日夜子

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 マンションの前の廊下で、コツコツとヒールの音が響いた。珍しい、ここは一番端の部屋で、住民が通り抜けるようなこともないからだ。外の様子をみようかと玄関へ行くと、鍵穴に鍵が差し込まれる音がしてすぐにドアが開いた。
「サヨリ……」
 サヨリ、数ヶ月前に別れて部屋を出ていった彼女がそこにいた。
「合鍵、まだ持ってたんだな。だけどここはもう俺だけの部屋だ。勝手に入ってくるなんてマナーが悪いな」
「……」
 サヨリは返事もせずに靴を脱ぐと部屋に上がった。わざとらしく俺と視線を合わせず、部屋のなかをぐるりと見渡している。ふと壁に残った凹みを見つけて撫でた。
「ふふ……私がつけた傷」
 そうだ。喧嘩をした時にサヨリが俺のスマホを投げつけたのだ。この女は逆上すると何をしでかすか分からないところがある。ひとまず様子を見守ることにした。やがてピリリと音がして、サヨリは自分のスマホで通話を始めた。
「……うん、大丈夫。一人だよ。……あんな浮気性のクズ、なんとも思ってないから。鍵を管理人さんに返したらすぐに帰るね」
 電話の向こうで男の声が聞こえた。今の彼氏だろうか。それにしても堂々と嘘をついて、よく人をクズ呼ばわりできるもんだ。……まぁ、浮気したのは認めるけど。通話を終えて、サヨリは俺に背を向けたままポツリと言う。
「付き合ってるとき、何度殺してやろうと思ったかしれない」
 サヨリは手提げから小さな日本酒の瓶を取り出した。あれは……俺の好きな酒だ。何かの記念日に飲んだあと、浮気がバレて投げつけられたことのあるいわく付きの。
 振り向きざまにまた投げつけられるのではと身構えた。だがサヨリは瓶をキッチンの調理台に置いて手を合わせた。
「あなたの好きだったお酒買ってきたから飲んでね」
「あ、ありが……」
 俺の言葉を最後まで聞かず、サヨリは靴を履いた。
「何しに来たんだよ、気持ち悪いな」
 サヨリは勢いよく振り返った。

 
「ばか……ばか……子供を庇って死んじゃうなんて」

「な……に……!?」

「せいぜい天国で天使サマのお尻でも追いかけるといいわ」
 サヨリの頬に落ちたのは涙だったのか。彼女は部屋を出ていく。
 後に残された俺は、何ひとつ家具の置かれていない、ガランとした部屋を呆然と見回した。



 #18 『突然の君の訪問。』 2024/8/29

8/28/2024, 3:41:04 PM