クリスタル
私は彼に、宝石が隠されていることを知っている。
人も星も月も眠ってしまった、静かで暗い夜。少し向こうに見える街だけが光源となっている。ここは街の外れで、ポツポツとある建物は誰かの家のみ。どれも電気は付いていない。私はベランダの柵に寄りかかり、暗い部屋を背にして煙をぷかりと浮かべた。
ぶううんと、扇風機の音が響く。気温は高いが風が吹いていて、薄着の私には心地よい暑さだった。もう一度吸い込み煙を吐く。吐いた煙が風によって流されていった。
「……ッチ」
一瞬の熱で思わずタバコを落とす。いつの間にか短くなっていた。もう一本、と思ったが、箱は空。仕方なく、まだ熱気の籠る部屋に戻ることに決めて。
息が止まった。
白い点二つが私を見ていた。辺りが薄暗いからか、白い部分だけがはっきりしていて、持ち主の姿はよくわからなかった。この高さの瞳は人間であることに気づき、反射で太もものホルダーに手を伸ばして。それからようやく、こんなことをするのは彼だけだと直感が告げた。そのまま手を上げる。所謂降参のポーズである。
「遅くない?」
「あなたが静かすぎるのが悪いのよ。……声くらい、かけてくれたっていいでしょう?」
「だってこの前は攻撃されたから」
「……」
──もう掠りもしないくせに。
彼が私の攻撃で傷を負ったのは、随分前のことになる。もう私程度では気配も感じられない。元々薄い存在ではあったが、いつからかソレに拍車がかかった。
「……それで、何の用かしら」
「いや、タバコ吸ってるの見えたから」
「もう無いわよ」
「そう」
こうして、平然とした姿と、起伏のない声で、何を考えているのか読み取れなくなったのも。彼を避けるようになった一つの理由だった。そのことに、とても恐怖を覚えてしまう自分がいる。
「あなた、……ついに人を辞めてしまったの?」
「いや、僕は今も昔も人ですけどね」
「瞳が光る人なんているかしら?」
「さぁ……僕は学者ではないのでわからないです」
「そう」
瞳が光ることは否定されなかった。妖しく白く輝いていた瞳は、今は特徴的な、黄色に近い透き通った色になっている。さっきのは幻覚だと言わんばかりに静かに見据えられている。
「タバコ買いに行きません?」
「置き去りにされそうね」
「どちらかというと、僕を置き去りにして欲しいかな」
今足がなくて。
そう、頬を掻きながら照れたように言う。──目は口ほどに物を言う。何も動かない瞳を見て、ため息を吐く。
「……奢ってよね」
「それはもちろん」
街中のコンビニまで、ハンドルを握りながら思い出す。
──夜行性の動物、それから深海のサメ。
──彼らの目は、光を反射させるから光っているように見えるらしい。
ならば、助手席に座る彼はきっと、光のない夜を彷徨いすぎたのだろうか。彼には否定されたが、幻覚のようには思えなかった。
白い光を思い出す。
──あれは、そう、例えるなら。
ぼんやりとしていた街の灯りが、はっきりとしてくる。あの光とは全く違う、人工的な灯り。
そういえば、人の目には水晶体というものがあるらしい。
──水晶……。
彼はまだ人だ。瞳が僅かに、ほんの僅かにだが揺れていた。まだ彼を、バケモノだと思いたくないなと考えながら、思考を振り切るために、アクセルを踏み抜いた。
カーテン
あ、
カーテンに、攫われてしまう。
春。始業式が終わり、皆思い思いに散らばっている。
一年は説明のために教室に集まっているのだろう。僕ら二年以降は片付けが終われば、体育館で解散、自由に帰宅だと指示された。久々に会う友人と談笑している人もいれば、そうそうに帰るような人もいた。
そんななか、僕は教室に向かっていた。荷物を取りに行くためである。
事前の指示により、僕以外は体育館の空きスペースに荷物を置いていた。しかし睡眠不足の自分の耳にHRの声は何一つ入っておらず、しかも始業式が終わってからようやくそのこと知ったので、自分だけは机の横に荷物を掛けたままだった。
友達を待たせているので、階段を一段飛ばしで駆け上がり、呼吸を軽く乱しながらも教室に急ぐ。
ドアは開いていた。シンとした誰もいない教室はなんだか寂しい気がする。普段人が多くて騒がしいからだろうか。置物になっている机と椅子は、朝の記憶が曖昧なのもあって、自分のものかそうでないか、自信が持てない。おそらくバッグが引っ掛かっているのが自分の席だろうと近づいた。
学校指定のバッグも、一見すると自分のものか判断がつかない。一旦机に置き、中を漁る。荷物の中で一番重たい、お気に入りのカメラ。絶対に自分のものだ。どうやら指示を聞いていなかったは僕だけらしかった。
バッグに仕舞いこむと同時に持ち手を掴み、教室を出ようと振り返る。──振り返ろうとした。
空いていた窓から風が吹き込み、一瞬目を瞑る。次に目に入ったのは、白。本当はもう少しくすんでいるはずなのに、太陽に照らされているからか、とても明るい白に見える。何かに似ているなと思って、すぐに思い出す。
──ウエディングドレスだ。
男性がドレスの女性を持ち上げるシーン。このシーンがどの作品の記憶か分からないが、するりと情景が浮かぶ。
風が収まると、今度は白に見合わぬ黒が見えた。艶やかな黒がさらりと揺れる。日焼けも荒れも知らぬような長い指が耳を撫で、横からでも形の良い顔が覗いた。もう片方の手は本を開いていて、本からは白いリボンの栞がはみ出している。
そのまま切り撮って写真に収めたい気持ちと、はたして撮れたとしてこの人は映るだろうかという疑問が浮かぶ。
もう一度、先ほどよりは小さく、ひゅうと風が吹き込み。
あ、
カーテンに、攫われてしまう。
だって綺麗な人だったから。白と黒のコントラストだけがはっきりしていて、それ以外は曖昧だったから。確かに綺麗な白い手が、青白く見えてしまったから。だって規則正しく並んだ席から、一つだけはみ出た席に座っているから。この世のものではないと、もしくはこれからこの世のものではなくなると思ってしまったから。
それら全てが、曖昧で鮮烈に映って。
整えたはずの自分の心臓が、またドクドクと鳴ってしまって、頭がクラクラとしてしまって。それが自分の幻覚だったり、何かに攫われたりで、もう二度と見れなくなってしまうかもしれないことが恐ろしくなって。
その人を見つめることしかできなかった。
好き、嫌い、
チリンチリンと、軽快なベルが鳴る。梅雨による、日本特有のモワッとした空気が一転、涼やかな空気に切り替わる。
その奥には、無邪気でニコニコとした──自分に言わせればイヤな予感のする笑みを浮かべた恩人が座っていた。
「いやぁ、実に偶然だね」
「……そうですね」
「もう夏バテしたのかい? これからが本番だというのに……そんな顔をしないでくれ、今日は本当に偶然だとも。まァ、確かに君の行動パターンは読みやすいが……」
君はもっと、腹芸というのを覚えた方がいい。目の前の恩人は、小さく呟いた。
朝からイヤな予感はあった。朝の星座占いは一位だったし、無くしたと思った近所のスーパーのカードは見つかったし、たまたま自販機で飲み物を買ったら『数字が揃ったらもう一本!』と二本出てきた。それだけを聞くと、今日はラッキーな日だと思うかもしれない。しかし、ラッキーアイテムは『二人映った写真』で、自分のフォルダに二人映った写真はないし、スーパーのカードはもう作り直してしまったし、バッグにもう一本ペットボトルが入るほどの余裕はなかった。そして、今もそうだ。偶然恩人と出会う。良いことだ。しかし、蓋を開けてみれば、先日の事件を思い出す、少しイヤなことでもあった。
「……一大学生にそんなもの、要りますかね」
「大いに必要だとも。ボクと出逢ってしまったのだから」
「そういうものですか」
「ボクは根っからの探偵だからね、そういうものだ」
店員が御注文は? と聞きにきたので、メニューを開き、目に入った中で数字が小さい飲み物を適当に指差す。
「ボクはアイスコーヒーで」
「……コーヒー飲めるんですか?」
「勿論。キミ、偏見は良くないぞ」
そういえば、前の自己紹介のときに成人していると言っていた。偏見は良くないと言われた手前口には出さないが、これがギャップかと思ってしまう。
元々口下手な自分だ。話題が盛り上がることはない。自称探偵は、外を眺めながら下手な鼻唄を披露していた。
ふと、先日の事件の後ずっと考えていたことを、聞いてみようと思った。
「あの人はなぜ、恋人を、愛した人を……嫌いになったのでしょう」
ぽつりと、少し濁しながら聞いた。気になったのだ。この風変わりな人は、どう答えるのか。
「人の心は移ろうものだ。それが人だからな。だが……キミが求める答えではなさそうだ」
アイスティーとアイスコーヒーが運ばれる。ありがとう、と受け取りながら、探偵は語り始めた。
「キミは『コーヒーは好きか?』と質問されたら、どう答える? あぁいや、答えは要らないよ。答えは好き、嫌い、もしくはどちらでもないという三つの選択肢のどれかだ」
ポットを引き寄せ、角砂糖を取り出す。
「好きと嫌いの間には、そのどちらでもない回答がある。では次、もし『ブラックコーヒーは好きか?』と聞かれても、同じく回答は三つだ」
ポチャ、と音が三つしてから、コップの中の液体がくるくると混ぜられる。
「さて次、先ほど運ばれたブラックコーヒーと、今ボクの手元にあるブラックコーヒー。一体何が違う?」
「……前者は無糖、後者は砂糖入り」
「正解。ただ、どちらも見た目に変わりはない。もし、今のボクの行動を見ていなかったら、見た目だけでそれを判断することは出来ないだろうね」
ポットが元の位置に戻される。
「その上で尋ねよう。『このブラックコーヒーは好きか?』」
角砂糖入りコーヒーを飲むのを見て、ギャップでもなんでもなかったなと思う。ついでに、角砂糖はアイスコーヒーに溶けるのかと、今更疑問が浮かんだ。ガムシロップもミルクもテーブルの上には見当たらない。店員が注文で聞き忘れたか、付け忘れたか。本人が何も気にせず飲んでいるなら、今更言う必要はないかと自分もアイスティーを持ち上げる。
「ボクは他人の感情には聡いが、共感性は欠けている。だからこれは推測にはなるが……わからなくなったんだろうな、好きと嫌いの違いが」
「そういうもの、ですか」
「そういうものだ」
「……自分には難しい話です」
「仕方ないさ、それがキミだ」
会話が途切れ、ついと外を見る。半袖の人が何人も行き交っているのが見えた。少しだけ沈黙が降り、店内のざわめきだけが耳に入る。もう一度アイスティーを口に含む。
「夏ですね」
「あぁ……梅雨が明けてしまうな……」
自分の呟きに、寂しそうに呟きが返された。
あの日、この人がずぶ濡れで自分の元へ来たことを思い出す。あんなにも頼りになるのに、守らないとという矛盾した感情を抱いたことも、この人はこれでいて寂しがりなのだとも知ってしまったことも。
これからも自分はこの人と関わってしまうのだと、直感めいた何かを感じた。この人は探偵だから、会うのはきっと事件現場だろう。最悪だと思いながら、自分は無視できないのだ。だって知ってしまったから。
アイスコーヒーに向いた目線を外の通りに戻し、思った。次会う時は、探偵を名乗らないで欲しいな、と。
夏の暑さが、すぐそこに迫っていた。
届かないのに
どーしてこーなった。
暗がりに佇んでいる青年は、ぼんやりとソレを見つめていた。青年はソレを見つめてはいるが、見えていないはずの、ソレの後ろに転がっている空き缶を見ているようにも見える。ソレを見えなくするフィルターでもかかっているかのような、ソレとは別の世界のものが重なっているような、無関心な瞳で、それでも目を離さず見つめていた。
その一方で、ソレは、胸の前で己の指を絡め、膝をつき、青年へ顔を向けていた。その体勢は、まるで、そう、神に祈る熱心な教徒を思わせる。しかし、その瞳はギラギラと、神に祈るにしては欲を孕んだ、敬虔とは程遠い想いを宿していた。
「……でした。貴方だけだったのです。私を見てくださったのは。貴方様だけが、私の本性に気づいていたのです。……初めのご無礼をお赦しください、あの頃の私は愚かだったのです、無知だったのです、けれど純粋ではなかった。……いえ、お赦しくださいというのは傲慢だ、それだけの罪を重ねたのです、私は、わたしは……どうしたら、また貴方に呼んでいただけるのですか、私は、貴方様にみすて、見捨てられてしまっ、たら……」
ソレのギラギラとしていた瞳は、言葉を紡ぐうちに、だんだんと揺れ、震え、恐怖に変わっていった。それでも体勢は変わらず、固く絡めた指は離れる様子がなかった。
青年は、相変わらずそれを眺めていた。
しばらくして、ソレの言葉は途切れ途切れになった。ついには青年から眼を離し、口の動きも止まってしまう。静寂が訪れる。
青年は、相変わらずそれを眺めていた。
一分、二分、三分。その場に時計は見当たらず、青年もソレも腕時計を付ける習慣なぞなかったので、感覚にはなるが、カップラーメンが美味しくできあがるくらいの時間が経って。そしてソレはぶるぶると震えだし、バッと顔を上げ、縋るように腕を伸ばした。
「あな、貴方様に、呼んでいただきたいのです、必要とされたいのです、認められたいのです、褒められたいのです、満たされたいのです、笑って欲しいのです、隣にいて欲しい、側にいて欲しい、喜んでもらいたい──」
言葉を紡ぎながら彼を見る。私を見透かした瞳が、見透かしている瞳が、こちらを見ている。みていないのはわかっている。でも、見てくださっている。後光が見える。いや、後光がさすのは仏だ。彼は仏ではない、じゃあ彼はなんだ。灯りの少ないこの路地で、眩く輝いている。いや、我々が定義するのが間違っているのだ。信仰対象。信仰、そう、信仰だ。
──神様。
神様はしゃがみ、腕を伸ばす。神は遠いところに御座すと聞いたが、こんなにも近くに、手の届く距離に。手を、とって、
青年はソレの付けている布をちょんと摘み、囁いた。
「……ね、わかるよね?」
ソレは、御信託を受け取った幸福感と、届かないのに手の届く距離にいるという絶望と希望に揉まれながら、こくこくと頷くしかなかった。
青年は特に、ソレをどうかしたいとかは考えていなかった。いつも、ぼーっとソレの言葉を聴き流し、てきとうな言葉をかけるとアラ不思議、何故か言うことを聴く下僕となるのだ。しかし、こんなにも熱心に言われることはなかったものだから、困惑していた。まぁ、それもはじめだけだったのだが。
けれど、少しだけ、ソレが本当に欲しいものには手は届かないのになと、ほんとうに少しだけ可哀想に思って、憐みの眼を向けた。しかし、すぐさま先程の無関心に戻り、さっさと人気のない路地裏を出て行く。
残されたのは、熱に浮かされた男のみだった。
傘の中の秘密
雨は好きだ。
他の人は気が滅入るだとか、髪が崩れるだとか、単純に濡れるのが嫌だとか、嫌なことばかり言っていたけれど。僕は雨の気怠さだとか、家の中や傘の中で聴く音だとか、いつもと変わって見える風景だとか、そういうところが好きなのだ。
でもやっぱり、一番は。
カンッカンッカンッと軽やかに、鉄板を叩く音。そして、少し重いタンッタンッと鳴る雨粒。耳を澄ますと、ピチャピチャと水音。ガチャガチャと鳴るいろんな音が、僕を包んでいる。
最後の段を滑らないように蹴り、一番上に躍り出る。
最高に気分が良くて、鼻唄がでる。歌詞はうろ覚えで、絶対に合っていない自信がある。なんならメロディも怪しい。テレビで聞いた曲で、題名すら覚えていなかった。
──まぁ楽しければなんでもいいか。
経年劣化で緩んだフェンスを飛び越え、そこからはみ出しているへりに腰掛ける。足をぶらぶらさせながら、下を見る。
上から見ると、なんというか、モザイクタイルを思い出す。けれど、傘をさす人はたくさんいて、色も大きさも千差万別。モザイクタイルとは似ても似つかない。
──ガチャガチャ。音と一緒だ。
──黒くて大きな傘は社会人。可愛らしい小さな傘は子供。ビニール傘やさしていない人は傘を忘れたのだろう。目立つ色は傘を無くしたことがある人。おしゃれなやつは大抵女性らしい人。
びちゃびちゃになりながら空想を続ける。
服や髪が肌に張り付く。気圧のせいか、寒さのせいか、身体は重く、頭は痛みを訴えていた。だがそれも、楽しさの前では些細なこと。
先ほどのいい加減な鼻唄は、打って変わって綺麗なメロディを奏でいた。不意に、この唄の歌手は結婚したことを思い出す。唄いながら体を揺らすと滑りそうな気もしたが、身体が重いからか、落ちるような不安はなかった。
ふと、黒色が目に入る。それはゴチャゴチャとした色の傘の中で、一際目立って見えた。しかし、どう見ても他と同じ色。どうも違和感を覚え、すぐさま頭の中の引き出しを開け放つ。引き出しに放り込んだ物を、新しいものから順に見ていく。幸いにも探し物はすぐ見つかった。
──そうだ、最近事件に巻き込んできた奴だ。
丁度今日のような雨の日。僕は常に手ぶらだから、見かねた彼が傘を貸してくれたのだ。自分は折り畳み傘があるからと。
目下の彼は、急足で人の合間を縫っていく。よぉく目を凝らすと、暖色のキャリーケースをほんとど持つように引き摺っている様子が伺えた。ここで疑問を覚える。
──彼、ほとんどの持ち物がモノクロだったはず。
──飲食のバイトと大学の講義で忙しいと言っていた。
──徒歩。しかし駅もバス停も遠い。
まだ確定ではない。しかし、己の勘は告げていた。何かあるぞ、と。それから、
──なんだか面白そうだ。
面白いことに関する、己の勘が外れたことはない。
さて彼は一体どんな秘密をキャリーケースに仕舞っているのか。ワクワクしながら、今度はへりから向こうへとフェンスを飛び越えた。