お題:この場所で
肌寒くなってきた秋頃。
妻の実家からの帰り道、河川敷に寄り道をした。
妻がどうしても寄りたいと言ったのだった。
「私、この場所が好きなの。」
もちろん知っていた。
ここは私にとっても思い出深い場所だ。
「そういえば、なんでこの場所で雄一さんに告白したか話したかしら。」
首を振ると、微笑みながら彼女は言った。
「落ち込んだ時とか、辛い時とかによくきたの。
気持ちのいい風が吹いて、悩み事も一緒に風に流されるようなそんな気分になるのよ。」
確かにこの場所は彼女の家からは近い。
学校終わりなどによくきたのだろう。
川の音、風の音。
この自然たちが、彼女の心を癒したのだろうか。
「そんなことをしてるうちに、いつのまにかここが落ち着ける場所、私に勇気をくれる場所になっていったの。
雄一さんに告白する時も勇気をもらったのよ。」
そう言うと、彼女は私の前に何かを差し出した。
……赤いマフラーだった。
手編みで縫われたそれは、私が仕事をしているときに編んだのだろう。
私は無言で受けとる。
……流石に手編みの赤いマフラーは仕事にはつけていけないな。
そう思った。
「休日、出かける時に巻いてみる。
ありがとう。」
私の飾り気のない言葉でも、彼女は嬉しそうだった。
関連:花束、時計の針、旅路の果てに
お題:誰もがみんな
「それで……東京ではどうだったんだ?」
初めて来た居酒屋の個室で彼女に問われた。
しばらく見ないうちに、少し怖くなった気がする。
「……ダメだったよ。うまくいかなかった。」
僕がそう言うと、そうか。と彼女が答える。
あまりに久しぶりすぎて距離感がわからない。
少しよそよそしくなってしまう。
「……まあ、その、なんだ。
少しはゆっくりできるのか?」
「まあ……ね。仕事、辞めたし。」
少しの沈黙の後、そうか。とまた彼女が言った。
「なんか、大学卒業してさ。
やりたいこと追いかけて、海鈴と別れて東京に出てさ。
結局ダメでさ。
なんか思っちゃったんだよね。
僕には何もないんだなぁって。」
ああ、あの頃はきっとこんな未来になるなんて思ってなかっただろうなぁ。
「目的のない人よりは前にいる。
自分はできるって思ってて。
多分周りのこと見下してたんだと思う。
僕は他のやつとは違うって。
でも……。」
うまくいかなかった。
誰もがみんなうまくいくなんてことはない。
そんな当たり前のことを僕は知らなかった。
酒も入ってたからか、一度話し始めると後から後から言葉が溢れた。
それを彼女は黙って聞いてくれた。
「私もさ。
なんか学生の頃はなんとなくこの生活が続いて、なんとなくうまくいくって思ってたよ。
そんなことなかった。
祐介と別れて、なんとなく入った職場で女ってだけで見下されながら仕事してさ。
私何してんだろって思ったよ。」
いつ以来だろう。
こうして2人で話すのは。
彼女の話や仕草は懐かしさと新鮮さを感じた。
「でも、最近少し楽しいんだ。
ちょっとネガティブだけど愛嬌のある後輩もできて、仕事でやっていきたいことも見つかってきてるんだ。
祐介、きっと最短距離なんてないんだよ。
ずっとうまくいくだけ人生なんてない。」
誰もがみんな、きっとそうなんだよ。
彼女はカルーアミルクに少し口をつけた。
何もない人間からすれば、そんなことが言えるのは勝ち組だけだと思う。
僕は君と付き合っている時、自分の方が優秀だと思ってた。
でもこうしてみると、わかることがある。
当時もきっと君の方がすごかったんだ。
慰めによる劣等感が抑えられなくなって、ここにいられなくなった。
財布から5千円札を机に叩きつけ、彼女に言う。
「今日はありがとう。
……さようなら。」
もう会うことはないだろう。
彼女には彼女の人生が。
僕には僕の人生がある。
そんな僕の背中に彼女が言葉をぶつける。
「払い過ぎだよ。
お釣り、次会うときに返すね。」
バッと振り返る。
彼女は少し驚いた後、べっと舌を出して笑った。
お題:花束
その日は土砂降りだった。
歩くたびに濡れたスーツは肌に張り付いて、それが不快だったのを覚えている。
首に面会証を下げ、音のない廊下を歩く。
しばらくすると目的の扉が見えてくる。
素っ気ないその扉の脇には
「伊藤 海鈴」
とこれまた簡素に書いてあるのだった。
ノックをして扉を開ける。
部屋の中、窓の外を見上げていた妻がこちらを向いた。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
ふふ、と彼女がしずかに笑う。
そして私の持つ花束を見て言った。
「そんな毎度いいのに。雄一さんも律儀ね。」
そんなことを言いつつも、花束を受け取った彼女は少しはにかんだ。
ガーベラの花束だ。
花は正直詳しくなかった。
花屋の店員のおすすめを馬鹿みたいに毎日渡した。
その度に彼女は笑って受け取ってくれた。
病院側も迷惑だったのだろう。
前の日の花は、翌日には置いていなかった。
ただ、私はお構いなしに花束を渡した。
……果たして迷惑だったのは、彼女も同じなのだろうか。
「今日は、少し元気かい?」
「元気よ。雨の音って落ち着くわね。」
外はゴーゴーと雨が降っている。
風が窓ガラスを揺らした。
「雄一さんはお仕事は終わり?」
「……いや、家に帰ったら少し残りを。」
「いつまで経っても仕事人間なんだから。
寂しかったの、わかってるのかしら。」
彼女はぷいっと顔を背ける。
胸が痛くなった。
「……すまない。」
俯いて謝ると、前から笑い声が聞こえた。
「冗談よ。少しからかい過ぎたかしら。」
彼女はにこやかだ。
……その笑顔は私を責めているようだった。
嫌な考えを振り払うように、一度彼女の手を握る。
また少し小さくなっている気がした。
「今日はもう帰るよ。
今度の日曜日に弟がこっちの方に来るそうだ。
よかったら連れてこようと思う。」
手を足の上に乗せた後、彼女に背を向け外に歩き始める。
「ええ、ありがとう。
是非来てほしいわ。
それと……。」
彼女は一瞬躊躇したようだったが、少し俯き気味に口を開いた。
「毎日は来れなくても、私は平気よ。
……雄一さんの負担になりたくないの。」
少し震えた声だった。
家に帰らず仕事に詰めていた日々の、
彼女を追い詰めた日々の、
その結果をはっきりと意識させるに足る声だった。
「……また来るよ。」
背中を向けたまま、私は病室を後にした。
関連:旅路の果てに
お題:スマイル
夏の海。
水着の群集を背に、僕たちは岩場の上にいた。
「笑ってー。」
パシャリ。
シャッターが切られる。
彼女は撮った写真を確認してしかめっ面をした。
きっと仏頂面の僕を見たことによってだろう。
彼女の誕生日プレゼントにデジカメを買ったのが1週間ほど前。
そのカメラを本人はいたく気に入っており、買ってから初めての土曜日ということで海に写真を撮りにきたのだった。
「うーん、笑顔が足りない。」
「そんなこと言われてもなぁ。」
写真は正直苦手だった。
あまり好きじゃない顔が、写真になると更に嫌いになる。
見返したくもなかった。
「スマイルー。」
気の抜けた声と共にまたシャッターが切られる。
「うーん……角度の問題かな。」
角度の問題というよりは僕の問題な気がする。
気恥ずかしさ、とは違うと思うが僕は笑いたくなった。
一種の当てつけかもしれない。
彼女が角度を変えるため移動した時だった。
「痛っ。」
彼女が体勢を崩した。
カメラを落とさないように片手をついて体を支える。
「大丈夫!?」
駆け寄ろうとする僕を彼女が手で制する。
「大丈夫。ほら、続き!笑顔ー。」
その顔は歪んで見えた。
カメラを構える彼女を無視して彼女に近寄る。
「そんなに近いと撮れないよ。」
少し困った声を出す彼女。
ビーチサンダルから見える5本の指。
その親指からは血が出ていた。
「大丈夫?痛む?」
彼女を見上げると、顔を歪ませたまま笑顔を浮かべた。
「へへ。ごめん。ちょっと痛い。」
でも、撮らせて。
と言って、彼女はカメラを構えようとする。
手当てしてから、と説得したがダメだった。
どうして?と問う。
すると彼女は
「祐介の笑顔の写真、まだ一回も撮れてないから撮りたいの。」
と、痛みに耐えながら言うのだった。
お題:どこにも書けないこと
「最近、日記書いてるんですよ。」
暖簾がかかった飲み屋の個室。
私の言葉にお猪口の日本酒をあおった篠崎さんが答える。
「佐川、お前案外乙女なんだな。」
乙女なのだろうか。
日記は男女問わず書いてそうだが。
「男の人も書きますよ、きっと。
ほら、男もすなる日記といふもの〜って言うじゃないですか。」
「土佐日記か。でも日記書いてる男見たことないし。」
まあ私もなかった。
でも異性に話さないだけだと思ってた。
「しかし日記か。面白いな。どんなこと書いてるんだ?」
篠崎さんは意外に興味津々だ。
でも、書いてることは……言いたくない。
日記を書こうと思ったのは自分の感情の発散のような意味合いが強かった。
「いや、大したこと書いてないですよ。」
「大したことじゃなくても気になるよ。私日記書いたことないし。」
「今までに一度もですか?」
お猪口に日本酒を注ぎながら篠崎さんが頷く。
誰しもどこかのタイミングで一度は書いてみるものだと思っていたので驚いた。
小学校の課題で絵日記とかなかったのだろうか。
「日記って日々の出来事や思ったことを書くんだろ?
正直それを見返すのが怖い。」
書きたくないことが多すぎるんだ。
篠崎さんは酒に口をつける。
篠崎さんも悩みとかあるんだな。
と、なんだか他人事のように思った。
でもきっと、私は日記を振り返ることはしないだろう。
過去のことを振り返るほど、今に余裕はない。
いつもいつも辛い現実に負けそうになってる。
若干俯いていたのがバレたのか、篠崎さんがこちらを見てニヤッと笑った。
「その代わり、今日も付き合ってもらうぞ。
酒で記憶が飛べば、ここで話したことは実質無かったことになる。
どこにも書けないことはここで発散させてもらおう。」
そして私のカシオレを指差し、ほら飲め飲め。と言うのだった。