[お題:天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、]
[タイトル:人よ、夏風を知れ!]
そのゴールデンレトリバーが自分の名前をピーナッツ・ガルシアであると察したのは、そのアパートに着いて二週間ほど経ってからのことである。
アメリカ西海岸、サンフランシスコ半島先端の西方に海を望むアパートの一室。ピーナッツの特等席はそこにある。
L字に折れ曲がった牛革のソファーだ。その長い方に寝そべって、風と陽を浴びるのが彼の趣味である。
趣味というだけあって、彼はそれを最大限に楽しめる条件を知っている。その時期になるとソファーに座る主人を吠えて動かし、窓を開けさせるのだ。
その時期とは夏の昼間。およそ十一時から十六時。
サンフランシスコは夏季乾燥であり、冬は雨季になる。この点で冬には陽が入らず、雨ゆえに主人も窓を開けてくれないので、ピーナッツにとって最適とは言えなかった。もし、冬に風と陽があれば、それは片付けの最中に百ドル紙幣を見つけたようなものであり、彼は尻尾を振り回して主人に吠えるだろう。
今すぐ窓を開けて!
果たして、そこまで強い意思があったかどうか。ともかく主人がL字の短い方に動くと、ピーナッツは口角を上げてソファーに飛び乗る。
ところで、昼間だというのにもワケがある。ここサンフランシスコは、俗に霧の街とも呼ばれる。特に夏の朝夕には濃い霧に包まれ、とても陽は望めない。だから、昼間。昼間には霧が出ない。
こうして、彼の穏やかで、戦争を知らない時間が完成する。
夏の昼間。
この瞬間だけは世界が平和になるのだ。
けれど平和を手に入れるには時に戦争が必要になる。ことピーナッツにおいてもそれは変わらない。
ところで夏とか冬とか言っていることから分かるように、彼がこの知見を得たのはアパートに来て一年ほど経ってのことである。
迎えられた当時、そこからほんの二週間程度の時にはまだ、主人のシャーロット・ガルシアが彼のために窓を開ける事はなかった。
生後三ヶ月のゴールデンレトリバーにとって、彼に餌をやるシャーロットは動く給餌機である。
そうした思いを抱くのも当然のことで、シャーロットはまだ子犬を迎えたばかりだというのに、あまり構ってあげられていなかった。
ティッシュをぶちまけ、トイレを覚えず、餌をせがむ彼に対して、たった二週間で心が折れた──なんてことは決してない。シャーロットは大の犬好きであり、時に犬猫の保護活動家に多額の寄付を行うほどである。
なので、理由はもっと切実なものである。ただひたすらに、仕事が重なっていたのだ。
彼女が勤めるのは、サンフランシスコを含む地域一帯のシリコンバレーに相応しい大企業だ。肩に乗る責任も重く、グローバル企業ゆえの数多の海外拠点へ出向くことも少なくない。
そんな彼女が、迎えたばかりの子犬を放っておくことに耐えられるはずもない。そこで彼女は、ゴールデンレトリバーが自身の名前や主人が誰であるかを覚えるよりも先に、ペットシッターを雇ってしまったのだ。
そのお陰でゴールデンレトリバーが自分をピーナッツと知った時には、主人の名前がリリアン・ミラーであると勘違いしていた。リリアン・ミラーとは、シャーロットの雇ったペットシッターの名だ。
朝九時。仕事に出かけるシャーロットと入れ替わる形で、リリアンは家にやってくる。
リリアンの仕事は、ピーナッツのお世話としつけだ。適切な時間にフードを与え、イタズラをした時にはノーと教え、トイレの場所を工夫を凝らして教える。子犬のお世話を長年続けてきたリリアンにとって、ピーナッツはさほど手のかかる子犬ではなかった。時折りイタズラをするとは言え、ピーナッツはこの時から既におとなしかったのだ。
窓際に座り、陽を浴びて海を見る。
リリアンがそれに気づいて窓を開けると、入り込んだ涼やかな風に煽られて黄金の毛が揺れた。
ピーナッツは穏やかに目を細める。まだ生後三ヶ月のこの子犬が、しかしリリアンには老人に見えていた。それほどピーナッツは、平穏を愛していた。
けれどリリアンの仕事はピーナッツのお世話である。彼女はリードを持ってピーナッツに言う。
「そろそろ散歩に行きましょう!」
一人と一匹が向かったのはクリッシー・フィールドというサンフランシスコ湾に面する公園だ。霧さえ無ければゴールデン・ゲート・ブリッジも望めるここは、犬の散歩コースとして人気である。リードも外して主人とはしゃぐ元気な犬を見ない日はない。
そのうちの一匹が、ピーナッツに話しかける。体の小さな小型犬だ。
「やい、やい。この紐付きめ」
その誹りのどこに腹を立てるだけの要素があったのか。ピーナッツ自身にも分からないまま、しかし彼はその子犬に噛みつこうとしてリリアンに止められた。リードを引っ張って静止させられている。
結局、リードを外してはしゃぐことは終ぞなかった。あくまでシッターとしてペットを預かるリリアンにリードを外せるだけの度胸は無く、運動としてはリード付きで公園内を歩くだけで十分だったからだ。ゴールデンレトリバーは近年、生活習慣病が増加傾向にある。そんな知識があったからこそ、子犬として遊ぶことよりも、散歩による運動不足解消を優先していたのだ。
そしてピーナッツもまたそれ以降、逆らう事はしなかった。この時のピーナッツにとって、主人はリリアンである。主人に従い、他の子犬を尻目に歩いていれば、それだけ褒められた。わしゃわしゃと撫でられ、オヤツのジャーキーを貰うと、それが主人の愛情表現だと気づいて嬉しくなった。
その実、リリアンは主人ではないし、オヤツのジャーキーは仕事上の義務的なものである。
そんなある日、シャーロットも毎日が仕事というワケでは無いので、休日である今日こそはピーナッツと共に過ごそうとしていた。
既にしつけはあらかた終了している。ピーナッツがティッシュをぶち撒けるのは偶にのことになったし、トイレの場所は完璧に覚えた。
それだけ、リリアンと共に過ごしていた。シャーロットがソファーで寝ているピーナッツに抱きつくと、ピーナッツは少しばかり体をくねらせて、何とか脱出しようとする。
もちろん、全く嫌だというわけではない。それなりに顔は見たし、匂いも覚えた。ただピーナッツにとって、従ったり喜ばせたりといった感情を覚える対象では無かった。こちらへ興味を持った子供に自らの毛を触らせるように、主人のはずのシャーロットに毛を触らせた。それ以上のスキンシップを許可してはいない。
こんな少し距離のある関係がピーナッツが迎えられて八ヶ月ほど経ってのこと。そんな微妙な状況が一変する事態が起こる。新型コロナウイルスの流行である。
三月頃からリリアンが家に来ることは殆ど無くなった。それと入れ替わるように、シャーロットが家で過ごすようになったからだ。
三月といえば、新型コロナウイルスの初期である。世界の動向に敏感なシリコンバレーに勤め、かつテレワーク自体は既に導入されていたことから、シャーロットは家で仕事をするようになった。
シャーロットは、今までテレワークをしていなかったことを後悔した。愛犬と過ごす日々が、こんなにも素敵なことだったなんて!
けれどピーナッツの内心は穏やかではない。主人であるリリアンと離れ離れにされ、ただの知り合いであるシャーロットと過ごさなくてはならないからだ。
サンフランシスコは三月になると、雨が徐々に少なくなってくる。
久々の晴れの日の昼頃。ピーナッツが趣味の日向ぼっこに興じようとソファーに近づくと、そこにはノートパソコンと向かい合うシャーロットがいた。L字の長い方の真ん中に座り、コーヒーを飲みながら優雅に仕事をしている。
ピーナッツが彼女を邪魔だと感じるには、それだけで十分だった。
「バフっ! バフっ!」
「うん? どうしたの、ピーナッツ?」
シャーロットはピーナッツの要求を捉えあぐねている。そのうち彼女の出した結論は、散歩に行きたのだろう、と言うことだった。
「今日、天気良いし! ピーナッツも外行きたいよね?」
そうではない。そうではないのだけれど、その実散歩も嫌いではない。ピーナッツにとっては、第三希望だ。第二希望すら叶えられないまま、ピーナッツは散歩に連れられた。
スポーツウェアに、サンバイザー。ピーナッツを迎えると同時に買ったこれらも、実際に使われるのはこれが三回目である。
彼らが目指すのは、やはりクリッシー・フィールドだ。
「はっ、はっ、はっ」
浅く息を吐きながら、公園内を疾駆する。シャーロットは自身も運動するつもりで、駆け足で走っていた。もちろん、そのシャーロットに連れられるピーナッツも同様だ。
無論、ピーナッツにとってこれが苦であるなんて事はない。ただ、リリアンとの差に困惑していた。
リリアンの場合は、本当に歩くだけだった。ただ歩いて、暖かな陽射しと、海から香る潮風を受けるのだ。その穏やかさが、ピーナッツの知る散歩だった。
「やい。また来たのか。紐付き」
二十分ほど走り、一旦休憩を取るために立ち止まっている最中、ピーナッツはそう話かけられた。
あの時の小型犬だ。
けれど、ピーナッツは彼の元に向かおうとはしなかった。どうせ、リードで止められる。
「やあ、初めまして。可愛いわんちゃんですね」
その小型犬の後ろから、一人の男が寄ってきてそう言った。
「ありがとう。そちらも素敵ね」
シャーロットが言っているのは、そこの小型犬のことだ。男は小型犬の飼い主だった。
「ありがとう。ここには良く来るのかい? いやなに、リードを付けているのが気になってね。ここはリードを外しても大丈夫な場所なんだよ。うちの子はリードが嫌いだから、良くここに来るんだ」
「あら、そうなの? じゃあピーナッツも外そうかしら」
そうして、リードは外された。
その呆気なさに、最初のうちは動けなかった。首の重みが、確かに少しだけ消えている。
「あら、遊んできていいのに」
そしてシャーロットはピーナッツの背中を少し押した。そして二歩、三歩と歩く。合わせて、小型犬が後退った。
確かに、リリアンはシャーロットと違う。リリアンといた方が穏やかに過ごせる。
けれど──
「それいけ!」
それいけ! 全速力で逃げ出す小型犬をピーナッツも全力で追いかけた。
「ちょっと! 怪我させちゃダメよ!」
「ははっ、大丈夫ですよ。戯れてるだけです」
主人たちは見守るばかりだ。ピーナッツもきちんと分かっている。怪我をさせるつもりはない。ただ、繋がっている相手にしか文句を言えない臆病者を、驚かせてやるだけだ。
そのうちピーナッツは疲れ切って座り込んだ。
息を切らして舌を出す。漏れる息が芝を揺らしている。
シャーロットも近づいて隣に座った。
「気持ちいいわね」
そう言って彼女が眺めるのは海岸線とゴールデン・ゲート・ブリッジだ。湾から入る風は、寒流の影響で冷ややかで、それは火照った身体にはちょうど良かった。
シャーロットはピーナッツを優しく撫でる。その手つきから伝わるこの感情が、愛でなければなんだろうか。
激しさも、ジャーキーもないまま。安心感と満足感に満たされる。
ああ、そうか。
ピーナッツはようやく理解した。シャーロットが主人だったのだ。
「風が好きなのね?」
シャーロットがピーナッツを見て言う。
「バフっ」
それだけ答える。意味も分からないまま、しかし吠えておくのが一番良い気がした。
そのうち、シャーロットはソファーの長い方を開け渡すようになった。その位置が、窓を開けた時に一番風を感じられる場所だった。
「やっぱり、飼い主に似るって本当なのね。私も風を感じたくて、この部屋を借りて、ソファーを置いたもの」
夏になって、いよいよコロナウイルスによる外出自粛が本格的に実施され始めた頃。サンフランシスコの夏は雨が無く、涼味満点の風が吹く。
一人と一匹は窓際で命を休ませる。心音が凪いでいる気がして、それじゃあダメだと立ち上がった。
「あら、どうしたのピーナッツ」
「バフっ」
そしてシャーロットに擦り寄ると、その腕と太ももの間に入って横たわる。
シャーロットはそんな様子を見て、穏やかな表情を作り、優しく撫でた。
「大丈夫よ。コロナウイルスもきっと、いつか収まるから」
さて、ピーナッツはコロナウイルスが何かは知らない。ただ憎々しげに漏らすその単語を、主人が嫌っているからという理由で嫌っていた。
「バフっ」
ピーナッツの第一希望は、主人と共にあることだ。風と陽を浴びて心を洗うのは、ただの趣味でしかない。
だから、本当は夏でも冬でもいい。雨でも晴れでも霧でもいい。
ピーナッツがソファーに乗りたい理由は、そこにシャーロットがいるからだ。
シャーロットの隣こそが、ピーナッツの特等席だ。
[お題:ただ、必死に走る私、何かから逃げるように]
[タイトル:打算的恋愛逃避行]
一
打算で人を愛せる人間は、打算で人を殺せる人間だ。
父が母を殺した動機が保険金だったという事を知った小野寺凛檎はそんな事を考える。
「あーっ、見なきゃよかったぁ・・・・・・」
一人暮らしのマンションの一室でスマホの画面を見ながら呟く。表示されているのは、虚実入り混じるニュース記事だ。
当事者の娘として、当然知るべき事だと、そう思ったのが間違いだった。大学生になったから、心は十分強くなったと勘違いしていた。
空いていないダンボールが多々ある入居一日目の一室で、凛檎の心は地の味を覚える。もう片付けのやる気は起きやしない。
「だからじいじもばあばも、教えてくれなかったんだ・・・・・・もぉー」
その保険金殺人が起きてから、もう十年目になろうとしている。その間、凛檎は祖父、祖母の元で育った。
その祖父母は母方で、事件以降、父方の祖父母とは会っていない。確かに、こんな理由なら会うことなんて出来ないだろう。父方の祖父母はお年玉の気前が良く、そんな理由で会いたいとせがんでいた小学生の頃の自分が、途端に邪悪なモノに思えてくる。
人を打算でしか見れない遺伝子が、きちんと自分の中にもあると、そう思わされる。
その時、動かしていないはずのスマホの画面が急に切り替わる。アイフォンのスクリーンタイムだ。いつの間にか、時刻は十二時になっていた。
ふぅ、と一息吐いて、凛檎はスマホを掲げていた手をだらりとベッドに置いた。少し跳ねてから静止する。
それはスマホを買って貰う際の約束事だった。十二時を越えて使ってはいけないと、よくある子と親の約束。今に思えば小学生の決まりとしては、少し遅い時間かもしれない。けれどその分、中学高校での寝不足は無かった。果たしてその約束をした父親は、そこまで考えて時間を設定していたのだろうか。今となっては分からない。
聞こうと思えば聞けるのだろうか。凛檎は思う。母は死んだが、父はまだ檻の中で生きている。先ほどのニュース記事にも載っていたが、父は無期懲役だ。
「いや、ないね。ない。絶対無い」
実のところ、一度調べたことがある。無期懲役でも親族であれば会うことは比較的容易いらしい。それでも今まで一度として会うことが無かったのは、何も祖父母の意思を汲んだからというだけじゃない。凛檎は犯罪者の娘であり、被害者の娘なのだ。母を殺した男を、許す道理は何一つない。顔を見たいと思う瞬間は一秒だって無かった。先ほどの考えは、深夜十二時ゆえの惚けでしかない。
そう、深夜十二時なのだ。凛檎が普段寝る時間としては、むしろ遅れている方。
明日は大学の入学式がある。そろそろ寝るべきだ。
そして凛檎は静かに目を閉じた。五分ほどで意識が落ちる。凛檎は寝付きに困ったことが無い。母が死んでも、父が逮捕されても、その日の凛檎はその日のうちには眠っていた。それが良い事だと思えるようになったのは、大学受験の年になってからだった。
※
凛檎は雨の中を駆けている。
雨ガッパも傘も無い。濡れたロングスカートは、想像よりもずっと走りにくい。それでも速度を落とす訳には行かなかった。
「待ちなさい!」
警察官が声を荒げる。凛檎は今、警察官に追われている。あの日の父のように。
けれど父と違う点がひとつだけある。凛檎は人を殺していない。
凛檎は祈るように叫ぶ。
「違う、私じゃない。葉山を殺したのは私じゃない!」
けれどそれが警察官の耳に届くことは無い。増すばかりの雨音の中では、凛檎のか細い叫びは散り散りになって消えしまう。
二
入学式で自分がする事なんて何もない。ただ話を聞いて、何とか寝ないように堪えるだけだ。
それでも凛檎はかつてない緊張感に襲われていた。
会場のパイプ椅子に座りながら、凛檎は絶対に目立たないよう、細心の注意を払って辺りを見渡す。
スーツ。スーツ。スーツ。
紺、黒、それらより数は少ないグレー。
大学の入学式において、服装の規定はない。だというのに、ものの見事に九十九パーセントがスーツだった。
こういうのを慣例とか、慣習とか言うのだろうか。もちろん、必ずこれに合わせなくてはならない理由はない。
だから、こうして私服で参加する凛檎に、糾弾される余地はない。あるとしたら、それは空気を読めていない人を見る好奇の目線だ。
もちろん、スーツがほとんどである事を知らなかった訳じゃない。凛檎が私服で参加した理由は二つある。
一つはスーツを買うお金が勿体無いと感じたからだ。大学生活の後半には、就活というイベントがあり、そこでもスーツ買う必要がある。そちらは入学式と違って、企業によっては必須になる。大学生がスーツを使うタイミングはそのくらいだ。つまり、数年は使わない。その間にサイズが合わなくなれば、二着目を買う必要が出てくる。それならば、今は買わなくてもいいんじゃないかと思ったのだ。凛檎は私服ですら一週間七着のローテーションで過ごしているほど、服にお金を出す事を渋っていた。
そして二つ目の理由。これは完全に間違いだった。私服参加は、もっと多いと思っていたのだ。
結果はこの有様。少なくとも凛檎が見える範囲で、私服の大学生は自身を含めても片手で数えられる程度だ。
だからだろうか、凛檎の隣には未だに誰も座らない。
学校という場所は、大抵初日が肝心である。中学も高校もそうだ。少なくとも、凛檎はそうだった。
実は大学の入学式で会った人のことなんて、後期になればラインも動かなくなることはザラにある。さらに言うなら、そもそも誰が私服だったかなんて覚えている人はいない。そういう話を聞いていても、浮いている当人からすれば、気持ちが前のめりになる事は無いのだ。
もう誰でもいいから、隣に早く来てほしい。凛檎がそう思うのも無理はない。ただえさえ私服で浮いているのに、露骨な歯抜けがあるとさらに浮く。
果たして、その願いは届いた。
端に座る凛檎の前を横切って、そのまま隣に一人の女子が座った。それもスーツじゃない。しかし、私服でもない。
彼女は着物だった。緑を基調とした花柄の着物。そしてそれを入学式で着るだけの説得力が、その佇まいにある。
悠然と、堂々と。ただ美しいだけじゃない。浮き方にも色々とあるが、彼女のそれは地球から飛び出すエベレストのようなものだった。
「・・・・・・あの、どうかしましたか?」
その彼女が、凛檎に話しかける。それに思わず肩が揺れてしまった。どうやら、ずっと見ていたのがバレたらしい。
「あぁ、えと、ごめんなさい。その、綺麗だな、って思って」
言い終わって、ハッとする。一体私は何言ってんだ。
当の彼女は、それに困ったような表情を見せて、直後に笑った。軽く握った手を口元にやって、優しく微笑んでいる。
「ふふっ、ありがとう」
魂は細部に宿る。彼女の所作を見て、そんな言葉を思い出す。決して人に使うべきではないが、確かにそんな印象を受けた。彼女の魂は、間違いなく彼女と同じ形をしている。対して自分のそれは、よくある火の玉だ。
「ところで、あなたのお名前は? 何とお呼びすればいいかしら」
「えと、小野寺凛檎です。小野寺でも凛檎でも好きに呼んで貰って大丈夫です。それであの、あなたは・・・・・・」
「三峰です。三峰弥生」
その着物がよく似合う名前だと、素直に思った。
※
凛檎は急転回し、ビルとビルの隙間に吸い込まれるように入った。ゴミと泥まみれの不快感よりも、今は警察官を振り切ることの方が優先だ。
所々で飛び出たパイプや室外機を飛び越えて、とにかく奥に進む。
あまりに狭くて、時折りコンクリの壁に顔を擦ってしまう。その傷に雨や泥水が染みてくる。悪臭も酷い。服も汚れて、髪もぐちゃぐちゃ。
それでもそれを犠牲にするだけの価値があった。
「っ、おい!」
警察官の怒声が響く。彼は犯罪者を捕らえるためであろう、その筋肉のために、隙間に入ることができない。入り口から手を伸ばせる程度の場所は、すでに通り過ぎている。
横目でその姿を確認すると、警察官はトランシーバーのようなもので話しているのが分かる。
急いで抜けた方がいいかも知れない。
できる限りの全速力でそこを抜けた時、凛檎は人に迫害された野良犬のような様子になっていた。
悪臭の不快感と、一瞬振り切れた安心感が入り混じって、胃の中をぐるぐる回す。
「うぇっ! はぁ、はぁ」
何とか、吐瀉物は出さずに済んだ。口の端のよだれを拭いて、凛檎はまた走り出した。
今の凛檎に目的地はない。むしろ、それを探している。凛檎が目指しているのはとある人物の居場所だ。
「あの人がっ、弥生さんがっ、いるとしたら!」
そしてスマホを取り出し、凛檎は電話をかけた。
三
凛檎と弥生が出会ってから二週間。二人の交流は未だに続いている。凛檎にとって弥生は大学で最初の友人になった。
「お待たせ、弥生さん」
「ぜんぜん待ってないから、気にしないで小野寺さん」
そう言って、弥生はにっこりと笑う。どうやら弥生は次の授業の予習をしていたようだ。シャーペンでノートに書かれた字は、まるで星座のように直線的な美しさを持っている。
凛檎はそんな弥生をずっと見ていたので中々気づかなかったのだが、大学で予習をする人間はその実かなり少ない。特に文系学部の、一年生であれば尚更だ。
「それじゃあ、行きましょうか」
「はいっ」
二人は空き教室を出ると、学食に向かった。二限、三限に授業がある弥生は、三限にしか授業を入れていない凛檎よりも早く着いていたのだ。
そして、食堂に着いた時、そこは既に蠱毒のように人間たちがひしめいていた。
「すいません、弥生さん。私がもっと早く来ていれば・・・・・・」
無論、凛檎が待ち合わせに遅れた訳では無い。むしろちょうどに来ている。ただこうして弥生を立ち往生させていることに、申し訳なさが湧き出てくるのだ。
「謝らないで。コンビニで買って、ベンチで食べましょうか」
弥生はカラッとして言う。
この二週間で、弥生の印象は随分と変わった。端々に滲み出る美しさはそのままに。しかし、たった一人着物で入学式に乗り込んだ、その孤高さはあまり感じない。一つのアイドルグループにおけるエースでは無く、キャプテンのような、あくまで集団を引っ張って輝くタイプだ。
そして二人して食堂を出ようとした時、ふと二人組の男子学生に話しかけられた。
「あっ、すいませーん! よかったらここ座ります?」
そう言って、その男子は四人がけの椅子に置いていたカバンを手に取った。
「えと、いいんですか?」
「はい、全然大丈夫っすよ。あっ、俺こっち来ますね」
そして席を立ち、男子二人は対面から横並びに変わった。こうして移動されると、いよいよ断れない。
「じゃあ、まあ、お言葉に甘えて」
「どうぞどうぞー」
そしてそれぞれ定食やカレー、うどんや麻婆豆腐などを食べる中、二人ずつで喋るのも気まずくなって、お互いに自己紹介をした。
「葉山学です」
「藤宮清吾っす」
弥生と凛檎を引き留めたのが大学二年生の清吾だ。清吾は積極的に人に話しかけるタイプで、その話も鬱陶しく感じない。恐らく、ナンパにかなり慣れている。よく見れば、ギターのような荷物もある。
一方で、大学一年生の学は無口だ。いわゆる、ガリ勉の真面目系。パッと見では、二人の共通点は見えない。まぁ、それはこちらも同じかも知れないけれど。
「俺たち、ジャズ研なんすよ」
「ジャズ研?」
そう言われて目につくのはギターだ。清吾いわく、ジャズギターなんてものがあるらしい。
「ただ、うちのジャズギターは人が少ないんすよ。それで、新歓に来たコイツを逃さないように、こうして飯に」
なるほど、と納得すると同時に、一つ気になることもある。清吾の分のギターはあるが、学のギターが見当たらないのだ。
そのことについて聞くと、清吾が答えてくれた。
「まあ、ジャズギターは高いっすからね。今は部室に置いてある練習用使って貰ってるんす。ただまぁ、ここだけの話、やっぱり自分のギター持った方が上達早いんで、さっさと買って欲しいんすけどね。どうにも踏ん切りがつかないようで」
それについて、学は曖昧な返事しかしない。「まぁ、そのうち」とかそんな事を言っている。
とはいえ、踏ん切りがつかないその気持ちはよくわかる。凛檎は成長期後の、数年の成長を信じてスーツを買わなかったのだ。そのうち辞めるかも知れないサークルで、高いギターを買うのにももちろん抵抗がある。
だから、清吾に「二人も入りません? ジャズ研」と言われたら時は、曖昧に笑うしかなかった。
対して、弥生の反応は違った。
「確かに、いいかも知れないわね。ジャズ研」
弥生はきちんと目を見てモノを言う。彼女が見ているのは清吾ではなく、学だ。
「ジャズギター、すごくかっこいいと思うわ」
それを聞いた学の顔といったら!
それからというもの、たまに校内で学に会うと、その背中にはギターがあるようになった。ケースから取り出したところを見たことが無いので推測になるが、恐らく、ジャズギターだろう。
その当初は、単純に学が弥生に惚れていて、彼女の言葉を真に受けたのだろうと思っていた。
それが違うと知ったのは、前期の終わり頃。
「僕とデートしてくれませんか?」
学が言う。真っ直ぐな瞳で。その目の中には驚き顔の凛檎が写っている。
※
「ありがとうございます、藤宮先輩。あと、すみません。急に呼び出したうえに車汚しちゃって」
凛檎は運転席に座る藤宮清吾に話しかけた。
警察の応援というのが、どの程度呼ばれるものかは分からない。ただこの大雨の中、傘も雨ガッパも無いというのは本当に目立つのだ。加えて格好もバレている。このままだと時間の問題だと思い、凛檎は助っ人を呼んだ。もちろん、既に警察に追われていることは話している。
「いや、別にそれは全然いいんすけど」
清吾は困惑しながらも、汚れること自体には本当に気にしてない様子でカラッと言った。ところで車を汚すだけでなく、タオルや帽子も借りている。本当に、こういうところがモテるんだなと凛檎は感心した。
「で、何がどうなってんすか?」
清吾の問いは当然だ。ただ、凛檎も全てを把握している訳じゃない。真の意味で全てを理解しているのは、きっと弥生だけだ。
「私が葉山を刺したところを現行犯逮捕されかけた」
だから、端的に話す。
清吾は無言のまま、続きを待った。
「たぶん、弥生さんはそういう体でストーリーを作ってる」
「ストーリー?」
「そう。ストーリー」
弥生は脚本家であり、演出家だ。彼女は友人、恋人だけでなく、国家権力すら巻き込んでそのストーリーを作っている。
「浮気をした男と、それを知って男を刺し殺す女のビターストーリーです」
『打算では無い愛の果てにあったのは、打算の無い殺人だった』
これはストーリーでは無く、紛れもない現実に起きたことだ。
清吾は苦々しく後悔を漏らす。
「本当に申し訳ない。俺が先輩として、もっとちゃんと目をかけてれば、二人にこんな思いを背負わせることは無かった」
「そんな、謝らないで下さい──」
このストーリーにおいて、清吾には一切の非がない。物語の主人公は葉山学だ。そして彼と最初に付き合うのがヒロインA。遅れて、彼と浮気してしまうのがヒロインB。やがて学は浮気が発覚し、ヒロインAに刺し殺される。清吾の役割は、学と二人をくっつける無害な友人兼、先輩でしかない。
「悪いのは私たちです。私も、弥生さんも、葉山も。先輩だけが正しかった」
浮気をした学とヒロインB、そして殺人を犯したヒロインA。そこに善性は何一つない。全員が悪で、けれどやはり、殺人だけは突出していると、凛檎は思う。
殺人犯の娘であり、被害者の娘。そんな凛檎だからこそ、殺人には絶対の忌避感情が湧く。
なら浮気は許されるべきだったのか? ヒロインBの語る、知らなかったは、果たして理由になるのか? 浮気と殺人はどちらが重い?
量刑で語るなら、間違いなく殺人が重い。
そして凛檎は、そんな考えは打算的だと吐き捨てた。少なくとも、このストーリーでは浮気と殺人は等価だ。
だから凛檎は逃げている。自分の言葉を否定するには、行動で示さなくてはならない。内心の矛盾は、出力される現実によって解消される。
問題は、現実と真実は無関係だという事だ。真実は主観で出来ているが、現実は客観で出来ている。
これは現実を巡る争いだ。弥生の作った新たな現実を、凛檎は打ち破らなくてはならない。ヒロインAとヒロインBの配役はまだ決まっていない。
四
凛檎と学は、間も無く付き合う事になった。タイミングもあったのだろう。大学一年の夏休み前。そんな一大イベントに、彼氏無しで突入するのも何だか寂しい。そんな考えが確かにあったのだ。
なんて打算的だろうと、今にしては思う。打算的な愛の果てには、打算的な殺人が待っている。そのことを両親から十分学んでいたはずなのに。
夏休みに入ってから四回目のデートで、凛檎はようやく過ちに気づいた。つい、今まで思っていたことがポロッと出てしまったのだ。そこが中華料理店であった事も関係しているかもしれない。
「葉山はてっきり、弥生さんのことが好きなんだと思ってたよ」
果たして、返事は返ってこない。麻婆豆腐を口に入れ過ぎたからだと思って、しばらく待つ。奇妙な間を開けて、学が口を開いた。
「いや、そんな事ない、よ。はは」
それを不審がれないほど、純粋じゃない。打算を嫌うのは、打算に敏感だからだ。
そこですぐにスマホのパスワードを突破していれば、まだ傷は浅くすんだのかも知れない。凛檎は打算でない証明を、相手を信じる事でしか出来なかったのだ。
そしてある日、決定的な瞬間を目撃する。
たまたま映画を見に出掛けていた先で、学と弥生の二人を見かけたのだ。仲睦まじく、腕と腕で絡み合って歩いている。
『ねぇ、今日、弥生さんと一緒にいなかった?』
その日の夜に、そんなラインをする。既読とほぼ同時に返事が来る。
『そんな訳ないよ』
凛檎へのプレゼントを選んでいたとか、もっとマシな言い訳があるだろ。
『嘘つき』『今日見た』『絶対、嘘』
その三つを送ったところで、学から電話が掛かってきた。
「違うんだ、話がしたい」
「いつから、付き合ってるの?」
凛檎は一方的に質問する。この時はまだ、自分が最初だと思っていた。凛檎と付き合ってから、弥生と浮気したのだと。
「・・・・・・小野寺と付き合う二ヶ月前」
その瞬間、大地がガラガラと崩れていくような気がした。
浮気の犯人は、凛檎の方だった。学は弥生と付き合ってから、凛檎と浮気したのだ。それが真実だ。
「じゃあ、もう私たちの関係は終わりにしよう。無理、耐えられない。ましてや、弥生さんからなんて!」
「待って! 話し合いたいんだ! 三人で!」
意味が分からなかった。三人で話し合って、何が解決するというのか。その先には地獄しか見えない。
学は続ける。電話越しじゃ、言葉を尽くすしかない。
「ずっと黙っててごめん。それは、本当に俺が悪い。でも、俺はどっちも失いたくなかったんだ。三峰も小野寺も、心の底から愛してる」
もはや返事ができない。頭が割れそうなほど痛くて、今の学の言葉は詐欺師の言葉にしか思えなかった。
学はそのままの声で、ポリアモリーというものについて語った。
ポリアモリー。複数人と恋愛関係を結ぶ関係のこと。もちろん、大前提はそこに含まれる全員の同意だ。現状の三人の関係は決してポリアモリーではない。浮気を選んだ時点で、彼の論理は壊れている。
しかし学は語る。自分たちならそうなれると。一度終わらせて、ポリアモリーを始めようと。
それを一通り聞き終えて、凛檎は思う。適当にネットで調べた、程のいい言い訳を持ってきただけだ。ジャズギターを買えないように、どちらも捨てられないだけだ。
けれど、こうも思う。この完璧なバッドエンドを覆すストーリーは、もうそれしかない。それにだ、もしそれが完璧に成立するなら、そこに打算の余地はない。学の愛を相互監視し合えばいい。夫婦という関係は、客観のない一対一だからこそ打算の余地がある。それぞれへの打算のない愛を、客観的に証明し合えれば、保険金殺人は起きない。
たっぷり三十分ほど悩んで、ようやく凛檎は口を開く。
「それを、私の前で弥生さんにも話して。弥生さんが受け入れるなら、私も考える」
程なくして、日付が決まる。運命のXデーに、数日前から心臓が悲鳴を上げている。
その日は水曜日。天気予報は生憎の雨模様。それが自分のたちの行く末だと、そう言われているかのようだった。
※
凛檎の服や髪がようやく乾いた頃。清吾の手繰る車は、とある中華料理店の前で止まった。
「本当に、ここにいるのか?」
「わかんないけど・・・・・・いなかったら全部回るよ」
全部、とは学と凛檎のデートスポットのことだ。恐らくそれらの何処かで、弥生はデートを発見している。
思えば、学と弥生のデートを目撃した事が、浮気の発覚理由だ。つまり、浮気に関して学は碌な配慮をしていなかった。自分たちも知らないところで見られていた可能性は大いにある。
中でもここは、恐らく、弥生のデートにも使い回されている。
根拠は薄い。単純に彼女の好きな食べ物が、麻婆豆腐だというだけだ。
果たして、中に入ると、そこには三峰弥生がいた。何でもないような顔で、平然と麻婆豆腐を食べている。
凛檎は近づいてきた店員に連れが先に来てます、と言って店内を闊歩する。
そして弥生の目の前に座った時、彼女は全く表情を変えず、平然と凛檎に話しかけた。
「流石に、今日は少し待ったかな」
「ごめんなさい。ちょっとしつこい汚れを落としてて」
凛檎は店員を呼ぶと酢豚定食を頼んだ。この店では、まだ食べたことのないものだ。
「人を殺しておいてよく食べられるね」
弥生のその言葉に、一瞬、沸騰したように怒りが湧き上がる。そして、それを冷ますために、お冷やを一気飲みした。
弥生にとっては、それが現実だ。弥生こそが知らず知らずのうちに浮気をしたヒロインBで、それに耐えられず学を殺したヒロインAが、凛檎。
しかし、真実は違う。
「・・・・・・葉山は救急車で運ばれた。まだ死んだとは限らないよ」
これは不確定な情報だ。ただ、清吾の車に乗っている最中、サイレンを鳴らして通り過ぎる救急車を見ただけ。
「そう」
やはり平然。悠然と、堂々と、麻婆豆腐を口に運ぶ。入学式の日、不安に押しつぶされそうだった凛檎を救ったその所作に、今度は押しつぶされそうになっていた。
だからこそ、その余裕さえ剥がすことが出来れば、凛檎にもまだ勝ちの目はある。
「あなたの計画はいつから始まっていたの?」
「計画? 何のこと?」
「私の私服ローテーションを利用して、現行犯での殺罪をなすり付ける計画」
服にお金をかけたくない凛檎は、一週間で私服をローテーションしている。曜日ごとに決めているため、恐らく、事前に水曜日に会うと決まった時点で、計画は始まっていた。
「弥生さんは、私が当日何を着てくるかを知っていた。その服を弥生さんも着てきたんだ。顔は半透明の雨ガッパで十分に誤魔化せる。そうやって、あなたは私になりすました」
思えば日程や場所もきちんと調整されていた。雨の日であることは勿論、交番の近くかつ、警察官に追われても逃げやすい道をきちんと確保していた。
「私になった弥生さんは、そのまま学を包丁で刺した。返り血も雨ガッパで受ければ、本当の私に返り血がない事の理由にもなる」
そしてそれを追われるには邪魔になると、投げ捨てる理由もきちんとある。
「そして私が来る地下鉄駅の方へ走った。お腹に包丁が刺さって崩れ落ちる学を私が見ると同時、二人の位置が入れ替わる。追ってきた警官は、服を見てまず私を捕えようとする。あなたはその隙に逃げた」
「だとしたら、すごい偶然ね。あなたがくるタイミングでちょうど入れ替わったなんて」
「偶然じゃない。弥生さんなら知ってるよね。私が集合時間ちょうどにいつも来てるの」
「そうだったかしら」
この程度は、まだ弥生の想定内。なにせほとんど凛檎の目の前で行われたことだ。彼女の上を飛び越えるのは、ここから──
「そうだったよ。でもそんなのはどうでもいい。重要なのは決定的な証拠だ。そしてそれは、現場に、学のお腹に突き刺さったままになっている」
「包丁に指紋なんて残ってないわ。ちょうどすごい雨だったわけだし」
「じゃあ雨ガッパの方は?」
「雨ガッパ?」
初めて、弥生が怪訝な表情を見せた。
「たとえ指紋が残っていなくても、髪の毛や皮脂、汗、色々と人間の証拠品はある。それが全部付いて無いって言える?」
きっと言えない。弥生はそんなこと気づいていて、だから現行犯に拘ったのだ。現行犯逮捕であれば、そこまで高度な証拠探しはしないかもしれない。いや、そもそも最終的に誰が逮捕されたかはきっとどうでもいい。
「だとしても、でしょう? 犯罪者の娘が現行犯逮捕されれば、たとえ冤罪でも禍根は残る──ネットとかにね。一番悪いのは死んだ学で、あなたへの復讐は八つ当たりみたいなものだったから、ちょっと小突くくらいのトラウマで、それで良かったの」
何がちょっと小突くだ、と凛檎は思う。凛檎にとって、これは遊園地のホラーアトラクションじゃ済まない。凛檎は母を奪った父が嫌いだが、父を奪った警察も嫌いだった。嫌い相手に追い回され、身体を泥だらけにしながら逃げたのだ。これがトラウマにならない訳がない。
「でも、あなたも十分酷いと思うの、私。大学一年目の友達に彼氏寝取られた気分が分かる?」
「・・・・・・」
それに謝罪すら出来ずに押し黙ってしまう。知らなかった、なんて言った瞬間には、きっと麻婆豆腐を掬うスプーンで肌が抉られてしまうだろう。そのくらい、浮気はタブーだ。今まで、凛檎が上からモノを言えたのは、彼女がそれ以上のタブーを犯したからに過ぎない。
その時、先ほど頼んでいた酢豚が届く。そう言えばこんなモノ頼んでいたなと、今更気づいた。
「ふふっ、それじゃあ、あなたがそれを食べ終わったら、自首するから」
「え?」
「何その声。そりゃあ、するでしょう? あなたのその顔見たら、十分トラウマになったってことは分かったし。それに今のうち自首をすれば、減刑の可能性がある。行かない理由がないわ。そもそも私は、自分の逮捕、不逮捕に興味はない。どっちでも良かったの。どうせ捕まるなら、短い方がいいでしょ?」
打算的な弥生は勝ち誇ったように呟く。その口ぶりこそが殺人者の口である。
それを聞いて凛檎は思う。彼女はどうして学と付き合っていたのだろうか。初めて会ったあの時から、彼女の学への態度は他の人へのそれとは違った。もしかしたら、そこには打算的な愛があったのかも知れない。あるいは逆に、最も打算的でない、いわゆる一目惚れだったのかもしれない。
答えは分からない。聞こうと思わない。どれが真実でも、きっと嫌な気分になる。関わっていた三人のうち、一人が死亡、一人が逮捕、そして凛檎だけが残る。それは何というか、とてもデジャブで。
そう言えばと思い出すのは両親のことだ。彼らの馴れ初めは、お互いに恋人がいないとダサいと思っていたから、らしい。なんて打算的!
恋なんてのは実はそのくらい軽くていいのかも知れないと、凛檎は強く思った。
五
その時、凛檎はドッペルゲンガーの話を思い出した。
ドッペルゲンガーとは自分自身の姿を成した分身である。俗説では、もし会ってしまったら死ぬらしい。
でも死んだのは凛檎じゃない。こちらに向かう凛檎の分身の奥で、腹に包丁が深く突き刺さった学が見える。死んだのは、葉山学だった。
ドッペルゲンガーはやがて変身を解いて──雨ガッパを脱ぎ捨てて──中からは三峰弥生が出てきた。
あぁ、こうなったか。
学は弥生に殺された。
それを頭の中で冷静に受け止める。それを想定しなかった訳じゃない。なにせ、こうならないために三人で会おうしていた。相互監視があれば殺人は起きないと思っていた。
結果はこれだ。やっぱり、大学一年生なんてまだまだ子供だ。思い通りに出来ることが少なすぎる!
その時、凛檎の前に制服を着た警官が立ち塞がる。
あの日の光景を思い出す。
実家に──祖父母ではなく、父母の家に──何人もの警察官がやってきた時のこと。母が死んで暫くの父と二人の生活はそれなりに楽しくて、それを奪われたあのどうしようもなさを覚えている。
父は家の中を逃げ回っていた。凛檎はは女性警官に連れられて一部始終しか見れていないが、あの父親の無様な逃げ方がいつまでも網膜に焼き付いている。
あの遺伝子が自分にもある。もう無理なのに、それでも諦めない、馬鹿馬鹿しい精神が宿っている。
そして凛檎もまた逃げ出した。
遺伝子に逆らえず、けれどその行為は確かに遺伝子から逃げるつもりで──
[お題:ごめんね]
[タイトル:カナヅチには母親がいない]
男三人と女一人でプールに行く。そこにある文脈の複雑さったらないと、三宅秋葉は思う。
それを紅一点と見るならば、そこには男たちが取り合うマドンナの姿が浮かび上がる。しかし、オタサーの姫と見れば、なぜか女の魅力が二、三回り落ちているような気がしてくる。さらには男を侍らす悪女とか、取っ替え引っ替えとか、そんな見方をすればどうだろうか。
けれどそんな解釈の多様性は、秋葉がある事実を見て見ぬふりしているから生まれるものだ。まるで池にブラックバスを放つように、秋葉は彼らの肩書を思い出した。
父、上の兄、下の兄。まったく夢がないと、そう思う。
「いや、ほんとに夢がない」
秋葉は自分が発したその言葉で目を覚ました。どうやら、ひどい悪夢を見ていたようだ。きっと現実は、もっと恋とか青春とかで溢れている、はず。
「おっ、起きたか秋葉」
現実逃避は運転手である父の言葉ですぐに終わった。
秋葉は八つ当たりのつもりでそれに返事をせず、そして寝起き特有の行動として、義務的に辺りを見渡した。
助手席には上の兄である三宅夏樹が座っている。大学一年生であり、夏休みを利用して実家に帰ってきていた。家が狭くなるから邪魔! と、真剣に五分くらい考える程度の兄妹仲だ。そして秋葉の隣には、下の兄である三宅春久がいる。春久はブルートゥースのイヤホンで何やら音楽を聴きながら静かに目を瞑っている。見ての通り無口な性格で、家でもほとんど話さないので、兄妹仲という観点で言えば、普通としか言い表せない。
そんな男三人、そして秋葉。身体が現実から再度逃げようとしたからか、自然とあくびが出てしまう。ただこんな風に遠慮なく接する事ができる点は悪くないかも知れない。
「もうすぐ着くから、今から寝るときついぞ」
「分かってるよ」
本当に分かっている。その証明は運転席と助手席の間から見える青看板で十分だ。間も無く高速を降りて、そこから五、六分で目的地に辿り着く。眠気故の気怠さを彼方に吹き飛ばすには、ちょうどいい時間だ。現在、向かっているのは隣町で新しく出来上がったプール施設だ。プールに入る以上、多少の気怠さでも命取りになる。秋葉は念入りにと、思いっきり伸びをした。
もう二度と、水に命を奪われてたまるか。
「んじゃ、秋葉を頼んだな」
それぞれ更衣室で着替えを終え、再び集まった最初の父親の言葉としては、最低の部類だと秋葉は思う。
「分かった」
「楽しんでー」
春久と夏樹はそれだけ言って父を見送った。もっと何か言うことあるだろ、と思わなくもない。しかし結局、秋葉も父の背中に「頑張って」と声をかけたので同じ穴の狢である。
父は新しい出会いを求めている。七年前に離婚し、そこから男手一つで三人兄妹を育ててきたのだ。一番下の秋葉も現在中学三年生で、来年には義務教育を終える。そろそろ自分のことを考えてもいい時期だと、去年家族会議で話し合ったばかりだ。もちろん、家事に仕事に奔走する父に思うところがない訳がない。最大限の応援をしようと思っている。
だからって、四十代がプールでナンパはどうなんだ。
「じゃあとりあえず、秋ちゃんはビート版とってきなよ」
父の背が見えなくなった後、夏樹がそんな風に言った。
ビート版。色々と使い方はあるが、秋葉にとっては初心者用の補助具である。
「分かった」
今回、プールに来た理由は父のナンパの為ではない。それは秋葉のカナヅチの克服だ。そのために男三人を駆り出した。淡い色恋の文脈よりも、秋葉には成さなくてはならない事がある。
ここの施設には、流れるプールやウォータースライダーもあり、若者の多くがそちらの方で楽しくよろしくやっている。一方で、秋葉たちは屋内の普遍的な二十五メートルプールの中にいた。
「とりあえず、顔をつけるところからやってみようか」
夏樹はそう言うと、大きく息を吸って潜水した。その後、五秒ほどで浮上する。
「こんな感じで、まずは十秒くらいからやろっか」
「十秒・・・・・・」
頭の中でそれを数えてみるが、あまり難易度は高くないように思える。夏樹の言い回しも『まずは』と基礎の基礎である事を表していた。これが出来なくては、泳ぎの練習なんて夢のまた夢である。
なので、先ほど取ってきたビート版も秋葉の手元にはない。それは春久が持っていて、彼は現在、プールのヘリに座ってパシャパシャと足で水を弾いている。
春久の役割は、言わば監視員だ。そして指導員が夏樹である。二人いれば、まぁ大丈夫だろうとの判断の元、父親はナンパに行ったのだ。
「やれるか?」
中々入らない秋葉に、夏樹が心配そうに声をかける。
彼が心配になるのも当然のことだ。秋葉は筋金入りのカナヅチである。七年前にお風呂場で一回、三年前に川で一回、そして去年、海で一回溺れたのだ。それだけのトラウマに当てられながら、しかし秋葉はプールに来た。
やれるか? ではない。やらなくちゃいけない。これは秋葉のできる唯一の贖罪なのだ。
「やる」
トラウマの数だけ手足が動かなくなっているような気がする。右手と両足が、まるで枷でもつけられたかのように動かない。秋葉は唯一動く左手で鼻を摘んだ。
そしてここにきた理由を思い出した。どうして克服しようと思ったのか? どうして海や川に二度と行かないではダメなのか?
その答えを、決して兄二人には聞こえないように極限まで声を抑えて呟く。
「ごめんなさい。カノンちゃん」
トプン、と全身が水の中に収まった。
きちんとゴーグルをつけているのに、なぜか瞼が開けられない。すぐに水面へ出たがる手足をなんとか押さえつける。まだ出てはいけない。まだだ。まだ、十秒も経っていない。
まだ三秒しか経っていない。言いようもない不安感に襲われる。真下の暗闇から無数の腕が数百本飛び出している気がする。
まだ五秒しか経っていない。既に息苦しくなってきた。あぶくが漏れて、水を飲みそうになってしまう。
まだ七秒しか──
その時、秋葉の身体は謎の力によって水上にまで引き上げられた。
「大丈夫か!? 秋葉!」
夏樹だ。秋葉は夏樹に抱えられたまま、荒々しく呼吸を繰り返す。肌という肌が空気を欲して喘鳴を上げている。
「はぁっ、はぁっ、うぇ、はぁ。なんで、まだ、七秒だけ、じゃん」
「いや、今もう十五秒くらい経ってたよ」
いつのまにか近くに来ていた春久がそんなことを言う。
「ごめん、十秒経って、案外いけると思ってたら引き上げるの遅れた」
夏樹は表情に後悔を滲ませている。
ようやく、秋葉は事態を理解した。溺れていたのだ。きっとそういうことだ。だから春久はすぐに駆け寄り、夏樹は近くにいながら、溺れさせてしまった事を悔やんでいる。
「秋ちゃん、一回プールから出よう。ちょっと休憩してから──」
夏樹は宥めるような声で言った。きっと夏樹は正しい。恐らく彼は、秋葉がもう出来ないと判断したのだ。秋葉のトラウマは想像よりもずっと根強い。
でも、だからなんだと秋葉は思う。そんなの分かっててここに来た。
「待って。やだよ、そんなの。だって、まだプールに入って二分も経ってない!」
秋葉はそう叫んで、夏樹から無理矢理離れると、もう一度鼻を摘んだ。けれど、それだけだ。足は動かず、身体は曲がらない。いつまで経っても、鼻を摘んだままの滑稽な姿でいる。
「秋ちゃん・・・・・・」
名前を呼んだだけの夏樹の声が心臓に突き刺さる。
ふと、目を開けて水面を見ると、そこには顔が映っていた。ただし、それは秋葉の顔ではない。そこにいたのは、紛れ間なく幼馴染の早乙女カノンの顔だ。驚いて一瞬目を瞑り、次に開けた時には秋葉の顔に戻っていた。恐怖に怯えて、ゴーグルの内側に水を溜める秋葉の姿だ。
最近の市民プールでは、悲鳴や絶叫は当たり前のものらしい。目の前に広がるウォータースライダーや流れるプールの盛況っぷりを見ると、自分の不甲斐なさを自覚して吐きそうになる。
家族連れや、友人グループ、果てはカップルまでが水に入っている。一度波に飲まれても、また出てきた時には大抵笑顔だ。
その時、ふと秋葉が座るテーブルの横を掠めて、男女の二人組が流れるプールに向かっていた。見たところ秋葉と同い年くらいだ。
「見て、アマネ! すごい、すごくない!?」
「うるさい。ハルトうるさい」
二人は楽しそうにそこへ向かう。その文脈は色々と想像の余地が多い。秋葉は恋人だったらいいなと思いながらも、一方で妬ましくもあった。もちろん彼らに限った話ではない。今ここで、プールに入る全員が妬ましいのだ。
秋葉は結局、それから水に潜ることは出来なかった。プールから上がった直後に『もう今日は無理なんじゃない』と春久に言われた時は内心激怒したが、時間が経つにつれて、それが事実だと嫌でも思わされてしまう。
秋葉は今、屋外にあるパラソル付きのテーブルで、夏樹に買って貰ったかき氷を食べている。たった一人でだ。
二人は父親を探しつつ、少し遊んでくる事になった。と言っても、それは秋葉の方から頼んだことだ。自分で連れ出しておきながら、こんな結果に終わったことへの贖罪の意だと言っておいた。しかし実のところは、あんな無様な姿を、楽しい思い出でさっさと上書きして欲しかっただけだ。
シャリシャリと、かき氷を端から崩していく。その音は流れるプールではしゃぐ人々の声でかき消えてしまう。
ちょうどこんな具合だろうと、秋葉は思う。溺れるというのは、案外静かで、気づきにくいものなのだ。
一年前。あの時、秋葉が溺れていたことに気づいていたのは、早乙女カノンだけだった。
早乙女家と三宅家は、父親同士が大学の友人であり、住まいも近かったため、二家族で出かけることも多かった。特に夏には、海辺でバーベキューをするのが恒例だ。
毎年恒例、というのが油断を誘ったのかも知れない。また、浅瀬なら大丈夫なんて甘い考えもしていた。周りには大人がいて、人も十分にいた。
それでも波に煽られて秋葉の乗っていた浮き輪が転覆した時、気付ける者は居なかった。たった一人、カノンを残して。
本能的溺水反応と呼ばれるものらしい。突然のことで状況を理解できず、声も出せずに静かに溺れることだ。隣の部屋にいても気づけないほど小さいと、ネットの記事には書かれていた。
だからカノンが気づいたのは、単純に見ていたのだろうと思う。カノンは水泳が得意であり、また心優しい性格の持ち主だった。だからカノンは真っ先に秋葉の元へ向かったのだろう。
この辺りからカノンにも多くの誤算があった。一つ目は秋葉の身体が、波に引きずられて思っていたよりも奥に行っていたことだ。それによってカノンはより深い場所に誘われた。二つ目は、海は段々と深くなる訳ではないと言うことだ。海は岸から離れると、途端に地面が急落することがある。カノンはそこで、急に地面を失ったことでパニックになった。そこから先は秋葉と同じだ。カノンもまた、静かに海の底を目指した。
果たして、秋葉は生還し、カノンは死んだ。二人も消えると流石に大人たちも気づき、引き上げられた二人は救急車で運ばれたが、結末はそれだ。
なぜ片方だけが生きたのか。なぜ片方だけが死んだのか。これをただの運だなんて片付けたくはないが、やはり理由は思い浮かばない。
単純に間違えた数なら同じくらいだ。秋葉は泳ぎが苦手だと自覚していながら海に出たのは間違いだった。カノンは自分で助けに行かずに大人たちを呼ぶべきだった。
だから、やっぱりそこを追求しても仕方がない。結局、秋葉の中に残ったのはただの因果関係だ。
秋葉が溺れなければカノンは死ななかった。
周りがどれだけ秋葉のせいにしなくても、秋葉だけは秋葉を許せなかった。
だから、秋葉はここにきた。確かに、泳げるようにはなりたい。あの女の子と男の子ように、恋人と流れるプールで揺れてみたい。けれどそれは目的じゃない。
秋葉は知っている。ここが一番、自分を苦しめることができる。死ぬんじゃダメだ。生きて苦しまなくては。後追いは贖罪にならない。
苦しみが無くなったとき、カナヅチを克服した時が贖罪の終わりだ。
「おー、秋葉。いいの食ってんな」
秋葉が空っぽのかき氷のカップの中でスプーンを回していると、父がそんなことを言いながら寄ってきた。
「もう中身ないよ」
「ちぇ、じゃあ俺の分買ってこようかな」
そう言いながら、父はテーブルについた。買いに行けよ、と一瞬思ったが、きっと父はもう自分が言ったことなんて気にしていない。恐らく、夏樹と春久から話を聞いていたのだろう。その顔には心配の色が滲み出ている。
そんなんだからダメなんだ。
「ねぇ、お父さん。良い人はいた?」
「いや、やっぱりプールじゃ見つからないね。ま、秋葉が大人になる頃には見つけるよ」
それじゃ遅い。今すぐにでも見つけて欲しい。
「うん。そうだね。期待してる」
秋葉は間違いなく、自分自身を責めている。けれどその矛先が一つだけとは限らない。
秋葉は思う。
あと一人。あと一人だけでも大人がいれば違ったんじゃないか。大人の視野は当然子供よりも大きい。カノンが気づけた溺水のサインに、もう一人いたなら気づけたんじゃないか。
母親さえいたならば、もしかしたら。
[お題:半袖]
[タイトル:世界の終わりに制服を]
世界が終わって六ヶ月ほど経ったある日、平良秀隆は宇宙服みたいな防護服を着て、灰に埋まった街を探索していた。
それは一歩踏み出す度にふわふわと舞い上がり、重力に従ってまた地球に落ちる。
秀隆は思う。いっそ重力なんて無くなってしまえと。この灰のような何かも、地球を覆う雲のような何かも、全部宇宙の彼方に消えてくれ。
ちょうど自分が宇宙飛行士みたいな格好をしていたのも、そんな気分にさせたのかもしれない。
そんな思考で暇を埋めながら辿り着いたのはコンビニだ。もちろん、店員はいない。窓は割れ、その破片が店内に散乱している。
中に踏み込むと、数匹のネズミの死骸が横たわるばかりで、食糧なんて見つからない。水や日用品も同様だ。全て持ち去られてしまったらしい。
災害時の助け合いなんていうのは、初期の初期でしか見られなかった。今回の災害が数年、数十年単位ですら無く、永遠に続く終わりの始まりだと気づくと、人々は獣に戻った。性善説なんていうのは、文明のみわざに過ぎないのだと、秀隆は思う。
とはいえ、文明を創り出したご先祖様に文句を言っても何も始まらない。時間は前に進むばかりだ。
秀隆は軽く伸びをしてから「よしっ!」と気合いを入れた。コンビニ、ドラッグストア、スーパーマーケット。食糧の有りそうな場所はまだまだ他にもある。
これはレースだ。弱肉強食の生存レース。食糧を先に確保して、水を手に入れて、灰を吸わないよう防護服で覆って、そして最後まで生き延びて一人寂しく寿命が尽きたヤツが優勝だ。優勝トロフィーは殿堂入りの燃え滓たちが渡してくれる。
これらの中でも最大の難関は、秀隆も着ている防護服だろう。
空に浮かぶ雲っぽい何かが降らす灰っぽい何か。それを吸い込まないためには、防護服を着る必要があった。灰を吸い込めば、たちまち人は(もちろん動物や、時には植物も)命を落とす。人によって許容量は違うが、肌に触れ続けるだけでも死ぬらしい。これ一つを確保するために、秀隆は家族と友達を失っている。
だから、秀隆は目の前の光景が信じられなかった。
「・・・・・・えっ」
先ほどのコンビニを後にして、辿り着いた数メートル先のもう一軒のコンビニ。その中から出てきたのは、半袖の制服に身を包んだ女子高生だった。
「ここ、もう何もないよ」
女子高生は秀隆にそう声を掛けた。朗らかに、アハハと苦笑いを浮かべながら。
「参っちゃうね、ほんと。こりゃ地方が当たりだったかもね」
彼女の声はよく通る。防護服越しに慣れ切った秀隆にはそれが妙に新鮮だった。まだ世界が終わって半年しか経っていないというのに。
そんな感傷に浸っていると、女子高生は明らかに不満そうな顔をした。
「・・・・・・いやさ、こっちだけ喋ってるのも気まずいじゃん。なんか喋ってよ、えと、あー・・・・・・名前は?」
「・・・・・・平良秀隆、だ」
「はいはい、秀隆さんね。私は本堂蘭子、よろしく。いや、よろしくじゃないか? 生存競争のライバルな訳だし。じゃあ『いい勝負にしよう』かな?」
蘭子はそんな、よく分からないことを宣う。その態度が、秀隆には妙に腹立たしく感じた。幾億人が死んだこの世界に相応しくないと、そう思ったのだ。
重箱の隅をつつくつもりで口を開く。
「ライバルならなんで『何もない』とか言ったんだよ」
「本当はあるけど、一人じゃ運ぶのに時間がかかるからだよ」
蘭子は平然と言った。
それに何の返事もせずに、秀隆はコンビニへと駆け寄った。
果たして、その中は相変わらずの灰とガラス片と害獣の死体である。
「・・・・・・おい」
「あははっ! 騙されたー」
ケタケタと楽しそうに笑う蘭子に、もはや怒りを通り越して呆れてしまう。こっちは生き死にがかかっているというのに。
「ちっ、何なんだ一体」
「あらま、舌打ち? ごめんなさい、そこまで切羽詰まってるとは」
そう言いながら、わざとらしく顔の前で手を合わせる。秀隆は思う。こいつは絶対に悪いなんて思っていない。
秀隆は蘭子を無視してまた別の店に向かうことにした。
「あぁっ! ちょっと、まってよ」
蘭子は急いで駆けてきて、秀隆の隣を歩く。
「なんだよ。着いてくんな」
「私は暇なんだよ。遊んでくれー! なんて言わないからさ、着いていくだけならいいでしょ?」
「俺にメリットがない。いても邪魔なだけだ」
「邪魔かもしれないけど、それに見合うメリットはあるよ! 私は『適応者』だからね」
「適応者? なんだそれ」
その言葉にピクリと肩を振るわせつつ、秀隆は平静を装って知らないふりをする。防護服の鬱陶しいほどの分厚さが、初めて役に立った。もうそれに関わるのは懲り懲りだ。
対して、蘭子は渇いた笑い声をあげた。
「ははっ、私と違って冗談上手いねぇ、秀隆さんは。こんな世界で半年も生きてて、知らないわけなくない?」
まるで糾弾するような、鋭い目つきで蘭子は言った。
その通りだ。知らないわけがない。情報が手に入りにくい混乱期にこそ、情報の力は増す。特にこの世界の終わりでは、食糧を持つ者と情報を持つ者なら食糧を持つ者の方が早く死ぬ。実際、普段から情報を得ることをしていなかった人々は、世界の終わりの一ヶ月目で全滅した。
中でも適応者は、最重要に位置する情報だ。簡単に言ってしまえば、それは灰を吸い込んでも死なない人間のことだ。通常は、強弱があれ目に見える程度の大きさが口に入れば、それだけで一週間で死ぬ。しかし適応者は、幾らでも灰を食べられる。防護服なんてもちろん要らない。それこそ、高校の制服で出かけてもいい。
つまり、適応者とはこの環境に、文字通り適応した人間のことだ。それは適応できなかった人間にとって希望であり、信仰の対象であり、嫉妬の対象だった。
「知らないな」
「じゃあ、ただの便利な人だと思ってよ。秀隆よりかは色々と探し物しやすいと思うけど?」
それを否定する事はできない。どう見繕っても、この防護服が女子高生よりも小さくは見えない。
「・・・・・・もう好きにしてくれ」
「やったね」
問答が面倒になった、という側面の方が強いかも知れない。途中で振り切ってやろうとも思ったが、それでも蘭子の安心したような顔を見ると、そんな気は失せてしまった。
ガムテームを貼って窓を割ると、本当に音を抑えられるらしい。マンション沿いの道路から見上げている秀隆は、二階で空き巣行為を行う蘭子を見てそう思った。
「あー、荒らされて無いから、なんかあるかも!」
蘭子は下にいる秀隆に聞こえるように大声で言った。その声色は少し嬉しそうだ。
これが、蘭子が役に立つと言っていたことだ。秀隆は数十分前に彼女が力説していたことを思い出した。
『そもそも食糧が欲しいなら、お店じゃなくて家に行くべきだよ。特にマンション! あんまり物が手に入らない状況だと、扉を壊すのにコストがかかり過ぎるから、実は結構放置されてるんだよね。窓から入ろうにも、防護服があると二階以上には中々行きずらいし』
「缶詰めあるよー! 缶詰め!」
果たして、彼女の推理は合っていた。でかした、と思うと共に、罪悪感も湧いてくる。もちろん、そこに住む人は既に死んでいるか、そうで無くとも放棄している。どうせ使わないなら、有効活用した方がいいだろう、なんて理屈は秀隆の目指す人間像とかけ離れている。
まぁ、それが朽ちたコンビニやスーパーでハイエナ行為を行うのとどれだけ違うのかと問われても、秀隆は答えを持ち合わせていないのだが。
しばらくして、蘭子は戻ってきた。ベランダを伝っての登り降りにハラハラしたが、詰まることなく行っていたので、常習犯なのかもしれない。燃えるゴミの袋に、乾麺や缶詰め、タオル、石鹸、衣服に制服などを入れてサンタクロースみたいに後ろに担いでいる。
蘭子はその全てを丸々秀隆に渡すと、手に腰を当てて言った。
「どう? 役に立つでしょ?」
「まあ」
「素直じゃなーい!」
秀隆が素直にお礼を言えないのは、自身の中にある罪悪感との葛藤の結果だ。決して事前に色々と言ったから気恥ずかしいとかではない。そうではないと、秀隆は心の中で繰り返す。
そうしてゴミ袋の中を確認すると、幾つか気になる物があった。
「食糧とってきてくれたのは嬉しいけど、この石鹸とかタオルとかは? あと、制服?」
タオルは大きめのバスタオルが二枚。制服は近くの私立高校の男子制服だ。もちろん、現在は誰一人として通っていなけれど。
「何言ってるの、清潔感は最重要事項でしょうに。制服は偶々見つけて、背格好的に入りそうかなと。まあ、防護服越しだし、ダメそうなら雑巾にしちゃいなよ」
古いTシャツとかならまだしも、制服は流石にそんな風にあつかうことに抵抗がある。生地がまず雑巾に向かなそうだが、それ以上に、持ち主を思えばそんなこと出来そうにない。
「じゃあ、あと五、六軒くらい行く? それだけ漁れば、一ヶ月分くらいは持つでしょ」
蘭子は最初の印象とは裏腹に、そんな献身的な事を言う。また何か、出来の悪い嘘をついてるんじゃないかと疑ってしまう。
「嘘じゃないよ」
そんな気持ちを見透かしたように、蘭子は言う。
「嘘じゃない」
さらにもう一度。その瞳は真っ直ぐに、真剣そのものだ。
秀隆は防護服を着ている。それによって、仕草やアイコンタクトは全く伝わらない。それでも、蘭子は秀隆の疑いを見抜いた。それは彼女が人の心を読めるとか、そういうことでは無い。秀隆は思う。蘭子はきっと、それだけ疑われてきたのだろう。疑われ続けてきた経験が、蘭子の疑念センサーを鋭敏化させているのだ。適応者とはおしなべてそういう立場に晒される。
例えば、災害の初期では、避難所で一斉に死亡者が出た場合、真っ先に疑われるのは適応者だった。適応者は普段から防護服を着ずに外に出ることができる。その為、外から戻ってきた際に、灰を落とすことを疎かにしてしまうのではないか。なんてことを本気で宣う奴が十人に一人はいた。残りの九人に五人は流れに飲まれて糾弾し、残りの四人は擁護なんてせずに知らんぷりを決め込む。そんな流れが、世界中で起きていた。適応者はその珍しさと、灰で死なないという超特異性を持つが故に一瞬で迫害の対象になった。
かく言う秀隆も、もしその場にいれば、間違いなく最後の四人に入るだろう。何故なら、適応者がそういう体を隠れ蓑に、集団殺人を行ったケースを知っているからだ。それはよくある悲劇だ。秀隆は偶然、食糧探索のメンバーに選ばれていて、その夜そこに居なかっただけだ。大切だった人たちは他に誰も選ばれていない。防護服を着ていたのは、秀隆だけ。
「いらないよ。これだけあれば十分だ。ありがとう」
けれど、秀隆がこう言った理由は、目の前の適応者を信じられないからじゃ無い、本当にこれだけで十分だったからだ。
「どうして?」
蘭子は眉を顰めながら尋ねる。自分が信用されていないと感じたのだろうか。
秀隆にはまだそれを判断できるだけの材料は無い。だから、それは関係ない。もっと純朴で、どうしようもない理由だ。
「拠点に戻るときに、ちゃんと灰を落とし切れて無かったんだ。俺の命はもって後三日だ」
だから、これは最後の晩餐のつもりだった。残りの人生、空腹なんて辛すぎる! そう思ったから、秀隆はハイエナ行為に及んだ。今さら無駄だと思いながらも、やっぱり最期くらいはと、そんな気持ちで防護服に袖を通したのだ。
二人は秀隆が拠点としているホテルに向かった。ホテルを拠点にしていることには理由がある。灰は重力に沿って地面に溜まる一方な為、必然的に高いところの方が灰が少ないのだ。非適応者にとって、それは階段を登り降りする苦痛よりも遥かなメリットになる。火を扱う際には、かなり気を使う必要があるが。
向かう間、蘭子は押し黙ったままだった。もっと普段通りに、生意気にしてくれれば良いのに。と言っても、秀隆は蘭子の普段を知らない。あくまで知っているのは、先ほどまでの揶揄うような態度だけだ。
少し気になったので、秀隆はいっそ聞いてみることにした。
「・・・・・・その、蘭子はどうなんだ?」
「・・・・・・どうって?」
どう、とは。ここまできて、秀隆は詰まってしまう。気遣いな性格が災いしている。どうして一人なんだ? なんて聞ける訳ない。適応者としてどう扱われてきた? これも気にならない訳じゃないが、あまりにもセンシティブだ。しかし既に質問は始めている。今さら引き返せないと思いながら、秀隆はとりあえず、目についたものを聞いた。
「制服。なんで制服なんだ?」
「あー、それ聞くかぁ・・・・・・」
蘭子は心底嫌そうに呟く。
まずい、ミスった。秀隆はそう思って別の質問をしようとしたが、先に口を開いたのは蘭子の方だった。
「ま、もうすぐ死ぬ人に聞かれちゃ、ねぇ?」
「ごめん。やっぱり言わなくても・・・・・・」
「あっ、別に重い理由とか全然ないよ。ただ高校生になったから着てるだけー」
コイツ! と一瞬怒りが湧き上がるが、今はその言い回しの方が気になった。
「高校生になったから?」
「そ。世界が終わったのが、二〇一八年の年末でしょ? 私、その次の年から高校生になるはずだったんだよ」
蘭子は珍しく感傷的に空を見上げる。青なんて一切ない死の空を。その目には、恨みが籠っているようには見えない。例えるなら、一家で遊びに行く予定が父親の仕事の都合で中止になってしまったみたいな、どうしようも無さに対する落胆の瞳。
「ちなみに、この制服は空き家から盗んだ物だよ。私は受験すらできなかったからね。行きたかったところの制服で、背丈が合うの探すのは結構疲れたよ。あ、あと夏服! 夏服で絞るとさらに大変で」
「どうして夏服?」
確かに、蘭子は夏服だ。二階のベランダに登れるパワフルな腕は、しかしそうと思えないほど細い。時折りひらりと煽られた半袖の隙間には、日焼けの跡が全く見えない。これも災害によって太陽が塞がれてしまった事の弊害だ。
「やっぱりね、中学三年生としては憧れるんですよ。制服デート。特に夏ね、夏。彼氏と制服でシーに行きたかったなぁ」
「は、はぁ」
それは秀隆にはよく分からない価値観だった。秀隆は、中学卒業と同時に働きに出て、そこから五年が経過している。当時の高校生を羨んでいた感情は、中卒の逆境ゆえの荒波に消し飛ばされた。もちろん、それが自らの選択であるかと問われれば、一考の余地はある。世の中にはどうしようもない事というのが、存外多く含まれているものだ。それこそ、灰を降らすあの雲のように。
そして蘭子は完全に自分の世界に入ってしまった。決定的な事実を忘れて、ついいつもの悪い冗談を言ってしまう。
「秀隆さん、さっきの制服・・・・・・あっ、いや、違います。何でもないです」
その言葉はきちんと秀隆の耳に届いた。途中で止めてももう遅い。
秀隆は高校生を知らない。彼女が高校生だと分かったのは、職場の近くの高校と同じ制服だったからだ。そんな彼だからこそ、蘭子の提案が魅力的に感じてしまう。かつて秀隆の感情を飲んだ社会の荒波は、しかし今は凪いでいる。間も無く、感情が水面に浮上する。憧れは水よりも密度が小さいらしい。
「いいよ、やろう。制服デート。もちろん、俺でよければだけど」
「いや、でも」
「蘭子の為じゃない。それを聞いて、俺がどうしようもなくやりたくなっただけだ。それに、残り三日が残り一日になったって、なんて事ないさ」
本当に、なんて事はない。本当に。これは自殺願望でも希死念慮でも無い。ただ世界の終わりに立っているのなら、自分の命が縮むよりもさっき聞いたばかりの制服デートの方が優先されるというだけの話だ。
世界の終わりとはそういう事だ。文明が崩壊し、価値観が崩壊し、そのひび割れの隙間にはあらゆる願望が入り込める。それは最後の晩餐だったり、行きたかった高校の制服を着てみたり。あるいは、大量殺人であったり。
全員同じ穴の狢だ。世界が終わったのに終わり損なった、この降り積もる灰よりも灰らしい燃え滓たち。だから秀隆は、この生存レースのトロフィーはいらない。同級生や同僚から貰うトロフィーなんてネタにしかならない。
蘭子は少し迷って、しかしそれを了承した。蘭子もまた燃え滓の一人だ。結局、他人を気遣う倫理観よりも制服デートの方が優先される。仕方がない、世界の終わりとはそういうものだ。
「・・・・・・分かった。じゃあせめてデート中に死なないでね」
その言葉が文明の残した最後の抵抗だったのかもしれない。
秀隆はホテルのエントランスに立って、少し草臥れた制服に身を包んでいる。もちろん夏服。半袖から伸びる二の腕は、久しぶりに外に晒したからか、悲鳴にも似た鳥肌を立てている。背丈はぴったり合っているが、高校生としては少し年齢がズレるので、そこだけがネックだ。蘭子に笑われないだろうか。
そして扉から外へ出る。外では蘭子が待っている。よく似合う夏服で待っている。
「お待たせ」
「全然待ってないよ」
そんな月並みな事を言い合ってみる。これは流石にくすぐったい。
「結構、似合ってるじゃん」
蘭子のその言葉に心がときめく。なんていい気分だ。こんな一日を過ごせるのなら、世界の終わりも悪くない。
[お題:天国と地獄]
[タイトル:地獄の沙汰も金次第。ならば、天国は?]
ざらざらとした舌の感触を顔に感じて、早乙女カノンは目を覚ました。
目の前に飛び込んできたのは、金の毛並みをした犬の下顎だ。
「うわぁ!」
思わず飛び起きたカノンの頭を、犬はひょいと躱す。大きさに見合わずなんて身軽!
「はぁ、はぁ。えと、ゴールデン、レトリバー?」
その犬の犬種には見覚えがあった。カノンは犬好きでは無いが、嫌いということもない。カノンにとって犬とは、雲や岩やフライパンと同じカテゴリーである。つまり、それがあると知ってはいるが、特段意識することない存在だということだ。積乱雲や花崗岩や中華鍋を知っているように、ゴールデンレトリバーを知っていた。
そして知識の答え合わせをするように、ゴールデンレトリバーがワンと鳴く。やっぱり、身体が大きいと野太いようだ。
「ワンちゃん、どうしてここに、ていうかここ、どこ?」
カノンは辺りを見渡した。
まず目についたのは桜だ。そして次に川。桜はかなり膨大な量があるようで、見渡す先々に所狭しと並んでいる。桜と桜の間から、桜が覗いているような状況だ。見た感じではソメイヨシノに似ている。そんな桜塗れの一帯を、一本線を引くように伸びているのが川だ。川幅は四、五メートルはあるかもしれない。底が見えるほどの清流で、しかし魚は見当たらない。その隣には石造りの遊歩道があり、川の隣を何処までも伸びている。北から南に、あるいは西から東に。とにかく一本、真っ直ぐ伸びている。
カノンはこの遊歩道の上で寝ていたらしい。忙しなく動くゴールデンレトリバーの爪がカッカッと音を鳴らしている。
「いや、ほんとに何処なの・・・・・・」
桜並木といえば北海道の稚内公園か、あるいは青森県の弘前公園か。川沿いなので、東京都の目黒川沿いの方もあるか。しかし何れも違うと、カノンは思う。そのどれも桜の密度が足りない。これだけの量の桜は、テレビでも写真集でも見たことがなかった。
「バフっ!」
ゴールデンレトリバーが吠えている。カノンが起きた場所の少し先、川上の方にいる。
それを呆けて見ていると、ゴールデンレトリバーはもう一度鳴いた。
「バフっ!」
「・・・・・・ついてこいってこと?」
「バフっ」
カノンが歩き出すと、ゴールデンレトリバーも歩き出した。
まぁ他に当てもないしと、カノンは思う。この不思議な金の犬しか当てはない。犬をよく見てみると、きちんと首輪が付いている。赤い首輪だ。
嘘か真か、犬には帰巣本能というものがあるらしい。あのゴールデンレトリバーに着いていけば、飼い主の元に帰るかもしれない。人に会えれば電話を借りれる。電話を借りることができれば迎えを呼べる。
カノンは中学二年生なのだが、今時珍しくスマートフォンを持たされていなかった。今ポケットに入っているのは、千円札が二枚と五百円玉一枚の入った財布だけだ。
「頼むよ、えと、ワンちゃん」
「バフっ」
名前は分からないが、ゴールデンレトリバーはきちんと返事する。もしかしたら、首輪に書いているかもしれない。ついでに迷子札も付いていれば、ここがどの辺りにあるのか分かるかもしれない。
カノンは少し早歩きでゴールデンレトリバーに駆け寄った。後ろから優しく掴むと動きを止めた。
首輪の辺りを弄ると、確かに迷子札らしきものがある。どうやら、きちんと住所まで書かれているようだ。
「えと、えっ」
そこに書かれていたものは、あまりに想像からかけ離れていた。英字が書かれていたので、どうせローマ字だろうとタカを括って解読に挑んだのが間違いだった。
「S、a、n、F・・・・・・さ、サンフランシスコ?」
アメリカ西海岸、カルフォルニア州北部。カノンの住む福岡市から、飛行機でおよそ十四時間である。
カノンの持つ最後の記憶は、海での記憶だ。家族間での付き合いのある友人と共に、二家族で遊びに来たのだ。その友人は泳ぎが下手で、ドーナツみたいな浮き輪を付けていた。確か、その浮き輪が波でひっくり返されたのだ。それを見たカノンは日焼け対策に着ていたワンピースもそのままに、海へと──
「いつまで歩けばいいの? ピーナッツ」
「バフっ」
しばらく経って、ピーナッツはそれしか言わない。ピーナッツとはこのゴールデンレトリバーの名前だ。迷子札には、住所の他にきちんと名前も書かれていた。
「ねぇ、ピーナッツ、今何時?」
「ワンっ!」
つまりは一時。嘘つけっ!
空を見上げると、雲一つなく晴れ渡っている。しかしなぜか、何処にも太陽は見えない。桜に邪魔されて、天蓋の一部しか見えないからというのもあるだろう。しかし、空は偏りなく青空だった。白と青のグラデーションは見当たらない。
カノンは小一時間ほど歩いてくる中で、ようやくここが普通じゃない、どこかの異世界なのだと理解した。
一度そう理解すると、如何ともし難い恐怖が湧き出てくる。先ほどまでは困惑が勝っていたのだ。時間と観察で冷静になり、そしてそこには未知しかないのだと分かると、もうダメだった。
涙を堪えながら、カノンはピーナッツについて行く。
俯いてスカートの端をギュッと握った。ピーナッツの鳴らす、爪が遊歩道に当たる音だけを聞きながら、カノンは一歩ずつ踏み出している。
すると突然に、その音が止んだ。
驚いて顔を上げると、ピーナッツは止まっていた。止まったまま、尻尾をブンブンと振っている。
ピーナッツの視界の先、カノンの目指す川上の方から、犬と男の子が歩いてきている。
カノンは両手で乱暴に涙を拭くと、改めてその姿を認める。
「・・・・・・ブルドッグ?」
白の生クリームでコーティングしたケーキに、上から茶色のチョコレートをかけたみたいなブルドッグだった。舌を出しながら懸命に歩いている。
ブルドッグがそんなにも甘そうな一方、一緒に歩く男の子は紛れもなくビターだった。
赤地にポップな英文字が書かれたタンクトップに短パン、しかし何れも煤けており、足元に至っては裸足だった。近づくにつれて、その肌が随分と傷ついていることが分かる。カノンは写真でしか見たことがない格好だ。その写真は、社会の教科書で見た。開発途上国の子どもたちの格好だ。
ピーナッツの目の前まで来て、ブルドッグは立ち止まった。男の子も合わせて立ち止まる。不思議そうに首を傾げている。
「──、────、──」
「えと?」
男の子は何か話しているが、意味が全く取れない。カノンはつい先月、英検三級に合格したばかりである。そもそも英語かどうかも判断がつかないほどのリスニング力しかない。
「──、ネーム──ジキル───」
「ジキル?」
ふと聞こえた単語を呟くと、男の子はパッと顔を明るくした。ネーム、ジキル。この男の子はジキルと言うらしい。
「えと、マイネーム、イズ、カノン」
「カノン」
「うん。カノン」
自分を指差しながら言うと、きちんと伝わったようだ。しかし、また色々と喋り出されると全く聞き取れない。
こちらが全く分からないことを感じとったのか、ジキルはそのうちショボンとして黙りこくってしまった。
どうしよう、全然英単語出てこない。友人に英検三級を誇っていた自分がバカらしく感じてくる。カノンもカノンで、中々喋りかけることが出来ない。
そんな人間二人をよそに、犬たちは親しげだ。お互いの鼻をつつき合い、スンスンと匂いを嗅いでいる。一回り、二回りは大きさが違うので、うちのピーナッツが襲ってしまわないか心配だ。いや、ウチのでは無いのだけれど。
そんな風に二匹の犬をカノンが見ていると、ジキルが口を開いた。二匹を指差している。
「ドッグ」
「え、と。そうだね、ディス、イズ、ドッグ」
カノンは自分の間違いに気づかない。けれどジキルはそんなこと気にせず、嬉しそうにはしゃいでいる。
「ドッグ! ドッグ!」
何がそんなに嬉しいのか、カノンにはさっぱり分からない。しかしそうして笑顔を見せるジキルを見ていると、カノンはなんだか幸せな気持ちになった。
犬たちは、次はお互いのお尻の匂いを嗅ごうとぐるぐると回っている。
その時、カノンは一つ気がついた。ブルドッグも首輪をしているのだ。
カノンはしゃがむと、戯れているブルドッグの首元を探る。迷子札は付いていなかったが、名前は書かれていた。
「G、e、o、r・・・・・・ジョージ?」
それを見たジキルは不思議そうに首を捻る。
「えと、ディス、イズ、ジョージ」
カノンはブルドッグを指して言う。ジキルは首を振ると「ドッグ」と言った。
「あーいや、そうじゃなくて、ドッグズ、ネーム、イズ、ジョージ」
するとジキルはようやく理解したのか「ジョージ、ジョージ」と繰り返す。呼ばれたと思ったのか、ジョージが「ぱふっ」と鳴いた。ピーナッツより随分と軽い。
カノンは次にピーナッツを指した。
「ドッグズ、ネーム、イズ、ピーナッツ」
「ピーナッツ」
今度は一度だけ言った。するとジキルは順番に指を向けていく。ブルドッグに向けて「ジョージ」ゴールデンレトリバーに向けて「ピーナッツ」と言う。どうやら、一つずつ確認しているようだ。
そして最後に、カノンを指差す。
「カノン」
カノンはそれに、笑顔で「イエス、ベリーグッド」と返した。英検三級を持っていたって、出てくる言葉はそれだけだ。しかし、それだけでジキルもカノンも笑顔だった。
すると、ジョージとピーナッツは突然に離れた。先ほどまであれ程くっ付いていたのに、本当に唐突に。
ピーナッツは川上へ、ジョージは川下へ。出会う前と同じ方向に歩き出した。
「バフっ」
「ぱふっ」
そして二人の人間を促すように鳴いた。早く来いと、そう言っているようだ。得体の知れない騒めきが心を襲う。自分はあのゴールデンレトリバーに付いて行かなければならないと、そんな思いが沸々と湧き上がる。
それはジキルも同じだったようだ。一つだけ違うとすれば犬種だろうか。
ジキルは悲しげな表情を浮かべ、仕方がないと目を伏せた。そして改めてカノンの方を向く。
「バイ、バイ」
それだけ言って、ジキルはカノンに背を向けた。ジョージがテクテクと歩き出す。
「あっ」
言葉が上手く出てこない。「バイバイ」とそれだけ言えば、それで伝わるだろう。それでお別れだと伝わる。でもそれだけで良いのだろうか。
実のところカノンはジキルに感謝していた。折れそうになっていたカノンの心は間違いなくジキルによって救われた。感謝を伝えるのに「バイバイ」じゃ足りない。
カノンはとある日の社会の授業を思い出した。
開発途上国とは経済的に貧しく、これから豊かになるために頑張っている国である。
カノンは自分の財布を取り出すと、千円札を一枚抜き取った。
「ジキルっ!」
ジキルが驚いて振り向くと、カノンは問答無用でジキルの手を取った。彼の手に財布を握らせる。自分のポケットには千円札が一枚あるだけだ。
呆気に取られるジキルに背を向ける。それはジキルの物、もうカノンの物ではない。そうアピールするために、カノンは足早にピーナッツの元まで駆けた。
そしてピーナッツの隣でようやく振り返る。
「バイバイっ!」
大仰に手を振る。千切れそうなほど大きく、強く。
それを見たジキルもまた大きく手を振る。その手にはカノンのピンク色の財布が握られている。その中には日本円が千五百円入っている。
ジキルは外国人だ。それは一目見た時からカノンには分かっていた。だから日本円を渡すことは無駄なんだろうか。その行為はただの自己満足で、偽善なのだろうか。
そうじゃないと、カノンは思う。そうじゃない。だって、ジキルはあんなにも笑顔だ。あれはただのお金じゃない。人が人に何か渡すという行為には、金銭の損得以上の文脈が必ずある。
「行こっか、ピーナッツ」
「バフっ」
そして、二人と二匹はそれぞれの道を行く。誰も彼も、その道の先を知らないまま、ひたすらに歩き続ける。
千円札だけカノンが残したのにも理由がある。カノンはまだ諦めていない。もしも現実に帰ることができたなら、お金は強力な力になる。確かそんな風なことわざがあったはずだ。
地獄の沙汰も金次第。世の中、金があれば何でも解決できるらしい。
カノンはふと思う。じゃあ天国はどうなんだろう。天国は何次第だろうか。
カノンはまだ知らない。答えは、道の先にある。