人は知ること、真似ることで覚えていく。それは生きること全てに共通する、学びの原型のように思う。
穏やかな日差しが町並みをやわらかく染めている風景を、コーヒーショップの大きな窓越しに眺めた。休日の日向には溢れんばかりの睦まじい姿が満ちていた。友達、恋人、家族。肩書きは様々違えど、感情がもたらす行動選択肢には極端な差は無いようだった。好きな相手には優しく、苦手な相手には程良く。
平和だ、とどこか他人事のように眺める。いや、実際他人事だ。この平穏と親睦の空気にはどうにもなじめない。
とは言えある程度なじまないことには。さもなくば生きていくための攻略難易度が跳ね上がってしまう。だから仕方なく、ぬるくなったコーヒーを片手に行き交う人の振る舞いや何かを盗み見て、情報として自分の中に蓄積する。効率が良いとは言えないが、楽でいてそれなりの成果が見込めるだけじゅうぶんだ。
愛というのは時に難儀なもので、とかく正しいように見せかけて問答無用で人を縛ってしまうことがある。
可愛らしくて、したたか。そんな言葉が似合う母親に溺愛されて育った。朝食は起きてからのオーダー式。着替えは気温や湿度を考慮し、色味や柄のバランスなんかも悩みなが選んでくれた。おやつはいつも手作りで、小学校高学年になるまでは、一人で外出することもなくただひたすら、母の庇護下で育った。
その結果、食は気分に依存し、服のコーディネートはさっぱり分からず、単独では上手く他者とコミュニケーションが取れない自分が出来上がった。
母の庇護という名の監視から解き放たれて唯一幸福を感じたのは、家でも市販のお菓子が食べられるようになったことだった。
〉蝶よ花よ
音の無い夜。全てが世界から消えてしまったかのような静寂。自然豊かな場所に立つこの家はとても広い。普段ならもう少し人の気配や物音が控えめに空気から伝うのに、今日はそれが無い。計画が上手く運んでいることを肌で感じながら、呼吸を整える。息を吐く音が鮮明に聞こえた。
目の前の豪奢な扉を押し開くと、天蓋の掛かったベッドで寝息を立てているのが見えた。
紅茶色の髪も瞳も、暗さで閉ざされていても脳裏にはっきりと浮かぶ。鮮やかに思い出せる。もうずっと長いこと見てきたから。
だからといって、ためらうことは許されない。そもそもそんな感情も感傷もないけど。眠りの深さを確かめてから、指示通りに薬を投与する。
「おやすみ、さよなら」
届くはずのない挨拶をして、額に口付ける。愛着があるわけじゃなく、ただの儀式。いつもと同じ繰り返し。せめてあまり苦しまないようにと、それだけを願って。
部屋を出て少し待つ。ほんの数分、あの子がのたうち回る音がして、止んで。先程出てきたばかりの扉を数センチ開けて中を覗く。床に倒れた人影がもう動きそうもないことを確かめて近付いた。
「呼吸、脈、瞳孔」
確認漏れのないように呟きながらそれぞれを確かめる。骸になったそれをベッドの上に戻して今度こそ部屋を出た。窓の外に、月が見えた。
「お疲れ、おかえり」
屋敷の門を抜けると、一台の車と見知った顔がいつも通り待っていた。
「ただいま、終わったよ」
後部座席に乗り込んで、深く息を吐く。
「久し振りだね。今回少し長かったから」
僕がシートベルトをかけたのをミラー越しに確認すると、車はゆるやかに発進した。
「そうだね。二年振りのただいまだ」
僕と君が出会った日。それよりももっとずっと前から、この結末は決まっていた。
〉最初から決まってた
真夜中、意図的な静寂。沈黙とは偶然の産物ではなく、作り出すものらしい。
紙に水を含ませ、絵の具を垂らす。じわりと滲んで広がる。さながら宇宙のようだと、興味もない空の果てに思いを馳せる振りをする。
思考はこの紙一枚に満たされている。
ひたひたと、少しずつ。一つの絵の具が滲みながら二つの色彩を織り成す。
分離色。一つに二つの不思議な世界。
絵を描くことは得意ではない。でも色で遊ぶのは好きだ。
人の気配も物音もない静寂の中で、誰にも邪魔されずに色と遊ぶ。誰の意見も音も聞きたくない。一人で、この色彩の魔法に溺れていたい。
〉だから、一人でいたい。
クサカベのハルモニアを買いに行きたい。
土地柄、夏は特に騒がしい。気候のように陽気な人が多く、不思議な言葉の音階がどこか異国情緒を思わせる、あたたかい場所。
笑顔と活気に満ちたこの場所がぼくは好きだ。
散歩をしながら、すれ違う守り神を数えていく。
「今年はあと何回台風来るのかなぁ」
浜辺に立ち、遠くの海を眺める。ぼくはこの海の向こうから来た。もう、この海を越える予定はない。
〉どんなに嵐が来ようとも
開け放たれた窓から、さらさらと風が入る。朝の空気が少しずつ部屋に満ちていくのを感じながら、窓辺に立った。胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出し、それを繰り返す。呼吸を確かめるように。
「おはよう」
声がして振り返ると、見慣れた人影がひとつ。
「いい朝だね」
目が合うと、彼はにっこりと微笑む。
「ご機嫌いかが?お姫様」
聞き飽きたいつもの挨拶。返事の代わりにため息をひとつ。お姫様、なんて呼び方は変だからやめてと何回伝えてもきかない。この男は本当に、人の話を聞かない。
「今日は素敵なお知らせがあるんだ」
まるで吉報を告げるような、軽やかな声。驚きと不安が押し寄せ、思わず睨みつけた。
「そんな顔しないでよ。やっと見つけたんだ」
苦労したよ、と言いながら男は、部屋の片隅にある空の鳥かごを撫で、どこか遠くを見つめる。
「君がまたステージに立てるんだよ、僕の歌姫」
テーブルの上のペンを掴み開かれたまま置かれていたノートに殴り書いた。
“そんなものいらない”
“私は歌わない”
「君がなんて書くかなんて分かってる」
言いながら男は、美しい装飾の施された鳥かごだけを見つめている。
「でもいらないなんて嘘。だってあれは君のものなんだから」
その瞳に私は映らない。いつだって。
「歌姫の声でさえずるカナリヤもとても素敵だけど、やっぱり君が歌うのが、僕は一番好きなんだ」
唐突にグッと距離を詰められ、頬を撫でられる。彼の瞳の中の自分と目が合う。彼が本当に見つめているのは、一体誰なんだろう。
「明日にはここに運ばれて来るはずだから。楽しみにしていて」
言いたいことだけ言って、いつも通り満足そうに帰っていく。
私は愕然とした。
ついに見つけられてしまった。私の声を宿したカナリヤ。あの子がどこか遠くへ飛び立つか、もしくは死んでしまうか。そうすれば私の声は永遠に失われる。そのはずだった。
最初は風邪だと言い張っていたが、いつまで経っても声が発せない私を訝しんで、金に物を言わせて調べ上げ、真実を知ったあの男は、まず最初に協力者だった魔道士に、謂れなき罪を着せて処刑した。歌姫の声を奪った罪人として。
私が協力を頼んだのだと何度説明して信じてはくれなかった。大丈夫、僕は分かっているよと言いながら、私の言葉になど全く興味も関心も持っていなかった。
気付けば私は奴の屋敷に囲われ、自由を奪われた。
世間では悲劇の歌姫のために私財をなげうって奔走する聖者だとされているが、そんな事実はどこにもない。
何が彼をそうさせるのかはわからない。けれど彼は歌姫という存在に強く固執している。最初はあたたかい言葉や贈り物をくれて、優しく紳士的振る舞う彼を見て、私を心から愛しているのだと思った。だけどそばにいればいるほど違和感を感じた。
彼は私を見つめていても、私自身を見てはいない。
怖くなって逃げようとしたけど彼の執着からは逃れられなくて、彼が歌姫に固執するなら歌えなくなれば良いのだと、魔道士の協力者を得て声を捨てた。
それなのに、カナリヤが帰ってくるなんて。もう、私にはどうしていいのかわからない。
部屋の真ん中に置かれた鳥かご。空っぽの鳥かご。触れるとひんやりしていた。それは、窓の外側に掛けられた鉄格子の温度と似ていた。
あのカナリヤも、私も。もう自分の意思ではどこに行くことも叶わない。
〉鳥かご