「おばあさま、今日は大変芳しい香りがいたしますね。」
ゆっくり、はっきりと話しかける。
「ええ、柚子の香りでしょうね。」
おばあさまも、ゆっくりとお話しを続けました。
「わたくしは、昔、柚子の花と呼ばれたものです。」
懐かしそうに目を細められました。
「ふふ、見た目は控えめでも、柚子の花は芳しい香りを持ちますでしょ。
柚子のように中身の薫る人と成りなさい。と、母は仰っていました。」
それはそれは嬉しそうに、おばあさまらお話しになられました。
「父さま、お伝えしたいことがあります。」
「なんだ。」
私は、喉の渇きを少しでも癒すために唾液を飲み込んだ。
「私は家を離れ、婿として他家に嫁ぎたいと考えています。」
指先が震えてきた。
「何故だ、己の立場を理解しているのか。」
父さまの威厳ある声が響く。
「私が家の流れを汲む、嫡男であることは理解しています。
しかし、この家を継ぐことが出来るほどの器は、私に在りません。
それ故、他家に嫁ぎたいと存じます。」
父さまの反応を伺う。
「己の器をその年で理解するか。
己の器を理解出来るほどの頭を有しながら、
他家に嫁ぐとは、何と惜しいことだろうか。
これも、きっと天の思し召しか。
良かろう、ならば他家の婿養子となり、生涯を全うせよ。」
父さまは、冷静に名残惜しいそうに私を見つめた。
「感謝致します。この御恩は、生涯忘れません。」
私は頭を深く下げた。
これが我が家の流れ、女系の始まりでした。
あるところに、雪柳の君と呼ばれた、
高貴な血を引く、さほど家格の高くない生まれの女性がおりました。
彼女の事を良く云えば、凛々しく聡明な御方、
悪く云えば、手厳しく気強い御方でした。
彼女は、成人して間もなく、かつての財閥家の男性と婚約。
大学院を卒業後、弁護士となり、かの男性と婚姻しました。
彼女の手腕により、わが家を後に再興させるに至る、
きっかけと基盤を作ったと伝わります。
現在において、このような形容は好ましく無いとは思いますが、
女性でありながら、わが家を再興させるに至る、
きっかけと基盤をお作りになった功績は、
何時の世においても、素晴らしいものだと思われるでしょう。
それが、私の祖母だと言うのだから驚きです。
私のおばあちゃんは、今では普通のおばあちゃんです。
私を含め、孫たちには皆優しくて、いつも温かく迎えてくれて、
たくさんの食べ物を勧めてきます。
旅行に行く時のお土産や誕生日プレゼントを贈るときなど、
私が「何が良い?」と聞くと、いつも決まってこう言います。
「お茶っ葉(おちゃっぱ)が良いです。」簡潔に丁寧に応えてくれます。
私は、その誰に対しても丁寧さを忘れないところ、
そのいつも迷いの無い簡潔な回答が大好きで、
分かっていても、欲しいもの尋ねる際は必ず聞きます。
例え、孫の前でもデレない、自慢のおばあちゃんです。
いつも、アフタヌーンティーにお友達を招待して、老後を愉しんでいます。
最近では、大人になった孫たちを一人ひとり誘ってくれます。
今日、私も初めて誘われました。
おばあちゃんのアフタヌーンティーに、
ひとりで誘われると大人になったと認められたような気がします。
本当に嬉しく、愉しみです。
それでは、また、お会いしましょう。
最後まで、お付き合い頂き、ありがとうございました。
かしこ
「かすみさん、少しだけ構って。」
そう言って、彼は少しだけ微笑んだ。
その姿はわが夫ながら、あまりに可愛く、愛おしい。
「いいですよ。」
ソファに座ると、彼はわたしの太ももに頭を乗せる。
「珍しいこともあるものですね。」
「たまには、自分の奥さんに甘えたくなった。」
彼には、よそに多くの女性がいる。
それを了承した上で、わたしは彼とお見合いで結婚したから、
わたしに甘えるなんて思いもしなかった。
普段は、多分よその女性に甘えているはず。
だから、わたしに甘えるなんて初めてだった。
「まるで、源氏の君と大殿の君の夫婦円満な描写みたいですね。」
「うーん、確かに似てるかもね。
でも、ちょっとその例えは哀しいかな。」
「あら、どうしてですか。」
「だって、そのあと大殿の君は亡くなるから。
かすみさんが亡くなる、フラグみたい。」
「まあ、そんな風にわたしのことを想って下さっていたのですね。」
「僕は多くの女性と恋するけど、僕の妻はかすみさん唯一人だよ。」
「ふふ、嬉しいことを言って下さいますね。」
わたしは、彼の黒く美しい短髪を撫でた。
美しさとは、何なのだろう。
私は、よく源氏物語の源氏の君のようだと謂われる。
彼のように、何事にも優れた才覚などは無い。
しかし、彼のように、どんな人にも美しいと言われてきた。
私を好む人は、皆口々に言う。
「あなたの美しさが何よりも好き。」だと。
私の中身を見ず、私の美しさに引き寄せられた人ばかりだ。
私の中身など、彼らの前には存在しないも同然なのだ。
だから、私が彼女らに何をしようと、その容姿の美しさで許されるのだろう。
私は、容姿は優れているだけで実力など無い。
しかし、優遇されて流されて此処まで来てしまった。
その道は、己の実力とは裏腹に自惚れてしまう。
その先は、己の破滅のみ。
どうすれば、抜け出せるのだろう。
どうすれば、人から見てもらえるのだろう。
「容姿に惑わされる人間から離れなさい。
その人は、あなたを見ているのでは無く、
あなたの美しさに魅了されているだけなのだ。」
兄様、私はどうしたら、身内以外の人を信じられるのでしょう。