もーいや、いやいやいーや!あたしの友達は首を振る。
ほっといてよーっ泣いて、あたしを突き飛ばす。
あたしはなにもなかったみたいに、帰りの電車に乗り込んで、離れていく友達の家を見つめながら、ちょっと泣いた。
「行ったの?ばかだねー、お姉ちゃん」
お箸でおかずをつまんだ妹が、夕飯がのどを通らないあたしを笑った。
「だってもう1週間も休んでんだよ。体調崩したのかなって思って」
「でもお姉ちゃん気づいてたんでしょ」
あたしの友達は学校の先生にお尻を触られていた。
国語の授業中。
先生は黒板に3行の古文に3つの括弧をつくって「3人、分かるやつ来い」
前に進んででたのは、国語が得意らしい山崎くんと、男子たちにはやしたてられて前に出た人気者の川口くん。その2人だけだった。
「あと一人!いないの?じゃ指名しちゃうぞー」
多分先生は、うちのクラスが前に出る系の授業を積極的にやらないの、知っていたんだろう。
絶対、わざと。
「久遠さん!」
あたしの友達。
小走りで向かうはなちゃんを、先生は教卓でほとんど見えない括弧に誘導して、はなちゃんがチョークを握った瞬間、すれ違いざまに触った。
2回、もにもにっと。
あたしはその時偶然、教卓の裏をしっかり映す、引き戸の窓を見てたのだ。
「お姉ちゃん知ってる?久遠さん」
あたしは知っていた。はなちゃんの妊娠。
1回目がいつあったのかも知ってる。
2回目、教卓で隠れてはなちゃんのお尻を触った先生は、はなちゃんがチョークを握りしめながら震えて泣いてるのに気づいた。
あたしも先生とおなじタイミングで気がついて、さすがに、懲りたかななんて思っていたら、久遠さんの手首をガシッと握って、「あと自習な」そのまま黙って出てったのだ。
はなちゃんのことを知らないみんなは、
「久遠さん、泣いてたよね」「いじめ?」
とか、言ってた。あたしは後ろの席の佐藤くんにトイレと伝えて、2人のあとを追った。
「なんでお姉ちゃん、学校にいわないの?全部知ってるのに」
「……今日全部はなちゃんに話してきた。そしたらほっといてって。そんで帰ってきた」
それから2年、はなちゃんとは会えなかった。
「ね、お姉ちゃん。明日卒業式だね」
「うん」
「久遠さんのこと、知ってる?」
妹はスマホをテーブルに置き、あたしにヒソヒソ言った。
「赤ちゃん、熱湯かけて殺しちゃったんだって」
怖くて、眠れず、明け方まではトイレで時間を潰すことにした。
汚いかもしれないけど、電気も気にせず点けられて、座る場所もあるから、いちばん良かった。
あと、あたしは狭い場所が好き。
朝3時頃、イヤホンをつけてなんとなく芸人のコント動画を見ていると、耳ふさぐイヤホン越しにガチャガチャっと変な音がした。
ふいーっとトイレのドアノブに目をやると、ガチャガチャガチャガチャ!うるさく回っている。
ドアも叩く。ドン、ドンドンドン!!
カギはかけていた。
「あかねちゃんー」
震える手でそーっとイヤホンをはずすと聞こえたあたしの名前。
声はなちゃんにそっくり。
しばらくあたしは一生懸命カギが回らないように、涙が出ないように声が出ないようにおさえて、初めてあたしはあたしの心臓の拍動を花火が打ち上がるくらいの音で聞いた。
そうしてると、スっと音が止んで、玄関からでていく音がする。あたしは気が抜けて、すっかり気絶みたいに眠った。
その明日、妹が、リビングの窓が割れてると大騒ぎしていてあたしはそれで目が覚めた。
あたしたちの両親は仕事の都合で家を空けていたので、警察に連絡して家へ来てもらい、それを見送ってから、とりあえず学校へ向かう。
教室にガラッと入ると、みんな、騒然としている。わちゃわちゃかたまりになってる真ん中には、はなちゃんの席。
名前も知らない控えめな花が活けてあった。
卒業式のために、体育館にいくと、あたしは唖然として、ちょっとまた頭がフラッとなった。
はなちゃんのお母さんがステージの上で、なにかボロボロの手帳を持ち、その中の文を声高く音読しているのだ。
さすまたを携えた先生は、とにかく早く捕まえようと必死でステージを駆け上がり、それからすぐお母さんは地面に押し付けられたが、はなちゃんのお母さんは止まらず、
「『あかちゃん死んだ。あかねちゃんも国語の先生もお父さんも、お母さんもみんな死ねみんな死ね。わたしはなにも悪くない』
はなも、赤ちゃんも死んだーッ福山も死ねーッ!」
全身にブルっときて、
忘れないようにと、頭の中で繰り返していた旅立ちの日にの歌詞が、喉奥の吐瀉物で詰まった。
疑問に思うまでもなく、これは誘拐だった。
わたしと、黄色い帽子を被ったこの子とを照らすのは、朝がけの陽光。
なんの変哲もなく、カーブミラーを横切るわたしたちは、なんなのかと、ふと思った。
「もっと、はは、は速く歩いても、いいいかな」
コクンと、黄色い帽子が跳ねる。
「ざ、じ、じゃあ……」と、わたしもぎこちなく歩きはじめると、その子もぎこちなく、ついてくる。
アスファルトを進むたび、隣から聞こえてくる、鍵盤ハーモニカに足を打つ音。
わたしはほんの良心で持ってあげようかと、手を差し出した。
「ありがとうございます!」
ゆるゆるのゴムを揺らしながら笑い、めいっぱいわたしにハーモニカを差し出してくれ、わたしはそれを片手で持ち上げる。
そのままわたしが歩き始めると、その子はついてきながら、軽くなった片手をぐっぱぐっぱして、名札をいじったりした。
そのまま、しばらく歩いていると、その子はこちらを伺うような素振りを見せて、片手をスカートのひらひらへ持っていき、もじもじしだす。
「……あのお、まだ?ですか?」
「う、ううん」
「うん?ううん?ん?どれえ」
「ごご、ごめ、んん……ト、トイレ?」
「うん……」
わたしは、少し幸せだった。
近くにあった公園を指さして見せると、その子はみるみる、小さな顔いっぱいに笑顔を浮かべて、しかしそれは、作ったものなんかではなくて、本当に、思いが顔に出たという感じで、わたしは、やはり幸せになれる。
その子の足はさっきよりずっと速くなり、やがてわたしを追い越し、わたしも手を離して、その子は公園へ「いちばんのり!」と、入った。
わたしは、にばん。普段なら学校へ行く時間帯。そんな時に公園へ行って、ひとりじめできることが楽しいんだろうと思う。
わたしは公衆トイレの方へ向かっていたのに、黄色い帽子は滑り台へ登っていってしまった。
わたしへ手を振っている。
この子は、わたしのことを好きでいてくれていた。
未来、思い返す時があるとしたら、その時も、いいおじさんとして思い出してくれるだろうか。
わたしは公衆トイレの壁のなか、お願いした。
ずっとこのまま、パトカーのサイレンにも、監視カメラにも追われず、いられますように。
彼女がブレザーをまくると、おどろおどろしい傷がみるみる現れた。
ブレザーの袖が上がりきってようやく、私の知っている彼女の白い肌が、傷ついていない白い肌が見える。
赤い陽光が、廊下とそれをぼやかせ、私の目は混乱を極める。
「いくつあると思う?」
どこまでが一つで、どこまでが二つなのかわからない。
彼女の傷跡は丁寧に切ったそれとは違っていた。
言葉につまり、私はただ可愛らしい丸い顔を見上げただけ。
「だよね、えへへ、私もわかんない」
彼女の、冷たい風が吹くような笑い声は、廊下をはねまわり、耳を占領する。
彼女はながいまつ毛を私にしっかり向けて、喋った。
「篠田さんも嫌なことあるんでしょ?だから私のこと、いじめるんでしょ?」
彼女はかわいい顔を私に向けたまま、ずっとこっちを見つめてくる。
隙間風が初めて、私の背中を冷やした。
寒さが身に染みて、それが余計に、目の前の彼女の、おどろおどろしい傷の現実味に、明かりを放たせる。
山岸は、外に出るのを嫌がった。
山岸の部屋は、普遍的に小綺麗なかんじである。
学校からのプリントが山ほど溜まることなど、もうないので、山岸の部屋は散らからないのだ。
山岸は、家中でこそあれば、横暴である。
血の繋がりをなしにすれば、世の女性すべてに無関係であるくせに、ソファへドン、と座り込み、その尻で占領する。
ただし、家中であるといえど、大声、騒音を漏らすことはない。山岸は臆病であった。
普段から、コソコソとその生活を営む。
山岸は思っている。自分はネズミに似ている。
山岸は、コウモリが好きだ。
夏のゆうぐれ、山岸の部屋から見える、田畑に隣接する、雑木林には、それらがよく飛びにきて、鳥より見事な旋回、飛揚、洗練された飛行を披露してくれる。その度、山岸は目を奪われるのだ。
コウモリのために、双眼鏡も買ってある。
山岸は夜になると、近くの山へ歩く。
5分ほど歩いていると、古くなったアスファルトの道が見えてくる。
平坦な道でこそあるが、それはほとんど獣道のようなかんじで、木や草は当たり前に生い茂っていた。
街灯などはもちろんないが、懐中電灯で照らせば、前は見える。
ほんの少し、その道を進めば、左手に、年季がかった下水道の穴が見えた。
山岸は素人だが、もう使われていないものであることは、確かだった。
懐中電灯の光を弱め、その穴へ山岸は潜った。
少しだけ腰を屈めなければいけないくらいの大きさ。ぬるい空気が詰まっている。
奥へ、奥へ進むにつれて、その下水道はクネクネと軌道を変えていることが分かった。
そのために、後ろを振り返っても、三日月の光はない。懐中電灯も照らしてみるが、やはり暗い道が長く続いているだけだった。
前へ向き直ると、キラッと眩しく光が弾ける。
山岸は驚いたが、それが少し先に溜まった水の仕業であることがわかった。
懐中電灯の光を反射したのだ。
しかし山岸は落ち込んだ。
水が溜まってるとなると、これ以上の探索は不可能に近い。
山岸の靴は運動靴だからだ。濡れては母に叱られる。
山岸はコウモリを探していた。元きた道を辿っている途中、こぼれる三日月の光が、山岸を僅かに慰めた。