水上

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不在がちな両親を持って、小学生の頃から気付けば家に一人のことが多かった。あの頃は、妙に響いて聞こえる時計の秒針の音がすごく苦手だった。何かに急かされてるような、圧というか、とにかく妙に緊張したのを覚えている。それが嫌で、両親に頼んでリビングの掛け時計を買い替えてもらった。この最新モデルがとにかくすごいんだって店員さんは言っていたけど、僕にとって大事なのはオシャレさでも不可思議なギミックでもなくて、静かであること。それだけだった。最新の割りに値段も安いらしく、両親はさして悩むことなくその時計を購入した。

月曜日。カチカチとせわしない音が消えて、今日からは少し平和に過ごせる。そう思っていつもより上機嫌で帰宅した。手を洗いながら、宿題が終わったら何をしようか考える。戸棚の中から今日のおやつを選んで、テーブルの上にお茶と宿題も並べた。さて、と宿題のプリントに向き合う。名前を書いて問題を読んでいると、どこからかチクタクと音が聞こえた気がした。思わず新しい掛け時計を見る。静音もバッチリと店員さんは言い切っていたけど結構安かったみたいだし、もしかして不良品?座っていた椅子を掛け時計の真下に引きずりながら、そんなことを思っていた。椅子の上に立って耳をそばだてる。何も聞こえない。こころなしか秒針の音が少し遠退いた気さえする。
「じゃあどこだ?」
一部屋に時計が一つとは限らない。他にもあるのかもしれない。僕は注意深く辺りを見渡しながらリビングをぐるりと一周することにした。なるべく音を立てないように、そーっと歩く。すると、ある位置で秒針の音がはっきりと聞こえた。
「うそ、僕の部屋?」
音は確かにその扉の向こうから聞こえた。でもおかしい。僕の部屋にあるのは目覚まし時計一つだけ。それの秒針はなめらかに滑っていくタイプだからチクタクなんて音はしない。今までに一度もアラーム以外の音は聞いたことがない。不思議に思いながら、寝る時くらいしか入らない部屋の扉をそっと開く。昨日の夜に読みかけのまま、ページを開いて伏せていた本が机の上に置きっぱなしだった。やばい、ママに見つかったら怒られる。慌てて本を手に取り閉じようとしたところで気付く。
「本から聞こえる……?」
確信を抱くより先に、絵本の中のうさぎと目が合った。
「ほら、君も!早く行かないと遅刻しちゃう!」
絵本の中からオシャレなうさぎが僕に言う。
「どういうこと?」
聞き返すとふっと眩しさに包まれて思わず目を閉じる。
「あぁ、大変だ!このままじゃ遅刻してしまう!」
聞き慣れない声に目を開くと、目の前には絵本で見たうさぎの背中。二足歩行で(というよりは跳ねながら)慌てた様子で遠ざかって行く。呆気にとられているうちに、その後ろ姿は見えなくなった。
「……は?」
わけが分からない。たぶんさっき持ってた絵本の世界だ。あのうさぎはそのうちに水色のエプロンドレスを来た女の子に追いかけられるんだろう。
「いやいやいや、ゆめ?なに?」
混乱して頭を抱えそうになる。そこでやっと、自分が絵本を手に持っていることに気が付いた。何の気無しにページをめくると、辺りの景色も端から切り替わっていく。
「おぉ、変わった」
最早これ以上悩む気力も驚く体力もない。切り替わった場面では女の子が小さな扉をくぐる方法を探していた。
「わ!これ、食べてみたかったやつだ」
瓶入りのクッキーを見つけてテンションが上がる。食べてみたい気持ちでいっぱいだけど、不安の方が勝ったのでやめておいた。絵本のページをペラペラとめくる。その度シーンが切り替わる。慌てるトランプも、真っ赤な女王も、ペラペラと通り過ぎる。アニメーションを倍速再生してる気分。最後のページまで行って、パタンと閉じる。するとまた、目を開けていられないようなまぶしさに見舞われた。
「戻れますように」
小さく呟いて、必死な思いで祈った。


そんなことがあった日から三年が経ち、僕は無事に小学校を卒業した。あの不思議な現象について、親に話したことはない。上手く説明出来る気がしなくて。でも何となく、二人は知っているような気もする。
あれから色々検証して分かったのは、本に入れるのは一人で家にいる時だけってこと。本を開いて呼びかけられた時に返事を返すと行く、無言で閉じると行かない、という選択になること。入ってから出るには本を閉じる必要があること。ページは進めるけど、戻れないこと。何をどうしてもお話の大筋は変えられないこと。あとは、アリスの食べたクッキーは僕の好みではないこと。少し甘すぎた。


本はまるで、色んな世界を冒険したり、旅行したりするためのいわばチケットのようなものだとママは昔言っていた。それは確かにそうかもしれないけど、まさか本当の意味で旅をすることが出来るとは思わなかった。両親が良かれと思って買い揃えてくれた様々な本の背表紙を見つめ、僕は今日も旅の行き先に迷っている。


『好きな本を旅する』


〉好きな本 22.6.15

6/15/2022, 1:44:06 PM