「すまなかった。
本当にすまなかった。
若き日の貴女への仕打ちを、今、此処に謝罪させて欲しい。」
私は、人を愛することを何よりも恐れていた。
若き日の私は、その自覚さえ無かった。
私の両親の最初の記憶は、浮気性な父を母が責めているところだった。
母は、発狂していた。
『あなたは、いつも、いつも、他の女にばかり目を向けて!』
父は、冷たく突き離していた。
『あなたも、愛人を持てば良い。』
母は、父を心から愛し続けていた。
あれだけ軽々しく扱われながらも、父という男に侮辱されながらも、
いつも変わらず、一途に妻として最期まで愛し続けた。
実の子たる私さえ、その目には映さなかったほどに。
母があれほど父に執着していたのは、
カトリックの教育を受けて、信奉していたのも有ったと思う。
しかし、そのさまは、私の目に狂気として映った。
人を愛するとは、私にとって正気の沙汰では無かった。
「今さら赦しを乞うつもりは、無い。
唯、これだけは信じて欲しい。
私は、妻たる貴女を心から愛している。」
私は、声を振り絞る。
貴女は言った。
「ありがとう、言葉にしてくれて。
でもね、疾うの昔から、わたしは知っていたわ。
貴男は、わたしを心から愛してくれていたことを。」
貴女は微笑み、言葉を続けた、
「貴男は、昔から本当に不器用ね。
だから、可愛いのだけど。
わたしの愛しき人、わたしの生涯に渡り愛し続ける、唯一の人。
わたしの目を見て。」
貴女は、私の輪郭に両手を添える。
「わたしは、もう怒ってなどいないわ。
貴男を赦します。
だから、もう泣いて良いのよ。
だから、もう、わたしを愛し続けて良いのよ。」
涙が一筋零れる。
涙が溢れてくる。
そんな情けない私を、最愛の貴女は優しく抱きしめた。
私は、愛人。
誰よりも、彼を愛してきた。
一途に、一途に、愛してきた。
彼が家に来る時は、いつも夜だった。
華やかなシルクのキャミソールドレスを着て、
艶やかな化粧をして、
甘い声をした。
正直、彼と結婚できると思っていた。
彼は、奥さんより私の方が綺麗だと思っていた。
でも、現実は違った。
彼の奥さんを遠目で見た。
すぐに分かった
遙かなる 予期せぬ早さ 幼子よ われ知らぬうち 巣から飛び去る
「兄上、どうか、私の死を悲しまないで。」
血の海に、彼は浸る。
柔らかく、微笑み、いつものよう私を尊敬の眼差しで見る。
「嗚呼、頑張るよ。」
私は、辛うじて笑みを浮かべた。
「兄上、あなたは私の憧れでした。
例え、理解されなくとも怯まず、
例え、冷遇されても結果で圧倒し、
何があろうと己を信じ、
何があろうと努める。
その姿は、正しく我家を継ぐに相応しい。」
彼は死の淵に漂いながらも、
その瞳は潤み輝きを増し、
彼の表情は、まるで英雄譚を語る子供のようであった。
そして、月日は流れる。
私は、今、死の淵を漂う。
後にも先にも、彼、いや、貴男だけだったよ。
私に、あのような眼差しを向けてくれたのは。
やっと、そちらに行けるようだ。
嗚呼、なんと永き月日だったであろう。
貴男の最期は、一度たりとも忘れられた事など無かった。
私は、血の海に浸る。
永きに渡り、待ち望んできた、死とは、こんなにも穏やかだったのか。
ならば、あの時、私がこの手で最後に貴男を殺めた時、
先代を殺し、兄弟を皆殺し、
我家の悪習という名の代替わりを成し遂げた時、
貴男が何故、いつも以上に穏やかだったのか、
やっと分かったよ。
「我が息子よ、私の死を悲しむな。」
息子は涙を堪えながらも、覚悟を決めた表情をしていた。
私は、瞼を閉じる。
「承知、致しました。」
微かに、息子の声が聞こえた。
わたくしの夫は、ろうそくの灯りのような人だった。
自然の草木を愛で、動物と語らい、楽器を奏でる。
平和と豊かさを心から愛している人だった。
太陽のような輝かしさ、宝石のような華やかさは無くとも、
暗闇を柔らかく照らし、多くの人々を安心させる、ろうそくの灯り。
皆の日々を支え続ける、温かい心遣いのできる人。
本当に非の打ち所の無い、自慢の夫だった。