上がりも下がりもしない微熱が、思考にもやをかける。フィルターのようだと思った。そういえば次の外出は、この前買ったソフトフィルターが合うかもしれない。
行けるかも分からない外出の予定を頭の中で組み立てる。そんなことをしながら、不意にため息がこぼれた。
ツイッターを眺めて、他の人の美しい一枚に目を奪われて、自分もこんな一瞬を切り取りたいと夢を見る。それと同時に、自分なんかにはきっと無理だと、やる前から諦めてしまう。
昔からそうだ。諦めが早い。自分には他の人のようには出来ないと思いながら生きてきた。そういう風に育てられた。それでも、諦めても諦めても繰り返し希望を抱いてしまうくらい好きで、手放せないものがある。それは幸せなことだと思う。もちろん苦しいと思う日もあるけど。
紫陽花が朽ちて、タチアオイが咲いて。次は何だ。
レンズとフィルター、それから予備バッテリー。持っていくものを頭の中で並べる。
誰かのように出来なくとも、自分の写真も案外好きだ。お気に入りの景色を切り取っているから、それもそうなのかもしれないけど。
劣等感があってもいい。もう誰かの正しさに縛られる必要はないから、好きなだけ自分のやりたいことをしたい。もちろんそのための努力もする。
だからいつか、もう少しだけ胸を張って、自分に自信を持っていられる、そんな日が来たらいいと思う。どんなに時間がかかったとしても。
〉花咲いて
帰らぬ日を思うのか、まだ見ぬ日を求めるのか。
どちらにしても今を生きることを放棄する思考に他ならない。それは確実に未来を濁らせ、過去を無駄にする。
過去の積み重ねと今ある意思。自分にしか未来は作れないし、変えられないからこそ過去を悔いて学び糧にする。
選択し、行動することの重さは、変えがきかないからこそ。
不老不死も、タイムマシンも、本当に存在しいから良く見える。実現したらきっと、多くの場合は悲劇の始まりになる。
と、私は思う。夢を見るのは楽しいけどね。
〉もしもタイムマシンがあったなら
今という時間の尊さがすり減ってしまう
夏の香りがする。テーブルの上で、茹でたての枝豆ととうもろこしが湯気を上げる。
「まだ熱いからね」
そう言って笑う顔は、随分と皺が増えた気がする。
「すごい量」
居間の大きなテーブルを埋め尽くす食べ物。明らかに息子一人を出迎えるには多すぎる。
「大丈夫、食べれる分だけ食べたらいい」
取皿と、いつまでも実家にある俺の箸。捨てていい、割り箸でも使うと言ってもそうはいかんと突っぱねられる。両親の箸を買い替える時に、一緒に新しくなっていたりもする。
「ほれ、飲むぞ」
瓶ビールと冷えたグラスを抱えた父が戻ってくる。足が随分細くなったように見えた。
「コロナが、落ち着いたら――」
注いでもらったビールに口をつける。言おうか、言うまいか。どう思われるだろうか。
「落ち着くかねぇ」と母。
「いつまでもこのままってこともないだろ」と父。
グラスを傾けると、ずらりとかけてある写真と目が合う。何枚も並ぶ中で、唯一知ってるじーちゃんの写真。小さい頃はよく遊んでもらった。
「コロナが落ち着いたら、温泉にでも連れてくから」
「どしたの突然」
「明日は槍でも降るか?」
「まぁ、たまにはね」
〉今一番欲しいもの
名前は、親から子への最初のギフトなのだと言う。であれば僕は、生まれながら呪われたようだと、自分の名前を見る度に思う。
不実と不安の代名詞。それがいつまでもついて回る。大嫌いだ。
「ねぇ、そっち晴れてる?」
「うん」
電話越しに、君の声。こもった音で嫌いだという君の声が、僕は何よりも優しく聞こえて好きだ。口下手で相変わらず相槌ばかりの僕に、君はいつも優しく語り掛ける。
「月見える?」
「え。あぁ、あった」
促されるように仰いだ空から、ひとつの光を探し出す。それはいつもと変わらず、ただ静かに、不安定な姿を晒していた。
「もう少しで満月かな」
「欠け始めたとこかも」
「月が見えると、君を思い出す」
「そう」
「空にいつもあるから、離れててもいつも一緒みたい」
「そうかな」
「でもやっぱり会いたいね」
「うん」
誰かと時間を共有することも、大切に思うことも、全部君が教えてくれた。君を見ていると、どんどん僕の世界は新しくなる。
大嫌いな名前も、ほんの少し好きになれそうで、どこか少し落ち着かない気持ちになった。
〉空を見上げて心に浮かんだこと
鍵盤に指を添えると、少しの冷たさが指先に伝った。ひと呼吸置いてから、ゆっくりと沈める。音の鳴らないくらいゆっくりと。親指から人差し指、中指、薬指と続いて、小指まで辿り着く。一音も響きはしなかった。ただ鍵盤が沈んだだけ。
音の無いメロディ。何たる矛盾か。鳴らない音。声にならない言葉のように、誰にも知られず気付かれず。たしかにそこにあるのに、まるでどこにもないような、寂しさ、虚しさ。
見つめる鍵盤に、ため息が落ちる。
見つめるほどに、よく分かる。ずっと見ているのだから、それこそ嫌というほどに。あなたが誰を見つめているのか。その思いがどれほど一途で真剣なものか。
分かるからこそ、何を言葉にするつもりにもなれない。これは弱さだろうか。逃げだろうか。
募るほど苦しく、重く。もう耐えられそうもない。
ピアノの蓋を閉じて、傍らにあるキャリーケースを引き寄せる。パスポートに挟んだチケットを確認して、大切にしまい込んだ。
最後まで何も言えなかった恋に、ピリオドを打とう。
〉終わりにしよう