手のひらから砂がこぼれ落ちるように。そんなありふれた例えが何よりしっくりくる。君との思い出を語るなら、きっと砂時計が必要だ。思い出が多すぎて、どこまでも話し続けてしまうから。
「痛みに慣れてしまわないで」
君がどんなつもりで言ったのかは知らない。でもぼくの忘れられない言葉。メールの片隅のほんの一言が、ずっと胸に残ってる。
君もぼくも、たぶん人より少し変わっていて。ぼくはあの頃全部が欲しくて、でも全部が嫌いだった。心なんて痛いのが当たり前で、悲しくても泣けなくて、助けてなんて言えなかった。それでも虚勢を張って笑ってみせた。とてもか弱い子供だった。
そんなぼくに、君は優しかったし、明るくいつもいろんなことを話して聞かせた。
それらしい言葉を並べるのは得意でも、本当の意味で人と関わることが苦手なぼくは、君のそのおしゃべりを聞くのが好きだった。
君はいつも僕を肯定して、時々蜂蜜みたいな言葉をかけた。拭いきれずに残るようで、でも嫌いになれなかった。
だけど時間はいろんなものを変えていった。君とぼくの間にあったか細い糸はとても頼りなかった。
少しずつ行き交う言葉は減って、ついには絶えた。
もう過去は過去で。君も過去で。別に戻りたいわけでもなくて、でも時々思い出す。それだけのこと。
だけどそれなりに、大切な思い出。
〉友だちの思い出
神様だけが知っている、世界の秘密があるらしい。
木々に青葉、晴れた空には白い雲。風はそよぎ、花は揺れる。うららかな日差しで満ちる、絵に描いたような美しさのこの世界には、決して暴いてはいけない秘密がある。まことしやかに囁かれる噂話。ここのところみんなずっと、出どころの分からないそれを気にしている。
地域住民の戸籍や経歴を管理する、いわゆる住民課。ここが私の仕事場。今日も渡された書類にそって、登録情報の書き換えや抹消、新たな登録などを行う。
個人情報の管理はとても厳重で、住民課はみなワークスペースが個別に区切られ、遮音も万全だ。だから同じ部署にいても他の人が何をしているのか、さっぱり分からない。
ある日不思議なことを言う住民が来たと、受付を担当している同期から聞いた。なんでも、昨日までいた恋人の存在が忽然と消えたのだと。
失踪なら別にそこまで珍しいか?と思ったが、この話には続きがあった。
恋人がいないのはもちろんのこと、借りられていた部屋の中のもの、職場や友人、どこを探しても、誰に聞いても、その人がいた形跡や思い出ごと消えてしまった、と。
「それって、最初からいなかったのでは」
「こっちもみんなそんな反応」
「だよね」
人が消えるなんて普通に考えたらあり得ない。存在や、痕跡や記憶。まるごと消えてしまうなんて。まるで作り話だ。
「結局その人、家族が迎えに来て、病院に連れて行ってみますって」
そんな話をして、同期とはいつもの駅で別れた。
広々とした部屋に、ふたつの人影。
「騒ぎがあったって?」
椅子に腰掛けゆったりとした口調で、けれど確かに咎めるように放たれる言葉。
「申し訳ありません」
そばに控える黒服の男は静かに頭を垂れる。
「ダメだよ、関わりのある個体はきちんと洗い出さないと。で、その子は?」
くるりと椅子を回転させて黒服を振り返る、中性的な顔立ちは優しげで、けれどその笑みにはどことなく圧がある。
「家族が精神科を受診させたので、そのまま一時入院とし、その間に他の者と同じように記憶の処理を致します」
黒服は先程から下げたままの頭を、より深く沈める。
「大切に扱ってよ。その子も大事な代替品(レプリカ)なんだから」
「仰せのままに」
この世界には決して暴いてはいけない秘密がある。
「ねぇ、知ってる?」
「この世界は全部ニセモノで出来てるんだって」
真偽の定かでない噂だけは、水のようにどこまでも流れていく。
〉神様だけが知っている 22.7.4
目の前の窓をすり抜けて、あたたかさを携えたきらめきが注ぐ。それは、ガラスも空気もプラスチックのコップも一瞬で通り越して、テーブルの上に散らばる。
光の粒が書きかけのノートをたどって私の手に触れる。
朝の決まったルーティンをこなす私に、気紛れなおひさまからのギフト。
〉日差し 22.7.2
長い通路。気紛れな間隔で並ぶ、大きさも形も様々な窓。
ここは、マドノムコウミュージアム。ぼくはここが好きだ。何を考えるでなくぼんやりと、この長い通路を片側ずつを眺めて歩く時間が好きだ。ゆったりと、何に急かされるでもなく。じっくりと、何をためされるでもなく。好きに歩いて、好きに思う。考え事が好きな性質と、とても相性のいい場所だ。
「雨の日の図書館の窓」
タイトルのプレートには、その窓のコンセプトが記してある。窓の近くには椅子がある。弧を描くように並ぶ五つの椅子。同じデザイン、同じ大きさ。見てほしいのは窓だから、こっちは統一しているらしい。窓の向こうを眺める時は、景色を塞がないように、椅子に座るのがここのルール。
僕は窓の一番近くの椅子が好きだ。窓辺に寄り添うように座って、斜めに外の景色を眺める。正面の椅子に誰かが座ると、目が合いそうで少し気まずいのが難点。
窓の真正面に置かれた椅子にも時々座る。あっちはまるで窓が額縁で、外の景色が絵画か映画みたい。
一つ一つの窓辺を味わうと、一日いても足りないくらい。朝のまばゆさも、昼の鮮やかさも、夕暮れの儚さも、夜の味わいも。そのどれもが筆舌に尽くしがたい。
言葉にならない思いが体中を巡って、心に募っていく。それを大切に閉じ込めるように、ぼくはゆっくりと目を閉じる。
〉窓越しに見えるのは
「これは当たり前じゃない。慣れてはいけませんよ」
転職後、初めて単独で仕事を終えた時、柿原さんからかけられた言葉。それはそうだ。人のつながりを絶つなんて真似、当たり前なわけがない。
「純くん、あれ見えますか?あの赤いの」
今回の仕事は先輩のサポート役。ターゲットを待つ徘徊の最中。隣りを歩くこずえさんが視線で示す、その先。一組の男女の姿があった。目を凝らすと、こずえさんが言う「赤いの」は簡単に見つかった。
あたりに人気はないが、万が一にも周囲に怪しまれることのないよう僕らは、ひそめた声を交わし合う。
「わ、あれってもしかして、有名な…?」
「そうそう、それです」
まじまじと見つめるわけにもいかないから、見たのはほんの数秒。それでもふつふつと胸に驚きと感動の入り混じった熱が湧く。
「あれはね、間違っても切っちゃだめですよ」
「ですよね、就業規則にも載ってました」
「試したことはないので、どうなるのかは本社も把握していないんですけど、やっぱり倫理的に」
さすがにあれを切るのは必要性も感じられないし、何より得も言われぬ罪悪感がすごそうだな、と思った。
「ていうか、本当に運命ってあるんですか?」
「うーん……難しいことを聞きますね」
「そもそもあれ、全員に出るわけじゃないんですよね?」
「はい。見る機会はそう多くないですね」
本当に運命があるのなら、あのつながりを切っても二人は結ばれるのかもしれない。でももし、切ったことであの人たちのつながりが失われてしまったら、運命なんてないってことだろうか。それとも僕らは、運命にさえ干渉してしまえるのだろうか。
神にさえ、人の定めの全てはわからないものらしい。だからこそ、いつか出会う大切な人の手を離さずにいられるように、胸を張ってそばにいられるように、今の自分に出来ることをしよう。そんな日々を積み上げよう。
「さ、素敵なものをみたところで、そろそろ時間ですね」
「はい、行きましょう」
人のまばらな道を行く。見えない自分のつながりが、何に届くのか、想像しながら。
〉赤い糸
人のつながりが見えて
干渉するのがお仕事の人たちの話。
昔書いてたオリジナル。