ちくちゃんが死んだ。
冷蔵庫に頭を突っ込んで、置いてある牛乳を見つめ、僕は泣いた。
鼻水やツバがプシャンプシャンと酷いぐあいに飛んでいたが、ちくちゃんが死んだことに比べて、昨日のカレーが汚れるとか、冷蔵庫がピーピー鳴るとか、全く、大したことなかった。
冷蔵庫から頭を出すと、ちくちゃんの死骸はそこにあった。
なんだか、動物だなと思った。死に顔だ。特別幸せそうでもないし、悲しそうでも苦しそうでもなかった、ただ死ぬから死んだ、というかんじ。
ちくちゃんは、四肢を投げ出し、関節は固まり、もう生気はない。
モフモフだった毛。病気をして、結構抜けた毛。
ガンだった。
ちくちゃんの前でしゃがみ、様子を見る。
ちょっと撫でてみたが、やはり毛は抜けた。
僕はまた泣いた。
『ほんとに死んじゃったの。ちくちゃん』
メールで一報いれた母からの電話である。
声を出した途端、うるさく泣いてしまいそうだったので、しばらく黙って堪えていたが、母はあらそう、とだけ言い、『犬、好きだもんね、あんた』
続けた。
『お父さんにも伝えておくけどね、あんた、しっかりしなさいよ。ちくちゃんだって、あんたが悲しんでるの見たくないわよ。ね。しっかりすんのよ』
心が暖まるような、冷えるような、不思議な感じを味わった。母は実家にも顔を出すよう一言言い、電話は切られた。
僕は昔からそういうたちだ。誰かからの言葉でいつも立ち直る。素直でいい性分だと、我ながら気に入っていることでもあり、僕は少し笑えた。
ソファから立ち上がると、泣きすぎたのか、フラと来たが、僕はもう一度冷蔵庫に向かい、牛乳を取り、さあ飲もう、というところで!
また泣いた。
悲しみを別のものに変える。
今回ばかりは難しそうである。
無職、桂正雄は、クリスマスイブに唾棄し怒った。
お腹をこわしたらしいや。
トイレにこもって、気ぞらしにペーパーの切れ端を握った。
痛みがちょっとマシになった時なんかは、とっても綺麗に畳んだり、暇つぶしに使えるので、長くトイレにこもる時、僕はペーパーを握る。
5分、便座から離れていない。
「また痛いの?」
母さんがトイレのドア越しに聞いて、僕はうんと答えた。
僕のお腹はハンバーガー一個食べたくらいでピーピーなる弱虫なので、そこまで珍しいことではない。母さんもそんなに心配してなかった。
しかし、今年も終わりに近づいていた頃、便座に血がついた。
一年検査して、出た病名は潰瘍性大腸炎。
僕くらいの歳には多く見られる病気だそうだ。
僕はそこまで悲観していなかったが、医者から言われた、「マーガリンとか、油の多いものは避けるように」これが大問題である。
僕は油ののった食べ物が大好物なのだ。たべる度お腹はこわすが、食べている時の時間は至福以外のなにものでもない。
焼肉なんかで度々見かける、あの油の塊とか、天ぷら、さつまいもの揚げ物、揚げ物となったら欠かせない、肉汁たっぷりの唐揚げ……とにかく油の多い食べ物が大好きだった。
最後に食べたい。これが人生最後でもいい!
僕が押した呼び出しベルの音を、しっかり聞き留めた。
人を選ぶ内容
ハアハア、ミコちゃんはいきをする。
くりくり、ふたつのめ。
ピコピコ、ふたつのみみ。
まにょまにょ、ほっぺた。
ミコちゃんはわらった。
「かわいいね、なんさい?」
ミコちゃんのおかあさんはミコちゃんの手をさっとつつんで、ミコちゃんのよくわからないうちに、おかあさんはミコちゃんの手でなにかつくって、そしたらおねえさんは「よんさい!」とゆってわらった。
ミコちゃんのおかあさんもクスクス。
肩を揺らすと、ミコちゃんの鼻はプスーッと赤くなって、「ママーッ!!」叫び、涙も出ないうちに泣き声を上げた。
可愛く結われた髪の毛を撫でると、ツルツル、サラサラ。さすがに毛根も強く多少指が引っかかっても一本すら抜けなかった。
「ミコちゃん、ミコちゃん。ミコちゃん。遊園地、すき?」
ミコちゃんは更に泣いた。
ミコちゃんはゆめ。
ゆめってなに?ミコちゃんのおかあさんは、ミコちゃんのおはなしをゆめってときどきいう。
すぴーすぴーしてるときに、みるものだよ。おとうさんはいった。
でも、すぴーすぴーってなに?
ミコちゃんはなに?をたくさんしってるよ。
「ミコちゃんだよね」
ミコちゃんはもうふからでて、おじさんのおかおをみた。
ミコちゃんのお母さんは買い物へ出ていた。
もうすぐ戻るかもしれない。
「ミコちゃん、行こう。行こう」
「ギャーッ!」
「ほら、こちょこちょ〜」
ミコちゃんは笑ってくれたが、泣いている。
ほんとに嫌がってる笑い方だった。
ミコちゃんを抱えて、とりあえず、毛布と、そこに落ちてたぬいぐるみも一緒にミコちゃんを抱き上げる。
「痛いよ痛い痛い。痛い」
ミコちゃんは耳を引っ張ったり、首をひっかいたり、とにかく暴れた。
小さいとは言っても、力の加減を知らないので……いや、うーん。ほんとの痛みを知らないから、これくらいの子から出る抵抗は、とても痛い。
ミコちゃんはぬいぐるみいや。
ミコちゃんはおにんぎょうがすき。
ぬいぐるみはやだ。
おかあさん、どこだろう。このひとだれだろう。ミコちゃん、ぬいぐるみいやなんだよっておかあさんがゆってー!
窓からミコちゃんを連れ出した。
鍵がかかっていなかったので、侵入は簡単だった。
ミコちゃんはすぐ帰すつもり。
ちょっと遊びたいだけ。大晦日を越すまではとりあえず一緒にいたい。
ミコちゃんをトランクにいれた。
ごめんなさい。
冬は一緒に
「あっ」
お腹をリボンで結ばれて、ちぎれるくらい強く締め付けられてるよう。
僕は瓦礫の下敷きになって、人間の痛覚の限界みたいなものを感じた。
視界は暗いし、でも荻さんの周りは明るいかんじがする。
だが荻さん、と呼ぼうとしたら、ゲロッと出てしまった。
「スヒィ、スヒィ、スッ、ヒ、ヒ」こんなふうな息をする音といっしょに、荻さんの胸が大きく上下している。
その間にも倒壊は止まらないので、荻さん、僕の目の前で死なないでほしいが、僕を置いてかないで……
荻さん。黒くて、太陽に当たると赤くなる髪の毛が綺麗。
昨日ちょうど見た。冬の優しい朝、日差しに揺れる荻さんの髪。
痛みにもたれる脳みそで無事の手を動かした。シッシッ、みたいに。荻さん。
荻さんを引っ張ってここまで来た。手を繋いだのだ。
手袋越しで、だけどちゃんと指の感触がわかった。夏の間見ていた華奢な手は、白く光を透かしているみたいで、いつでもしっとり、やわらかな曲線を描いていて、そこにはほんとに重さや血が通っているんだろうか?ちょっと思っていた。
だけどちゃんと感触はあって、ちゃんと指の先は丸く、爪は固い。脳に伝わったそれらの感覚も、手の奥ゆかしい繊維も、綺麗だった。
手袋越しだったので、そのほとんどは僕の妄想かもしれない。
荻さん。今、僕から走って逃げた。
そこの背中は小さくて、リカちゃん人形みたいに僕の手で掴みあげられそうだった。
僕は荻さんにひたむきな恋をしたまま、死ぬのかもしれない。
荻さん。優しい笑顔。大きな目がゆるーっと細くなる。そんな時、飴玉みたいな虹彩がぼくのほうに向いてくれたら……
荻さん。もしかしてこれ走馬灯?
僕、とりとめもない人生