「バカんなりたいです」
東京。
人の波を泳ぎ、コンクリートロードのわきへ逸れ歩きながら、彼女は言った。
急だな、僕は彼女へ視線をやる。
黒いマスクから浮き上がる高い鼻。
彼女の横顔はかなり神妙、僕は知らない間に面倒な奴に向けてズンズン舵を切っていたらしかった。
「今もーバカじゃんって思いますよね」
流れのまま、泣き出すかと思われた彼女の目は、意外だ。
ンフフと笑い、僕を見つめた。
ふさふさなまつ毛をパッツンの前髪から彼女は覗かせて、僕は少し狼狽える。
「……君はどうすればバカになれると思う?」
彼女のツインテールが揺れ、「わかんない」
僕は彼女の詳しい境遇なぞ知らない。
ただ彼女とのこの貴重な夜に金を出す、僕は客だ。
「君にわかんないなら、僕にもわかんないなあ」
彼女はフーと息を吐き、ですよねと小さく言う。
派手なフリルのついた、かわいい服を、彼女は彼女の手でぐうっと握りしめていた。
「何欲しい?」
「……んー、アレ。おいしーごはん」
僕のトイレはいつも赤い。
便座を下げ、洗浄レバーを指でひいた。
夕暮れみたく染まった、個室をあとにする。
これは僕のはやとちりだと思うが、ファミレスのトイレにある照明大体がいつも、砂漠の砂そっくりな、目に落ち着かない色をしている。
「あっ、ゆうくーん!やっと戻ってきた!」
サッパリした手と腸内に響く、更にサッパリした明子の声。と、ガヤガヤ、ファミレス店内。
明子とは、大学時代からの友人だ。
顔がクッキリしていて、眉が太め、スタイルに関しては、詳しく見たことがないので特筆できない。多分、そこそこではあると思う。
明子は、ソファからさわやかな笑顔を覗かせて、僕へ手をチョイッチョイッとこまねいている。
テーブルを見ると、もう料理が来ていて、明子のオムライスはどこも欠けておらず、しかし湯気は、でていない。
少し責任を感じる。
「よしじゃ、食べよ!いただきまーす」
白い手を合掌し、明子は元気よくスプーンを握る。
僕は明子がいただきますと言って初めて、慌てて合掌し、指の間に挟まっていたフォークがテーブルに落ちてしまった。
焦ったが、明子は目も向けず、オムライスを頬張って、ゆっくり顔をゆるませている。
僕もサラダうどんを巻いた。
「……ドリンク入れてこようか」
「一緒に行ってもいい?」
明子と目が合う。
にこやかに僕を見つめていた。断る理由はないが、なにか胸騒ぎがする。
「あのさー」
明子の後ろをついていっていると、なんの脈略もなく、明子が声を上げた。
綺麗なうなじから繋がる小さな顔は、変わらず前を向いている。
「今、私のことすき?」
彼女の震える手が見えた。
僕は、カッコつけたかったのか、弱々しい彼女の手を自分の手に重ねて、握る。
明子はすぐ振り向いて、あの明子の泣きそうな顔を、僕は見た。
「あーはやくはやく。喉カラカラすぎて吐きそう。冷たいのな冷たいの熱かったらすぐ飲めないだろ、ああ〜はやくしろよ、命かかってんだぞ!」
風船のような大男、油でテラテラピカリ輝いている顔の贅肉をぷるぷる揺らしながら、自販機の前でまくし立てる。
大男の隣でスクッと立つスレンダーな女は、ミネラルウォーターを買った。
「それじゃ、仮に渇死したって自殺ね」
ガラッ、落ちてきたペットボトルを女よりも身軽にしゃがみこみ、グジャッと潰れるくらいの勢いで握る。
ただならぬ激しい動きでキャップを外し、ゴギュゴギュ〜ッ!喉に流し込んだ。
唇のはしから滴る水、キラキラっと瞬き大男の首元へたどり着き、やがて襟へ吸い込まれ……
美味そうに飲む大男だったが、すぐさま唇から飲み口をツパッ、と離し、フツフツと汗を沸かし始めた。
「ぼくがおしゃべりだって言いたいのか!」
尋常でないハツラツとした怒声をあげ、また1口飲水、女はフフと笑い、頷く。
「しょうがないだろ、ぼくは今にも死にそうで死にそうで、死にそうだったんだぞ!」
ズリッズリッ!靴底を鳴らして女の方へ向き、眉を釣り上げる。
「じゃあなんだ!君は死ぬ直前でも一ッ切!
一切騒がずいられるのか!」
顔と唇を真っ赤に染め上げて、大男は怒っている様子だ。しかし女は変わらず笑っている。
「あなた、いつもひとりで喋ってるんだから。
私は黙ってるしかないのよ」
女は、白蛇じみた鼻筋と、しっかり伸びた背を、左へ向け、大男の手を取り、歩き出す。
「もう喋り疲れたでしょ。行きましょうよ」
「でも、電車の時間はまだまだあとのハズだろ」
昼下がりの陽光、逆光眩しく、女は細く目を縮めながら言った。
「お腹、減ってきたんじゃない?」
「えっ……!
なんだ、さすがあっちゃんだなあ!」
「ザクッザク……ちょうどこんなふうな音でした。
その音で、私は真っ暗闇の中、目を覚ますのです。
しかし、そのままゆっくりとあくびをするなんてことはできません。
私のいる、どこかを、だれかがザクッ、また、ザクッと、揺らす……
私は言いようのない感情に襲われました。
ああまるで、胸のあたりに岩がはいりこんだよう。スー、ハーと、あたりまえの呼吸ができなくなり、
頭の中が、なにか灰でも詰まったみたいに、キチンと考えがつかなくなっていく。
怖い、どこからともなくこの言葉が出てきた時は、どういうわけでしょう。
異常を訴える身体とは真逆にスっとしました。
なぜ今まで、私は恐怖というなまえを知らずにいたんでしょうか。
おそれおののく私の身体でしたが、あら不思議。
カーッン!
このような軽快な音を境に現れたまばゆい光と、
おおきなおおきな赤い……そうね、ホオズキのようなかんじ。
それと酷似したものを、私はなぜだかたいへん愛おしく想い、ふふふ、とにこやかに笑いかけたのです。
『おおお……』
そのホオズキは分厚い唇をまるく聞いて、更には、キチンと座してほのかに口端を上げる私を見て、感嘆しているよう。
ホオズキは、私のようにしなやかではない、まるで無骨な手の上に、そーっと私を乗せ……
あーっなんてあったかいんだろう!
私は驚きました。だって、どんな上質なおふとんよりも心地よかったんだもの。
……それから、うーんっと、ホオズキの手の上で、のびをした。
フゥーっ!おもいっきり吸い込んだ空気が、あんなにおいしかったことはないわ。
さあ、心地のいい敷物、おいしい空気、暖かな光……深い睡魔がやってくる。
ふと、首をこのように転がすと、ホオズキがさっきよりよくよくハッキリ見えました。
そこで、私は初めて、気がついたのです。
それは実なんかではなく、私たちと同じように目も耳も鼻もある、いきものなのだと。
そうすると私の胸の内は、みるみるどんどん、深いよろこびやうれしさに包まれた……
私の、ずっと探し求めていたものに、そのいきものがピッタシ合致したかのような、そんな気持ちよさにまで包まれ……
ここで、私は目を覚ましたのです。
なぜ、うれしかったのか。よろこべたのか。
分かりませんが、私の目元には涙が一筋、ありました。
ここには悲しいことなど何一つないというのに」
一度地球へ落とされたという天女さまは、私に、このようにおっしゃいました。
彼女の目からひびわれるように落ちていく涙のしずくに、私はいつの間にか目を奪われ、これだから地球は禁忌とされているのでしょうと、胸の内におさまったものです。
DSを手に取り、ゆっくりと口を開かせる。
最後まで開かなきゃ、大丈夫だったっけ。
「う」
カチッ!しかし不覚にも、狭い寝室、無情にも、鳴り響く音。
昼間であれば、蚊の音より小さいのに、今は深夜。
猛獣が聞き逃すハズはなく……
バチッと目を見開く音が、背中ごしに聞こえてきそう。
間髪いれずに布団をガサッとめくられ、「あんたこんな時間になにしてんの!」
胃まで響く母ちゃんの咆哮。
たぶん、家のどっかにヒビ入ったよ。
父ちゃんも耳に指をずっぽり入れて、唸りながら寝返りをうつ。
手のひらにすっぽり収まる、ネイビーのDS。
母ちゃんの怒鳴り声も、そのカッコイイフォルムを見つめていれば、ないも同然だった。
「3DS!」
なに!顔を上げると、夏日がまぶしく、目が眩んだ。
しかし、木陰のベンチに座るレンの手の中には、太陽よりもっとキラめく白色があった。
おれはすぐさま駆け寄って、「ホントだ!ずりー!」
その白色に魅了されたのは、おれだけじゃない。
レンはもう公園中の子供心を、その手に輝く物ひとつでジャックしていたのだ……
「なんかゲームやって見せろよー!」
ころころ輝くネイビー色のDSをベンチに置いて、おれはレンの画面を覗き込んだ。
「マジで今こんな画面なの?」
「うん。おまえも買えよ!」
緑の帽子に猫目型のリンク。
それが今や、青い衣装をまとい、圧倒的な草原のグラフィックを、まるで本物の人間のように、レンの手の中にある画面をひた走っている。
Switchだ!
それはまたも時代を震撼させ、子供たちを冒険へかりだしてくれた。
帰ったら、父や母にも教えてみようか。
グジャーッ!と、とんでもない音が鳴り響く。
見ると、ショベルが丁度寝室に侵入している。
「はあー」
持ち出したネイビー色のDSを手に持ち、解体されていく懐かしき家を眺める。
そこら一帯の田畑はいつのまにか工場になって、新築の家は並びたち、初めて3DSを見た公園は古く寂れて、子供たちもろくに遊ばない。
ゆっくりとDSの口に手をかけ、慎重に開く。
寝静まった静かな寝室、父のいびき、母の寝言、それらの邪魔をしないよう、息を殺して……
クニ、と。
DSの口はなんの音も立てずに、あっけなくもガパッと開いた。
スカされたような気分で、真っ黒い画面を見る。
DSを持つ時、親指はどこにやってたか、どう持っていたか、意外に覚えていなかった。
電源をいれ、たまたま入っていた、どうぶつの森を起動してみる。
『こんにちは
遊びに来たんですね』