お題:花束
その日は土砂降りだった。
歩くたびに濡れたスーツは肌に張り付いて、それが不快だったのを覚えている。
首に面会証を下げ、音のない廊下を歩く。
しばらくすると目的の扉が見えてくる。
素っ気ないその扉の脇には
「伊藤 海鈴」
とこれまた簡素に書いてあるのだった。
ノックをして扉を開ける。
部屋の中、窓の外を見上げていた妻がこちらを向いた。
「こんにちは。」
「……こんにちは。」
ふふ、と彼女がしずかに笑う。
そして私の持つ花束を見て言った。
「そんな毎度いいのに。雄一さんも律儀ね。」
そんなことを言いつつも、花束を受け取った彼女は少しはにかんだ。
ガーベラの花束だ。
花は正直詳しくなかった。
花屋の店員のおすすめを馬鹿みたいに毎日渡した。
その度に彼女は笑って受け取ってくれた。
病院側も迷惑だったのだろう。
前の日の花は、翌日には置いていなかった。
ただ、私はお構いなしに花束を渡した。
……果たして迷惑だったのは、彼女も同じなのだろうか。
「今日は、少し元気かい?」
「元気よ。雨の音って落ち着くわね。」
外はゴーゴーと雨が降っている。
風が窓ガラスを揺らした。
「雄一さんはお仕事は終わり?」
「……いや、家に帰ったら少し残りを。」
「いつまで経っても仕事人間なんだから。
寂しかったの、わかってるのかしら。」
彼女はぷいっと顔を背ける。
胸が痛くなった。
「……すまない。」
俯いて謝ると、前から笑い声が聞こえた。
「冗談よ。少しからかい過ぎたかしら。」
彼女はにこやかだ。
……その笑顔は私を責めているようだった。
嫌な考えを振り払うように、一度彼女の手を握る。
また少し小さくなっている気がした。
「今日はもう帰るよ。
今度の日曜日に弟がこっちの方に来るそうだ。
よかったら連れてこようと思う。」
手を足の上に乗せた後、彼女に背を向け外に歩き始める。
「ええ、ありがとう。
是非来てほしいわ。
それと……。」
彼女は一瞬躊躇したようだったが、少し俯き気味に口を開いた。
「毎日は来れなくても、私は平気よ。
……雄一さんの負担になりたくないの。」
少し震えた声だった。
家に帰らず仕事に詰めていた日々の、
彼女を追い詰めた日々の、
その結果をはっきりと意識させるに足る声だった。
「……また来るよ。」
背中を向けたまま、私は病室を後にした。
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2/9/2023, 1:58:41 PM