空は青い。
そんなことを改めて感じさせる夏らしい空の色。そこに綿菓子みたいな白く肉厚な雲がいくつか浮かんでいる。夕方だというのに肌を貫くような容赦ない陽射しに、ほんの少し外にいただけで体が焦げてしまいそうだ。
まさしく生憎の空模様ってやつである。俺にとっては、だけど。
「はぁ……」
ため息をつきスマホに目をやった。待ち合わせまであと三十分もない。続いて天気アプリを開く。さっき調べたら今時分には雨が降るはずだと知らせていたのに。気象予報士でも占い師でもない俺には雨が降るようにはとても思えなかった。
あんまりに暑いので図書室に行って涼むことにする。見るともなしに書架の間を歩いているうちに、約束の時間が近づいていた。
待ち合わせの下駄箱へ向かえば、廊下の向こうから彼女――可愛くて、キュートで、綺麗で、ビューティフルで……とにかく語彙力ゼロになるくらいに素敵な、オレの、彼女がこちらに歩いて来ていた。
「よぉっ!」
彼女が片手をあげる。
「部活お疲れ様で〜す!」
可愛らしく俺が言えば、彼女はぷっと笑った。よし! 付き合ってから二回目、一緒の下校に向けてのスタートは上々。
かと思ったのに彼女は顔をしかめた。肩までの髪を一生懸命に撫でつけながら言う。
「雨が降るよ」
「マジで!?」
「うん、私の髪の毛広がってきてるもん。てか何か嬉しそうじゃない?」
「そんなことねぇよ」
靴に履き替えて玄関を出れば、ポツリ、ポツリ雨粒が地面に黒いシミを重ねていくところだった。
「ホントだ……すげぇな」
「でしょ?」
俺は背負ったリュックの底に手を当て、折りたたみ傘の存在を確かめる。彼女は傘立てから長い傘を取り出した。
「でも私、ちゃんと傘あるから大丈夫!」
「さすがだな〜俺は忘れちゃったよ」
「入れてあげるね」
彼女は傘を広げ俺に差しかけた。
「ありがとう。俺持つよ」
「うん」
傘の下で、彼女と俺の距離はいっきに近くなる。
「うわっ雨ひどいね!」
「えっ? 何?」
傘を叩く雨音は強く大きい。彼女の声を聴きとろうと顔を近づけた。
まだ手を繋ぐことさえできない俺にとっては、まさしく恵の雨、というやつだった。
暗く沈んだ灰色の空の下、夏の空のような青い傘が、今までにないくらい近づいた彼女と俺の上で揺れていた。
#14 2024/8/20 『空模様』
「ふぅ……」
珈琲をひと口飲みテーブルに置いた。やっぱりここの珈琲は美味い。
最近開拓した喫茶店『秋風』。
ここは僕が通っている専門学校裏門前の通りを一本入った、見つけにくい場所にある。僕はまさしく秋の風に誘われるようにこの喫茶店を見つけた。少し風の強い日、手にしていたプリントを飛ばされた僕は、拾い集めているうちに『秋風』に辿り着いたのだ。
口髭を蓄えたマスターが一人で切り盛りするこの店は、時間がゆっくり流れているように感じる。昭和の喫茶店を思わせるレトロな内装。賑やかな談笑をするような団体客もいない。大抵はおひとり様で、他の人など気にせずそれぞれに本を読んだりパソコンを叩いたりしている。
マスターの淹れる珈琲の味が気に入ったのはもちろんだが、マスターの振る舞いも良い。本や勉強に集中したいようなときはそっと珈琲を置き、誰かと話したいような気分のときにはさり気なく話しかけてくれるのだ。
地方から上京し友人も少ない僕にとって、『秋風』で過ごす時間はいつの間にか癒しにもなっていた。
だが、そんな癒しの空間は唐突に終わりを迎えた。夏が足踏みしているような、汗ばむくらいの秋が急に鳴りを潜めた日のことだ。
つい数日前までアイス珈琲を頼むこともあったが、今日は風が冷たい。秋風を通り越し、一気に冬風が吹いてきたみたいだ。ホットを頼もうかと思案していると、珍しくマスターのほうから提案があった。
「私のお勧めがあるんですが、飲んでみませんか? お代は結構ですので」
運ばれてきたホット珈琲は普段と違わず、いい香りだ。マスターは僕が口にするのを待つように、立ち去らずにテーブルの横に立っていた。
「あ……美味しいです。苦味と甘味とが混ざったような後味が独特ですね……ってろくな感想言えなくてすみません。新商品か何かですか?」
「いえ、今はメニューにありませんが、他界した親父がこの店を始めたときに試行錯誤して生み出した、『秋風』オリジナルブレンドなんですよ」
「へえ?」
「……実は今月末で閉店することになりまして、来ていただいたお客様に振舞っているんです」
「ええっ! 閉店ですか……残念です。すごく好きな空間だったので」
「ありがとうございます。最後にあなたのようなお若いお客様にも通っていただけて嬉しかったですよ」
「これからマスターは?」
「いちから珈琲のことを勉強し直すつもりです。またいつか自分の店を持てたらいいな、なんて欲もありますしね」
「頑張ってください」
「ありがとうございます。あなたも」
マスターはテーブルに置かれた調理師免許のテキストを見た。
この日の会話はマスターと交わした中で一番長かったかもしれない。それくらいの関わり。ほんのひと時の人生の交わり。きっとすぐにマスターの顔も口髭くらいしか思い出せなくなるのだろう。でもこの珈琲の味は忘れずにいたい。いつかもう一度味わってみたい。そう思うくらいには心が温かな秋の日だった。
数日後『秋風』を訪れた。扉にはCLOSEDの札とカーテンが下がり、座席が見える窓にもブラインドが降ろされていた。僅かの間とはいえ、通っていた店が無くなったことに物悲しさを感じながら、店を通り過ぎる。
僕が通っていた頃から工事中だった隣の店がオープンしていた。何となく眺めていると扉が開き、中から女性が出てきた。
「いらっしゃいませ! カフェ『冬のはじまり』にようこそ!」
僕より少し年上に見える、とびきり綺麗な女性はとびきり可愛い笑顔で言った。そんな誘いを断ることなどできるはずもなく、ぼくは『冬のはじまり』の扉をくぐった。
白を基調とした少し寒々しい内装。だからこそ飾られた北欧風のインテリアが映える。男一人では入りにくい雰囲気ではあるが、店内に漂う珈琲の香りにはそそられるものがある。
僕は取り敢えずオススメの珈琲を注文して、カウンター席の端に座った。従業員は先程の女性ともう一人だけらしい。今は満席ではないが、軽食も提供するようだし二人だけでは大変そうだな、なんて思いながら珈琲に口をつけた。
「……美味しい」
苦味と甘味とが混ざったような独特な後味。どこか懐かしささえ感じる……って……。
顔を上げると、カウンターの中で珈琲を淹れていた男性がパッと顔を逸らした。
「マスター……」
髭を剃っていたので気づかなかったが、マスターがそこにいた。今まで思っていたよりずっと若そうだ。
女性が僕とマスターを交互に見て言う。
「あら? お客様もしかして『秋風』の常連さんでした? マスター引き抜いちゃったんです。引き続き美味しい珈琲の飲める『冬のはじまり』もぜひご贔屓に!」
冬を終えて春の花の綻ぶような笑顔で言われたら、そりゃもうね。
「はい、また来ます」
僕は咄嗟に言っていた。引き抜かれたマスターの気持ちも分からなくはない。僕とマスターは一瞬目を合わせたあと、決まり悪げに顔を伏せた。
「あ、お客様! いらっしゃいませ!」
扉が開くと来店客と共に、だいぶ冷たくなった秋風が、僕とマスターの間を吹き抜けた。
#13 2023/11/14 『秋風』
「ま〜たまた会いましょ〜〜♪」
変な節をつけて歌うこのフレーズ。これが別れ際のおじいちゃんの決まり文句。
子供のころ、毎年夏休みに訪れる母方の祖父母の家。祖父母が大好きだったし、とても楽しみにしていた。
おじいちゃんは沢山遊んでくれた。近くの海へ釣りに、貝殻拾い、砂のお城作り。海水浴をして夜には花火。一週間ほどべったり遊んでもらって甘えてってすると、帰るときにきゅーっと寂しくなる。
「帰りたくないよぉ」
そう言って幼い私は泣いてしまったっけ。
周りの大人たちが困っているなか、おじいちゃんは唐突に歌い出した。
「ま〜たまた会いましょ〜〜♪」
「へんなうたぁ〜!」
ケラケラと私が笑う。だからそれからおじいちゃんは、別れ際にはそんな自作の歌を歌うのだ。
……とはいえ、私も段々と大きくなる。すぐに別れ際に泣いたりすることはなくなる。それでもお決まりのように歌うおじいちゃんに対し、乾いた笑いを返すだけになってしまっていた。そのうちには「またかよ、もういいよー」と心の中でつっこんで、幼いころとは違う意味で別れ際が苦手になってしまった。
高校生になれば夏休みに帰省することもなくなった。みんなそんなもんでしょ? 祖父母の家に行ったってやることないし、スマホ弄ってるだけ。
「学校は?」
「普通」
「大学行くの?」
「行ければ」
なんてお決まりのやり取りをするくらいだもん。お正月に日帰りでお年玉貰いに行くくらいで丁度いい。
「ま〜たまた会いましょ〜〜♪」
その年のお正月の別れ際も、やっぱりおじいちゃんはにこにこと歌った。
お父さんの運転する車の後部座席に座り、ウィンドウを下げて「またねー!」と祖父母に手を振る。私のところへおじいちゃんが近づいて歌った。
そんな小さい頃のやり取りをまだ繰り返すんだ。もう背丈だっておじいちゃんと同じくらいなのに。その時の私は若干イライラしていた。年末に彼氏と喧嘩して、思い切って送ったメッセージにも既読がつかないから。それで思わず言ってしまった。
「もう、それいいって!」
思いのほか冷たい声に自分でも驚いた。
「あ、ごめ……」
「そうだよなぁ、もう小ちゃい子じゃないもんなぁ。でもまた会いたいなぁっていつも思うからさ」
笑いながらおじいちゃんが車窓から離れると、車がゆっくりと走り始めた。おじいちゃんの姿が遠く小さくなっていった。
きちんと謝れないままその年の夏、おじいちゃんが死んだ。
死化粧を施されたおじいちゃんは穏やかな顔をしていたけど、もう歌うことはなかった。
いつでも『また』があるわけじゃない。いつでも『会える』わけじゃない。
大人になったつもりでいたけど、そんなことも分かっていなかった。私はまだまだ子供で、だからおじいちゃんに歌われても仕方なかったのだ。
「ま〜たまた会いましょ〜〜♪」
今度は私が代わりに歌った。
また会いにくるから。思い出のおじいちゃんに会いにくるから。
幼い私を膝に乗せて体を揺らすおじいちゃん。手を繋いで沢山お散歩に連れて行ってくれたおじいちゃん。
火葬炉の前でおじいちゃんと最後のお別れをする。
「お父さんっ……!」
泣いているお母さんの肩をさすりながら、小さな声であのフレーズを歌ってみた。涙を堪えながらでは上手く歌えなかった。
遺体が火葬炉へとおさめられていく。
「うぅ……うっ……」
別れ際、やっぱり私は泣いていて、思い出の中のおじいちゃんはにこにこ笑っていた。
#12 2023/11/13 『また会いましょう』
「やれよ、お前の番だろ」
「できない……できないよ、お兄ちゃん」
お兄ちゃんは呆れたようにため息をついた。
「またかよ。やろうって言い出したのはお前だろ」
「……だけど、怖いんだもん」
私は手にしていた短剣をテーブルの上へ落とした。カチャっと音が鳴る。
「ふざけんな、ここまできて止めるとか言うなよ」
お兄ちゃんは短剣を拾い上げると、私の手に押し付ける。
「う、うぅ……」
「ほら、しっかりしろ、思い切って刺すんだよ」
「だめ、心臓がドキドキして、手が震えちゃう」
「あとちょっとで終わりだ覚悟を決めろ」
私は深呼吸をして短剣をきちんと持ち直した。
「……やるね」
お兄ちゃんはいつも勝負どころでやるように、くるりと首を回して言った。
「よし、やれ」
ゆっくりとゆっくりと、緑色の短剣を樽に空いた穴に差し入れた。カチリ、奥に嵌った感触がする。
みょ〜〜んとバネの音とともに、眼帯をした海賊の人形が飛び跳ねた。
「きゃあっっ!!」
思わず悲鳴を上げてしまった。心臓を押さえるとバクバクいっている。
「はぁーー、この『〇〇危機一髪』。最初はいいけど後半になるにつれてひと刺しごとに緊張するよね」
「結構スリルあるよな」
「楽しかったでしょ? 今のはノーカンでもうひと勝負しよ?」
「だめだよ、オレの勝ち!」
「私の負け〜? やだっ」
「お前がトランプやオセロじゃ負けるから、このゲームがいいって言ったんだろ。もうお終い」
「ちぇーー」
口を尖らしてお兄ちゃんを見たけど、譲る気はないみたいだ。
「分かったよ、さっさとやっちゃって」
私はテーブルに置かれたナイフをお兄ちゃんに渡した。今度はプラスチックじゃなくて、ちゃんと本物の刃物だ。
「んーー!! ンーー!!」
部屋の隅で様子を窺っていたお父さんが何か言っている。手足を縛られて猿轡を噛まされているから、くぐもった声しか出せないけど。
「私だってずーっとコイツに殴られてきたの。勝負だから最初のひと刺しはお兄ちゃんに譲るけど、ちゃんと交代交代にしてね」
「分かってるよ」
お兄ちゃんが笑いながら立ち上がって、お父さんのほうへ近づいていく。私もそのあとに続いた。
「んーー!!」
お父さんは涙目で首を振る。
悲しみ、哀れみ、躊躇い、罪悪感。
残念だけど何にも感じない。私もお兄ちゃんも、お父さんを見る時は心を消してきたから。
お父さんに頭を撫でられたこと、肩車をしてもらったこと、遊園地に行ったこと──なんていうような、思いとどまらせるいい思い出も何ひとつない。
それはお兄ちゃんも一緒だから、止めようかなんて言い出す様子はない。いつも通り穏やかな笑顔を浮かべている。そして首をくるりと回して言った。
「さぁ、次のゲームを始めようか」
#11 2023/11/12 『スリル』
『奇跡の生還を果たした大学生!』として、僕は一年ほど前に有名になった。
車道に飛び出した子供を助け車に轢かれた僕だったが、約一ヶ月の昏睡状態ののち奇跡的に意識が戻った。
昏睡状態の最中、僕は天使に先導されて天国の門をくぐった。比喩じゃなくて本当の話。証拠だってある。
門をくぐると僕の背中に真っ白で綺麗な翼が生えた。善いことをして死んだ僕には、転生するほかに天使として就職する道があるらしい。そんな説明を受けた直後に、何だか偉い役職についていそうな天使が揉み手をしながらやってきた。
「すみませ〜ん、手違いで貴方を天国に連れてきてしまいました」
「ええっ! 僕、地獄行きですか!?」
「いえ、貴方はまだ現世で生きられるんですよ〜」
「そういうことですか」
「お詫びといっては何ですが、貴方の背中に生えた翼、プレゼントしますけどいかがしますぅ?」
「貰えるんですか?」
「はい、ただ現世では飛べませんけどね」
「じゃあ何に使うんですか?」
「ちょっと動く飾りですね」
「飾り……、まあ貰えるんなら貰っときます」
『取り敢えず試供品は貰っとこう』をモットーとする母親の影響もあって、翼は貰っておくことにした。
『タダより邪魔なものはない』という父親のモットーを採用すれば良かったと後悔したのは、現世に還ってすぐのこと。
まず着られる服がない。何でも売っている大手通販サイトでも取扱いがない。仕方なしに母親の手作りのクソダサい服を着ている。
仰向けに寝られない。ごりっと背中に当たると寝心地が悪いのだ。仕方なしに大抵うつ伏せに寝ている。
それから結構絡まれる。「おい、とんでみろよ」なんて、ひと昔前のカツアゲの台詞みたいなことをよく言われる。飛べないんです、と説明したり、仕方なしにジャンプしてみたりするが、相手は「飛べねぇのかよ」と蔑むような目で見てくる。腹立たしいことこの上ない。
まあ大抵のことにも一年ほどすれば慣れた。
そんな秋のこと、夕日に照らされた川岸を歩いていた。オレンジの光を受け、てらてらと揺れる川面は目に痛いほど眩しい。こうした綺麗なものを見ると意味もなく胸が詰まる。ああ、生きて還ってこられて良かったなぁとしみじみ思った。しんみりとした思考を破るように大声が聞こえた。
「誰か! 誰か助けて!」
子供が溺れていた。川辺で母親らしき女性が助けを求めている。母親の声を聞きつけて僕の他にも数人が集まってきていた。
皆が一斉に僕を見た。僕の翼を見た。
「いや、飛べないんです」
「助けて!」
「ですから、」
「あんた助けろよ」
「あの、」
「薄情者!」
母親も野次馬も僕に詰め寄った。その間にも子供は流されていく。
「もぉ!!」
泳げないんだよ、僕は。翼のせいで始めは浮くけど、そのうち翼が水を含んで重たくなって沈む。流されていく子供の近くまで行って手頃な枝を伸ばすが届かない。
「くそっ」
その時の僕は何を思ったんだか、背中へ手を伸ばし片翼を引きちぎった。思ったより痛くない。その翼を子供へ向かって伸ばす。子供が先端を掴んだ。ぐいっと翼を引き寄せていく。
「あぁっ!!」
僕の掴んでいたところの羽根が束で抜け、翼は僕の手からすっぽ抜けた。子供は翼とともに下流へと流される。結局僕は川へ入った。必死で子供へ向かって泳ぎ、そして……子供と一緒に流されていった────
僕は再び奇跡の生還を果たした。
今の僕の背中にも翼が生えている。天使の翼とは違って黒く、羽根がなくてツルリとしている。
「子供を助けるという罪深い善行を行ったが、天使の翼を引きちぎり川に流すという大変胸のすく行いをした」
とのことで地獄へ行き、悪魔の翼をもらったのだ。そのあと手違いが発覚し、現世へ戻された。転生ものが流行っているせいか、天使も悪魔も後継者不足でオーバーワーク気味らしい。同情しなくもないがしっかりして欲しいものだ。
何で翼を断らなかったんだ? って色んな人から訊かれた。飛べないし、邪魔だし、断ろうと僕だって思ったよ。悪魔の翼じゃ少しイメージ悪いしね。
でも飛べない翼ってなんだろうって考えたんだ。それで常にやる気のない脳みそを働かせてみて、──瞬間的な勇気、みたいなものだったのかなと思った。普段自分の中に眠っていていざという時に発現するもの。
それはきっと誰もが持っているものだろう。リアルな翼じゃなくてもね。
子供が溺れていたとき、もし僕がいなければ野次馬たちはどうしていたかな。
きっとある人は飛び込み、ある人は浮くものを投げ、ある人は救助を呼んだだろう。その人なりの勇気で何か行動を起こしていたはずだ。
自己犠牲を勇気だなんて言うつもりはないよ。僕だって好きで死にかけた訳じゃない。でもこの翼は僕が何かしらの行動を起こした証だから、貰っておくことにしたんだ。
そんな返答をしたらみんなよく分からなそうな表情をしていた。うん、僕も何となくしか分からない。
ともかく翼を使おうとするのか、どんな使い方をするのかは本人次第なのだということ。
僕は今日も母親の作ったクソダサい服を着て、寝違えた首をさすって歩く。ピコピコ動く翼を指さされても気にしない。
だけど……これ以上僕の近くで子供が危ない目にあったりしませんように、とかなり本気で祈っている。
#10 2023/11/12 『飛べない翼』