好き、嫌い、
チリンチリンと、軽快なベルが鳴る。梅雨による、日本特有のモワッとした空気が一転、涼やかな空気に切り替わる。
その奥には、無邪気でニコニコとした──自分に言わせればイヤな予感のする笑みを浮かべた恩人が座っていた。
「いやぁ、実に偶然だね」
「……そうですね」
「もう夏バテしたのかい? これからが本番だというのに……そんな顔をしないでくれ、今日は本当に偶然だとも。まァ、確かに君の行動パターンは読みやすいが……」
君はもっと、腹芸というのを覚えた方がいい。目の前の恩人は、小さく呟いた。
朝からイヤな予感はあった。朝の星座占いは一位だったし、無くしたと思った近所のスーパーのカードは見つかったし、たまたま自販機で飲み物を買ったら『数字が揃ったらもう一本!』と二本出てきた。それだけを聞くと、今日はラッキーな日だと思うかもしれない。しかし、ラッキーアイテムは『二人映った写真』で、自分のフォルダに二人映った写真はないし、スーパーのカードはもう作り直してしまったし、バッグにもう一本ペットボトルが入るほどの余裕はなかった。そして、今もそうだ。偶然恩人と出会う。良いことだ。しかし、蓋を開けてみれば、先日の事件を思い出す、少しイヤなことでもあった。
「……一大学生にそんなもの、要りますかね」
「大いに必要だとも。ボクと出逢ってしまったのだから」
「そういうものですか」
「ボクは根っからの探偵だからね、そういうものだ」
店員が御注文は? と聞きにきたので、メニューを開き、目に入った中で数字が小さい飲み物を適当に指差す。
「ボクはアイスコーヒーで」
「……コーヒー飲めるんですか?」
「勿論。キミ、偏見は良くないぞ」
そういえば、前の自己紹介のときに成人していると言っていた。偏見は良くないと言われた手前口には出さないが、これがギャップかと思ってしまう。
元々口下手な自分だ。話題が盛り上がることはない。自称探偵は、外を眺めながら下手な鼻唄を披露していた。
ふと、先日の事件の後ずっと考えていたことを、聞いてみようと思った。
「あの人はなぜ、恋人を、愛した人を……嫌いになったのでしょう」
ぽつりと、少し濁しながら聞いた。気になったのだ。この風変わりな人は、どう答えるのか。
「人の心は移ろうものだ。それが人だからな。だが……キミが求める答えではなさそうだ」
アイスティーとアイスコーヒーが運ばれる。ありがとう、と受け取りながら、探偵は語り始めた。
「キミは『コーヒーは好きか?』と質問されたら、どう答える? あぁいや、答えは要らないよ。答えは好き、嫌い、もしくはどちらでもないという三つの選択肢のどれかだ」
ポットを引き寄せ、角砂糖を取り出す。
「好きと嫌いの間には、そのどちらでもない回答がある。では次、もし『ブラックコーヒーは好きか?』と聞かれても、同じく回答は三つだ」
ポチャ、と音が三つしてから、コップの中の液体がくるくると混ぜられる。
「さて次、先ほど運ばれたブラックコーヒーと、今ボクの手元にあるブラックコーヒー。一体何が違う?」
「……前者は無糖、後者は砂糖入り」
「正解。ただ、どちらも見た目に変わりはない。もし、今のボクの行動を見ていなかったら、見た目だけでそれを判断することは出来ないだろうね」
ポットが元の位置に戻される。
「その上で尋ねよう。『このブラックコーヒーは好きか?』」
角砂糖入りコーヒーを飲むのを見て、ギャップでもなんでもなかったなと思う。ついでに、角砂糖はアイスコーヒーに溶けるのかと、今更疑問が浮かんだ。ガムシロップもミルクもテーブルの上には見当たらない。店員が注文で聞き忘れたか、付け忘れたか。本人が何も気にせず飲んでいるなら、今更言う必要はないかと自分もアイスティーを持ち上げる。
「ボクは他人の感情には聡いが、共感性は欠けている。だからこれは推測にはなるが……わからなくなったんだろうな、好きと嫌いの違いが」
「そういうもの、ですか」
「そういうものだ」
「……自分には難しい話です」
「仕方ないさ、それがキミだ」
会話が途切れ、ついと外を見る。半袖の人が何人も行き交っているのが見えた。少しだけ沈黙が降り、店内のざわめきだけが耳に入る。もう一度アイスティーを口に含む。
「夏ですね」
「あぁ……梅雨が明けてしまうな……」
自分の呟きに、寂しそうに呟きが返された。
あの日、この人がずぶ濡れで自分の元へ来たことを思い出す。あんなにも頼りになるのに、守らないとという矛盾した感情を抱いたことも、この人はこれでいて寂しがりなのだとも知ってしまったことも。
これからも自分はこの人と関わってしまうのだと、直感めいた何かを感じた。この人は探偵だから、会うのはきっと事件現場だろう。最悪だと思いながら、自分は無視できないのだ。だって知ってしまったから。
アイスコーヒーに向いた目線を外の通りに戻し、思った。次会う時は、探偵を名乗らないで欲しいな、と。
夏の暑さが、すぐそこに迫っていた。
6/20/2025, 2:34:17 PM