水上

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6/23/2022, 1:27:11 PM

「立志の年を前に、自らを振り返り目標を立てよう」

上手いのか下手なのか分からない担任の文字が黒板に並んでいる。配られたプリントには時期ごとに自らの特徴やがんばったことを書き込むための枠がいくつもある。

――正直、立志式とかどーでもいい。

思わずため息をつきそうになる。

幼稚園ではいつも、先生がみんなにひとつの本を読んでくれて、おともだちと同じ園服を来て、全員で同じ歌をうたう。教えられた同じ言葉で挨拶をして、みんなと楽しく過ごした。

小学校では授業の中で人の気持ちを考え、共感し、同じ数字と向き合い、同じ答えを導き出す。ひとつの文章から何を感じたかを書けという問では、先生に気に入られないとバツがついた。

振り返るほどおぞましい。

いつからだろう。
同じでいることが当たり前になったのは。

どうしてだろう。
違うということに不安を覚えるのは。

どこかで誰かが「当たり前のことなんて一つもない」と強く叫んでも、その言葉にネットでどれほどの人が同調しても、何年も何年も掛けて出来上がってしまったこの国の当たり前は消えてくれない。

同一化を強いる社会の恐ろしさ、滑稽さ。そこから逃れるために、今出来ることはなんだろう。

子供の頃は疑いもしなかった、たくさんのこと。

大人とも子供ともつかない宙ぶらりんな僕たちは、どうやって立ち向かえるんだろう。

――どうせなら、

ただ目標を立てるよりも、河野太郎あたりとこの国の未来の話をしてみたい。リモートでいいから。15分でいいから。

なんて、プリントに書き込んだら絶対怒られるんだろう。


〉子供の頃は 22.6.23

河野氏と若い世代のディベート、面白そうな気がするのは私だけでしょうか。

6/23/2022, 2:20:17 AM

日々の常ごと。当たり前のようにそこにあって、まるでそれらには特別な価値がさほど無いかのように錯覚させる。
慣れというものに潜む恐ろしさを思った。

ため息に似た息を吐き、シキは空を見る。どの世代を歩いても、空だけは地上ほど代わり映えない。

そこにあった景色。ここにいた人。時間の移ろいの中で、うたかたのようにかえっていく。どこかへ。

この古ぼけたあばら家にも、かつては人が住み、笑顔と笑い声に満ちる時間があったことを、彼女は知っている。

大切な時間が過去となり、決して帰らないことを知る。失われたものに、次などないのだ。

腰に下げた小瓶も満ちた。彼女はまた次の場所へ行かねばならない。それが彼女が色彩屋である所以だから。

花売りの娘にもらった花弁の色をつめた小瓶を、色彩屋はためらいなく傾ける。床は瞬く間に色とりどりの花で埋め尽くされた。

弔いにしては賑やかな色と空気が満ちて、シキはふっと目を伏せた。懐かしい面影を思って、過去の自分を思って。



〉日常 

いつぞや書いていたオリジナル。の、断片。

その歩みは時を跨ぎ、世の中の色だけを頼りに人と繋がる無色彩の存在。誰もその顔は思い出せない。

色彩屋という色を扱う女性のお話。

6/21/2022, 1:21:29 PM

好きな色、というのは憧れのあらわれなのだといつか聞いたことがある。その人がまわりからどんな風に見られたいのか、というのはその色が持たれがちなイメージととても近いのだと。

わかりやすいところで言えば、青が好きな人は冷静な人と思われたいとか、白が好きな人は無垢な印象を持たれたい、とか。

思い返せば私の好きな色は、歳を重ねるごと少しずつ変わっていった。青からオレンジ、そして灰、その次は黄緑。これは幼少期から成人するまでの変化。この変化はたしかに、なりたい自分像の変化に伴ってのことにも思える。

成人してから干支一周分の時間が過ぎた今、私に好きな色はない。考えてみても、これといってピンポイントでこの色!というものが見つけられなくなった。

きれいなものをみると良いなぁと思うし、淡い色も、深い色も、それぞれの魅力がある。だけど私にとっての特別にはなりえない。

誰からどう思われたいのでもなく、何かになりたいわけでもなく。今はただ、自分の思うままに自分らしく。そんな生き方がしたい。

〉好きな色 22.6.21

まぁでも、強いて言うなら推し色は白かな。むしろオーロラ?好きな色とは少し違うけど。

6/20/2022, 1:36:11 PM

「さみしいですか」

息子が会いに来ない、一年以上顔を見てない。そんなことをぼやく背中にたずねた。

別に、と虚勢を張るのだろうと勝手に思っていた私の耳に届いたのは「そりゃ寂しいよ。さみしい」と、どこか力無い声だった。

そうか、さみしいのか。私達がいるじゃないですか、と冗談めかしても、きっとダメなやつだ。これはそんな空気じゃない。それに、どうやったって職員と家族は違うのだ。

「長生きはしたくねぇなぁ、こんな状態で」

と、自身につながる酸素のチューブを指で弄んでいたのは春先のことだったか。よく晴れたうららかな昼下がり。

私の親とちょうど一回り違う。とはいえ老人施設にいるには若い、よく口の回るにぎやかな人。

それから少し経って、何度か体調を崩した。呼吸器の難があることから、些細な異変でもよく入院になる。

「おかえりなさい!」

待ってた!となるべくにこやかに迎える。けれど返ってきたのは無理やり作った笑顔と、思いもよらない言葉だった。

「ガンかもしれないから、検査を受けろとさ」
「えぇ、受けたんですか?」
「嫌だよ。受けたくないね」
「どうして」
「だって怖いじゃないか。もしガンだったら」

そこまで言って、プツリと言葉を切った。

私は不思議だった。長生きしたくないと言っていた人が、ガンは恐ろしいのかと。

検査を受けなければガンかどうかわからない。けれど本人が知っていようがいまいが、ガンならば進行する。そして最悪の場合死ぬだろう。

検査を受ければ、ガンかどうかはっきりする。違うなら安心するし、そうなら治療ができるかもしれない。

私ならすぐ検査を受けたいけど。なんて、他人事だからか冷静に考えていた。

当事者はそうもいかないのかもしれない。


夏。とても暑い日が続く、見事な猛暑だった。毎日汗だくになって働いた。あの人は、度重なる説得の甲斐あってか、ついに検査を受けた。

ガンの余命宣告は、告げられる時間が、本当に残されている時間と合致する、という話をよく耳にしていた。

医者が五年と言えば五年。三年と言えば三年。大体の場合は、驚くほど正確らしい。

「ステージ4、余命一年だと」

口元だけ、ぎこちなく笑っていた。

「死にたくねぇなぁ」


それが、一年前の夏のこと。


私は新聞を滅多にみない。もちろん訃報欄も。あの人が今生きているのか、死んでしまったのか、施設を離れた今となっては、私に知る術はない。

だけど知る必要はない。



人が生きるということの、答え。その小さな欠片を、確かにみた気がしたあの日の記憶は、あのぎこちない笑顔と共に、私の心に刻まれている。



〉あなたがいたから 6.20

あなたがいたから、生きるということが少し分かった気がした。その心の移ろいこそが、人が人として生きるということなのかも知れない、と。

6/19/2022, 3:33:27 PM

人混みは苦手。流れを見て歩かないと、上手く進めない。手を引いてくれる人がいるうちは、そんなこと全然考えなくてよかったのに。

友達に見られたら恥ずかしいからって、手をつなぐのをやめたのはいつだったっけ。

「うわ、ほんとに降ってる」

駅の外は雨だった。出掛けにママが今日は降りそうだからと言うので信じてみたけど、なかなか降らないから持って出たことを後悔し始めていたところだった。やっぱり信じて良かった。さすがママ。

傘を開こうと留め具を外すと、真横に人が並ぶ。何だか妙に距離感近いなぁ、と思ってちらりと視線をやると、ばっちり目が合った。

「パパ!」
「助かった〜、パパ傘持ってないんだよ」

なんて言いながら嬉しそうな顔。

「ママに言われなかった?」
「朝は晴れてたし、降らないと思って」
「あーあ。ママを信じればよかったのに」
「そうだな〜。でもほら、可愛い娘がちゃんとママを信じて傘持ってたから大丈夫!」

そう言って何故か誇らしそうに親指を立てる。

「あ、でも……学校のお友達に見られたら嫌?」

ほんの少ししゅんとして見えるその姿は、なんだか私より子供みたいに見えた。

「さすがにパパだけ濡れて帰れとは言わないよ。今日は父の日だし、特別ね」
「良かった〜!父の日最高!」

何年振りかに肩を並べて歩く帰り道。懐かしくてくすぐったい。たまにはこんな日も悪くないかな。


〉相合傘 22.6.19

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