#20 『砂時計の音』
「私、きっちり一分がわかるんだよ」
唐突に彼女が言って、小さな砂時計をテーブルの上に置いた。硝子の中に赤い砂を閉じ込めたごく普通のもの。どうやらこれは一分計らしい。
「へぇ〜?」
「見ていてね。それから静かにね」
半信半疑に返事をするオレに、彼女はそう言って目を閉じた。言われた通り口を噤み、彼女の様子を見守る。
砂時計がひっくり返された。硝子の入れ物の中で赤く着色された砂が、真ん中の細い隙間を通って下の空間へ落ちていく。
砂時計を見るのは久しぶりだ。ただ時が過ぎるのを眺めるなんて、贅沢な時間の使い方かもしれない。
砂が落ちきった。それとほぼ同時に彼女が手をあげた。
「どう? 当たってた?」
「おお〜すごいぴったり! 体内時計が正確とか? でも一分くらいならオレもいけそう」
「一分以上でもできるよ。砂が落ちたらあなたがひっくり返してね」
「いいよ」
また彼女が目を閉じた。今度は砂だけじゃなく、彼女の顔を見つめた。得意げにうっすらと笑みを浮かべた表情は本当にかわいい。
砂が落ちきったので、なるべく音を立てないように逆さまにする。顔を眺め放題とか、やっぱり贅沢な時間だな。彼女が腿の上に置いている手をそっと握ると、口の端がムニュっと動いた。はは、かわいい。
砂時計の砂は全部落ちきった。
だが彼女は動かない。五秒ほどしてから手をあげた。
「過ぎてましたけど〜?」
「あーもぉっ! 邪魔するからじゃない!」
彼女はほんのり頬を染めて、唇を尖らせる。
「なんで、静かにしてたろ?」
「私はね、砂が落ちる音を聞いているの。急に手を握ったりするから、その……ドキドキして砂の音が聞こえなくなっちゃったじゃない……」
「……へぇ〜? それはごめんね。邪魔しないからもう一回やってみて」
彼女は頷くと再び目を閉じた。
うーん、どうしようかな。邪魔しない約束は守るべきか。「ほらできたでしょ?」なんて嬉しそうな顔も見たいし。
でもキスしたらどれだけ誤差が出るのか知りたいかも、なんて好奇心に二分間耐えられるかな。
親友だと思ってたのに。
一週間前、塾の帰りに偶然真帆と会った。正確には真帆とその彼氏。多分、彼氏。知らない人だけど手を繋いで歩いていたから。
私は知らない。真帆に彼氏ができたことなんか。夏休みで毎日は会わないからって、言ってくれてもいいよね? 電話だってLINEでだっていいんだから。
私を見た真帆は「あっ!」と焦った顔をして、それから私に近づいてくる。でも私は顔を背けて来た道を駆け戻った。
しばらくしてピコンとLINEの通知音が鳴る。通知欄にポップアップされたトークは『ごめんね――』から始まっていたが、全文は分からない。
私は知らない。知りたくもない。偶然会わなかったら教える気もなかったくせに!
そのあとも何度か送ってきていたけれど、今日まで真帆からのLINEは開いていない。開くものかと意地になっていたのもあった。でも昨夜からは少し迷い始めている。だって今日から二学期が始まるから。クラスメイトなんだから嫌でも顔を合わせる。他のクラスメイトだって私たちの様子を見たら、どうしたらいいのか困るだろう。もしかして先に彼氏のできた真帆を羨んでると思われるんじゃない? それはほんっとに嫌! 私はただ親友だと思ってなんでも悩みを打ち明けてきた真帆が、なんにも言ってくれなかったことが悲しかっただけ。
……どうして? 真帆。
私は知りたかったよ。どうやって彼と知り合ったのか。どちらから告白したのか。初デートは何を着ていったらいいかな? なんて相談されたかったよ。
学校へ向かう電車に揺られながら、心もゆらゆらと揺れる。スマホを握りしめて、LINE画面を開いてトーク一覧を眺める。
開く? ブロックする? それともこのまま?
電車を降りたら学校まで歩いてすぐ。自転車通学の真帆とは教室で顔を合わせるだろう。だから開くなら電車に乗ってる今が最後のチャンス。
結局、真帆からのトークをタップすることはできずに電車を降りた。
……ああ、でもやっぱり……。
改札を出てすぐに足を止める。もう一度スマホ画面を点灯させた。LINEのアイコンをタップしようした時、ちょうど通知音が鳴る。真帆からのトークだ。
『改札出たとこで待ってるね』
「――!?」
顔を上げると視界に過ぎったのは真帆の姿。スマホを握りしめて、泣きそうな顔で私を見ていた。
「……真帆」
私と目が合うとゆっくりこちらへ近づいてくる。目は赤くて瞼も少し腫れていた。涙をいっぱい溜めた瞳を揺らして、なんて言おうか迷ってるみたいに口を開いては閉じている。
自信なさげに足取りは重い。とうとう頬に涙が零れて、真帆は立ち止まってしまった。
私は真帆に向かって駆け出した。震えそうになる声を誤魔化すために、大きな声で言う。
「真帆〜久しぶり! 元気だったー?」
私のほうこそごめん。開けなかったLINEの返事はこれから直接伝えさせてね。
#19 『開けないLINE』 2024/9/2
マンションの前の廊下で、コツコツとヒールの音が響いた。珍しい、ここは一番端の部屋で、住民が通り抜けるようなこともないからだ。外の様子をみようかと玄関へ行くと、鍵穴に鍵が差し込まれる音がしてすぐにドアが開いた。
「サヨリ……」
サヨリ、数ヶ月前に別れて部屋を出ていった彼女がそこにいた。
「合鍵、まだ持ってたんだな。だけどここはもう俺だけの部屋だ。勝手に入ってくるなんてマナーが悪いな」
「……」
サヨリは返事もせずに靴を脱ぐと部屋に上がった。わざとらしく俺と視線を合わせず、部屋のなかをぐるりと見渡している。ふと壁に残った凹みを見つけて撫でた。
「ふふ……私がつけた傷」
そうだ。喧嘩をした時にサヨリが俺のスマホを投げつけたのだ。この女は逆上すると何をしでかすか分からないところがある。ひとまず様子を見守ることにした。やがてピリリと音がして、サヨリは自分のスマホで通話を始めた。
「……うん、大丈夫。一人だよ。……あんな浮気性のクズ、なんとも思ってないから。鍵を管理人さんに返したらすぐに帰るね」
電話の向こうで男の声が聞こえた。今の彼氏だろうか。それにしても堂々と嘘をついて、よく人をクズ呼ばわりできるもんだ。……まぁ、浮気したのは認めるけど。通話を終えて、サヨリは俺に背を向けたままポツリと言う。
「付き合ってるとき、何度殺してやろうと思ったかしれない」
サヨリは手提げから小さな日本酒の瓶を取り出した。あれは……俺の好きな酒だ。何かの記念日に飲んだあと、浮気がバレて投げつけられたことのあるいわく付きの。
振り向きざまにまた投げつけられるのではと身構えた。だがサヨリは瓶をキッチンの調理台に置いて手を合わせた。
「あなたの好きだったお酒買ってきたから飲んでね」
「あ、ありが……」
俺の言葉を最後まで聞かず、サヨリは靴を履いた。
「何しに来たんだよ、気持ち悪いな」
サヨリは勢いよく振り返った。
「ばか……ばか……子供を庇って死んじゃうなんて」
「な……に……!?」
「せいぜい天国で天使サマのお尻でも追いかけるといいわ」
サヨリの頬に落ちたのは涙だったのか。彼女は部屋を出ていく。
後に残された俺は、何ひとつ家具の置かれていない、ガランとした部屋を呆然と見回した。
#18 『突然の君の訪問。』 2024/8/29
「……初めまして――」
固い声で名乗ったあと、彼はギクシャクと頭を下げた。
「……いらっしゃい」
歓迎しているとはとても思われないトーンになってしまった。それはそうだろう。高校生の娘が初めて彼氏なんぞを家に連れてきたのだから。
「どうぞ上がって!」
妻は俺とは対照的に弾んだ声だ。その声に励まされるように、緊張気味だった娘がさらに緊張している彼の背中を押した。
食卓の椅子に向かい合って座り、「雨の中ありがとうね」「いえ、」などと妻と彼は当たり障りのない会話をしている。
「娘から君は明るい茶髪でピアスを着けていると聞いていたけど」
「はい、普段はそうですけど」
「親に気に入られたいと思ったの?」
「ちょっとお父さん!」
「はい、そうですね」
彼が素直に頷いたので、それ以上嫌味なことは言えなくなってしまった。
「ふ、二人はどうやって出会ったの?」
とりなすように妻が言う。それは俺も気になっていたことだ。妻もまだ知らされていなかったらしい。親に言えないなんて、高校も違うし合コンとかナンパとかどうせそんなところだろう。娘は少し迷ったように視線を彷徨わせる。みんなの顔を一巡してから口を開いた。
「雨の日にね。助けてもらったの」
「助けてもらった?」
「うん、私傘もなくて転んじゃって泥だらけで。お店の軒下で休んでたの。通りかかる人は『あの子悲惨〜!』って目で見て通り過ぎるだけ。涙出てきちゃって」
「ああ、制服が汚れた日ね!」
妻が相槌を打った。そういえばそんなことあったなと俺も思い出す。
「そしたらね、一度通り過ぎた彼がコンビニで傘とタオルを買って戻ってきてくれたの」
「いや、その、近くにコンビニがあったんで」
「それで私お礼がしたくて、それから毎日同じところで待ち伏せしてたんだよ。恥ずかしくてお母さんたちに言えなかったんだけど」
娘は彼の方を向き、はにかんだように笑った。彼のことが大好きだというような笑顔。微笑み返す彼の目も同じように柔らかく細められていた。
心温まるいい話だ。
だけど、これはあまりにも。
「ふ、くくっ……」
笑ってはいけないのに笑いが零れてしまう。
「ふふっ、ふふふっ」
妻も同じように堪えきれないようで、口を覆った手の隙間から笑い声が漏れていた。
「ちょっと! 何なのお父さんもお母さんも感じ悪い! 私たちはちゃんと真面目に……!」
「ごめん、ごめん、本当に悪気はないんだよ」
「そうなのよ。あのね、あなた達の出会いが私たちとあまりにもそっくりで、可笑しくなっちゃったの」
「えぇ!? そうなの!? 知らなかった……」
妻が恥ずかしいから娘には内緒、と言って話したことはなかった。娘と妻はよく似ているらしい。
「ごめんなさい、お茶もお出ししなくて」
妻がキッチンへ向かう。
「時間大丈夫だったらゆっくりしていって。この雨の中、帰るのは大変だからね」
そう言った俺の声色はいつものものになっていた。娘と彼はホッとしたように目を合わせて笑った。……まぁ可愛い娘なんだ。チクリと胸が痛むのはまだ暫くは続くだろう。
窓の外では雨が降り続いている。俺は耳に手をやり、ほとんど塞がりかけたいくつかのピアスホールを撫でた。
#17 『雨に佇む』 2024/8/28
鳥のように
空を飛べたなら
嫌なこともちっぽけに思えるかな
風をきって 空中を旋回すれば
この世界も悪くないと
わたしが鳥ならばそう思えるのかな
人のように
手が使えたなら
手を繋いで眠りたいと思うかも
きみの涙を拭って 頬を包んで
独りじゃないと伝えたい
ぼくが鳥ならばそう思うかも
空を見上げて涙をこぼすきみに
手を伸ばすぼく
触れた手と手はあたたかくて
握り返されれば胸が熱くなる
鳥のようでもなく
人のようでもなく
ぼくたちはぼくたちらしく
ただ なき声をあげた
#16 『鳥のように』 2024/8/22