もしも君が
7月。
コンクリートの反射熱を顔面に受けながら、死んだように歩いていた。
どこからきたのか、街路樹にいる蝉の音がやかましい。
大学に持っていく教材を全て突っ込んでいるバッグが重い。
もはや足を引き摺るようにアパートを目指した。
太陽の熱から逃げるように建物に入る。
二階までどうにかこうにか階段を登ると、変わらない景色が飛び込んでくる。
角の扉、申し訳程度にサボテンが置いてあるその扉が、自分の部屋へと繋がる扉だ。
ここまでくればもう一踏ん張り。
暑さにやられた体を鼓舞して扉の前まで歩く。
鍵はいつもポケットに入れていた。
鍵のケースは革製のもの。
結構高かったそれは、メンテナンスを怠っているせいでひどくひび割れていた。
ケースは、シェアハウスしていたルームメイトが勝手に選んだものだった。
「なんかこれかっこよくね?これにしようぜ。」
値段も見ずにレジに持って行って2人驚いたものだった。
部屋に入るとまずベランダの窓を開ける。
熱のこもった室内に、多少なりとも涼しげな風が吹き込んだ。
2DKの狭い室内、その一部屋に背中合わせに勉強机がある。
俺はその片方に腰を下ろした。
後ろの机は物が積み重なっていて、とてもじゃないが作業などはできなそうだった。
机の主、つまりルームメイトがそこで勉強をしてた姿など見たことないが。
彼は快活に笑う、元気のいい男だった。
いつも俺より先に起きて、いつのまにか学校に行く。
帰りはバイトして帰ってくるため、俺より遅かった。
「妹がいんだ。俺の大学費用で妹が大学行けないのは嫌だから、奨学金返すためにバイトしてる。」
家庭の金銭事情に深く突っ込んではいけないかと思い、これ以上は聞けなかったが、彼は何とも思ってなさそうな笑顔でそう言った。
その時、一銭も払わず親からの仕送りで学校生活ができてる自分が何だか責められてるかのように錯覚したのを覚えている。
そんな彼の妹が自ら命をたった。
4月の末のことだ。
事情は詳しくはわからない。
けど、実家から帰ってきた彼の表情がただことでないことを物語っていた。
帰ってきた後の彼は何も言わずに何日も何日もスマホを眺めていた。
話をしない日がなかった俺たちは、その日を境に一言も口を利くことがなくなった。
5月の中頃。
ニュースで、彼の顔を見ることになる。
殺人の容疑。
被害者は妹の同級生、2人だった。
そうして彼はこの部屋からいなくなった。
雪崩が起きそうな彼の机などを残して。
ため息をついて、バッグを漁る。
ごちゃごちゃした中身から、お目当てのタバコの箱を取り出すと、ベランダに向かった。
外は車の音、蝉の音でやかましい。
去年の夏と同じ、変わらない日常の音。
俺たちの生活が変わっても、世界は変わってくれない。
当たり前のように、変わらない日々が動き続ける。
その時、世間から隔離された、孤独のようなものを感じることがあるんだ。
なあ、お前はそれで報われたのか?
それを選ばなきゃ、お前は生きていけなかったのか?
ライターで火をつける。
吐き出したタバコの煙は雲ひとつない青空に消えていった。
I love
ふと眩しい日差しで目が覚めた。
手で日差しを遮りながら、緩慢な動きでベンチの背に手を伸ばす。
かつて日曜大工で作った木製のベンチは、ギシギシ言いながらも何とか私の体重を支えてくれた。
頭を振って記憶を呼び起こす。
どうやら朝の陽気に誘われて、寝惚けてしまったようだった。
完全に体を起こしベンチに腰掛ける格好になった時、ふと自分の膝にくしゃっとした布が乗っていることに気がついた。
不思議に思い広げてみると、それは小さな花の刺繍がついた毛布だ。
これがなぜここにあるかを考えるより前に、懐かしいと感じた。
これは妻がよくかけてくれた物だった。
妻は小さな幸せを見つけるのがうまい人だった。
それは若い時も、この家に越してきてからも同じだった。
近所の衣料品店で買った品々に、好きな花を施していた。
かと思えば、次の日にはチューリップの球根を買って水を撒くのだ。
最期の時の控えめな笑顔さえ、自分の手にすっぽりおさまるような小さな幸せを届けてくれるようだった。
毛布をゆっくり畳み、庭を眺める。
ここを買った時は喜んでいた広い庭は、私にとっては無用の長物となってしまった。
もう随分と手入れもしていない。
ふと、その庭に鮮やかな白を見た。
光かと思ったそれは、一本のチューリップだ。
なぜ咲いているかはわからない。
だが、その花に水をあげている妻が、確かに見えた気がしたのだった。
教室には私の他にもう1人。
私が語る話を待っている女性がいる。
「そうだな、例えば……こんなのはどうだ?」
——————
その村には2人の兄弟がいた。
兄は腕っぷしに自信があり、村1番の力持ちだった。
反対に弟は知恵があり、村1番の物知りだった。
2人は16になる前に村を出た。
その時、2人がよく遊んだ海の見える丘の上で、兄はこう言った。
「俺は街に出る。そして戦場で名をあげる。だから、お前も勉強し世に名を知らしめたら、この場所でまた会おう。」
弟はそれを了承し、別々の道を歩んだ。
兄は宣言通り街に出た。
そして義勇兵として、戦場へと赴いた。
戦いの日々に明け暮れた彼は、やがて戦果を認められ、少しずつ昇進していった。
兄ははじめて昇進したその日から、あの丘の上を訪れた。
いつ来るかわからない弟を待ち続け、来なければ家に帰った。
街から少し離れた場所に住む彼は、1人でずっと待ち続けていた。
そんなある日、彼は戦場で命を落とした。
幾日も、幾年も待ち続けたあの丘には、ついぞ弟は来なかったのだった。
彼の遺書の通り、彼の墓は丘の上に建てられた。
さしたる名将にもなれなかった彼は、やがて人々から忘れ去られた。
その丘と墓は気の遠くなるほどの朝日を浴び、月光を愉しんだ。
ある日、1人の老人がその墓を訪れた。
彼は言った。
「許しておくれ。私はあの約束を成し得ることができなかった。私は何者にもなることはできなかったのだ。」
彼は墓標に1輪の花を添えると、愛すべき妻と子供たちの元へ戻っていった。
——————
「君なら、約束を守らないとは何事だーって言いそう。」
彼女は温かい声で笑った。
なんとも若かりし日の自分が言いそうなことだった。
きっと約束を果たせなかった弟を責めただろう。
一つため息をついて、視線を落とす。
頬杖をついた腕が少し痺れているのに気づいた。
「そう言う君は?」
「わたし?そうだなぁ……。きっと弟は後悔したんじゃないかなって思う。」
後悔?
反射的に彼女の方を振り向こうとしたが、やめた。
かわりに窓に反射した彼女の姿を見る。
彼女は時計をまっすぐ見て、こう言った。
「来る日も来る日も、彼は約束を果たしていなくてもあの丘に行っていいか自問したんじゃないかな。そして、あの墓を見た時、後悔した。ああ、もっと早くに行っておけばよかった、って。」
なんて、ね。
彼女は窓の外を見て、はにかんだ。
お題:明日に向かって歩く、でも
ふと、喉の渇きを感じた。
凝り固まった腕に不快感を覚えながら、ゆっくりと瞼を開ける。
どうやら机に突っ伏して寝ていたようだ。
ぼやけた視界をどうにかするため、ゴシゴシと目をこする。
すると、目の前に大きな黒板が見えた。
長方形の机とそれにつけられた椅子が、整然と並んでいる。
窓の外は陽は落ちて、薄暗かった。
教室のようだ。
それでここが夢なのだと知った。
学校なぞ、卒業して久しい。
「起きたんだ。」
声がした。
不思議なことに、それが彼女のものだとすぐにわかった。
最後に会ったのが何年前かもわからない、にも関わらずだ。
視界の隅でスカートが揺れる。
そこではじめてエアコンが効いていることがわかった。
肌をなぞる温風が、不思議な安心感を与えてくれる。
「おう。」
いつものように手を軽く振る。
降ろした手でそのまま頬杖をついた。
自分の手が、気持ちの悪いほど湿っているのがわかる。
「ねぇ、なんか話してよ。」
いつもみたいにさ。
彼女はそう言って斜め前に座る。
ちょうど私の手で見えない位置だった。
そういえば放課後、教室に残ってよく話した。
話したと言っても私が一方的に物語を語り、彼女はそれを頷きながら聞いていただけだったが。
「そうだな、例えば……こんなのはどうだ?」
お題:ただひとりの君へ
お題:もしもタイムマシンがあったなら
就業時刻をとっくに終えたオフィスには、私以外誰もいない。
節電のため照明を抑えた薄暗いオフィスでは、私を照らすPCの光がやけに眩しく感じる。
「自業自得、かぁ。」
終わりの見えない残業の原因は自分にあることは承知の上。
それでも誰かに手伝って欲しかった。
人の気配のないオフィスに1人いるだけで泣きそうになる。
……こんな時、先輩がいればなぁ。
産休中の先輩を思いながら隣の席を見る。
席の主……篠崎先輩には会社に入ってから幾度となく助けられてきたのだった。
ああ、そう言えば。
同じような状況になった後、先輩と飲みに行ったっけ。
*
「もう無理です……。私は人が当たり前にできることさえできない、使えないダメ人間なんですぅ……。」
遅い時間までやっている大衆居酒屋。
その個室で私はカルーアミルクをちびちび飲みながら言った。
ざわざわ聞こえる話し声や、忙しくなく動くスタッフ。
それらを見聞きしていると、自分がどれだけできない人間か思い知らされるようだった。
「死ぬのはダメだぞ、佐川。お前は何かあるとすぐ死にたがるからな。」
目の前の篠崎さんの声に私は顔を起こす。
少し赤い顔をした彼女の前のジョッキは、すでに空だった。
「死んじゃダメならどうすりゃいいってんですかぁ。失敗失敗失敗。今日の件も先月の件も全部私のせいじゃないですか。」
「だから全部が全部佐川のせいじゃないって。私や松井さんの問題もある。話しただろう?」
何度も聞いた。
でも何度聞いても自分のせいとしか思えなかった。
「こんな大人になるなんて……子供の頃は思ってなかっただろうなぁ。」
ため息をつきながら呟く。
戻りたい。あの頃に戻りたい。
何も考えなくて済む、楽しかったあの頃に。
そんな話に篠崎さんは少し真剣な顔で答えた。
「その理由でのタイムトラベルか。私は賛同できないな。」
「なんでですか?過去に戻れたら全てうまくいくんですよ?」
「その根拠のない自信はどこから出てくるんだ……。子供のころだって覚えてないだけで大変だったこともあるんじゃないか?」
「それは……そうかもしれないですけど。」
でも今よりはよっぽどマシだと思えるけどなぁ。
そんな私の内心を見透かしたのか、枝豆を食べながら篠崎さんは言う。
「それにだ。100歩譲ってうまく行ったとして、私とは会えないだろう?
会ったことや、2人で体験したこと。佐川しか覚えてないことになる。
……それは悲しいな。」
「先輩……。」
「佐川もそれは悲しいだろう?」
枝豆の皮を弄びながらこちらを見る。
思い出かぁ。
「……。正直、子供に戻れるならやむなし、ですかね?」
「ははっ、正直なやつめ。」
笑いながら篠崎さんは枝豆の皮を捨てた。
「ともかくだ。今回の責任は私と松井さんでとる。失敗したっていいんだ。そこから次に活かせばいい。」
「いやでも活かせる気がしないんですよ……。」
失敗続きだし。
一向に収束する気配なし。
「大丈夫。私はな、実はお前を買ってるんだ。打たれ弱いけど責任感も根性もあるしな。」
「……買い被りすぎですよ。」
重くのしかかる期待はつらい。
応えなきゃいけないと思うから。
……でも、この人に認められていると思うと不思議と悪い気分じゃない。
「明日休みだろ?今夜は飲めるだけ飲んで記憶も飛ばそう。」
「……そうですね。飲みます!飲んでなきゃやってらんないですからね!」
「そうだそうだ!」
ケラケラ笑いながら篠崎さんはビールを頼む。
そこで唐突に思い出した。
「篠崎さんはタイムトラベルしたくないんですか?なんかさっき理由がどうとかって。」
「ああ、その話か。タイムトラベルに賛同できる動機みたいなものだよ。もしタイムトラベルが許されるとしたら……。」
好きな人の命を救うくらいかな。
*
ハッとして時計を見る。
PCの画面下に表示された時刻は21:00を回るところだった。
……物思いに耽りすぎた。
少し伸びをして隣の席をもう一度見る。
しばらく人が座っていないその席には、めんだこのぬいぐるみが鎮座していた。
少しは先輩に近づけてるかな。
めんだこは、何も答えなかった。