結城斗永

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「大学を辞めて、バイト先で修行したい」
 夕飯の最中、俺が放った一言で食卓の空気がピンと張り詰めた。箸の音が止まり、父の顔が歪む。
 母は、何か言いかけて黙り、心配そうに父の顔を見る。

 Tシャツのプリント工場でバイトを続けて一年。
 一枚ずつ手刷りでインクを乗せていく、いわゆる職人技にも慣れてきた。工場長に「手筋がいい」と褒められてから、もっと世界を深めたいと思うようになった。

「卒業してからでも遅くないだろ」父は怒鳴るでもなく静かに言う。「途中で辞めたら、諦める癖がつくぞ」
 俺は父の言葉にカチンと来て反論する。
「諦めるんじゃない。早く技術を身につけて一人前になりたいんだ」
 いま思えば、俺のその言葉は半分が本心で、もう半分は言い訳だった。

 大学進学を選んだのは俺なのに、今や大学は俺にとって不毛な場所になっていた。
 周りに流されるように、家から近いそれなりの大学を受験して、運良く合格した。たいして興味のない講義を受けながら、時間が無駄に過ぎていくことが不安だった。

 結局、何も答えの出なかった食卓から数日後、俺は大学をサボって工場に顔を出した。
 ここにいる方がはるかに意味を感じる。インクと溶剤の匂いが、俺の居場所を確かにしてくれる。
 
「ちゃんと大学行ってるのか?」
 工場長からの予想もしない問いかけに、俺は思わず「はい」と嘘をつく。
「それならいいんだが」工場長の表情は複雑だ。「この前、君の親父さんが来てね」
 ――父さんが? いったい何の用で? 
「もしお前が大学をサボってるようなら、叱ってほしいって」
「あのクソ親父……」
 俺は思わず口に出していた。
「でもな、『ようやく夢を持った』って、誇らしげな顔をしてたよ。あまり親父さんに心配かけるなよ」
 工場長はそう言うと、俺の背中をポンと叩いて持ち場に戻っていった。

 その夜、帰宅してすぐ母に愚痴る。
「人の職場まで来るとか、マジ勘弁――」
 母は食器を洗いながら黙って聞いていたが、やがて静かに言った。
「お父さんね、高校卒業してすぐ陶芸の職人を目指して工房に弟子入りしてたのよ」
 知らなかった。父と今までそんな話をしたことはなかった。
「でも、機械化の波に勝てず、工房が閉じたの。当時は学歴がなければ再就職も大変だった。お父さん、口下手だからあんな言い方になっちゃったけど」
 沈黙が家の隅々まで満ちていく。
 俺はその夜、父の部屋の前で立ち止まった。扉の向こうに父の気配を感じながら、俺は何も言えずにいた。

 翌朝、思い切って父に話しかけた。
「母さんから聞いたよ。昔の工房の話」
 父は少し考えて口を開く。
「いいか、乗りかかった船が思うように進まなくても、岸に着くまで乗り続けろ。何も持たずに海に飛び込めば、もっと苦労する。時間がかかってもいい。そのうち、船の動かし方が分かってくる」
 父の言葉がすっと胸に落ちてくる。

 それから、俺は欠かさず大学の授業に出た。
 休みの日は工場へ行き、プリントの技術を磨いた。
 そんなある日、作業中の俺に工場長がぽつりと呟く。
「この先、効率を求めて安価な技法が主流になってくる。手刷りの出番は減るだろうが、そこに価値を見出す人もいる。お前の技術はちゃんとそこに繋がっていくからな」

 俺は大学で習った知識を現場に活かした。作業の流れを整理して効率化を図ると、生産数も増えていった。
 シルクスクリーンの魅力を伝えるために、服飾を学ぶ他大学の学生と一緒に小さなサークルも立ち上げた。
 時間が経つにつれ、乗り続けた船の動かし方が分かってきた。

 家に帰ると、父が湯呑みでお茶を飲んでいた。
 最近趣味で作った自信作らしい。
「お前を見てたら、また作りたくなったよ」
 照れくさそうに言う父の顔は、未来への希望に溢れていた。

#愛する、それ故に

10/8/2025, 6:45:24 PM