疾うの昔の話しである。
私の父には、多くの側室がいた。全て、政略結婚だった。富豪の娘に、上級貴族の娘、大臣の娘…など、有力な家ばかりとの繋がりを持つためだった。
彼にとって婚姻とは、その家の力と弱みを握る手段でしか無かった。
そんな彼は、遂に正室を迎える。その女性は、階級の中でも最下層の出だった。当時には珍しい、恋愛による格差の結婚だった。そして、彼は正室の彼女しか、生涯愛さなかった。彼から唯一、寵愛を注がれた女性。それが、私の母だった。
多くの側室が居れば、子も多い。私には、腹違いの多くの兄と姉が居たが、正室の子の私が嫡男となり、家督を継ぐこととなった。
つまり、そう…。感の良い方はお気づきの事だろう。
私の子ども時代は、地獄と化した。
私が幼少の時に、母は病に伏し、若くして亡くなっていた。
そんな地獄にも、希望があった。一部の兄弟が、私の味方に付いたのだ。
それにより、勢力争いを勝ち抜き、生き残ることが叶ったのだ。
兄弟たちが隣国に嫁いだ、その後も文通による交流は続き…、その兄弟たちとは、再会の約束を取り付けることに成功した。
待ちに待った今日、ドアのベルと再会を喜ぶ、音が玄関ホールに響き渡った。
一瞬、冷たい雫が肩に落ちた。一粒、一滴、と肩を掠めた。しだいに、落ちて来る間隔が狭まって来た。驟雨だ。
和多志は、足速に軒の下に逃げ込んだ。
今日に限って、笠も、和傘も、持っていない。最近、日照り続きで油断した。
妻の言葉を聞けば、良かった。やはり、女性の勘は鋭い。男の和多志は、勘は当たらぬことが多いが、妻や和多志の身近な女性は、みな、よく当たる。
なんとも、不思議だ。きっと、女性にしか分からぬ、世界が在るのだろう。
変な意地は、捨てるに限る。と、改めて反省した。
………用事は、終わった。後は、妻の待つ家に帰るのみ。
妻への土産は、何が良いだろう。…これ又、妻の得意分野だ。
その時々で、妻に頼む…贈り物は、いつも相手方に好評だった。
今日は、妻の細やかで繊細な気遣いと、凄さに気付かされる…良い日だ。
妻に土産を買い、青い切符を手に、二等車両に乗り込む。
座席に深く腰掛け、新聞を広げながら、今朝の件の謝罪を考える。
潔く腹を決め、家までの帰路に立った。
私は、落ちこぼれだった。
兄のような聡明さも、弟のような天賦の才も、双子の弟のような優れた五感も、私は、持ち合わせて居なかった。
でも、それでも、良かった。
母たちは、よくこう言ってくれたから。
「貴方には、忍耐力がある。その才能は、目に見えた結果を出しにくい。
でも、時を経て成熟すれば、誰にも負けぬ武器と成るから。そんなに、自分を卑下しないのよ。」と。
でも、時は待ってくれなかった。
ある日、父が暗殺された。母たちは、私たち兄弟を追手から逃すために亡くなった。逃げる最中、兄と双子の弟は、夭折した。
逃げ続ける以外、当時は何も出来なかった。
弟を安心させるために、よく微笑むようにした。かつてのように…。
家族を思い出し、安心させるために。
本当に…其れしか、出来なかった。何も出来なかった。
『これ以上は、守り切れない。』そう感じた。
だから、此処より幾度も遠い、南西に向かう船に乗せた。行き着く先の国は、どんな国かも分からない。此処よりはマシだと…、祈ることしか、私には出来なかった。今生の別れだと…、諦めるしか無かった。
八百万の神よ、先祖よ、弟をお守り下さい。どうか、少しでも、弟の人生に幸と、安らぎが訪れますように。
「嗚呼………、なんで…。
あなたの代わりを…、わたしが…。
なんで……、あなたが……わたしより…、早く…。
あなたは……、なんで……。
なんで……、なんで……、どうして……。
答えて…、応えて…、嘘だと…、冗談だと…。
いつもの…、あなたみたいに…。
嗚呼……、嗚呼…、噫々…、ああ……。
あの頃のわたしが…、もっと、あなたを理解していれば……。
わたしが……、あなたのことを…もっと…、もっと……、
あなたの、深く、深く、深くまで…。
あなたの…、感情を掬いとっていれば…。
ああ……、もっと…、あの時に………、努めていれば……。
嗚呼…、なんであの時に……、なんで…、なんで…。
あの時…、伝えられなかったのだろう…………。
あなたへ、届けられなかったのだろう…。
感謝の意を…。たった、その一言を…。
あなたのことを…、友のように…、姉のように…、母のように…、
思っていたことを…。
…何故、あの日……、あの時……、伝えなかったのだろうか。」
今日は、晴れ。
辺りは、もう暗く、まだ空の片隅は、西日の名残りがある。淡い朱色から、徐々に淡い藍色に変わっていた。
俗に云う、黄昏時である。
ちょうど今のような時から、私たちの仕事は始まる。
喪服に革靴、そして、白手袋をつける。最後は、入念に姿見を確認する。
私たちの仕事は、決して葬儀屋や火葬屋では無く、暗殺された死体を処理と後始末である。
遺体の状態に、部屋の状態などを細かく記憶し、主(上司)に伝えることまで私たちの役目だ。(資料には、決して残せないため)
先ほど述べた状態は、暗殺者の腕によって大きく異なる。
今回の現場は、『ウェスト』…西の死神と呼ばれる方の後始末だった。
此の方の特徴は、首の皮一枚だけ残し、斬首することだった。
そして、いつも遺体は穏やかな表情で、身体に傷跡などの抵抗した痕跡などは残されていない。
百を超える暗殺後の現場に立ち会ってきたが、ここまで遺体が美しい方は、他には…居なかった。
器物の破損や紛失などは無く、僅かしか散っていない血飛沫を、拭き取とり、消毒して、清掃は終了。色移りも無かった。
できるだけ、生前の彼らの暮らした家の状態に近づけることも、私たちの役目だった。
最後は、それぞれの遺体を棺桶に…。霊柩車で火葬場まで運び、其処からは別の役職の方々に繋ぐ。
それまでが、私たちの仕事。
世間的に、誉められる仕事では無い。
それでも…私からすると、自慢の誇れる仕事だった。