子どものころ、8月31日にさっぱりとした気持ちで迎えることはなかった。大抵、宿題の残りと格闘していた。前倒しでがんばるというよりは、追い込まれてやるタイプだった。
夏休みに入ってすぐは、長い休みを思ってワクワクした。でもお盆を過ぎれば、転がるように時間が過ぎて、あっという間に最終日を迎える。
31日は、朝から休みの終わりを思って、ふと寂しくなる。でも、長く浸る間もなく、残った宿題に取り組んで、昼過ぎまでは焦っている。
夕方に近づくにつれ、少しの諦めと妥協が頭の中に浮かびはじめる。あー、もう終わってしまう。仕方がない。勝手に諦め感が優勢となって、明日から始まる日々に思いをはせる。
8月31日の午後5時はそんな時間だった。
もう関係のない今でも、そのころになるとなんとなく胸がざわざわする。
「8月31日、午後5時」
ひとりでしていた作業を、ふたりですることになった。ひとりでは見えなかったことが分かって、新たな発見があった。楽しみも悲しみも色々なことが分かち合える。まるで白黒からカラーの世界になったように彩り豊かになった。
でも、今まで見えなかったものも見えてきた。お互いの意見が違う時のちょっとした煩わしさも増えた。それでもふたりでいるのは頼もしい。衝突があっても、それができる相手がいるということ自体が、うれしい。
「ふたり」
少し落ち込んでいた。親しい人ともケンカして、すっかり悲しくなった。そこへ、みんなが笑顔で現れた。知っているような、知らないような人たち。「ごめんね。みんな、うそだよ」。あー、そうだったのか。びっくりするくらい涙が出てきた。サプライズ的なことも苦手なのに、すごくうれしい。涙が止まらない。
はっと目が覚めた。夢か。全部夢だったのか。感情は今もそのままあるのに。あと、もう少し…。目をつぶってみても、もうあの世界には戻らない。でも、きっと心の奥底にある感情なのだ。自分が思ったより弱っていたのかと気づく。
夢で見た心の中の風景に教えられた。
「心の中の風景は」
夏の暑さにもめげず、道端で見かける夏草は、青々としてさわやかに見える。どんなに日差しが照り付けても、負けない。熱を帯びたアスファルトの隙間や、街路樹の横で、たくましく伸びている。すっすっと黄緑に光る葉、かわいい小さな花が咲いていることもある。
雨の後は、より一層瑞々しい。涼やかで、その群生のそばを通りたくなる。でも、よく半袖の腕などが、後にポツっと赤く腫れてくる。あー、やられた! そのさわやかさは、蚊とセットだった。すっかり忘れて、ついやってしまうのだ。
「夏草」
もっともっとと自分にムチを打って、まだ足りない、ここも足りないと思う。自分にないことばかりに目を向けていた。
苦手なことをがんばるのは、なかなかしんどい。それを乗り越えたかった。
自分の得意なことは、たとえほめられるようなことがあっても、そうかな? となかなか受け入れられない。でも、それをする時は、とても自然で、あっという間に時間が過ぎていたりする。そうか。もっと努力したいものは、できないことではなく、自分の中にあるものだった。
「ここにある」