なっく

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[お題:天国と地獄]
[タイトル:地獄の沙汰も金次第。ならば、天国は?]

 ざらざらとした舌の感触を顔に感じて、早乙女カノンは目を覚ました。
 目の前に飛び込んできたのは、金の毛並みをした犬の下顎だ。
「うわぁ!」
 思わず飛び起きたカノンの頭を、犬はひょいと躱す。大きさに見合わずなんて身軽! 
「はぁ、はぁ。えと、ゴールデン、レトリバー?」
 その犬の犬種には見覚えがあった。カノンは犬好きでは無いが、嫌いということもない。カノンにとって犬とは、雲や岩やフライパンと同じカテゴリーである。つまり、それがあると知ってはいるが、特段意識することない存在だということだ。積乱雲や花崗岩や中華鍋を知っているように、ゴールデンレトリバーを知っていた。
 そして知識の答え合わせをするように、ゴールデンレトリバーがワンと鳴く。やっぱり、身体が大きいと野太いようだ。
「ワンちゃん、どうしてここに、ていうかここ、どこ?」
 カノンは辺りを見渡した。
 まず目についたのは桜だ。そして次に川。桜はかなり膨大な量があるようで、見渡す先々に所狭しと並んでいる。桜と桜の間から、桜が覗いているような状況だ。見た感じではソメイヨシノに似ている。そんな桜塗れの一帯を、一本線を引くように伸びているのが川だ。川幅は四、五メートルはあるかもしれない。底が見えるほどの清流で、しかし魚は見当たらない。その隣には石造りの遊歩道があり、川の隣を何処までも伸びている。北から南に、あるいは西から東に。とにかく一本、真っ直ぐ伸びている。
 カノンはこの遊歩道の上で寝ていたらしい。忙しなく動くゴールデンレトリバーの爪がカッカッと音を鳴らしている。
「いや、ほんとに何処なの・・・・・・」
 桜並木といえば北海道の稚内公園か、あるいは青森県の弘前公園か。川沿いなので、東京都の目黒川沿いの方もあるか。しかし何れも違うと、カノンは思う。そのどれも桜の密度が足りない。これだけの量の桜は、テレビでも写真集でも見たことがなかった。
「バフっ!」
 ゴールデンレトリバーが吠えている。カノンが起きた場所の少し先、川上の方にいる。
 それを呆けて見ていると、ゴールデンレトリバーはもう一度鳴いた。
「バフっ!」
「・・・・・・ついてこいってこと?」
「バフっ」
 カノンが歩き出すと、ゴールデンレトリバーも歩き出した。
 まぁ他に当てもないしと、カノンは思う。この不思議な金の犬しか当てはない。犬をよく見てみると、きちんと首輪が付いている。赤い首輪だ。
 嘘か真か、犬には帰巣本能というものがあるらしい。あのゴールデンレトリバーに着いていけば、飼い主の元に帰るかもしれない。人に会えれば電話を借りれる。電話を借りることができれば迎えを呼べる。
 カノンは中学二年生なのだが、今時珍しくスマートフォンを持たされていなかった。今ポケットに入っているのは、千円札が二枚と五百円玉一枚の入った財布だけだ。
「頼むよ、えと、ワンちゃん」
「バフっ」
 名前は分からないが、ゴールデンレトリバーはきちんと返事する。もしかしたら、首輪に書いているかもしれない。ついでに迷子札も付いていれば、ここがどの辺りにあるのか分かるかもしれない。
 カノンは少し早歩きでゴールデンレトリバーに駆け寄った。後ろから優しく掴むと動きを止めた。
 首輪の辺りを弄ると、確かに迷子札らしきものがある。どうやら、きちんと住所まで書かれているようだ。
「えと、えっ」
 そこに書かれていたものは、あまりに想像からかけ離れていた。英字が書かれていたので、どうせローマ字だろうとタカを括って解読に挑んだのが間違いだった。
「S、a、n、F・・・・・・さ、サンフランシスコ?」
 アメリカ西海岸、カルフォルニア州北部。カノンの住む福岡市から、飛行機でおよそ十四時間である。


 カノンの持つ最後の記憶は、海での記憶だ。家族間での付き合いのある友人と共に、二家族で遊びに来たのだ。その友人は泳ぎが下手で、ドーナツみたいな浮き輪を付けていた。確か、その浮き輪が波でひっくり返されたのだ。それを見たカノンは日焼け対策に着ていたワンピースもそのままに、海へと──
 

「いつまで歩けばいいの? ピーナッツ」
「バフっ」
 しばらく経って、ピーナッツはそれしか言わない。ピーナッツとはこのゴールデンレトリバーの名前だ。迷子札には、住所の他にきちんと名前も書かれていた。
「ねぇ、ピーナッツ、今何時?」
「ワンっ!」
 つまりは一時。嘘つけっ! 
 空を見上げると、雲一つなく晴れ渡っている。しかしなぜか、何処にも太陽は見えない。桜に邪魔されて、天蓋の一部しか見えないからというのもあるだろう。しかし、空は偏りなく青空だった。白と青のグラデーションは見当たらない。
 カノンは小一時間ほど歩いてくる中で、ようやくここが普通じゃない、どこかの異世界なのだと理解した。
 一度そう理解すると、如何ともし難い恐怖が湧き出てくる。先ほどまでは困惑が勝っていたのだ。時間と観察で冷静になり、そしてそこには未知しかないのだと分かると、もうダメだった。
 涙を堪えながら、カノンはピーナッツについて行く。
俯いてスカートの端をギュッと握った。ピーナッツの鳴らす、爪が遊歩道に当たる音だけを聞きながら、カノンは一歩ずつ踏み出している。
 すると突然に、その音が止んだ。
 驚いて顔を上げると、ピーナッツは止まっていた。止まったまま、尻尾をブンブンと振っている。
 ピーナッツの視界の先、カノンの目指す川上の方から、犬と男の子が歩いてきている。
 カノンは両手で乱暴に涙を拭くと、改めてその姿を認める。
「・・・・・・ブルドッグ?」
 白の生クリームでコーティングしたケーキに、上から茶色のチョコレートをかけたみたいなブルドッグだった。舌を出しながら懸命に歩いている。
 ブルドッグがそんなにも甘そうな一方、一緒に歩く男の子は紛れもなくビターだった。
 赤地にポップな英文字が書かれたタンクトップに短パン、しかし何れも煤けており、足元に至っては裸足だった。近づくにつれて、その肌が随分と傷ついていることが分かる。カノンは写真でしか見たことがない格好だ。その写真は、社会の教科書で見た。開発途上国の子どもたちの格好だ。
 ピーナッツの目の前まで来て、ブルドッグは立ち止まった。男の子も合わせて立ち止まる。不思議そうに首を傾げている。
「──、────、──」
「えと?」
 男の子は何か話しているが、意味が全く取れない。カノンはつい先月、英検三級に合格したばかりである。そもそも英語かどうかも判断がつかないほどのリスニング力しかない。
「──、ネーム──ジキル───」
「ジキル?」
 ふと聞こえた単語を呟くと、男の子はパッと顔を明るくした。ネーム、ジキル。この男の子はジキルと言うらしい。
「えと、マイネーム、イズ、カノン」
「カノン」
「うん。カノン」
 自分を指差しながら言うと、きちんと伝わったようだ。しかし、また色々と喋り出されると全く聞き取れない。
 こちらが全く分からないことを感じとったのか、ジキルはそのうちショボンとして黙りこくってしまった。
 どうしよう、全然英単語出てこない。友人に英検三級を誇っていた自分がバカらしく感じてくる。カノンもカノンで、中々喋りかけることが出来ない。
 そんな人間二人をよそに、犬たちは親しげだ。お互いの鼻をつつき合い、スンスンと匂いを嗅いでいる。一回り、二回りは大きさが違うので、うちのピーナッツが襲ってしまわないか心配だ。いや、ウチのでは無いのだけれど。
 そんな風に二匹の犬をカノンが見ていると、ジキルが口を開いた。二匹を指差している。
「ドッグ」
「え、と。そうだね、ディス、イズ、ドッグ」
 カノンは自分の間違いに気づかない。けれどジキルはそんなこと気にせず、嬉しそうにはしゃいでいる。
「ドッグ! ドッグ!」
 何がそんなに嬉しいのか、カノンにはさっぱり分からない。しかしそうして笑顔を見せるジキルを見ていると、カノンはなんだか幸せな気持ちになった。
 犬たちは、次はお互いのお尻の匂いを嗅ごうとぐるぐると回っている。
 その時、カノンは一つ気がついた。ブルドッグも首輪をしているのだ。
 カノンはしゃがむと、戯れているブルドッグの首元を探る。迷子札は付いていなかったが、名前は書かれていた。
「G、e、o、r・・・・・・ジョージ?」
 それを見たジキルは不思議そうに首を捻る。
「えと、ディス、イズ、ジョージ」
 カノンはブルドッグを指して言う。ジキルは首を振ると「ドッグ」と言った。
「あーいや、そうじゃなくて、ドッグズ、ネーム、イズ、ジョージ」
 するとジキルはようやく理解したのか「ジョージ、ジョージ」と繰り返す。呼ばれたと思ったのか、ジョージが「ぱふっ」と鳴いた。ピーナッツより随分と軽い。
 カノンは次にピーナッツを指した。
「ドッグズ、ネーム、イズ、ピーナッツ」
「ピーナッツ」
 今度は一度だけ言った。するとジキルは順番に指を向けていく。ブルドッグに向けて「ジョージ」ゴールデンレトリバーに向けて「ピーナッツ」と言う。どうやら、一つずつ確認しているようだ。
 そして最後に、カノンを指差す。
「カノン」
 カノンはそれに、笑顔で「イエス、ベリーグッド」と返した。英検三級を持っていたって、出てくる言葉はそれだけだ。しかし、それだけでジキルもカノンも笑顔だった。
 すると、ジョージとピーナッツは突然に離れた。先ほどまであれ程くっ付いていたのに、本当に唐突に。
 ピーナッツは川上へ、ジョージは川下へ。出会う前と同じ方向に歩き出した。
「バフっ」
「ぱふっ」
 そして二人の人間を促すように鳴いた。早く来いと、そう言っているようだ。得体の知れない騒めきが心を襲う。自分はあのゴールデンレトリバーに付いて行かなければならないと、そんな思いが沸々と湧き上がる。
 それはジキルも同じだったようだ。一つだけ違うとすれば犬種だろうか。
 ジキルは悲しげな表情を浮かべ、仕方がないと目を伏せた。そして改めてカノンの方を向く。
「バイ、バイ」
 それだけ言って、ジキルはカノンに背を向けた。ジョージがテクテクと歩き出す。
「あっ」
 言葉が上手く出てこない。「バイバイ」とそれだけ言えば、それで伝わるだろう。それでお別れだと伝わる。でもそれだけで良いのだろうか。
 実のところカノンはジキルに感謝していた。折れそうになっていたカノンの心は間違いなくジキルによって救われた。感謝を伝えるのに「バイバイ」じゃ足りない。
 カノンはとある日の社会の授業を思い出した。
 開発途上国とは経済的に貧しく、これから豊かになるために頑張っている国である。
 カノンは自分の財布を取り出すと、千円札を一枚抜き取った。
「ジキルっ!」
 ジキルが驚いて振り向くと、カノンは問答無用でジキルの手を取った。彼の手に財布を握らせる。自分のポケットには千円札が一枚あるだけだ。
 呆気に取られるジキルに背を向ける。それはジキルの物、もうカノンの物ではない。そうアピールするために、カノンは足早にピーナッツの元まで駆けた。
 そしてピーナッツの隣でようやく振り返る。
「バイバイっ!」
 大仰に手を振る。千切れそうなほど大きく、強く。
 それを見たジキルもまた大きく手を振る。その手にはカノンのピンク色の財布が握られている。その中には日本円が千五百円入っている。
 ジキルは外国人だ。それは一目見た時からカノンには分かっていた。だから日本円を渡すことは無駄なんだろうか。その行為はただの自己満足で、偽善なのだろうか。
 そうじゃないと、カノンは思う。そうじゃない。だって、ジキルはあんなにも笑顔だ。あれはただのお金じゃない。人が人に何か渡すという行為には、金銭の損得以上の文脈が必ずある。
「行こっか、ピーナッツ」
「バフっ」
 そして、二人と二匹はそれぞれの道を行く。誰も彼も、その道の先を知らないまま、ひたすらに歩き続ける。
 千円札だけカノンが残したのにも理由がある。カノンはまだ諦めていない。もしも現実に帰ることができたなら、お金は強力な力になる。確かそんな風なことわざがあったはずだ。
 地獄の沙汰も金次第。世の中、金があれば何でも解決できるらしい。
 カノンはふと思う。じゃあ天国はどうなんだろう。天国は何次第だろうか。
 カノンはまだ知らない。答えは、道の先にある。
 

5/27/2023, 3:05:07 PM