日夜子

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「ふぅ……」
 珈琲をひと口飲みテーブルに置いた。やっぱりここの珈琲は美味い。
 最近開拓した喫茶店『秋風』。
 ここは僕が通っている専門学校裏門前の通りを一本入った、見つけにくい場所にある。僕はまさしく秋の風に誘われるようにこの喫茶店を見つけた。少し風の強い日、手にしていたプリントを飛ばされた僕は、拾い集めているうちに『秋風』に辿り着いたのだ。

 口髭を蓄えたマスターが一人で切り盛りするこの店は、時間がゆっくり流れているように感じる。昭和の喫茶店を思わせるレトロな内装。賑やかな談笑をするような団体客もいない。大抵はおひとり様で、他の人など気にせずそれぞれに本を読んだりパソコンを叩いたりしている。
 マスターの淹れる珈琲の味が気に入ったのはもちろんだが、マスターの振る舞いも良い。本や勉強に集中したいようなときはそっと珈琲を置き、誰かと話したいような気分のときにはさり気なく話しかけてくれるのだ。
 地方から上京し友人も少ない僕にとって、『秋風』で過ごす時間はいつの間にか癒しにもなっていた。

 だが、そんな癒しの空間は唐突に終わりを迎えた。夏が足踏みしているような、汗ばむくらいの秋が急に鳴りを潜めた日のことだ。
 つい数日前までアイス珈琲を頼むこともあったが、今日は風が冷たい。秋風を通り越し、一気に冬風が吹いてきたみたいだ。ホットを頼もうかと思案していると、珍しくマスターのほうから提案があった。

「私のお勧めがあるんですが、飲んでみませんか? お代は結構ですので」
 運ばれてきたホット珈琲は普段と違わず、いい香りだ。マスターは僕が口にするのを待つように、立ち去らずにテーブルの横に立っていた。
「あ……美味しいです。苦味と甘味とが混ざったような後味が独特ですね……ってろくな感想言えなくてすみません。新商品か何かですか?」
「いえ、今はメニューにありませんが、他界した親父がこの店を始めたときに試行錯誤して生み出した、『秋風』オリジナルブレンドなんですよ」
「へえ?」
「……実は今月末で閉店することになりまして、来ていただいたお客様に振舞っているんです」
「ええっ! 閉店ですか……残念です。すごく好きな空間だったので」
「ありがとうございます。最後にあなたのようなお若いお客様にも通っていただけて嬉しかったですよ」
「これからマスターは?」
「いちから珈琲のことを勉強し直すつもりです。またいつか自分の店を持てたらいいな、なんて欲もありますしね」
「頑張ってください」
「ありがとうございます。あなたも」
 マスターはテーブルに置かれた調理師免許のテキストを見た。
 この日の会話はマスターと交わした中で一番長かったかもしれない。それくらいの関わり。ほんのひと時の人生の交わり。きっとすぐにマスターの顔も口髭くらいしか思い出せなくなるのだろう。でもこの珈琲の味は忘れずにいたい。いつかもう一度味わってみたい。そう思うくらいには心が温かな秋の日だった。


 数日後『秋風』を訪れた。扉にはCLOSEDの札とカーテンが下がり、座席が見える窓にもブラインドが降ろされていた。僅かの間とはいえ、通っていた店が無くなったことに物悲しさを感じながら、店を通り過ぎる。

 僕が通っていた頃から工事中だった隣の店がオープンしていた。何となく眺めていると扉が開き、中から女性が出てきた。
「いらっしゃいませ! カフェ『冬のはじまり』にようこそ!」
 僕より少し年上に見える、とびきり綺麗な女性はとびきり可愛い笑顔で言った。そんな誘いを断ることなどできるはずもなく、ぼくは『冬のはじまり』の扉をくぐった。

 白を基調とした少し寒々しい内装。だからこそ飾られた北欧風のインテリアが映える。男一人では入りにくい雰囲気ではあるが、店内に漂う珈琲の香りにはそそられるものがある。
 僕は取り敢えずオススメの珈琲を注文して、カウンター席の端に座った。従業員は先程の女性ともう一人だけらしい。今は満席ではないが、軽食も提供するようだし二人だけでは大変そうだな、なんて思いながら珈琲に口をつけた。

「……美味しい」
 苦味と甘味とが混ざったような独特な後味。どこか懐かしささえ感じる……って……。
 顔を上げると、カウンターの中で珈琲を淹れていた男性がパッと顔を逸らした。
「マスター……」
 髭を剃っていたので気づかなかったが、マスターがそこにいた。今まで思っていたよりずっと若そうだ。
 女性が僕とマスターを交互に見て言う。
「あら? お客様もしかして『秋風』の常連さんでした? マスター引き抜いちゃったんです。引き続き美味しい珈琲の飲める『冬のはじまり』もぜひご贔屓に!」
 冬を終えて春の花の綻ぶような笑顔で言われたら、そりゃもうね。
「はい、また来ます」
 僕は咄嗟に言っていた。引き抜かれたマスターの気持ちも分からなくはない。僕とマスターは一瞬目を合わせたあと、決まり悪げに顔を伏せた。
「あ、お客様! いらっしゃいませ!」
 扉が開くと来店客と共に、だいぶ冷たくなった秋風が、僕とマスターの間を吹き抜けた。
 


#13 2023/11/14 『秋風』

11/14/2023, 1:17:04 PM