※ゾンビ系ホラー。微グロ&流血表現バッドエンド注意報
突如一帯を襲ったマグニチュード八・五の大地震は、周辺地域に甚大な被害を引き起こした。
しかし、俺とタツヤが所属するバイオ研究所においては、建物の損壊よりも遥かにヤバい事態が巻き起こっていた。
この研究所で秘密裏に開発が進められていた生体細胞の活性化を促す薬品。地震により飛散した開発途中のこれらの薬品は、三十分というわずかな時間で、研究者たちを本能のままに人を喰らう生きる屍、いわゆるゾンビへと変えていった。
とにかくこの研究所から脱出しなければ。タツヤに手を引かれるように出口を目指していた俺は、彼の破れた白衣の隙間から粘り気のある赤黒い膿が吹き出しているのを見て、無意識に手を払い除けた。
そしてすぐに「ごめん、これは……違うんだ……」と弁解が口に出る。しかしタツヤはそれどころではないようで、そんな俺の後悔など気にも留めていなかった。
「これって……、まさか……」
タツヤの表情がみるみるうちに恐怖と不安へと変わっていく。そして、突然何かに気づいたように、声を荒らげながら俺を突き飛ばした。
「俺から離れろ! 俺はいいから、ここからはお前一人で逃げるんだ!」
あれからほんの数十秒の間に、赤黒い膿はタツヤの片腕を覆い尽くすように侵食していた。俺は腰から地面に倒れ込む。擦りむいた手のひらにじんわりと血が滲む。
「俺にはお前を見捨てるなんてできないよ! 俺たち、仲間だろ!」
尻もちをついたまま、俺はタツヤにぶつけた。彼は震える声でそれに応える。
「嬉しいこというじゃん……。でも、俺はもうすぐ自分……じゃなくなる。そうなったら、俺は……お前を傷つけるかも……しれない……」
彼を侵食する膿が、首元から顔の方へと広がるにつれて、脊髄への条件反射のように体をビクリと震わせる。
「俺、それでもいい。お前がゾンビになるんなら、俺も一緒にゾンビになってやる」
俺のその言葉に嘘や同情は一切なかった。
「ふざへんな……」タツヤの顔面はその半分が膿に侵され、徐々に呂律が回らなくなっていく。「おま……おまえ……は……ひ……、ひき…………」
タツヤの瞳孔が光を失ったように開いていく。もはや彼の口から発せられるのは言葉ではなくなっていた。
それまで縮まらなかった二人の距離が、少しずつ近づき始める。それは悲しくも、タツヤが俺にゆっくりと歩み寄っているからだった。
今や彼を動かしているのは本能だけだ。しかし、その本能が求めているのは、俺の感情や魂の類ではなく、もっと肉々しく、生々しいもの。
「俺たちは仲間だ。お前が行くところに、俺も行く……」
聞こえているかもわからないタツヤへそう告げて、俺は手のひらをぐっと握りしめる。
ふと、手のひらの違和感に気づく。先ほど手のひらを擦りむいたはずだ。なのに傷口から膿が出ることもなければ、赤黒く変色すらしていない。
俺はそこで全てを悟った。そしてそれは悲しい現実を突きつけてくる。
「ごめん、俺……、お前の仲間には……なれないみたいだ……」
図らずも俺の体の中で、薬は反応を示さなかった。原因は分からないが、俺はゾンビにはなれない。
俺はこちらに近づいてくるタツヤを両手で抱きしめる。食い込むように張り付くタツヤのただれた肌は、じんわりと熱を伝えてくる。
俺は、彼の言葉にならない唸り声を、この胸でしっかりと受け止める。
俺はお前と同じにはなれないが、今のお前を抱きしめられるのは、この世界に俺しかいない。
俺は自分の特異な体質を呪いながら、同時に感謝した。
#仲間になれなくて
君を想う日がいつも雨なのは、
きっと君があの日、雨の妖精になったからだろう。
雨の日にだけこっそり地上に降りてきて、
そうでない日は雲の上からこちらを見下ろしているんだ。
俺は強さを増した雨を避けるように喫茶店に入った。
店内を見渡すと、片手で数えられるほどの客しかいなかった。
窓際のソファ席を選んで座る。理由は単純だ。
窓を打つ雨の音が聞こえている方がいい。
メニューも見ずにブレンドコーヒーのブラックを注文する。
読みかけの小説があったが、鞄から取り出すことはしなかった。
雨の日は集中力が続かないのが分かっているから。
彼女と約束した時間が来るまで、窓の外に思いを馳せる。
つくづく俺は未練がましい最低な野郎だなと思う。
こうして彼女の到着を待ちながら、心の中では君のことを想っている。
もう忘れなければと想う日に限って雨が降る。
まるで君が俺を引き留めているように。
君に別れを告げたあの日も雨が降っていた。
降りしきる雨に逆らうように君は消えていった。
その日からしばらく続いた雨を、秋の長雨のせいだと言ってしまうには、
あまりにも都合の良すぎる示し合わせだった。
少し時間が立って、ドアベルがカランコロンと音を鳴らす。
彼女かと思って振り返るが、音の先には誰の姿もなかった。
ただ、流れ込んできた外の空気が、湿気と同時に気配のようなものを纏っている気がした。
とても懐かしい気配。温かく優しさを持った馴染みのある気配。
――君なのか……?
俺は、その気配を纏った虚空に問いかけていた。
返事をするように、風に煽られた雨粒がザザッと一度窓を打ち鳴らす。
それを俺は都合よく解釈する。
あの日、俺を置いて先に逝ってしまった君。
雨の降る火葬場で、骨だけを残して天へと消えた君。
――俺はどうすれば君を忘れられる?
そう問いかけても、君からの返事はない。
君を忘れるために登録したマッチングアプリで
君に似た彼女を見つけて運命を感じた。
アプリに登録した日から彼女を見つけるまでも、
思えば、あの時のような長雨がつづいた。
――君がそうさせたのか?
返事の代わりにドアベルが鳴る。君に似た彼女だ。
丁寧に巻かれた傘を傘立てに刺し入れ、わずかに濡れたコートを手で払いながら、店内を見渡している。
俺はゆっくり手を上げて、彼女に存在を示してみせる。
ニコリと微笑んで、ゆっくりこちらへやってきた彼女は、
俺の向かいにそっと腰掛けて、初対面の挨拶を交わす。
「雨、大丈夫でしたか?」と俺が尋ねると、
「私、雨女なので慣れてます」と冗談めかして応える。
実際に話してみると、彼女は雨上がりの空のような人だった。
どこか雨の余韻を感じさせる明るさを持っていた。
俺の心を覆う傘が丁寧に畳まれ、巻き取られていくように、
次第に俺は彼女の奥ゆかしさと明るさに魅了されていった。
しばらくの会話のあと、ふと窓の外を見る。
雨粒は薄くなり、雲の切れ間から光が差し込んでいた。
「雨、やみそうですね」と彼女が言い、
「ああ、晴れそうだね」と俺が応える。
徐々に青さを増していく空から、雨と君が静かに遠ざかり、柔らかい光が広がっていく。
#雨と君
公民館の団欒室。殺風景な壁にA4の色画用紙4枚を使って貼られた『川柳教室』の文字は、昨晩、慣れないパソコンを使って、夫に教えてもらいながら私が作ったものだ。
入口に貼られた『町民ふれあい教室~川柳で自分を表現してみよう~』のポスターに『講師:志田聡美(しだ さとみ)』という私の名前。今日は全十二回ある講義の記念すべき第一回目。
結婚して二十年、専業主婦の片手間で始めた俳句歴まだ三年目の私が、まさか『先生』なんて呼ばれる日が来るなんて、人生は本当にわからない。
部屋の真ん中で、円形に並んだパイプ椅子に、カラフルな短冊と百円ショップで買った筆ペンのセットを順番に置いていく。
この部屋に入った時に、パイプ椅子はすべて直線的に並んでいたけれど、どうせならみんなが向かい合っていた方がいいんじゃないかと思って配置替えをした。
「うんうん。なんか、様になってる気がする」
このふれあい教室の立案者で、俳句仲間でもある町内会長から『九月に一枠空きがあるの』と話をもらったのが今年の六月。
気が付けば、あっという間の三か月だった。
初めこそ、こんな私に講師なんて務まるのかしらとも思ったが、『聡美さん、お話もとてもお上手だから』と押し切られた形でこうして今日を迎える。
いざ準備に取り掛かってみると、案外楽しいものだった。
まず、毎週欠かさず見ていた公共放送『俳句講座』の見方が大きく変わった。
いつもは投稿された句やテクニックに感心していた私が、『あら、上手な褒め方』『今の言い回し、とてもステキ』と、いつしか解説の先生の話し方に関心が移っていた。『教える』というより『寄り添う』という雰囲気に近い彼女の姿勢が気に入った。
心に残った言い回しはメモ帳にしたためておいて、掃除や洗濯、料理をしながら鼻歌の代わりに口ずさむ。
導入の挨拶は、あの先生の口調を少し真似してみようかしら。結構有名な方だし、俳句好きにはつかみとしてばっちりだと思うの。
あと言葉尻に小さく頷く癖も取り入れて――。
円形に椅子を並べるアイデアも、カラフルな短冊も、番組の中で、高校生たちがテーマに沿って歌を詠む回でそうしていたから。
そう。私にはこの『俳句講座』がすべてのお手本だった。
私は準備に漏れがないか、団欒室をひと通り見渡したあと、腕時計に視線を落とす。
講義開始まであと十五分。もうそろそろ生徒さんもやってくる頃だ。
果たしてどんな人が生徒としてやってくるのかしら。もしも私より上手な人ばかりだったらどうしよう。
不安がないかと言えばウソになるけど、期待の方が大きかった。
そこは先生の褒め方を参考に、持ち前のやってみよう精神で何とか乗り切れるはず。
私は誰もいない教室の真ん中で、気合を入れるように胸の前で拳を握り、大きく声を張り上げた。
「志田聡美、四十八歳、頑張るぞ!」
私の声とほぼ同時に、ガラガラと扉を開けて年配の女性が入ってくる。
女性は一瞬びくりと驚いたような表情を見せたが、「まぁ、元気な川柳ですこと」と微笑んだ。
窓から漏れ入る初秋の麗らかな日差しが、空気の中に漂う照れ臭さを包み込みながら、殺風景な団欒室が徐々に温かさを増していくような気がした。
#誰もいない教室
信号が変わるまでの三分間、僕はずっと横断歩道の向こうに立っている君のことを考えていた。
夏休みが終わったばかりの九月の初め。
交差点には陽炎が立ち昇っていたが、対して僕の心はひどく冷え込んでいた。
横断歩道の向こうに固まる群衆の中に君の姿を見つけた瞬間から、胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
横にいる同級生の男子と腕を組みながら、楽し気に話し込んでいる君の姿を、僕はまっすぐ見ていられなかった。
夏休みが空けたら渡そうと、カバンの中に忍ばせた手紙のことを思い返す。
月並みの言葉で「好きだ」というようなことを書き連ねた不器用な手紙。
書き直しては何度も読み返し、そのたびに、恥ずかしさが寄せた。
まだカバンから出せずにいるその手紙は、二度と君の手に渡ることはないだろう。
もしもこの手紙を君に渡してしまったら、僕と君は友達ですらいられなくなってしまうかもしれない。
そう思うと、渡せなかった自分への劣等感と、渡さなくてよかったと安堵する気持ちが、同時に押し寄せる。
信号が青に変わり、人々が一斉に陽炎立ち昇る交差点へと流れ出す。
押されるように人の波の中を進みながら、僕の心が「待て」と囁き、歩みが止まる。
後ろから寄せる人々が肩をぶつけ、舌打ち混じりで遠ざかっていく。
もし、いまここで君と顔を合わせることになったとして、僕はどんな表情を君に見せればいいのだろう。
考えもまとまらないうちに、群衆の波に溺れる僕の横を、君は静かな風のように通り過ぎていった。
僕の方には目もくれず、隣を歩く男の顔を、僕に見せたことのない笑顔で見つめたまま……。
信号が再び赤に変わったとき、僕は交差点の真ん中に呆然と立ち尽くしていた。
クラクションの音に頭をはたかれ、恥ずかしさと惨めさから、そそくさと歩道へはける。
君は明日からも僕を友達として見てくれるだろうか。
それとも僕は君にとって恋人以外の異性になってしまうんだろうか。
結論は出ないまま、信号機は二度目の青を灯す。
僕はぼやけた輪郭の決意を胸にしまう。
今までと変わらず、友達として君に話しかけようと思う。
たとえ手紙は渡せなくても、君のために手紙を書いていたあの時間は消えることはない。
その時間は、これからの僕にとっても大切であり続けるだろうから。
「私って本当に意気地なし……」
駆けるようにして校門の外に出た途端、我慢していたため息がふっと漏れた。
想いを寄せるマサトに、今日こそは言おうと決めていた『第二ボタンをください』の一言を、とうとう私は口に出すことができなかった。
初めて会った一年生のあの日から、彼のことが気になって仕方がなかった。でも、彼の周りにはいつも女の子が集まっていて、気づけばほとんど話すこともなく今日まで来てしまった。
卒業式が最後のチャンス。ここで声をかけられなければ、もう一生言葉をかわすこともないかもしれない。そんなのは嫌だった。
何日も前から、シミュレーションをして、鏡に向かって発声練習もした。式が終わって彼のもとに向かう途中も、言うべき言葉を心の中で何度も繰り返した。
でも、私が声をかけようとしたときには、すでにいつもの女子たちがマサトを取り囲んでいた。チラリと見えた彼の胸元にボタンがないのを見つけて、気づいたら、彼に背を向けていた。
こんなはずじゃなかったのに。
突きつけられた現実から一刻も早く逃げ出したくて、彼から離れるように踏み出した一歩が、歩数を重ねるごとに速くなる。
どうして、あんなに練習したじゃない。
ボタンはもらえなくても、想いだけは伝えるべきだった? でも、もう遅い。私は逃げた。
バカ、バカ、バカ……。私のバカ……。
悔しくて、自分の心に何度も拳をぶつけた。
校門の外でふっと息が漏れた瞬間、心の堤防が一気に崩れ去る。涙が漏れないようにぐっと目をつむっても、溜め込まれて圧力を増した涙は止めどなく溢れて流れていく。
その場にしゃがみ込んでしばらく泣いた。制服の袖が涙でびしょびしょになるくらい……泣いた。
――ミサキ――さん。
マサトが私を呼ぶ声。
とうとう幻聴まで聞こえてきたみたい。
「ミサキさん?」
さっきより輪郭がはっきりした声に顔を上げると、そこには両手からこぼれそうなほどの花束を抱えたマサトがいた。
マサトは私の顔を心配そうに見つめると、すっと私の隣にしゃがみ込んで、抱えていた花束をひとつ差し出す。
「ちょっと持ってて」
半ば強引に突きつけられた花束を無意識に受け取ると、マサトの空いた左手は制服のポケットに滑り込んでいく。
「これ……、受け取ってくれる?」
目の前で開かれたマサトの手のひらには、鈍い黄金色に光る制服のボタンがあった。
「えっ、これって……」
思わずマサトの顔に目を向けると、彼はまっすぐ私を見つめていた。目が合った瞬間、彼は少し目を伏せて小さく咳払いをする。
「明日からも一緒にいてほしい」
マサトの言葉で頭が真っ白になる。すべての言葉を忘れてしまったように言葉が出ない。
「ずっと言い出せなかった。一年生の時、初めて君を見かけた日から、いつか言わなきゃって思ってた」
私は差し出された彼の手にそっと自分の手を重ねる。
「……私も」
ようやく口から出た一言が震えていた。それを聞いてマサトがホッとしたように笑みを浮かべる。
マサトが私の手を握る。私も彼に笑みを返す。第二ボタンの冷たい感触を溶かしていくような彼の手のひらの温度に、私の心もじんわりと温かくなっていた。
#言い出せなかった「」