[タイトル:ニョルニョン2]
[お題:良いお年を]
ニョルニョンには口がないので、とりあえずこの小説にセリフはないということを最初に宣言しておこう。
「あー、いや、ニョルニョン以外は別に喋れるから、この地の文は嘘をついているよ」
地の文を嘘つき呼ばわりとは失礼な、そんな人にはとりわけ酷い名前をつけてやろう。そうだな、とりあえず罵詈雑言あたりでいいんじゃないか? 罵詈が名字で、雑言が名前だ。
「あっ、テメェふざけんな!」と、罵詈が罵る。なるほど、名は体を表すとはこういうことをいうのだろう。
「おい! もっといい名前にしろ!」
罵詈はそのようなことを、それを幾つもの言葉に言い換えながら、数分ほど喚いていたが、そのうち無駄だと気づき、大人しく自分の名前を受け入れた。
というか、名前くらいさっさと受け入れなければ、前にも後ろにも進まない状況に罵詈はいる。不定形シュール生命体、ニョルニョンに部屋をジャックされているのだ。
時期は年末。つまりは12月31日。罵詈はこのおめでたい日に、紅白を見ながらのんびりと過ごしていた。
「なるほど、ガキ使がなくても、それなりにいい日じゃないか。まあ、今年は元から無くてむしろ良かった気もするけど」
去年はその寂しさに暮れ、酒に溺れる間に年を越したが、今年はそうはいかない。捻くれ者にとって、流行に乗ることも、ジジババの文化に傾倒するのも恥ずかしさの込み上げる行為だが、一度染まると易いものである。
ありきたりに染まった。ロックンロールだけが素晴らしき人生ではないと知った年だった。
まず集団で盛り上がることの楽しさを知ったのが3月のWBCだ。開幕から決勝まで全て見たわけではないが、特に準決勝のサヨナラ打、そして決勝のエンゼルス対決では胸が熱くなった。
野球好きの友人とディスコードを繋いで同時視聴なんてこともした。そんなことは初めてだったし、自ら提案をすることになるとは思ってもみなかった。とにかく全てが素人なので、細かいルールも把握していなかったのだ。これがなければ、友人の阪神優勝記念スタ連に思わずブロックを決めていたことだろう。
もちろん、熱かったのは野球だけじゃない。静かなる戦いの中にも、それはあった。10月には、藤井聡太が初の八冠制覇を成し遂げた。その速報を見たとき、1996年の羽生の七冠独占の瞬間が、あぶくのように記憶の底から溢れてきた。平屋の畳部屋で、一所懸命に父と将棋を指していた子供の罵詈にとって、それは車に撥ねられたかのような衝撃だったが、ついに七を超えた藤井八冠にはあまり衝撃を感じなかった。
だって、彼はあまりにも強すぎる! 最初の数冠獲得で、八冠を確信した将棋指しは他にいくらでもいただろう。
残念ながら将棋好きの知り合いはいなかったので、代わりに父の墓に報告に行った。それまで兄夫婦に任せきりだった墓掃除を一人で行い、最後に線香をあげて帰った。思い浮かべた父の顔は顰めっ面だ。羽生推し、なんて言葉は当時無かったが、とにかく父は羽生推しだった。羽生越えを喜べるかどうか、罵詈には想像に難くない。
「ああ、そうだ。でも99期はまだまだ先だから、それまでは藤井くんを呪ったりしないでくれよ」
その後ならいい、という話でもないけれど。
帰りがけの車の中で、そういえば父は特撮好きでもあったな、と思いを馳せる。ゴジラはどうだったか。アメリカでの歴史的大ヒットを、また報告してやらねばなるまい。
素晴らしいことが多い一年だった。しかし、素晴らしい一年だったかと問われれば、それは即答できる問いではないだろう。光があれば影もある。そんなことは皆既日食を見ずとも理解できることだ。
例えばビックモーター。例えばジャニーズ。例えばパーティ券。
つまらないことするなよ、と憤った。ニュースに憤りを見せたのは初めてのことだった。
仕事で大きなミスをしてからしばらく、何に対しても無関心な日々が続いていた。うつ病と診断されることが怖くて病院には行けなかったが、日に日に正気が欠けていくような気分だった。
そこに訪れた2023年のビッグイベントども。きっと野球に将棋で上擦った心の所作が、逆向きへと振れたのだろう。
SNSはしていなかった。アカウントが無いわけではなく、自分から発信をしない、という意味で。自分と対立する意見にいちいち苛立つようになってから、見ることすら辞めてしまったけれど。
一喜一憂。まさに、そんな一年。死人と同化していた自分にとって、あまりにも人間らしい日々。
そこで罵詈は考えた。もういっそ、そういう生き方をしてみよう。それが苦では無いことは、この一年を振り返ればわかることだ。
ハロウィンにコスプレをしよう。クリスマスにケーキを食べよう。年末に紅白を見よう。誰にとってありきたりか、などは考えず、ひたすらに自分の中のステレオタイプを追求する。自分ルールは誰にも左右されるべきじゃない。
「あとは、まあ、あれかな」
あれ、とは。もちろん阪神の『アレ』ではない。地の文で語るとなんとも味気ないので本人から言って欲しい。
「なんでだよ。ここまでいい感じだったじゃん。・・・・・・まあ、年越しジャンプだよ。年越す瞬間にさ、ジャンプするやつ」
罵詈の憧れはやや昔の青春方向に偏っている。これだけで彼の青春の色が薄らいでいることがよく分かるが、もういい歳なので自重しよう、なんて、つまらないことをいうつもりもない。憧れるのをやめましょう、ともいわない。
そんなこんなで、紅白を見ている時だった。
「ああ、有吉よ。おじさんにはそんなに分かりやくなかったよ」
でも結構楽しめたな、なんて思っていると、部屋の窓がドンドンと叩かれた。
「っ、なんだ?」
時刻は午後11時45分。この時間に、四階の窓を、それなりの強さで叩かれている。
受け入れられない矛盾を突きつけられると、人は思考停止するらしい。無言のまま窓を──その内側のカーテンを──見つめていると、今度はカーテンがフワリと揺らめいた。
脳みそのあらゆる場所が警告を発している。けれど、手も足も動く気配がない。
間も無く、まるで巨体を引き摺るかのようにゆっくりと、音の正体が姿を表す。黒い触手。無数の目。不定形の肉体。まるでアメーバのようにブレているそれは、間違いなく、あの不定形シュール生命体、ニョルニョンだ!
「いや、いやいや」
なんですか。
「なんですかじゃないよ。なんだよ、不定形シュール生命体って。俺の視点で、俺の知らない言葉を出すなよ」
でも、他にいいようないじゃん。だって、シュール過ぎるじゃん、こいつ。
「知るかよ! というか、地の文なら、どうシュールなのかを説明しろよ!」
もう、怒りっぽいなぁ。なんですか、焦ってるんですか?
「焦ってるんだよ! もう五分経ったから、あと十分で年越しじゃねぇか!」
あー、年越しジャンプ。本気だったんですか?
「本気だよ、なんで本気じゃないと思ったんだよ」
いや、まあ、ねぇ? まあ不定形シュール生命体は別に正式名称でもなければ正しい日本語でもないし、そんな言葉ないので別になんでもいいですよ。
あー、でも、きちんと描写すると、後悔するの罵詈雑言さんですよ? この低燃費地の文だからこそ、ニョルニョンは『かわいい宇宙人』くらいの怖さに留まってるんですから。本気出すともはやクトゥルフ、SAN値ピンチは必死ですよ。
「ごめん、後半なんもわかんねーや」
・・・・・・はあ、ったく。
罵詈はニョルニョンを見ていると、さも視界が裏返ったかのような奇妙な感覚に襲われた。
まるで錯視を施した絵画が、そのまま現実に現れたかのようだ。
パブロ・ピカソか、あるいはジョアン・ミロ。どちらもシュルレアリスムに傾倒した画家である。なるほど、だから不定形シュール生命体。シュールとは、元々シュルレアリスムの略語である。その意味は、非日常、そして超現実。
まさしく、だ。ニョルニョンには現実的な正しさがまるでない。トンネル効果さながらに窓を貫通してきたことも、その姿形も、どちらも非現実。
ニョルニョンには奥行きが存在しない。まるで二次元世界に生きる生命体だ。二次元を三次元に見せる錯視は何度も見たことがあるが、三次元を二次元に見せられたのは初めてだ。身体の黒があらゆる光を吸収し、あらゆる凹凸を感じさせない。それだけに、そこに浮かぶ目の一つ一つがよく見える。
一重もあれば二重もある。まつ毛のあるもの、無いもの。見覚えのある茶色の目もあれば、外国人のようなブルーの瞳もある。
見える部分だけで、高さは二メートルに届く。今は踊るように触手を動かし、ただ目を瞬いているだけだが、もし襲われればひとたまりも無いことは明らかだ。このままでは、ひき肉にでもされてしまうだろう。
そんな観察を続けるうちに、さらに五分が経った。年越しまで残すところ、あと五分。
「・・・・・・いったい何なんだよ、ほんとうに。大人しく地の文の話聞いててもまるで何もわかんねぇ」
そりゃそうだ。あれはニョルニョンであって、それ以上に当てはまる言葉はない。『木漏れ日』を英語に翻訳できないように、ニョルニョンは三次元世界に翻訳できない。
「じゃあ、どうすんだよ」
どうするも何も、ニョルニョンいても年越しジャンプしていいじゃない。何なら、お願いして、一緒にジャンプして貰えば?
「ええ? いや、そうか。そう、だな」
罵詈はようやく気づいた。まだ試していないことがある。どうしてそれを思いつかなかったのか。罵詈はもう、ありきたりに生きると決めていたのに。
こんな経験があるだろうか? 新幹線の指定席で、あるいは映画館で、自分の席に知らない人が居たことが。確かにそこは自分の場所、なのに知らない誰かに占領されている。
こんな時、どうする? ありきたりな回答は、しかし誰にとっても解答ではない。諦めて自由席に行き、車掌に券が見つかって、ようやく事情を話せる人もいるのだ。
「・・・・・・えと」
深呼吸から始めよう。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。世界がそうそう変わらないなら、自分が変わるしかない。ただし、努めて緩やかに。地震もヒートショックも振れ幅が原因だ。心も同じだと、誰かは思う。
「すぅー、はぁー、すぅー、はぁー」
そろそろ年越しのカウントを始めよう。残り20秒
「・・・・・・すみませんニョルニョンさん。退いてくれませんか?」
するとニョルニョンは、途端に触手のうねりを辞めた。幾千もの全ての目を感傷的に細めており、そこには確かな寂しさが見えた。
15秒。
間も無く、部屋に入ってきた時と同じように、ニョルニョンは窓の中に沈んでいた。夜に溶けていくその様は、入ってきた時よりも僅かに素早い。
10秒。
「・・・・・・そうか」
ここでようやく、罵詈雑言こと、千堂匠はニョルニョンの目的に気がついた。あの不定形シュール生命体は、千堂と共に年を越そうとしていたのだ。
彼女の代わりに、明けましておめでとうと言われるために。今年もよろしくお願いしますと言われるために。
ニョルニョンには口がないので、言い合うことはできないけれど、それでもぶつける相手くらいにはなれるだろう。
8秒。
「これも地の文が仕組んでるだけじゃないのか?」
だったら何か問題が? どうせ、一人じゃ寂しいだろ?
5秒
「おい! ニョルニョン!」
千堂は大声を出した。妻を失ったとき以来、初めての大声だ。
けれど、ニョルニョンは止まらない。もう窓から外に出てしまった。千堂は大慌てで窓を開いた。
2秒。
「お前は、いったい誰のっ──」
1秒。
0秒。
ハッピーニューイヤー。
ここは四階。一般的なマンションの角部屋。ニョルニョンという超現実がそこからきたからといって、そこに足場があるとは限らない。
おめでとう、千堂匠。きみは要望通り、年越しジャンプ達成だ。
「──っ、え?」
まあ、最後に誰に伝わるかもわからないオチを加えよう。地の文らしく、ね。
ニョルニョンとは、ドーナツであり、コーヒーカップであり、ちくわなのだ。これらは全くの同相である。同相でさえあれば何にでもなれる。ちくわなら、まあ、辰っぽい気がしなくもない。辰なら、まあ飛べなくもない。
そして、今年は辰年だ。
こんなつまらない連想ゲームでも、助かる命があれば暁光だ。初日の出には少し早いけれどね。
二つは空を飛んだ。年を越す、という言葉が、なんだかSFチックで素晴らしい、なんてことを考えている。その実、誰もが一歳で経験することで、特別感などどこにもない。
いいや、一年生きることすら特別だ。ありきたりは特別だ。
細長くなったニョルニョンの背にのって、千堂はそんなことを考えた。
「ああっ、しまった。お題なのに、まだこれを言ってなかった」
この小説をここまで読んだあなたへ、良いお年を!
[タイトル: 多世界解釈解釈]
[お題:どうすればいいの]
「美郷が好きなのを選んでいいよ」
父が仕事帰りに買ってきたドーナツは、まだ箱の中に囚われているというのに、私の胸の内はすでに多幸感に満たされていた。
決して裕福ではない慎ましい家庭環境で、およそ三ヶ月に一度あるかないかという贅沢。三人兄妹の五人家族で、その末っ子にあたる私には、最初にドーナツを選ぶ権利が与えられた。
箱の中を除くと、甘い香りが溢れ出す。ドーナツは五種類入ってる。ポン・デ・リング、チョコファッション、エンゼルフレンチ、ダブルチョコレート、そしてピカチュウ。
一人一つだ!
まだ六歳の私にもすぐに分かった。五人家族に、五つのドーナツ。なんてぴったり! 算数は大の得意だ。
ドーナツはどれも蕩けるように甘そうだ。チョコの光沢は煌びやかに輝いている。この時点で、私の選択肢はダブルチョコレートと、エンゼルフレンチに絞られた。
いや、でもと、私のお腹が唸る。記憶を掘り起こしてみれば、ポン・デ・リングを食べたのは随分と前のことで、忘れかけたその味を再確認するのも良いのではないか。あるいは、まだ食べたことのない味に挑戦するのも良い。チョコファッションの味はまだ知らない。
そんな風に唸っていると、台所から顔を出した母が、「美郷はピカチュウよね?」そして、嫌味のない笑顔を浮かべ「ポケモン、好きだったじゃない」
そうだったのか、と私は思う。私はポケモンが好きなのだろうか。
不思議そうな顔をしていると、父は禿げ上がった頭をかきながら、「ああっ、やっぱりそうだったよな。ミスドに寄ったら、コラボしてたから買ってみたんだ」
父の眼差しには期待が見え隠れしている。
喜べ、と言っている、気がする。
「うん、嬉しいよ、パパ」
そう言って、私はピカチュウを選んだ。
「じゃあ、俺はこれ」下の兄である圭吾がポン・デ・リングを選んだ。母が、「将吾にも持っていって!」と言い、子供部屋に向かう圭吾にエンゼルフレンチを持たせた。将吾は高校受験の勉強中で、部屋に缶詰になっている。
父はダブルチョコレートを選んだ。私のチョコ好きは、父の遺伝だろう。母は残ったチョコファッションを頬張る。「うん、美味しい」と言って、手の中のピカチュウを弄ぶ私に笑顔を向ける。
「ほら、早く食べて、歯磨きしなさい」
「うん、分かってるよ、ママ」
私はピカチュウの耳を口に咥えた。そのまま千切って、片耳のないピカチュウを改めて見る。なぜだかグロテスクにおもえないのはどうしてだろう。
まあ、でも、美味しいことに違いはない。そのまま私は、ピカチュウの残りの部分も食べ切った。ピカチュウはとても美味しかった。
×
「お前は数学はいいんだけどなぁ、宮永。大学受験は数学だけじゃ無理なんだよ」
そんなことない、と思いながら私は担任に向けて「はい、頑張ります」と頷いた。
「『頑張ります』か。本当に頑張れよ、もう共通テストまであと半年しかないんだからな」
きっと、担任は発破をかけたつもりなのだろう。その実、二者面談を終えた私の気持ちは深く沈むばかりだ。
私が教室に戻ると、教師もいないのに相変わらず静けさを保っていた。私のクラスは、大学進学を目指す特進クラスで、誰に指示を出されずとも勉強を進んでするような、真面目な人が多いのだ。
退屈だ。
受験のための勉強というのは、なんともまあ退屈なことだろうか。未来への投資である、という理屈はわかる。その重要度も。けれど私は、やっぱりこの人たちの中では浮いていた。未来の自分のために、今の自分を犠牲にするというやり方が、どうにも腑に落ちないのだ。
私は教室を後にした。引き戸が開いて、閉じて、誰も教室に入らないというのは、大変な違和感であったはずだが、誰一人として気にしてはいなかった。
私は一人で図書室に向かった。
この図書室をサボり場として利用する人間が、この学校に二人いる。
一人は私だ。読書好きというわけではないが、数学を解くなら教室よりもここの方が集中できた。
「おや、サボりですか宮永美郷さん」
私が図書室に足を踏み入れると、数学教師の植木先生から声をかけられた。
私は二人目のサボり魔の対面に座りながら、「授業はどうしたんですか?」
「もうカリキュラムの範囲は終えましたからね。今は自習にしてます」植木先生は読んでいた『死に至る病』から顔を上げて、「インプットだけでなく、アウトプットも大切ですから」
「模試の過去問解くだけがアウトプットなんですか?」
私は膨れっ面で言った。とにかく、教師に反抗したい気分だった。
「うーん、アウトプットとは、得た経験を実践に活かすことです。あなたにとっては模試が実践とはいえないかも知れませんが、たいていの受験生にとっては、模試は正しく実践ですよ。勿論、過去問でもね」
植木先生は微笑みを湛えている。子供の嫌味を受け流せるだけの余裕と度量が、私と彼との間にある壁を如実に表していた。
「ふーん」と、素っ気なく返して、私は顔を伏せた。
「嫌なことでもありましたか?」
「嫌なことなんて何もないですよ」
いじめられてはいない。虐待も受けていない。腹が立つような偶発的な不幸にも遭っていない。嫌なことなどあるはずがない。
私は中学校までは成績優秀だった。将吾の高校受験失敗を皮切りに、『受験に家族で挑む!』をスローガンに掲げた我が家は、勉学一色に染まった。将吾は既に専門学校を卒業して就職しており、圭吾は見事に都内の国立大学に進学した。ともすれば、残る受験生は私だけであり、両親の熱はその全てが私に向けられた。
その熱の発生源が愛であることは分かっている。これまでの十七年間を親の愛に生かされている私が、それを跳ね除けるわけにはいかなかった。
「ただ、ちょっと疲れてるんです」
我ながら、いい表現が思いついた。私は疲れている。好きなものを食べ続けるのが、ある時点から苦痛であるように、私は幸福な日々に疲れていた。
すると植木先生は、本を端に置いて言った。
「じゃあ、てきとうにお話でもしましょうか?」
「てきとうに?」
「ええ、全く持っててきとうな、それでいてあなたの好きな数学に関わるお話です」
私はそれを聞いて、むくりと顔を上げた。植木先生の話は面白い。高校生活の中で、唯一数学の点数だけが下がらなかったのは、八割方彼のお陰だろう。数学の授業中だけは、うたた寝すらしたことがない。
「どんなお話なんですか?」
てきとう、でも数学。純粋な論理に固められたあの世界の中で、なおてきとうな話。私の興味を唆るには充分なパンチ力がある。
「並行世界のお話です。でもその前に、少し復習から入りましょう」
並行世界。私がその言葉を反芻するよりも先に、植木先生は、「シュレーディンガーの猫を覚えていますか?」
「シュレーディンガーの猫? ええと、二分の一の確率で毒が出る箱に猫を閉じ込めたとき、その猫が死んでいるか生きているかは、箱を開けて観測するまでは分からない、っていうやつでしたよね」
私は記憶を探りながら答えた。数学の授業で、植木先生自身から教わったものだ。
「そうですね。猫が生きながら死んでいる、あるいは死にながら生きている。そんなバカなことがあるか、というのがシュレーディンガーの主張でした」そして、ややトーンを落として「量子力学を否定したかった、ということです」
量子力学に関しては、私は全く明るくない。ただ少なからず思うのは、見えていないから確定していない、なんていうのはやっぱり可笑しな話だということだ。あまりにも主観的に過ぎる。誰にも見えていないから何も起きていない、なんてことはあり得ない。
猫は死んでいる。
猫は生きている。
答えは二つにひとつだ。
「・・・・・・シュレーディンガーが否定したかったものを、コペンハーゲン解釈と言います。量子力学において、量子的な重ね合わせの状態は観測によって決定する、というものです。箱の中の猫、そのままですね」
植木先生は一つ咳き込んで、「そして、量子力学にはコペンハーゲン解釈以外の解釈もあります。量子の重ね合わせは、観測によって決定するのではなく、可能性の数だけ世界は分岐する、と」
「いわゆる、多世界解釈です」
×
『巨大な木を思い浮かべて下さい』
もはや懐かしい顔を思い出す。
『木は幹と枝に分かれていますが、この場合、太さは関係ありません。猫が死んだ世界が幹、猫が生きている世界が枝です。
この二つの世界が並行して存在しています。この解釈において大事になるのは、観測が必要ない、ということです。そもそも、観測とは? カメラで見ること? 猫が見ること? それとも、人の肉眼に限るのか? コペンハーゲン解釈の常識に反する部分は、たいていがここのせいです。
多世界解釈では、どちらの世界もある、という解釈をします。重ね合わせは存在しない。ただし、そもそも多世界なんて存在するのか? という部分もまた、常識に反していますよね。これもまた、証拠はありません。あくまで解釈でしかないのです』
植木先生がそう言ったところで、授業終了のチャイムが鳴った。早く教室に戻らなければ、担任にサボりがバレてしまう。結局、間に合わなくてしこたま怒られたけれど。
私は、もう少し先があると思っていた。まだオチていない。この話を持ち出すからには、植木先生が私に言いたかった、何かがあるはずだ、と。
けれど彼は、驚くほど呆気なく、『時間だから、また今度ですね』と言った。
仕方がないことだ。私には時間が無かったし、彼も他の教師に見られる訳にはいかない。授業をサボって、女子生徒と密会していた、なんてことは。
『それじゃあ、さよなら』
『またね、せんせ』
それが最後の会話だった。
私の目前で、降りた踏み切りが揺れる。高速で動く電車に押し出された空気が、私にしつこくまとわりつく。
警察は事故と判断した。実際、前日に会っていた私の目にも、彼が自殺をするようには思えなかった。
植木先生は時速百キロほどで高速道路の中央分離帯に突っ込んで死んだ。
「事故・・・・・・事故、か」
踏み切りが上がる。けれど、私は足を踏み出せずにいる。
植木先生は何を伝えたかったのだろう。日々に疲れていた私に、どうしろと言いたかったのだろう。
『あくまで解釈でしかないのです』
あの日、彼はそう言っていた。ならば私もそれに倣おう。恋の終わりと、人生の終わりが重なり合った今こそ、『多世界解釈』を解釈すべきだ。
あるいは、希望を持て、という話かもしれない。
二つの世界がある。大木を思い浮かべる。一つは植木先生が生きている、という。もう一つは、植木先生が死んだ、この世界。
たとえこの世界では死んでいても、別の世界では生きている。だから、悲しみは必要ない、とか。
いや、それではまるで、植木先生が自分の死を予測していたようだ。植木先生は自殺ではなく、間違いなく偶発的な事故だ。
あるいは、てきとうに生きろ、という話しかもしれない。
思えば『てきとう』をやけに強調していた。あらゆる世界が同時に存在しているのだから、何かを選んでも、また別の何かを選んだ自分がいる。それはつまり、どのドーナツを選んでも、本質的に変わりがない、ということだ。
ピカチュウを選んだ私がいるように、ポン・デ・リングを選んだ私がいて、ダブルチョコレートを選んだ私がいる。
受験に失敗した将吾がいて、受験に成功した将吾がいる。
だから、何を選んでもいい。てきとうでいい。どうせ全ての世界があるのだから。
これはあり得そうな解釈だった。
踏み切りが喘鳴をあげる。
涼やかな夏の風が吹いている。
「そう、例えば、私が死んでも──」
蝉がうるさい。
電車が近づく。
「──私は生きている」
私は、一歩足を踏み出した。
×
家に帰った私は、胃に入っていた全てを便器に吐き出した。
酸っぱい匂いが鼻をつき、それがさらに吐き気を刺激する。全身が気怠さに襲われ、トイレの床にそのままへたり込んだ。
私は死ねなかった。
ただ、死ぬのが怖かった。
どうして、あのギリギリになるまで気づけなかったのか不思議なくらいだ。私は確かに、死神をこの目で見た。
そこまで自分を追い詰めて、ようやく納得のいく答えを見つけた。
これだ、絶対にこれだ。私はもう、そう決めた。
即ち、てきとう、ではなく、真剣に生きろ、と。
あなたが生きていることを選んだこの世界は、あなたが死ぬことを選んだ世界の上に成り立っている。
人は生きる度に、人を殺している。
だから真剣に生きなくてはならない。あらゆる屍を踏み越えて、私は生きているのだから。
それを選んだのは自分なのだから。
ピカチュウが嫌だったなら、嫌と言ってポン・デ・リングを取ればよかった。そうしなかったのは私だ。植木先生は死にたくなかったのなら、残業終わりに眠い目をこすりながら運転なんてせず、タクシーでも使えばよかった。
あらゆる選択肢は目の前にある。どうすればいいのか、なんて自分で決めればいい。
私は水で口を濯ぐと、自分の部屋に閉じ籠った。勉強机に座り、カバンから道具を取り出す。
数学、ではない。それは既に必要な量に届いている。
大学受験に真剣に取り組む。心機一転には既に遅いかもしれない。浪人して親に迷惑をかけることになるかもしれない。それでも挑まない訳にはいかない。私の足元には、私の知る限り、二つの死体があるのだから。
英語、国語、物理に世界史。合格点に足りない教科は多くある。
さて、一体どれから始めようか。
[タイトル:星座にはなれない私]
[お題:束の間の休息]
深夜二時を回っても、自己PRが一文字も埋まらない私のような人間が入れる企業なんてものがあるのだろうか。
ないことはない、と思う。
通っている大学の去年の内定者情報を見れば、私と同じ学部学科は八〇パーセント以上が就職できている。似たもの同士であるはずの友人も、だいたい内定が出ていて、遺伝子のもとである両親も就活を成功している。
私だけがそこから溢れている、とは思えないし、思いたくない。
それに、世の中には自己PRなんて嘘で塗り固めて内定を勝ち取る人もいる。埋まらないなら、無理やり埋めればいい、と。
「それができたら苦労しないよなー」
なんて嘯いて、私は溜まりに溜まった検索タブを見返す。
『自己PRの書き方』
まず目に映るのは、特別なことなんて書かなくていい、という一文。
海外留学とか、バイトリーダーとしてとか、ゼミ長としてとか、そんなのはいらない、と。あくまで伝え方が重要で、華やかな経験がないからと嘘をつく必要はない。らしい。
じゃあ何を書けばいいんだ。そんな気持ちで先を進めると、バイトとかTOEICとかサークルとか言ってくる。
ねーよ、そんなの。コロナ禍なめんな。
必死に引きこもってた奴らがバカを見る世の中だと、つくづく思う。バイトもサークルも、コロナじゃなきゃやってた。ありがたいことに親からの仕送りで十分に生活できた。趣味もやりたいこともなかったから。TOEICはどうだろう。友達がいたら一緒に挑戦していたかもしれない。向上心がなくても書けたであろう、自己がとことんまで欠けている。
まぁ、結局自分のせいなんだろうな。だって、同世代はみんな条件同じだし。
こんなふうに悲観してばかりで、時間だけが過ぎていく。その結果の午前二時。
そういえば志望動機も書けてない。
生きるために働くだけなのに、やりたいこととか求められても困る。でも、なんでもいいってフリーターしてると、将来生きることができない。ここで生活保護で生きればいいやって、振り切れないのも私の弱さだろうか。
ふと、机の隅に置いていた履歴書に貼る予定の写真が目に入った。髪を束ねて背後に垂らし、葬式みたいな真っ黒のリクルートスーツに身を包む。せっかく写真館にお願いしたのに、目は死人みたいに澱んでいて、どことなく頬がこけている。私が人事ならこんなやつは採用したくない。
「・・・・・・一旦、休憩」
うんざりして呟いた。
休憩、といっても、常に半分くらい休憩しているようなものだ。一文字も書かずに見つめているだけで、履歴書を書いてる、とは言い難い。
束の間の休息に、私は外に出た。夏休みは既に終わり、少しずつ秋めいてきている。街灯に虫が寄り付き、自動販売機には蜘蛛の巣が張っている。近くの水田には蛙が多く棲息しているようで、ゲコゲコと煩く鳴いている。
七部袖くらいの緑のパーカーを着て、緩慢な速度で夜の住宅街を往く。先ほど自動販売機を通り過ぎたばかりだが、向かう先は別の自動販売機だ。そこにしか無いものが買いたい、というわけじゃなく、なんとなく歩きたい時に目印として定めた場所。往復で二十分程度なので、気分転換にちょうど良いのだ。
イヤホンからは少しだけ古い音楽が流れる。サブスクに加入して以降、リピートするのは高校時代に流行った曲ばかり。なぜかは知らないが、大学に入ってから流行った曲はあまり好きになれなかった。
懐かしさに身をやつしながら、少し空を見上げる。星座には詳しく無いので、オリオン座くらいしかわからない。
オリオン座の名前の由来になっているオリオンとは、ギリシャ神話に登場する狩人だ。たくましく凛々しい美青年の形で描かれることが多く、好色としても知られる。
彼を語るなら、恋人であるアルテミスも語らなくてはならない。ちょうど、今日は月も見える。月の女神であるアルテミスは、オリオンと運命的な出会いをした。なにせ狩人と狩猟の女神、気が合わないわけがない。
そんなこんなで二人は恋人になるが、これに反対したのがアルテミスの兄であるアポロン。オリオンの粗暴な性格と、アルテミスが処女神であることが理由、らしい。
ある日、アポロンは毒サソリをオリオンに放ち、彼は驚いて海に逃げる。海上付近を泳ぐオリオンの頭は、ただの光る岩にすら見えた。
そしてアポロンはアルテミスに言った。
「君でもあれは射ち当てることは出来まい」
巧みに、残酷に、でもギリシャ神話はそういうお話ばっかりだ。ギリシャ神話はとりわけ人間らしい神様だと評する人がいるけれど、間違いなく人である私は、やっぱりオリオンとアルテミスには幸せになって欲しかったなと思う。
浜に打ち上がった死体のオリオンを見たアルテミスはどんな気持ちだっただろうか。オリオンを星座にしてくれとゼウスに頼んだ気持ちは。
恋人はもう何年もいない。高校生の時、私に告白したアイツは、私が死んだら星座になって欲しいと思うだろうか。
「星座になれます、なんて自己PRじゃ誰も雇ってくれないな」
休憩だというのに、結局そのことを考える。私は切り替えが上手くない。短所発見。短所ならいくらでも浮かぶのに、よく裏表とかいわれる長所のはちっとも浮かばない。
長所もないしエピソードもない。〇から一はダメで、一から百はいいとかいうけど、私には一がない。
私は改めて自分が星座になったらと考えて、思わず笑みが溢れた。私が星座なら、毎朝の星座占いは常に最下位だろう。
言うことなんて何もない。ラッキーアイテムは心臓とか。あるいは履歴書。
色々と考えごとをしているうちに、私は目的の自動販売機の前に辿り着いた。値上がりした百八十円のコーラをCokeOnで買って、すぐに開ける。
プシュ、といい音がした。
道路の真ん中を、はしたなくガニ股で歩きながら、喉を鳴らす。炭酸は一気飲みには向かないけれど、三分の一くらいは飲んだ。
口の端が少しベタつく。
残りを飲みながら、中途半端に考えごとをする。そういえば就職しない道もあるにはある。家庭に入る、という選択肢。
「そんなのあったな」
そう言いながら、だからどうした、と思う。履歴書も婚姻届も、本質は変わりない。
自分が、貴方に、合うか。就活も恋も同じこと。そうでないなら、その紙の先は地獄になる。だから履歴書も書けないのに、婚姻届なんて書けるはずもない。
そう思いながら、私は左手を空に掲げる。先にはちょうど月があったので、なんとなく薬指の付け根あたりと被せてみる。
それで何が変わるわけでもないけれど。
「こんにちはー、Uber eatsでーす」
ガチャリとドアが開けられて、のそりと腕が伸びる。それにスシローから貰ってきた一人前の寿司を受け渡すと、小さくありがとうございますと聞こえた。
「ありがとうございましたー」
そう言って、専用のバックを背負うと、背中越しに鍵の閉まる音がした。防犯意識は大変よろしいのだが、自分が正しく不審者だと言われているようで、なんだか切ない気分になる。
そんな私の気落ちなんて関係なしに、次の依頼がスマホに届く。受けるか、受けないかは自分次第。もちろん、フリーターの私にとって、選択肢はあってないようなものである。
自転車に乗って店舗へと急ぐ。最近努力義務化したヘルメットが重い。元々体力があるわけでもないので、緩やかに五月の風を切る。
Uber eatsには履歴書がいらない。それが私の選んだ理由。
ネット上の先輩曰く、コロナ禍よりは稼げないが、今でも充分需要はあるとのこと。もちろん、不安定な職業だし、一生自転車を漕ぎ続けるわけにはいかない。就活失敗に対する気休めにしかならない。
両親は私の選択を渋々ながら了承したくれた。貴女の人生だから、と。我ながら甘い両親だと思う。時にその甘さが失敗を招くのだと、つい教えてあげたくなる。
「これは休憩だよ。人生の、束の間の休息だ」
こんな論理がまかり通るなんてこと、あっちゃいけないんだよ。なにせ、人生は常に人生だ。生きている限り人生なんだから、休息なんてあるはずもない。
あるいは、死んで星座になれば、それこそが休息なのかもしれない。
私は星座に向かないけれど。
やがて信号に差し掛かる。目の前では青が点滅し、もうすぐ切り替わることを教えてくれている。時々、マナーのなっていない配達員が歩道や赤信号をかっ飛ばす様がSNS上に流れるが、未だに私はそれをする度胸がない。これを突っ切って貰えるかもしれないチップに必死になれないのは、まだ私が半人前だからだろうか。
まだ信号は点滅だったけれど、大人しく止まる。私の速力じゃ、向こう岸まで辿り着けない。
私の死体は、きっと岸には辿り着かないだろう。
[タイトル:花畑にパンジーが咲く]
[お題:花畑]
アンティーク調の揺り椅子が緩慢な速度で揺れている。
その様を僕は玄関から眺めている。犬走蓮花の一軒家は広いけれど、代わりにたった一部屋しかないので、玄関から全てが見渡せた。
ベッド代わりのLOGOSのハンモック。キッチン代わりのパナソニック製IHクッキングヒーター。風呂とトイレはそのものが別々の扉の奥にあるけれど、たいていはこの一部屋に収まっている。
しかし、肝心の犬走の姿が見えない。揺り椅子はひとりでに、主人の帰りを待つ犬の尻尾のように振れている。
どうやら、たった今、彼女は椅子から降りてどこかへ行ってしまったらしい。
戸を叩いて扉を開くまでの間に、どこかに逃げてしまったのか。もしくは、ただの偶然か。今にも止まりそうな揺り椅子の速度は絶妙で、とてもその判断はつきそうにない。
「犬走さーん!」
僕の声が部屋に虚しく響く。目で見てわかったことが、耳で聞いてより深くわかっただけだ。犬走はここにいない。
しかし、焦る事はない。彼女のいる場所は、二つに一つだ。すなわち、この部屋か、あるいは裏庭の花畑か。
「犬走さん」
少し声を低くして言うと、犬走はビクッと肩を震わせた。背中越しでも、その動揺が容易に見て取れる。彼女は一平方メートルを隙間なく埋める、黄色いバンジーの花畑の隣にしゃがんでいた。格好はオーバーサイズの白いニットセーターに、紺のジーパン、そしてそれらに似合わないサンダルを履いている。彼女の藍色のペディキュアが、春先の少し肌寒い空気に抱かれている。
彼女は恐る恐るといった様子で、こちらに振り向くと、バツの悪そうな苦笑いを浮かべた。
「き、北川、さん・・・・・・」
僕は、はいそうですよ、犬走さん、と義務的な返事をした。僕が北川誠太郎である事はどちらも分かっているが、互いの立場をはっきりさせるために、改めて苗字で呼び合う。
「どのくらい進みましたか?」
「・・・・・・、じ、じゅう、かな?」
犬走は、目を逸らしたまま、両の手のひらを広げて『十』を作る。
「・・・・・・十ページですか?」
「・・・・・・十文字、で、すぅ・・・・・・」
消え入るようなか細い声。すると、犬走はプイッと顔を背け、花畑から溢れた花壇用の土を弄り出した。そして、何やら人に聞かせない程度の声量で、ぶつぶつと何事かを呟いている。
あの日はパンジーを強風から守っていたからだ。次の日は暑すぎてノーパソがダメになる寸前だったから。さらに次の日は朝の星座占いが下から三番目だったから。などなど、小説家とは思えない子供じみた言い訳を述べている。
およそ二分ほど、その様子を無言で見守っていると、遂に観念したのか、彼女は急に立ち上がって頭を下げた。
「すみません! まだ全然出来てません!」
四十五度の素晴らしく美しいお辞儀である。これが小説新人賞を満票で勝ち取り、授賞式で涙ながらに下げた頭と全く同じであると思うと、なんともいえない気分になる。
「・・・・・・とりあえず、十文字を見せて下さい」
僕がなんとかその言葉を絞り出すと、彼女はパッと頭を上げた。その顔には、良かった、許された! と書いている。残念ながら、その期待には応えられない。たとえその十ページが文学史に残る名文であろうとも、担当編集者として、締切を守らないのを当たり前と思わせてはいけない。この社会をまるで知らない小説家と、社会を繋ぐのが僕の役目なのだから。
『花畑にパンジーが咲く』
ノートパソコンに立ち上げられたWordアプリには、その十文字がひっそりと添えられていた。
作業机に座る犬走の横で、それを認めると、極めて穏やかな表情で目を閉じる。
なるほど、と思う。なるほど。
そして、深く息を吸って、静かに吐く。何か言おうとしたが、中々言葉にならない。ここまで長く続く絶句は初めての経験だ。
「あの、頑張ります。頑張るので、頑張ります」
おまけに書いた張本人が、こんな慰めをしてくる。今から頑張れるなら、もっと前から頑張ってほしかった。
「・・・・・・頑張ってください。とりあえず、今日は今から缶詰めです。後一週間で十万字に達していなかったら、プロットなしで編集者会議も通さないなんて横暴はもう二度とできないですからね」
犬走はあからさまに怪訝な表情をして、サッとパソコンに向き直った。一文字ひらがなを入れては、一文字消してを繰り返している。
「少し、外の空気を吸ってくる」
僕が居ては集中できないだろう。
玄関から裏庭に出て、パンジーの花畑が見える場所に行く。家の壁にもたれると、電子タバコを取り出して水蒸気をふかす。
タバコ休憩、というものがどれだけの会社に残っているのかわからないが、これをしたくなる気持ちはよくわかる。仕事のストレスは、仕事のうちに打ち消してしまいたい。
少し感情がなだらかになった。すると、不思議なもので、ずっと視界入っていたはずのパンジーが目に止まる。そこから、先ほどの十文字が思い出され、そして頑張っている犬走の姿が浮かび上がる。
頑張っている。犬走はいつだって頑張っている。でもそれだけでは生きていけなよな、と思いながら、僕は水蒸気を口と鼻から吹き出した。
犬走蓮花は直情的な作家だ。自分の目と肌で感じた、現代の現在を、パワフルなワードセンスでフィクションに落とし込む。それも、プロットと呼ばれる小説の骨組みを作らずに、感情の揺れ動くまま、一気に一つの作品を書き上げる。その代わりに、何も思いつかなければ、文字通り一文字も書けない。無理に絞り出して十文字が限度である。
そして、並の小説家と負けず劣らずの変人奇人っぷり、さらには締切を守らず、加えて世間知らずときた。やがて多くの出版社が、その才能を惜しみつつ、彼女に別れを告げた。小説において、一作限りの天才も少なくはない。そういった、後にコアなファンによって密かに語られる『消えた天才小説家』の地位に甘んじるのだろう、と多くが思った。
実際、二作目は泣かず飛ばずだった。華々しくデビューした、衝撃的な一作目から、時間が経っていたのもあったのだろう。犬走に新人賞を与えた出版社も、二作目のこの結果を見て手を引いた。そこから数年ほど、彼女は完全に消息を絶った。
そして、ある日突然、三作目が発表される。それが犬走の運命を、そして僕の運命を変えた。
『久しぶり誠太郎。私のこと覚えてる?」
ある日、僕の元にやってきた電話の主に、全く心当たりはなかった。深夜三時に電話を掛けてくる非常識な友人はいなかったし、残念ながら、寂しくて声を聞きたくなった、なんて言ってくれる恋人もいなかった。
『どちら様でしょうか』
少しもイラつきを隠さずに言った。しかし向こうにはこちらの感情は一切伝わっておらず、粛々と会話が続く。
『犬走蓮花です。小学校以来だけど、覚えるよね』
名前を聞いて、記憶の奥底から怪物がフラフラと立ち上がる。十数年もの歳月を超えて、思い起こす彼女の声は、電話の主よりもずっと甲高かった。けれど、深夜三時にアポなしで電話をするという、この常識知らずが、彼女が犬走蓮花だという確信を与えた。
『あ、あぁっ、久しぶり! どうしたの、こんな、こんな時間に』
この時ばかりは本当に驚いた。犬走蓮花は僕の憧れだったからだ。
恋や好きでは無く、憧れ。彼女が新人賞を取る以前から、つまり小学生の頃から、彼女は自身の非凡をこれでもかと全身で表現していた。
一言でいえば、破天荒、だ。生徒の誰よりも校長先生と仲良くなり、気に入らないクラスメイトとは殴り合い、イジメには断固として屈しなかった。少なくとも、僕にはイジメに見えていたが、果たして犬走にその気があったかどうか。彼女にしてみれば、ただの一対複数人の喧嘩だったのかもしれない。
こうした、彼女の自分を貫き通すその在り方に、僕は憧れていた。決してそうなることは出来なかったが、僕の起源には確かにそれがある。
そんな小学校時代が終わり、僕は犬走とは別の中学に通うことになる。進学先が真面目な校風であったことも相まって、あまり犬走の噂を聞くことは無かった。しかし、その数年後には小説新人賞受賞という形で、彼女の破天荒の続きを見せつけられることになる。
それから犬走の二作目執筆期間中に、僕は大学生を卒業して出版社に入社する。いつの間にか出されていた二作目が、古本屋の端に置かれていくうちに、僕は編集者の仕事をすることになった。
『うん、えと、私が小説を書いてることは知ってるよね?』
犬走の声は少し不安げだ。
『勿論、僕の界隈で、知らない人はいないと思うけど』
『そう、界隈。誠太郎の界隈のことで、ちょっと頼み事があるの』
犬走は、どこからか僕が出版社に入社した情報を掴んでいた。そのコネを利用したい、という。
『私の三作目を、誠太郎の出版社から出して欲しいの。今の私じゃ、自費だとほとんど見てもらえないから』
今に思えば、この時、聞こえてきた衣擦れの音は、きっと頭を下げた時の音だ。姿勢のいい、四十五度。あの四十五度のおかげで、彼女は小学校の校長に随分と気に入られていた。
僕はどうするべきか、しばらく考えて、彼女の顔を思い出してから、言った。
『・・・・・・ウチは持ち込みやってないから』
『・・・・・・』
電話口で黙りこくる犬走に、ただ、と続ける。
『掛け合うだけ、掛け合ってみる。勿論、中身を確認して、だけど。とりあえず、原稿を僕の方に送って欲しい。それを読んで判断する』
『・・・・・・分かった』
この言葉は、どんな感情を元にして吐かれたのか。少なくとも、僕には『嬉しさ』ではないように思えた。
この時、僕に送られて来た三作目は、悪くなかった。一作目ほどのパワーはなかったが、現代をシニカルに礼賛した歪さは、癖になる読後感があった。それは、この原稿を受け取ってくれた先輩編集者も同じだったようで、間も無く発刊が決まる。犬走の、第二と言っていい小説家人生が始まり、僕にとっては第一の担当編集人生が始まる。
僕は、二十分ほど経って、そろそろ部屋に戻って様子をみようという気になった。ただし、彼女の様子を見るのは、慎重に、が原則だ。集中が途切れやすく、さらには集中するまでに時間がかかるので、もし激励が不必要なら、音も立てずに退散すべきだ。
玄関をそっと開けて、中を覗き見る。犬走は作業机にはいなかった。彼女はノートパソコンを持って、揺り椅子に座り、穏やかに揺られている。
犬走にとって、この揺れが肝要だ。彼女は肉体と精神は深く結びついていると考えている。つまり、肉体が揺らされれば、感情も揺れ動くと思っているのだ。なんて無理筋な論理だろう、と思う。それでも、彼女はこの方法で、多くの人々を魅了した小説家だ。それが彼女の世界観だ。
その時、ふと気づく。どうして、今日初めてこの家に訪れた時に、揺り椅子が揺れていたのか。
彼女は、きっとあの揺り椅子に座って仕事をしていた。そして、感情が揺れたのだ。自分で書いた『花畑にパンジーが咲く』という一文に。そして、実際にパンジーを見ようとした。現代の現在を正確に書き起こすために、現実に咲いているパンジーの情報が欲しかったのだ。
であれば、僕はなんて無粋なことをしたのだろう。これが僕の仕事だと割り切ればそれまでだが、この小説家に対して、そんな対応は間違っている。
なぜなら、彼女は犬走蓮花なのだから。
破天荒で、常識知らず。そして人を動かす力があり、僕の憧れ。
真剣にノートパソコンと向き合う彼女の表情は、どんな地上の花よりも美しく見えた。
僕は静かに扉を閉じて、もう一度パンジーの花畑の前に来た。
『花畑にパンジーが咲く。
黄色のモザイクが風に揺らぐ。
春の鳳蝶が、パンジーを選んでいる。
好きにすればいい。
君の好きにすればいい。
どれを選んでも、きっと正しい』
あ、そうか、と僕は気づく。電子タバコの水蒸気を吸い込んで、消えた現代のストレスの隙間で思考する。
僕の憧れが、犬走を特別にしている。
犬走は僕の憧れであるために、頑張っている。
どうしてそう思えたのか。僕は先ほど犬走がしゃがんでいたところに行って、腰を落とす。溢れている花壇の土を拾い上げて中に戻し、少し引き抜かれたパンジーを植え直した。
あの犬走蓮花に、たった一平方メートルでもパンジーが育てられるものか。
これが証拠だ。犬走はパンジーの話を書くためにパンジーを植えた。現実を映す彼女が、現実を自ら作り上げた。この捏造が、僕が急かしたことで生まれたのでなければ、もはや僕にこの仕事は向かない。
花畑にパンジーが咲く。
[タイトル:猿人にLINEは向かない]
[お題:君からのLINE]
哀しげに眉を八の字に曲げる僕の表情が見えるほど真っ暗な画面の上で、ひび割れが白色を覗かせる。僕のスマホの、この黒が、電源オフやスリープといった、正しい手順の黒色ではないことは重々に承知している。それでも、奇跡を願わずにいられないのは、この高性能な板への依存度が高いことの証左か。そんなことを考えながら、僕は祈るようにうずくまり、長々と電源ボタンを押した。
果たして、刺激的で痛々しいブルーな光彩は、一つとして現れない。
はぁ、と一つため息を吐く。吐く、とはいったものの、その文脈は決して能動的ではない。なみなみと注がれたオレンジジュースを飲もうとして、つい手が震えて零してしまった時と同じ類いの、やるせ無さに対するため息。出発から終点まで、自分しか出てこないというのに、どうして僕はマイナスを被っているのか。
「あーあ、やらかした」
たっぷり十分ほど無意味と格闘して、ようやく出てきた言葉がそれだった。大した反響もせずに部屋に消える。それが目の前に広がる無常をさらに強調して、僕の心を地に落とす。
スマホを落とした。スマホ画面が割れた。電源がつかない。とても悲しい。
僕たちの祖先である猿人が、僕の顔を見たら、きっと鼻で笑うだろう。
そんなことで気を落としているのかい? と。
まあ、彼らに言わせれば、きっと現代人はみんなパッとしない表情をしている。僕らがスマホに届くLINE通知一つで一喜一憂する間に、彼らは直接愛を伝えるのだ。
「・・・・・・・・・・・・しかたない」
母の雷撃か、父の鉄槌か、あるいはその両方と、充分な時間を糧にして、僕のスマホは再び機能を取り戻すだろう。それまでは「しかたない」を胸に刻んで、我慢するほかない。
現在時刻は夜十一時。大学受験を控えた高校三年生にとっては、暗記科目でもしたいところだが、残念ながらそんな気分では無い。両親の機嫌が悪い深夜と早朝は避けて、明日の夕方にでも話そう。
そう決めてから、僕はベッドに横になった。そうして流れるような動作でスマホに充電器を差し込む。するといつも聞こえるはずの音が聞こえず、それでようやくハッとした。なんて無意味なことをしているんだ。
途端にバカらしくなって、乱暴に充電器を外すと、ベッドに備え付けの小テーブルにスマホを置いた。乱暴とも丁寧ともつかない、なんとも微妙な手遣いだった。
「今日はまた、なんとも悲しそうな顔をしているね、穂浪クン」
言葉は背中から投げられた。しかし、三年一組の教室内で僕をカタカナの『クン』を付けて呼ぶ人間は一人しかいない。なぜ声を聞いてカタカナだと分かるのかと問われれば、それはカタカナとしか思えないほど、独特な『クン』の発音をしているからだ。探偵役が、自身の推理を披露する時に、当て馬になった助手役の名前を、上から目線で呼ぶ時のそれに似ている。
「なんで後ろから顔が分かるんだよ、小野寺」
そう言いながら振り向くと、気持ちの悪い微笑みを湛えた、小野寺修が真後ろの席に座っていた。長い藍色の髪を後ろ手に纏め、多少の化粧を施したその様は、高校生というよりも大学生に雰囲気が近い。それでも首から下は制服なので、下手なコスプレを見ているような違和感がある。
この男を見ていると、改めてこの高校の自由さ思い知らされる。女子は大半がメイクをしているし、スカート丈は短いし、髪も染めている。対する男子はというと、こちらも似たようなもので、派手な髪型髪色、着崩した制服、全身クロムハーツに、全身グッチまでいる。
こうした自由な校風の代わりに失ったのは学力である。自由を売りにした当時の高校偏差値六十・五から、落ちに落ちて現在では四十に近い。とはいえ、ここにしか入れなかった僕は、誰に文句を言える立場でもない。
「教室に入る時に見たんだ。今日はなんとも風通しのいい日だからね」
小野寺にそう言われて、教室を見渡す。時間は既にホームルーム二分過ぎであるが、三十人クラスで僕を含めて六人しか来ていなかった。
高校三年のこの時期は自由登校である。簡単に分けると、登校しているのが大学受験組、していないのは就職組か、あるいは既に進学先が決まっている人だ。
確かに、風通しはかなりいい。正直に言って、この時期がこれまでの高校生活の中で一番過ごしやすい。就職組の中には友人も多くいるが、やはり同じ目的を持っている仲間といた方が、気持ちが前に向く。
ところで担任もまだ来ていない。時計は二分過ぎから、間も無く三分過ぎに変わろうとしている。先生まで自由な校風というのは、同市内の高校では中々に珍しいものであろう。
「ところで」
そっぽを見ていた首を無理矢理に捻るような、強めの口調で小野寺が言う。
「もう一人、悲壮的な顔をしてる人がいる」
何か、妙に真剣な顔で、彼はそう続けた。先ほどまでの微笑みとのギャップと相まって、変な緊張感がある。
「だれ?」
「・・・・・・穂浪クンから見て、右上の子」
「なんで名前で呼ばないんだよ」
文句を言いつつ、少し前に向き直ってその場所を確認する。そこにいたのは、この高校では珍しい黒髪、ノーメイクの女子、藤宮千夏だ。おしゃれに興味がないというよりも、そんなことしている暇があるなら勉強したい、という真面目ちゃん系で、少し周囲から浮いている。そして、この高校を選んだ理由がわからないくらいには頭が良い。一度模試の成績を見せ合ったことがあるが、志望校の判定にBより下は無かったはずだ。
そんな藤宮は、普段から猫背気味なのだが、確かに今日はその丸みが一段と深い。悲壮、という言葉が服を着て歩いている、というレベルで悲壮感が漂っている。
「ど、どうしたの、アレ」
僕は動揺しながら小野寺に聞いた。しかし、彼は全くわかりません、という様子で首を横に振る。
「顔を見てそう思っただけだよ」
彼がそう言った矢先、ガラガラと勢いよく教室の扉が開かれた。
担任だ。
彼はごめんごめんと、軽く言いながら教卓に着くと、日直に号令を掛けるよう促した。今日の日直は小野寺だ。
「起立!」
それなりに張った小野寺の声に合わせて、教室のほぼ全員がサッと立ち上がる。しかし、たった一人だけ、藤宮千夏だけがワンテンポ遅れていた。
彼女の真面目さは、何も勉強だけに起因するものではない。こうした日々の何気ない場面での、混じり気のない礼節にこそ、藤宮を真面目たらしめる何かがあったはずだ。
しかし、今日の彼女はどこかおざなりだった。慌てて引き摺った椅子が、床との間でギィと高音を立て、さらに後ろの席に当たって鈍い音を鳴らす。
朝の挨拶を終えて座った後も、どこか上の空で、担任の声なんて聞こえていません、という風だった。
果たして、彼女に何があったのだろうか。
僕はそのことが無性に気になった。
スマホを壊した僕よりも、よっぽど悲壮的な悲壮感を纏うクラスメイト。
気にならないわけがない。願わくば、僕よりもよっぽど不幸であってくれと、そんな邪な気持ちを抑えながら
僕はチャンスを待った。
朝のホームルームの後、僕は直接、藤宮に聞いてみることにした。
彼女の席に近づいて、一言だけ。
「何かあったの?」
そう言いながら、彼女の前に立って、驚く。
上目遣いで僕を見上げる彼女は、目尻に涙を溜めていた。かと思うと、今度はみるみるうちに頬を紅く染め、それまでの哀愁が一瞬で消え去る。
「どの口がっ」
藤宮の声はか細く、独り言のように小さかったが、そこには確かな怒気が混じっていた。
「えっ?」
意味の分からないまま立ち尽くしていると、藤宮は僕を押し除けてさっさと教室を出て行ってしまった。
結局、僕は彼女を怒らせただけで、答えを知ることはできなかった。
僕は復旧したスマホで、LINE画面を開く。雷撃も鉄槌も乗り越えて手に入れたそれは、時間の隔たりを感じさせないほど手に馴染んだ。データはあの日、壊してしまった時のそのままである。二週間前に時が戻ったような錯覚を受ける。
小野寺からのLINEが数百件溜まっている。散々返せと言われていたので、公式のクマのLINEスタンプを一つだけ返しておいた。
その時、ふと気になって、藤宮とのLINEを開いた。大学受験組でLINEグループを作った時に交換したものだ。
『メッセージの送信を取り消しました』
『メッセージの送信を取り消しました』
『メッセージの送信を取り消しました』
その三つのシステムメッセージは、藤宮が機嫌を損ねていた日の一日前のものだ。つまり、スマホが壊れていた時に送られて、消されたもの。
『なんて送ったの?』
今更ながらに、LINEで尋ねる。
二十分ほど経って返ってきたのは『なんでもない』という素っ気ないものだった。
藤宮との関係は何も変わっていない。元々の関係が進退のあるものではなかったので、相変わらず、お互いにただのクラスメイトのままである。
これに気づいていれば、何か関係が変わっていたのだろうか。
その答えは、もう藤宮にしかわからないのだろう。
どこか、遥か昔の猿人が、僕をケラケラと嘲笑っている気がした。