試験の日に見た夢は、高い空から落ちる夢。真っ青な空と、あちこちに浮かぶ雲。その中をどこまでも落ちていく。不思議と恐怖は無かった。
受験戦争、なんて言葉がしっくり来てしまうくらい、ここ数年はピリピリしていた。母は生真面目で一生懸命な人だから、私のために痛々しいくらい必死になってくれた。
「お母さん、自分が行きたかったあの学校にあなたが受験を決めてくれたこと、本当に嬉しいの。あなたならきっと素敵な娘役になれるわ」
ことあるごとにそう言って、私を励ましてくれた。日々の振る舞いや言葉遣い、食事の管理も、常に母は気を配り、一切妥協がなかった。
「大丈夫、あなたならできる」
精一杯の笑顔を貼り付けた試験日を過ぎてからは、私よりも結果を気にして落ち着かなかった。気にしたところで結果は変わらないのに。
私にはやりたいことがある。受験勉強の最中に芽生えた感情が、あの過酷な戦禍においても進み続けられる私でいさせてくれた。それを叶えるためにも、絶対に志望校に合格したい。
そしてついに、私は奇跡を手にした。合格通知を受け取った時は、嬉しくてどうにかなりそうだった。あぁ、これで私は私のやりたいことが出来るんだ、って。目の前に広がる晴れ晴れとした空は、夢の中より美しく見えた。
部屋には母に宛てた手紙を置いてきた。面と向かって上手く伝えられなかった思いを、改めて文字にして伝えたくて。
――ねぇ、お母さん。
「聞きました?あそこのお嬢さん、自殺だって」
「どうしてかしらねぇ。志望校に合格したって、お母さんすごく喜んでらしたのに」
――私の人生は、私のものだよ。
〉落下 22.6.18
目を閉じて空想する。理想の未来。
来年の10月に始まる予定の馬鹿げた法案が流れて、安心して仕事に取り組める日々。相変わらず、同じ学び舎の門をくぐった同士とはオンラインのコミュニティで相談や雑談をする。パソコンに向かって文字を並べ、レイアウトしていく。そんな繰り返しだ。当たり前のような、代わり映えのない日々。でも僕はそこに満ちる幸せを知っている。
未来を希望で満たそう。
生きているのだから。
生きていくのだから。
〉未来 22.6.17
インボイス制度はほんとに要らない。
敢えて思い返そうとはしたくない。
前を見て進むうちに
振り返らなくても、過去はついてくる。
それで充分。
〉1年前 22.6.16
不在がちな両親を持って、小学生の頃から気付けば家に一人のことが多かった。あの頃は、妙に響いて聞こえる時計の秒針の音がすごく苦手だった。何かに急かされてるような、圧というか、とにかく妙に緊張したのを覚えている。それが嫌で、両親に頼んでリビングの掛け時計を買い替えてもらった。この最新モデルがとにかくすごいんだって店員さんは言っていたけど、僕にとって大事なのはオシャレさでも不可思議なギミックでもなくて、静かであること。それだけだった。最新の割りに値段も安いらしく、両親はさして悩むことなくその時計を購入した。
月曜日。カチカチとせわしない音が消えて、今日からは少し平和に過ごせる。そう思っていつもより上機嫌で帰宅した。手を洗いながら、宿題が終わったら何をしようか考える。戸棚の中から今日のおやつを選んで、テーブルの上にお茶と宿題も並べた。さて、と宿題のプリントに向き合う。名前を書いて問題を読んでいると、どこからかチクタクと音が聞こえた気がした。思わず新しい掛け時計を見る。静音もバッチリと店員さんは言い切っていたけど結構安かったみたいだし、もしかして不良品?座っていた椅子を掛け時計の真下に引きずりながら、そんなことを思っていた。椅子の上に立って耳をそばだてる。何も聞こえない。こころなしか秒針の音が少し遠退いた気さえする。
「じゃあどこだ?」
一部屋に時計が一つとは限らない。他にもあるのかもしれない。僕は注意深く辺りを見渡しながらリビングをぐるりと一周することにした。なるべく音を立てないように、そーっと歩く。すると、ある位置で秒針の音がはっきりと聞こえた。
「うそ、僕の部屋?」
音は確かにその扉の向こうから聞こえた。でもおかしい。僕の部屋にあるのは目覚まし時計一つだけ。それの秒針はなめらかに滑っていくタイプだからチクタクなんて音はしない。今までに一度もアラーム以外の音は聞いたことがない。不思議に思いながら、寝る時くらいしか入らない部屋の扉をそっと開く。昨日の夜に読みかけのまま、ページを開いて伏せていた本が机の上に置きっぱなしだった。やばい、ママに見つかったら怒られる。慌てて本を手に取り閉じようとしたところで気付く。
「本から聞こえる……?」
確信を抱くより先に、絵本の中のうさぎと目が合った。
「ほら、君も!早く行かないと遅刻しちゃう!」
絵本の中からオシャレなうさぎが僕に言う。
「どういうこと?」
聞き返すとふっと眩しさに包まれて思わず目を閉じる。
「あぁ、大変だ!このままじゃ遅刻してしまう!」
聞き慣れない声に目を開くと、目の前には絵本で見たうさぎの背中。二足歩行で(というよりは跳ねながら)慌てた様子で遠ざかって行く。呆気にとられているうちに、その後ろ姿は見えなくなった。
「……は?」
わけが分からない。たぶんさっき持ってた絵本の世界だ。あのうさぎはそのうちに水色のエプロンドレスを来た女の子に追いかけられるんだろう。
「いやいやいや、ゆめ?なに?」
混乱して頭を抱えそうになる。そこでやっと、自分が絵本を手に持っていることに気が付いた。何の気無しにページをめくると、辺りの景色も端から切り替わっていく。
「おぉ、変わった」
最早これ以上悩む気力も驚く体力もない。切り替わった場面では女の子が小さな扉をくぐる方法を探していた。
「わ!これ、食べてみたかったやつだ」
瓶入りのクッキーを見つけてテンションが上がる。食べてみたい気持ちでいっぱいだけど、不安の方が勝ったのでやめておいた。絵本のページをペラペラとめくる。その度シーンが切り替わる。慌てるトランプも、真っ赤な女王も、ペラペラと通り過ぎる。アニメーションを倍速再生してる気分。最後のページまで行って、パタンと閉じる。するとまた、目を開けていられないようなまぶしさに見舞われた。
「戻れますように」
小さく呟いて、必死な思いで祈った。
そんなことがあった日から三年が経ち、僕は無事に小学校を卒業した。あの不思議な現象について、親に話したことはない。上手く説明出来る気がしなくて。でも何となく、二人は知っているような気もする。
あれから色々検証して分かったのは、本に入れるのは一人で家にいる時だけってこと。本を開いて呼びかけられた時に返事を返すと行く、無言で閉じると行かない、という選択になること。入ってから出るには本を閉じる必要があること。ページは進めるけど、戻れないこと。何をどうしてもお話の大筋は変えられないこと。あとは、アリスの食べたクッキーは僕の好みではないこと。少し甘すぎた。
本はまるで、色んな世界を冒険したり、旅行したりするためのいわばチケットのようなものだとママは昔言っていた。それは確かにそうかもしれないけど、まさか本当の意味で旅をすることが出来るとは思わなかった。両親が良かれと思って買い揃えてくれた様々な本の背表紙を見つめ、僕は今日も旅の行き先に迷っている。
『好きな本を旅する』
〉好きな本 22.6.15
いつもより早く目が覚めた朝。
明日、雨天中止で。
学校行事であれば嬉しいお知らせだったであろう真夜中の通知を、何度も目でなぞる。体育祭も、遠足も、基本外で行われるようなものは、体力を要するから昔からあんまり好きじゃない。
サイドボードに置かれた卓上カレンダー。今日の日付けに貼られた浮かれたシールが、空気も読まずに笑ってる。窓の外は何とも言えない空模様。時計の針はいつもよりゆっくりに見えた。まるで、降り出すのを待ってるみたい。
雨天中止と連絡が来るあたり、この思いの行方はこの空以上に暗雲が立ち込めているのだろう。それでも私は残された可能性にかけて、精一杯準備をする。
〉あいまいな空 22.6.14