日夜子

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8/28/2024, 3:41:04 PM

 マンションの前の廊下で、コツコツとヒールの音が響いた。珍しい、ここは一番端の部屋で、住民が通り抜けるようなこともないからだ。外の様子をみようかと玄関へ行くと、鍵穴に鍵が差し込まれる音がしてすぐにドアが開いた。
「サヨリ……」
 サヨリ、数ヶ月前に別れて部屋を出ていった彼女がそこにいた。
「合鍵、まだ持ってたんだな。だけどここはもう俺だけの部屋だ。勝手に入ってくるなんてマナーが悪いな」
「……」
 サヨリは返事もせずに靴を脱ぐと部屋に上がった。わざとらしく俺と視線を合わせず、部屋のなかをぐるりと見渡している。ふと壁に残った凹みを見つけて撫でた。
「ふふ……私がつけた傷」
 そうだ。喧嘩をした時にサヨリが俺のスマホを投げつけたのだ。この女は逆上すると何をしでかすか分からないところがある。ひとまず様子を見守ることにした。やがてピリリと音がして、サヨリは自分のスマホで通話を始めた。
「……うん、大丈夫。一人だよ。……あんな浮気性のクズ、なんとも思ってないから。鍵を管理人さんに返したらすぐに帰るね」
 電話の向こうで男の声が聞こえた。今の彼氏だろうか。それにしても堂々と嘘をついて、よく人をクズ呼ばわりできるもんだ。……まぁ、浮気したのは認めるけど。通話を終えて、サヨリは俺に背を向けたままポツリと言う。
「付き合ってるとき、何度殺してやろうと思ったかしれない」
 サヨリは手提げから小さな日本酒の瓶を取り出した。あれは……俺の好きな酒だ。何かの記念日に飲んだあと、浮気がバレて投げつけられたことのあるいわく付きの。
 振り向きざまにまた投げつけられるのではと身構えた。だがサヨリは瓶をキッチンの調理台に置いて手を合わせた。
「あなたの好きだったお酒買ってきたから飲んでね」
「あ、ありが……」
 俺の言葉を最後まで聞かず、サヨリは靴を履いた。
「何しに来たんだよ、気持ち悪いな」
 サヨリは勢いよく振り返った。

 
「ばか……ばか……子供を庇って死んじゃうなんて」

「な……に……!?」

「せいぜい天国で天使サマのお尻でも追いかけるといいわ」
 サヨリの頬に落ちたのは涙だったのか。彼女は部屋を出ていく。
 後に残された俺は、何ひとつ家具の置かれていない、ガランとした部屋を呆然と見回した。



 #18 『突然の君の訪問。』 2024/8/29

8/28/2024, 12:29:12 AM

「……初めまして――」
 固い声で名乗ったあと、彼はギクシャクと頭を下げた。
「……いらっしゃい」
 歓迎しているとはとても思われないトーンになってしまった。それはそうだろう。高校生の娘が初めて彼氏なんぞを家に連れてきたのだから。
「どうぞ上がって!」
 妻は俺とは対照的に弾んだ声だ。その声に励まされるように、緊張気味だった娘がさらに緊張している彼の背中を押した。

 食卓の椅子に向かい合って座り、「雨の中ありがとうね」「いえ、」などと妻と彼は当たり障りのない会話をしている。
「娘から君は明るい茶髪でピアスを着けていると聞いていたけど」
「はい、普段はそうですけど」
「親に気に入られたいと思ったの?」
「ちょっとお父さん!」
「はい、そうですね」
 彼が素直に頷いたので、それ以上嫌味なことは言えなくなってしまった。
「ふ、二人はどうやって出会ったの?」
 とりなすように妻が言う。それは俺も気になっていたことだ。妻もまだ知らされていなかったらしい。親に言えないなんて、高校も違うし合コンとかナンパとかどうせそんなところだろう。娘は少し迷ったように視線を彷徨わせる。みんなの顔を一巡してから口を開いた。
 
「雨の日にね。助けてもらったの」
「助けてもらった?」
「うん、私傘もなくて転んじゃって泥だらけで。お店の軒下で休んでたの。通りかかる人は『あの子悲惨〜!』って目で見て通り過ぎるだけ。涙出てきちゃって」
「ああ、制服が汚れた日ね!」
 妻が相槌を打った。そういえばそんなことあったなと俺も思い出す。
「そしたらね、一度通り過ぎた彼がコンビニで傘とタオルを買って戻ってきてくれたの」
「いや、その、近くにコンビニがあったんで」
「それで私お礼がしたくて、それから毎日同じところで待ち伏せしてたんだよ。恥ずかしくてお母さんたちに言えなかったんだけど」
 娘は彼の方を向き、はにかんだように笑った。彼のことが大好きだというような笑顔。微笑み返す彼の目も同じように柔らかく細められていた。
 
 心温まるいい話だ。
 だけど、これはあまりにも。
「ふ、くくっ……」
 笑ってはいけないのに笑いが零れてしまう。
「ふふっ、ふふふっ」
 妻も同じように堪えきれないようで、口を覆った手の隙間から笑い声が漏れていた。
「ちょっと! 何なのお父さんもお母さんも感じ悪い! 私たちはちゃんと真面目に……!」
「ごめん、ごめん、本当に悪気はないんだよ」
「そうなのよ。あのね、あなた達の出会いが私たちとあまりにもそっくりで、可笑しくなっちゃったの」
「えぇ!? そうなの!? 知らなかった……」
 妻が恥ずかしいから娘には内緒、と言って話したことはなかった。娘と妻はよく似ているらしい。

「ごめんなさい、お茶もお出ししなくて」
 妻がキッチンへ向かう。
「時間大丈夫だったらゆっくりしていって。この雨の中、帰るのは大変だからね」
 そう言った俺の声色はいつものものになっていた。娘と彼はホッとしたように目を合わせて笑った。……まぁ可愛い娘なんだ。チクリと胸が痛むのはまだ暫くは続くだろう。

 窓の外では雨が降り続いている。俺は耳に手をやり、ほとんど塞がりかけたいくつかのピアスホールを撫でた。



 #17 『雨に佇む』 2024/8/28
 

8/22/2024, 2:38:49 AM

鳥のように
空を飛べたなら
嫌なこともちっぽけに思えるかな
風をきって 空中を旋回すれば
この世界も悪くないと
わたしが鳥ならばそう思えるのかな

人のように
手が使えたなら
手を繋いで眠りたいと思うかも
きみの涙を拭って 頬を包んで
独りじゃないと伝えたい
ぼくが鳥ならばそう思うかも


空を見上げて涙をこぼすきみに
手を伸ばすぼく
触れた手と手はあたたかくて
握り返されれば胸が熱くなる

鳥のようでもなく
人のようでもなく
ぼくたちはぼくたちらしく
ただ なき声をあげた



 #16 『鳥のように』 2024/8/22

8/20/2024, 10:13:05 PM

「さよなら……」

 二人だけの放課後の教室。いつもの隣同士の席に座って、君は前を向いている。私をからかってばかりの君が、強ばった笑顔でさよならと言った。
 
 隣の席で居眠りする君を、グラウンドを眺めるフリで見つめていた。君がする好みの女の子の話を、気のないフリで聞いていた。
 本当はきみを真っ直ぐに見つめたくて、私のことどう思ってる? って訊きたかったのに。

 普段は教室のすみずみまで届くバカでかい声のくせして、今日の君は消え入りそうな声で言う。
 
「親の転勤でさ、遠くに引っ越すから」
「……さっきなんて言ったの?」
「えっ? さよなら?」
「違う! さよならを言う前!」

「えーと……」
 傾いた日差しが教室のロッカーまでオレンジに染めている。そのせいか君の横顔も色づいて見えるよ。

「好きだった……」

「……ならさ、さよならじゃないじゃん!」
「いや、だってさ!」
 弾かれたように君はこちらを見た。
 
 君と正面から見つめ合う。私だってずっとずっと伝えたかった気持ちを言葉にするんだ。
 さよならになんかしたくないから。

「あのね、私もね…………」



 #16 さよならを言う前に 2024/8/21
 
 

8/20/2024, 9:45:40 AM

 空は青い。
 そんなことを改めて感じさせる夏らしい空の色。そこに綿菓子みたいな白く肉厚な雲がいくつか浮かんでいる。夕方だというのに肌を貫くような容赦ない陽射しに、ほんの少し外にいただけで体が焦げてしまいそうだ。
 まさしく生憎の空模様ってやつである。俺にとっては、だけど。
「はぁ……」
 ため息をつきスマホに目をやった。待ち合わせまであと三十分もない。続いて天気アプリを開く。さっき調べたら今時分には雨が降るはずだと知らせていたのに。気象予報士でも占い師でもない俺には雨が降るようにはとても思えなかった。
 
 あんまりに暑いので図書室に行って涼むことにする。見るともなしに書架の間を歩いているうちに、約束の時間が近づいていた。

 待ち合わせの下駄箱へ向かえば、廊下の向こうから彼女――可愛くて、キュートで、綺麗で、ビューティフルで……とにかく語彙力ゼロになるくらいに素敵な、オレの、彼女がこちらに歩いて来ていた。
「よぉっ!」
 彼女が片手をあげる。
「部活お疲れ様で〜す!」
 可愛らしく俺が言えば、彼女はぷっと笑った。よし! 付き合ってから二回目、一緒の下校に向けてのスタートは上々。
 かと思ったのに彼女は顔をしかめた。肩までの髪を一生懸命に撫でつけながら言う。
「雨が降るよ」
「マジで!?」
「うん、私の髪の毛広がってきてるもん。てか何か嬉しそうじゃない?」
「そんなことねぇよ」

 靴に履き替えて玄関を出れば、ポツリ、ポツリ雨粒が地面に黒いシミを重ねていくところだった。
「ホントだ……すげぇな」
「でしょ?」
 俺は背負ったリュックの底に手を当て、折りたたみ傘の存在を確かめる。彼女は傘立てから長い傘を取り出した。
「でも私、ちゃんと傘あるから大丈夫!」
「さすがだな〜俺は忘れちゃったよ」
「入れてあげるね」
 彼女は傘を広げ俺に差しかけた。
「ありがとう。俺持つよ」
「うん」
 傘の下で、彼女と俺の距離はいっきに近くなる。
「うわっ雨ひどいね!」
「えっ? 何?」
 傘を叩く雨音は強く大きい。彼女の声を聴きとろうと顔を近づけた。
 
 まだ手を繋ぐことさえできない俺にとっては、まさしく恵の雨、というやつだった。
 暗く沈んだ灰色の空の下、夏の空のような青い傘が、今までにないくらい近づいた彼女と俺の上で揺れていた。



 #14 2024/8/20  『空模様』
 


 
 
 

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