結城斗永

Open App
10/8/2025, 6:45:24 PM

「大学を辞めて、バイト先で修行したい」
 夕飯の最中、俺が放った一言で食卓の空気がピンと張り詰めた。箸の音が止まり、父の顔が歪む。
 母は、何か言いかけて黙り、心配そうに父の顔を見る。

 Tシャツのプリント工場でバイトを続けて一年。
 一枚ずつ手刷りでインクを乗せていく、いわゆる職人技にも慣れてきた。工場長に「手筋がいい」と褒められてから、もっと世界を深めたいと思うようになった。

「卒業してからでも遅くないだろ」父は怒鳴るでもなく静かに言う。「途中で辞めたら、諦める癖がつくぞ」
 俺は父の言葉にカチンと来て反論する。
「諦めるんじゃない。早く技術を身につけて一人前になりたいんだ」
 いま思えば、俺のその言葉は半分が本心で、もう半分は言い訳だった。

 大学進学を選んだのは俺なのに、今や大学は俺にとって不毛な場所になっていた。
 周りに流されるように、家から近いそれなりの大学を受験して、運良く合格した。たいして興味のない講義を受けながら、時間が無駄に過ぎていくことが不安だった。

 結局、何も答えの出なかった食卓から数日後、俺は大学をサボって工場に顔を出した。
 ここにいる方がはるかに意味を感じる。インクと溶剤の匂いが、俺の居場所を確かにしてくれる。
 
「ちゃんと大学行ってるのか?」
 工場長からの予想もしない問いかけに、俺は思わず「はい」と嘘をつく。
「それならいいんだが」工場長の表情は複雑だ。「この前、君の親父さんが来てね」
 ――父さんが? いったい何の用で? 
「もしお前が大学をサボってるようなら、叱ってほしいって」
「あのクソ親父……」
 俺は思わず口に出していた。
「でもな、『ようやく夢を持った』って、誇らしげな顔をしてたよ。あまり親父さんに心配かけるなよ」
 工場長はそう言うと、俺の背中をポンと叩いて持ち場に戻っていった。

 その夜、帰宅してすぐ母に愚痴る。
「人の職場まで来るとか、マジ勘弁――」
 母は食器を洗いながら黙って聞いていたが、やがて静かに言った。
「お父さんね、高校卒業してすぐ陶芸の職人を目指して工房に弟子入りしてたのよ」
 知らなかった。父と今までそんな話をしたことはなかった。
「でも、機械化の波に勝てず、工房が閉じたの。当時は学歴がなければ再就職も大変だった。お父さん、口下手だからあんな言い方になっちゃったけど」
 沈黙が家の隅々まで満ちていく。
 俺はその夜、父の部屋の前で立ち止まった。扉の向こうに父の気配を感じながら、俺は何も言えずにいた。

 翌朝、思い切って父に話しかけた。
「母さんから聞いたよ。昔の工房の話」
 父は少し考えて口を開く。
「いいか、乗りかかった船が思うように進まなくても、岸に着くまで乗り続けろ。何も持たずに海に飛び込めば、もっと苦労する。時間がかかってもいい。そのうち、船の動かし方が分かってくる」
 父の言葉がすっと胸に落ちてくる。

 それから、俺は欠かさず大学の授業に出た。
 休みの日は工場へ行き、プリントの技術を磨いた。
 そんなある日、作業中の俺に工場長がぽつりと呟く。
「この先、効率を求めて安価な技法が主流になってくる。手刷りの出番は減るだろうが、そこに価値を見出す人もいる。お前の技術はちゃんとそこに繋がっていくからな」

 俺は大学で習った知識を現場に活かした。作業の流れを整理して効率化を図ると、生産数も増えていった。
 シルクスクリーンの魅力を伝えるために、服飾を学ぶ他大学の学生と一緒に小さなサークルも立ち上げた。
 時間が経つにつれ、乗り続けた船の動かし方が分かってきた。

 家に帰ると、父が湯呑みでお茶を飲んでいた。
 最近趣味で作った自信作らしい。
「お前を見てたら、また作りたくなったよ」
 照れくさそうに言う父の顔は、未来への希望に溢れていた。

#愛する、それ故に

10/7/2025, 3:18:37 PM

『クジラの落とし物』第五話
※2025.10.5投稿『moonlight』の続きです。

【前回のあらすじ】
セイナたちは【クジラの丘】に辿り着くが、強固な鉄柵に阻まれ中へ入れない。掲示板で見つけた【ユト】の投稿から、彼もまたホヅミを探していることを知る。そこでユミから、ホヅミが『眠ったまま目覚めない』と明かされる。 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「――ホヅミは……交通事故の後から、ずっと意識がないんです」
 か細いユミの声が、鐘の音の余韻と交わるように空気の中へ消えていく。直後、それをかき乱すようなマドカの声が響く。
「まさか、意識だけここに飛んできたって言うの?」
 彼女の口調には疑心が滲んでいた。だが、俯いたまま黙り込むユミの表情には、確信めいたものがあった。
「何か、思い当たる節があるんですね?」
 私の言葉にユミが小さく頷く。
「同じだったんです……。ホヅミのスマホに残っていたログイン通知のメールと、事故が起きた時間が――」
 ユミの言葉を聞くマドカの表情は相変わらず怪訝そうだった。
「そう信じたいのは分かるけどさ……」
 マドカの言葉に、私は思わず彼女を視線で制す。それ以上言葉を続ければ、ユミはきっと絶望の縁に立たされることになる。マドカはバツが悪そうに言葉尻を濁して口を尖らせる。 
 しばしの沈黙が続く。まるで世界から音が消えたかのような静寂の中で、私たちは干渉し合った波が収まるのを待つように口を閉ざした。 

 ひとまず村の外れにある無人の教会で夜を明かすことにした。三人とも疲れが出ていたし、なにより整理したいことが多かった。 
 教会の窓越しに差し込む細い月の光が、埃の粒を金色に浮かび上がらせる。
 礼拝堂の冷たい床に古びた布団を敷き、マドカと私は肩を並べて横になる。ユミは「少しだけ外の空気を」と言って、外へ出て行った。

「セイナ、さっきの話……信じる?」
 二人だけになるのを待っていたように、マドカが切り出す。 
「分からない。でも、嘘をついてるようには見えない」
「案外私たちの肉体もあっちにあったりして――」
 マドカが静かに放った言葉が、自分自身の内面に感じている違和感と触れ合って揺れる。
「そうかもしれない」
 そう答える自分の声が震えていた。

 ユミの様子が気になって布団から身を起こす。マドカが隣で小さく寝返りを打つ音がする。
「どこ行くの……?」
「ちょっとユミさんの様子を見てくる」
 私が立ち上がろうとした瞬間、マドカの手が私の袖を掴む。
「ねぇ、行かないで……。私、一人になりたくない……」
 いつもの明るいマドカとは正反対の、寂しさの混じった細い声。
「大丈夫。どこにも行かないよ」
 私はその手を優しく包み返し、微笑む。ひんやりと冷たいマドカの手から徐々に力が抜けていく。

 マドカが寝静まったのを見届けて、私は静かに外へ出た。
 夜気は冷たく、風に揺れる草が濃い匂いを放つ。
 ユミは広場で見かけた時と同じように月を見上げていた。
 私は静かに彼女の隣に身を寄せ、声を掛ける。
「娘さんも、きっとどこかでこの月を見てますよ」
 根拠のない希望。でもそれが今のユミを支えていることに間違いはない。ユミが目尻を少しだけ緩める。
「私だけでも信じてあげないと」
 そう言って笑える彼女がとても強く見えた。

「私、『お母さん』を知らないんです――」
 自分でも驚くほど素直な言葉が口からこぼれた。
「生まれたときには今の姿だったから……。でも、ユミさんを見ていると『母親』の強さを痛いほど感じる」
 今まで母親について考えたこともなかった。私に生みの親がいるとすれば、それは【運営】と呼ばれる存在だ。でも、彼らが私に与えたのは、決められた位置と役割だけ。自分の意志どころか、記憶すら持たず、存在すら意識してこなかった。
 世界の終わりになって、ようやく私はそれに気がついた。まるであの崩れた月の欠片が、私に意識を宿したかのように――。
 
 ふとユミの手が私の手に重なる。その温もりが私の劣等感を溶かしていく。
 ――私は生きてる。
 静寂が支配する夜の真ん中で、私の心臓は深く脈打っていた。

#静寂の中心で

10/6/2025, 1:23:16 PM

『さあ皆さん、お待ちかね。年に一度の銀河陸上、いよいよ決勝戦!』
 実況星人の声が銀河スタジアムに響き渡る。観客席は異星人たちの熱気で沸いていた。
『先頭は昨年の優勝者、植物星人リーフ選手と、光源星人のセコンド、ルミナ選手!』
 青い蔦に覆われたリーフが颯爽と入場する。彼の隣にいるだけで頬が緩み、体から思わず光が漏れる。
 ――気が緩んでる。今日は彼の大事な日。もっと集中しなきゃ。
 
 まもなく競技開始。リーフは他の選手たちと並び、腰を落としてスタートの合図を待つ。
 スタートダッシュは勝敗にも大きく左右する。
 私は意識を真ん中に集め、リーフの背中に光を放つタイミングを見計らう。
 でも、思うように光が集まらない。どうして、こんな時に――。

 思えば、私の光が弱くなり始めたのは、最終予選を終えた直後からだった。
 原因は分かっている。彼に――恋をしたからだ。
 何をしているときも彼の顔が浮かび、手元がおろそかになる。
 その度にミスをして、気持ちが沈み、光が弱まる。
 いつしか、恋心そのものが怖くなって――しまい込んだ。
 
 スタートの号砲で我に返る。
 ――しまった。
 そう思った時には、すでに選手たちが駆けだしていた。リーフだけが一歩出遅れる。
「ルミナ! しっかりするんだ!」
 リーフの檄が飛ぶ。私は焦りの中で全身の力を振り絞る。
 ――どうして、なんでこんな弱い光しか出ないの……。
 心の奥底から湧き上がる自己否定が、さらに発光を抑え込む。

 強豪たちが、リーフを引き離していく。彼は必死に食らいつこうと歯を食いしばっているが、もはや集団の中盤にすら入れない。
「ウソ……こんなはずじゃ……」
 中継モニターに映るリーフの苦しそうな表情を見て、私の胸が締め付けられる。
 中間地点を過ぎ、リーフは後方から数えた方が早くなっていた。
 ――私、全然ダメじゃん。
 絶望感に思わず力が抜ける。光どころか、自分自身さえも消えてしまいそうだった。

「ルミナ!」
 コースからリーフの声が飛んでくる。
「自分を信じるんだ!」リーフが苦痛の中で震える声を振り絞る。「お前は、俺の太陽なんだ!」
 リーフの言葉が、私のフィラメントを燃やす。
「俺は――お前の光が大好きだ!」
 彼の言葉が、私の抵抗を一瞬で突き抜ける。

「私も……あなたが、大好き!」
 気づけば叫んでいた。競技場中に響き渡るほどの、大きな声で。
 瞬間、今までにないほどの光が全身から溢れ出る。
 会場全体を覆いつくすような強烈な光。
 リーフの色が濃い緑を取り戻し、生命力に満ちていく。
 まるで別人のような加速を見せ、一気に前の選手を抜き去っていく。

 ゴール目前、トップとの距離もあとわずかに迫る。
 リーフはついに音速を超え、全身の葉々が燃えるように赤く色づく。
「これが俺の、燃える葉だぁ――ッ!」
 私はリーフを想い、渾身の力で光を放出した。
 光は、勝利への意志と共鳴し、彼を限界以上に押し上げた。
 ゴールテープが切れる瞬間、リーフは前走者を半身の差で抜き去る――。

 会場にけたたましいホイッスルの音が鳴り響く。
『リーフ選手、大逆転勝利!』
 競技場が、熱狂の渦に包まれた。興奮冷めやらぬ中、ぐったりと倒れ込む私のもとに、リーフがふらつく足を引きずってやってくる。
「ルミナ……!」私は両手を広げて彼を迎え入れる。「やっぱり、お前は最高の太陽だよ!」
 彼の汗と、植物の優しい香りが、私を包みこむ。私たちの身体から溢れる光が、絡み合い、一つになる。
 もう、私たちは単なるセコンドと走者ではない。互いの光を必要とし、互いの愛によって輝く、人生のパートナーだ。
 二人の新しいスタートを祝福するような歓声は、しばらく鳴り止むことはなかった。
 
#燃える葉

10/5/2025, 12:43:20 PM

※『クジラの落とし物』第四話
 2025.9.18投稿分の続きです。

【前回のあらすじ】
セイナとマドカは、村の広場で出会ったプレイヤー・ユミとともに、彼女の娘ホヅミを探すことになった。
ホヅミに関する情報を求めて訪れた情報屋で、優先搭乗券の持ち主が【ユト】という重課金者であることが判明する。
彼の居場所は【クジラの丘】。重課金プレイヤー通称【クジラ】のみが立ち入りを許される専用エリアだった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 夜の石畳を抜け、私たちは【クジラの丘】の入り口に立っていた。目前に立つ背の高い鉄柵の向こうには豪奢な屋敷群が月光を受けて輝き、内側からは裕福さをまとった灯りが揺れている。頂に立つひときわ大きな屋敷はまるで城のように複数の塔を持ち、闇の中に荘厳な影を落としている。

「そう簡単に入れるとは思わなかったけど……」
 マドカが鉄柵に伸ばした手に小さな火花が散る。村の出口とは異なる警戒を伴った拒絶。
 それもそのはず、このエリアに入れるのは一定額以上の課金を行った【クジラ】のみだ。中課金の【マグロ】と呼ばれる層ですら入ることは許されない。
「私たちに課金なんてできっこないし、どうする?」
「とりあえず、その辺のクジラに声かけてみよっか」
 そう言ってマドカはエリアに入っていこうとするクジラに躊躇なく声をかける。マドカの行動力に思わず感心する。
 
 しばらくクジラと話していたマドカが悪態をつきながら戻ってくる。
「どうだった?」
 私がマドカに問いかけると、彼女は両腕を胸の前で組みながら分かりやすく苛立ちを見せる。
「何よ、あのクジラ。バグだと思って話すら聞いてくれない」
 そもそも何かのイベントでもない限り、NPCの方から話しかけるというのが異常な状況なのだ。プレイヤーが反応に困るのは当然だ。ましてや世界の終わりが近づく状況で、その原因が未知のウイルスとなれば、それは単なるバグだと思われても仕方がない。

 その時、午前零時を告げる鐘が村内に響き渡る。鐘の音には不規則にノイズが混じる。
「少しずつ、バグの影響が出てるみたい」
 私がつぶやくと、ユミが不安そうな表情を見せる。
「それは、あまり時間がないということでしょうか……」
「急いだ方がいいのは確かですね」
 私は月を見上げながら答える。
「はぁ、なんかずっと振り出しにいる感じ」マドカの声に焦りがにじむ。「このまま消えるなんて絶対イヤ……」
 マドカの本音が漏れる。
 彼女はキョロキョロと辺りを見渡し、鉄柵沿いに立てられた掲示板を見つけて近寄っていく。
 
 実際、世界の滅亡まであとどのくらいの猶予あるのか。目に見えて崩壊しているのは、空に浮かんだ月と先ほどの鐘の音だけである。この村の外では崩壊が進んでいるのか。確かめようのない状況に焦りと苛立ちだけが募る。
 
 掲示板をのぞき込んでいたマドカが「あっ!」と声を上げた。
 私とユミが続いて掲示板に目をやると、そこには見慣れた名前とともに短い一文が記されていた。
 
『ホヅミというプレイヤーまたはNPCを見つけたら至急連絡されたし ――ユト』
 
 それは、私たちが探している二人に接点がある可能性を示していた。
「ホヅミ――」背後でユミが静かに声を上げる。「本当にこの世界にいるのね……」
 ユミの言葉にどこか違和感を覚える。それは、あの日情報屋で感じたものと同じだった。
 ――彼女はこの世界に娘がいる確信をまだ得られていない……。
「ユミさんの娘って何者?」
 マドカが掲示板とユミの顔を交互に眺めながら訝しげに尋ねるが、ユミはどこか浮かない顔をしている。
「ユミさん、娘さんの話、詳しく聞かせてくれませんか――?」
 私の言葉にユミが一瞬戸惑いを見せる。
「実は――」ユミがついに重たい口を開く。「ホヅミは眠ったまま目覚めないんです――」
 月の光がユミの表情に暗い影を落とした。

#moonlight
 

10/4/2025, 4:22:41 PM

※2025.9.30投稿『旅の続き』の続きです。

【前回のあらすじ】
 父の手がかりを探して孝雄を訪ねた僕とママさんは、父が失踪前によく会っていたメグミという女の存在を知る。
 ママさんの過去も見え隠れする中、僕はママさんは港町を目指す。
 
――――――――――――――――
 ママさんの軽自動車は、古びたエンジン音を響かせながら、再び住宅街を抜けていく。
「あんた、ここに来ることは誰かに言ってきたのかい?」
 ママさんがぽつりとつぶやく。
「メモは残してきました。見てるかは分からないけど」
 ――父を探しに行ってきます。すぐ戻るので、警察には連絡しないでください。
 時折家を訪れる叔母に残した、たったそれだけのメモ。
 父が失踪するまで、叔母――母の姉とはほとんど話したこともなかった。母と叔母の仲が決して悪かったわけではなく、単に親戚付き合いが薄かったというだけ。父の失踪後は母を心配してか、度々家を訪れるようになった。だけど僕は、叔母が時折口にする父への悪口が、どうにも好きになれなかった。叔母の気持ちも分からなくはないけれど。

 助手席の窓に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。
 孝雄の言っていた『覚悟』という言葉の重さをどれだけ理解できているのかは分からない。
 これまでの人生があまりにも上手くいきすぎていたんだろう。大した寄り道もせず、当たり前に過ぎてきたこれまでの生活が、今となってはとても幸せな過去に思えてくる。
 ――寄り道。
 その言葉が僕の中で膨らんでいく。
 ――寄り道せずに帰ってくるのよ。
 僕が小学生のころ、学校に向かう玄関で毎日のように母が言っていた言葉。
 孝雄の部屋で見た刺繍入りのポーチが思い出と繋がる。
 僕が学校帰りに初めて寄り道をした、あの日の思い出――。

    ◆◇◆

 あれは僕が十歳の頃。昭和が終わり、平成がやってきた年。
 毎年三人で祝った母の誕生日が、初めて父の出張と重なった。
 母は「今年は二人きりね」と笑っていたけど、ほんの少しだけ寂しそうだった。

 母の誕生日を翌日に控え、いつもはまっすぐ帰宅する家路で、初めて寄り道をした。
 夕暮れの商店街。いつもなら通り過ぎるだけだった、小さな手芸用品店が目に入る。
 ショーウィンドウに飾られたポーチには、淡いベージュの布地に小さなコスモスの花が刺繍されていた。
 値段は確か2000円くらいだったと思う。当時の僕からすれば、かなり高い買い物だったが、母の喜ぶ顔が見たくて気づけば店内に足を踏み入れていた。

 家に帰ると、リビングで洗濯物を取り込んでいた母の声が真っ先に耳に入る。
「遅かったじゃない。どこに行ってたの」
「ちょっと、学校に忘れ物して……」
 僕は明日のサプライズまでこのポーチのことを知られてはならないと、小さな嘘をついた。心配そうな顔をしながらも、それ以上詮索してこない母の姿に、少しの罪悪感を覚える。

 翌日の夜、二人きりの食卓で僕は徐にポーチを取り出して見せた。
 母は驚いたように僕を見つめ、次の瞬間、ふっと笑った。
「まあ、きれいなポーチ。とてもうれしいわ」
「母さん――」僕は胸に残っていたモヤモヤを母に告げる「昨日、嘘ついた。ごめん」
 母はポーチを胸に当てながら言った。
「いいのよ。でも、もう寄り道しちゃだめよ。心配だから」
 その日からまた寄り道しない帰り道が始まった。父のいない母の誕生日もそれが最初で最後だった。

    ◆◇◆

 気づけば、信号待ちの外に見える街は今までと雰囲気が違っていた。
 少しだけ空いた窓から潮の香りが流れてくる。ガードレールや看板には赤錆が目立ち、漁網や漁船が時折視界に写る。
 日が落ち掛け、静かでどこか眠たげな港町は、哀愁に包まれていた。
 
「父さんも寄り道してるのかな――」
 漏らすように言った言葉に、ママさんが僕をチラリと見る。
「それにしちゃあ、随分と大きな寄り道だね」
 ママさんが短く笑う。車は再び走り出す。
 そう言う僕もいま大きな寄り道をしている。もとの道が見えなくなるほどに遠い寄り道を。

#今日だけ許して

Next