届かないのに
どーしてこーなった。
暗がりに佇んでいる青年は、ぼんやりとソレを見つめていた。青年はソレを見つめてはいるが、見えていないはずの、ソレの後ろに転がっている空き缶を見ているようにも見える。ソレを見えなくするフィルターでもかかっているかのような、ソレとは別の世界のものが重なっているような、無関心な瞳で、それでも目を離さず見つめていた。
その一方で、ソレは、胸の前で己の指を絡め、膝をつき、青年へ顔を向けていた。その体勢は、まるで、そう、神に祈る熱心な教徒を思わせる。しかし、その瞳はギラギラと、神に祈るにしては欲を孕んだ、敬虔とは程遠い想いを宿していた。
「……でした。貴方だけだったのです。私を見てくださったのは。貴方様だけが、私の本性に気づいていたのです。……初めのご無礼をお赦しください、あの頃の私は愚かだったのです、無知だったのです、けれど純粋ではなかった。……いえ、お赦しくださいというのは傲慢だ、それだけの罪を重ねたのです、私は、わたしは……どうしたら、また貴方に呼んでいただけるのですか、私は、貴方様にみすて、見捨てられてしまっ、たら……」
ソレのギラギラとしていた瞳は、言葉を紡ぐうちに、だんだんと揺れ、震え、恐怖に変わっていった。それでも体勢は変わらず、固く絡めた指は離れる様子がなかった。
青年は、相変わらずそれを眺めていた。
しばらくして、ソレの言葉は途切れ途切れになった。ついには青年から眼を離し、口の動きも止まってしまう。静寂が訪れる。
青年は、相変わらずそれを眺めていた。
一分、二分、三分。その場に時計は見当たらず、青年もソレも腕時計を付ける習慣なぞなかったので、感覚にはなるが、カップラーメンが美味しくできあがるくらいの時間が経って。そしてソレはぶるぶると震えだし、バッと顔を上げ、縋るように腕を伸ばした。
「あな、貴方様に、呼んでいただきたいのです、必要とされたいのです、認められたいのです、褒められたいのです、満たされたいのです、笑って欲しいのです、隣にいて欲しい、側にいて欲しい、喜んでもらいたい──」
言葉を紡ぎながら彼を見る。私を見透かした瞳が、見透かしている瞳が、こちらを見ている。みていないのはわかっている。でも、見てくださっている。後光が見える。いや、後光がさすのは仏だ。彼は仏ではない、じゃあ彼はなんだ。灯りの少ないこの路地で、眩く輝いている。いや、我々が定義するのが間違っているのだ。信仰対象。信仰、そう、信仰だ。
──神様。
神様はしゃがみ、腕を伸ばす。神は遠いところに御座すと聞いたが、こんなにも近くに、手の届く距離に。手を、とって、
青年はソレの付けている布をちょんと摘み、囁いた。
「……ね、わかるよね?」
ソレは、御信託を受け取った幸福感と、届かないのに手の届く距離にいるという絶望と希望に揉まれながら、こくこくと頷くしかなかった。
青年は特に、ソレをどうかしたいとかは考えていなかった。いつも、ぼーっとソレの言葉を聴き流し、てきとうな言葉をかけるとアラ不思議、何故か言うことを聴く下僕となるのだ。しかし、こんなにも熱心に言われることはなかったものだから、困惑していた。まぁ、それもはじめだけだったのだが。
けれど、少しだけ、ソレが本当に欲しいものには手は届かないのになと、ほんとうに少しだけ可哀想に思って、憐みの眼を向けた。しかし、すぐさま先程の無関心に戻り、さっさと人気のない路地裏を出て行く。
残されたのは、熱に浮かされた男のみだった。
6/17/2025, 3:17:55 PM