結城斗永

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※2025.9.30投稿『旅の続き』の続きです。

【前回のあらすじ】
 父の手がかりを探して孝雄を訪ねた僕とママさんは、父が失踪前によく会っていたメグミという女の存在を知る。
 ママさんの過去も見え隠れする中、僕はママさんは港町を目指す。
 
――――――――――――――――
 ママさんの軽自動車は、古びたエンジン音を響かせながら、再び住宅街を抜けていく。
「あんた、ここに来ることは誰かに言ってきたのかい?」
 ママさんがぽつりとつぶやく。
「メモは残してきました。見てるかは分からないけど」
 ――父を探しに行ってきます。すぐ戻るので、警察には連絡しないでください。
 時折家を訪れる叔母に残した、たったそれだけのメモ。
 父が失踪するまで、叔母――母の姉とはほとんど話したこともなかった。母と叔母の仲が決して悪かったわけではなく、単に親戚付き合いが薄かったというだけ。父の失踪後は母を心配してか、度々家を訪れるようになった。だけど僕は、叔母が時折口にする父への悪口が、どうにも好きになれなかった。叔母の気持ちも分からなくはないけれど。

 助手席の窓に映る自分の顔は、少し疲れて見えた。
 孝雄の言っていた『覚悟』という言葉の重さをどれだけ理解できているのかは分からない。
 これまでの人生があまりにも上手くいきすぎていたんだろう。大した寄り道もせず、当たり前に過ぎてきたこれまでの生活が、今となってはとても幸せな過去に思えてくる。
 ――寄り道。
 その言葉が僕の中で膨らんでいく。
 ――寄り道せずに帰ってくるのよ。
 僕が小学生のころ、学校に向かう玄関で毎日のように母が言っていた言葉。
 孝雄の部屋で見た刺繍入りのポーチが思い出と繋がる。
 僕が学校帰りに初めて寄り道をした、あの日の思い出――。

    ◆◇◆

 あれは僕が十歳の頃。昭和が終わり、平成がやってきた年。
 毎年三人で祝った母の誕生日が、初めて父の出張と重なった。
 母は「今年は二人きりね」と笑っていたけど、ほんの少しだけ寂しそうだった。

 母の誕生日を翌日に控え、いつもはまっすぐ帰宅する家路で、初めて寄り道をした。
 夕暮れの商店街。いつもなら通り過ぎるだけだった、小さな手芸用品店が目に入る。
 ショーウィンドウに飾られたポーチには、淡いベージュの布地に小さなコスモスの花が刺繍されていた。
 値段は確か2000円くらいだったと思う。当時の僕からすれば、かなり高い買い物だったが、母の喜ぶ顔が見たくて気づけば店内に足を踏み入れていた。

 家に帰ると、リビングで洗濯物を取り込んでいた母の声が真っ先に耳に入る。
「遅かったじゃない。どこに行ってたの」
「ちょっと、学校に忘れ物して……」
 僕は明日のサプライズまでこのポーチのことを知られてはならないと、小さな嘘をついた。心配そうな顔をしながらも、それ以上詮索してこない母の姿に、少しの罪悪感を覚える。

 翌日の夜、二人きりの食卓で僕は徐にポーチを取り出して見せた。
 母は驚いたように僕を見つめ、次の瞬間、ふっと笑った。
「まあ、きれいなポーチ。とてもうれしいわ」
「母さん――」僕は胸に残っていたモヤモヤを母に告げる「昨日、嘘ついた。ごめん」
 母はポーチを胸に当てながら言った。
「いいのよ。でも、もう寄り道しちゃだめよ。心配だから」
 その日からまた寄り道しない帰り道が始まった。父のいない母の誕生日もそれが最初で最後だった。

    ◆◇◆

 気づけば、信号待ちの外に見える街は今までと雰囲気が違っていた。
 少しだけ空いた窓から潮の香りが流れてくる。ガードレールや看板には赤錆が目立ち、漁網や漁船が時折視界に写る。
 日が落ち掛け、静かでどこか眠たげな港町は、哀愁に包まれていた。
 
「父さんも寄り道してるのかな――」
 漏らすように言った言葉に、ママさんが僕をチラリと見る。
「それにしちゃあ、随分と大きな寄り道だね」
 ママさんが短く笑う。車は再び走り出す。
 そう言う僕もいま大きな寄り道をしている。もとの道が見えなくなるほどに遠い寄り道を。

#今日だけ許して

10/4/2025, 4:22:41 PM