全に止まるまで。
そうして、僕の足は完全に止まった。
鐘はずっと鳴り続けている。歯車は止まり、秒針もピタリと動かなくなった。
ペダルから足を降ろす。浮き沈みのない確かな地面の感覚が足の裏に伝わってくる。
外がどうなっているか確かめたい。僕はフラフラとした足取りで地上への階段を登っていく。
これまでの疲労のせいか、ぐらりと視界が揺れ、足元はおぼつかない。
一段ずつ確実に上がっていく。壁に手を添え、時に体ごと預けながら、最後は這いつくばるように。
そして、外へつながる扉は開かれた。
眼前に広がる世界は壮大だった。
太陽はさんさんと輝き、風に乗って雲は流れ、遠くから水の音がする。鳥が囀りながら飛び、動物の気配が草葉を揺らす。
世界は動き続けていた。
僕が足を止めても世界は止まらなかった。
世界を動かしていたのは僕だけじゃなかった。
なんでもっと早く気づかなかったんだろう。
世界を動かしていたのは、無数の命だということに。
僕はゆっくりと目を閉じて、世界の時間をこの肌で感じる。すると、風に乗って少女の声が胸に響いてくる。
『ようやく君の時間が動き出すね』
これまで動き続けることで止まっていた僕の時間。
僕の中で心臓がトクトクとリズムを刻んでいる。
――これが一番大切なリズムだったんだ。
これから何をしよう。やりたいことが涙と一緒にあふれ出る。
僕は滲む視界で動く世界を見ながら、じっと自分の時間を噛み締めていた。
#時を止めて