[タイトル: 多世界解釈解釈]
[お題:どうすればいいの]
「美郷が好きなのを選んでいいよ」
父が仕事帰りに買ってきたドーナツは、まだ箱の中に囚われているというのに、私の胸の内はすでに多幸感に満たされていた。
決して裕福ではない慎ましい家庭環境で、およそ三ヶ月に一度あるかないかという贅沢。三人兄妹の五人家族で、その末っ子にあたる私には、最初にドーナツを選ぶ権利が与えられた。
箱の中を除くと、甘い香りが溢れ出す。ドーナツは五種類入ってる。ポン・デ・リング、チョコファッション、エンゼルフレンチ、ダブルチョコレート、そしてピカチュウ。
一人一つだ!
まだ六歳の私にもすぐに分かった。五人家族に、五つのドーナツ。なんてぴったり! 算数は大の得意だ。
ドーナツはどれも蕩けるように甘そうだ。チョコの光沢は煌びやかに輝いている。この時点で、私の選択肢はダブルチョコレートと、エンゼルフレンチに絞られた。
いや、でもと、私のお腹が唸る。記憶を掘り起こしてみれば、ポン・デ・リングを食べたのは随分と前のことで、忘れかけたその味を再確認するのも良いのではないか。あるいは、まだ食べたことのない味に挑戦するのも良い。チョコファッションの味はまだ知らない。
そんな風に唸っていると、台所から顔を出した母が、「美郷はピカチュウよね?」そして、嫌味のない笑顔を浮かべ「ポケモン、好きだったじゃない」
そうだったのか、と私は思う。私はポケモンが好きなのだろうか。
不思議そうな顔をしていると、父は禿げ上がった頭をかきながら、「ああっ、やっぱりそうだったよな。ミスドに寄ったら、コラボしてたから買ってみたんだ」
父の眼差しには期待が見え隠れしている。
喜べ、と言っている、気がする。
「うん、嬉しいよ、パパ」
そう言って、私はピカチュウを選んだ。
「じゃあ、俺はこれ」下の兄である圭吾がポン・デ・リングを選んだ。母が、「将吾にも持っていって!」と言い、子供部屋に向かう圭吾にエンゼルフレンチを持たせた。将吾は高校受験の勉強中で、部屋に缶詰になっている。
父はダブルチョコレートを選んだ。私のチョコ好きは、父の遺伝だろう。母は残ったチョコファッションを頬張る。「うん、美味しい」と言って、手の中のピカチュウを弄ぶ私に笑顔を向ける。
「ほら、早く食べて、歯磨きしなさい」
「うん、分かってるよ、ママ」
私はピカチュウの耳を口に咥えた。そのまま千切って、片耳のないピカチュウを改めて見る。なぜだかグロテスクにおもえないのはどうしてだろう。
まあ、でも、美味しいことに違いはない。そのまま私は、ピカチュウの残りの部分も食べ切った。ピカチュウはとても美味しかった。
×
「お前は数学はいいんだけどなぁ、宮永。大学受験は数学だけじゃ無理なんだよ」
そんなことない、と思いながら私は担任に向けて「はい、頑張ります」と頷いた。
「『頑張ります』か。本当に頑張れよ、もう共通テストまであと半年しかないんだからな」
きっと、担任は発破をかけたつもりなのだろう。その実、二者面談を終えた私の気持ちは深く沈むばかりだ。
私が教室に戻ると、教師もいないのに相変わらず静けさを保っていた。私のクラスは、大学進学を目指す特進クラスで、誰に指示を出されずとも勉強を進んでするような、真面目な人が多いのだ。
退屈だ。
受験のための勉強というのは、なんともまあ退屈なことだろうか。未来への投資である、という理屈はわかる。その重要度も。けれど私は、やっぱりこの人たちの中では浮いていた。未来の自分のために、今の自分を犠牲にするというやり方が、どうにも腑に落ちないのだ。
私は教室を後にした。引き戸が開いて、閉じて、誰も教室に入らないというのは、大変な違和感であったはずだが、誰一人として気にしてはいなかった。
私は一人で図書室に向かった。
この図書室をサボり場として利用する人間が、この学校に二人いる。
一人は私だ。読書好きというわけではないが、数学を解くなら教室よりもここの方が集中できた。
「おや、サボりですか宮永美郷さん」
私が図書室に足を踏み入れると、数学教師の植木先生から声をかけられた。
私は二人目のサボり魔の対面に座りながら、「授業はどうしたんですか?」
「もうカリキュラムの範囲は終えましたからね。今は自習にしてます」植木先生は読んでいた『死に至る病』から顔を上げて、「インプットだけでなく、アウトプットも大切ですから」
「模試の過去問解くだけがアウトプットなんですか?」
私は膨れっ面で言った。とにかく、教師に反抗したい気分だった。
「うーん、アウトプットとは、得た経験を実践に活かすことです。あなたにとっては模試が実践とはいえないかも知れませんが、たいていの受験生にとっては、模試は正しく実践ですよ。勿論、過去問でもね」
植木先生は微笑みを湛えている。子供の嫌味を受け流せるだけの余裕と度量が、私と彼との間にある壁を如実に表していた。
「ふーん」と、素っ気なく返して、私は顔を伏せた。
「嫌なことでもありましたか?」
「嫌なことなんて何もないですよ」
いじめられてはいない。虐待も受けていない。腹が立つような偶発的な不幸にも遭っていない。嫌なことなどあるはずがない。
私は中学校までは成績優秀だった。将吾の高校受験失敗を皮切りに、『受験に家族で挑む!』をスローガンに掲げた我が家は、勉学一色に染まった。将吾は既に専門学校を卒業して就職しており、圭吾は見事に都内の国立大学に進学した。ともすれば、残る受験生は私だけであり、両親の熱はその全てが私に向けられた。
その熱の発生源が愛であることは分かっている。これまでの十七年間を親の愛に生かされている私が、それを跳ね除けるわけにはいかなかった。
「ただ、ちょっと疲れてるんです」
我ながら、いい表現が思いついた。私は疲れている。好きなものを食べ続けるのが、ある時点から苦痛であるように、私は幸福な日々に疲れていた。
すると植木先生は、本を端に置いて言った。
「じゃあ、てきとうにお話でもしましょうか?」
「てきとうに?」
「ええ、全く持っててきとうな、それでいてあなたの好きな数学に関わるお話です」
私はそれを聞いて、むくりと顔を上げた。植木先生の話は面白い。高校生活の中で、唯一数学の点数だけが下がらなかったのは、八割方彼のお陰だろう。数学の授業中だけは、うたた寝すらしたことがない。
「どんなお話なんですか?」
てきとう、でも数学。純粋な論理に固められたあの世界の中で、なおてきとうな話。私の興味を唆るには充分なパンチ力がある。
「並行世界のお話です。でもその前に、少し復習から入りましょう」
並行世界。私がその言葉を反芻するよりも先に、植木先生は、「シュレーディンガーの猫を覚えていますか?」
「シュレーディンガーの猫? ええと、二分の一の確率で毒が出る箱に猫を閉じ込めたとき、その猫が死んでいるか生きているかは、箱を開けて観測するまでは分からない、っていうやつでしたよね」
私は記憶を探りながら答えた。数学の授業で、植木先生自身から教わったものだ。
「そうですね。猫が生きながら死んでいる、あるいは死にながら生きている。そんなバカなことがあるか、というのがシュレーディンガーの主張でした」そして、ややトーンを落として「量子力学を否定したかった、ということです」
量子力学に関しては、私は全く明るくない。ただ少なからず思うのは、見えていないから確定していない、なんていうのはやっぱり可笑しな話だということだ。あまりにも主観的に過ぎる。誰にも見えていないから何も起きていない、なんてことはあり得ない。
猫は死んでいる。
猫は生きている。
答えは二つにひとつだ。
「・・・・・・シュレーディンガーが否定したかったものを、コペンハーゲン解釈と言います。量子力学において、量子的な重ね合わせの状態は観測によって決定する、というものです。箱の中の猫、そのままですね」
植木先生は一つ咳き込んで、「そして、量子力学にはコペンハーゲン解釈以外の解釈もあります。量子の重ね合わせは、観測によって決定するのではなく、可能性の数だけ世界は分岐する、と」
「いわゆる、多世界解釈です」
×
『巨大な木を思い浮かべて下さい』
もはや懐かしい顔を思い出す。
『木は幹と枝に分かれていますが、この場合、太さは関係ありません。猫が死んだ世界が幹、猫が生きている世界が枝です。
この二つの世界が並行して存在しています。この解釈において大事になるのは、観測が必要ない、ということです。そもそも、観測とは? カメラで見ること? 猫が見ること? それとも、人の肉眼に限るのか? コペンハーゲン解釈の常識に反する部分は、たいていがここのせいです。
多世界解釈では、どちらの世界もある、という解釈をします。重ね合わせは存在しない。ただし、そもそも多世界なんて存在するのか? という部分もまた、常識に反していますよね。これもまた、証拠はありません。あくまで解釈でしかないのです』
植木先生がそう言ったところで、授業終了のチャイムが鳴った。早く教室に戻らなければ、担任にサボりがバレてしまう。結局、間に合わなくてしこたま怒られたけれど。
私は、もう少し先があると思っていた。まだオチていない。この話を持ち出すからには、植木先生が私に言いたかった、何かがあるはずだ、と。
けれど彼は、驚くほど呆気なく、『時間だから、また今度ですね』と言った。
仕方がないことだ。私には時間が無かったし、彼も他の教師に見られる訳にはいかない。授業をサボって、女子生徒と密会していた、なんてことは。
『それじゃあ、さよなら』
『またね、せんせ』
それが最後の会話だった。
私の目前で、降りた踏み切りが揺れる。高速で動く電車に押し出された空気が、私にしつこくまとわりつく。
警察は事故と判断した。実際、前日に会っていた私の目にも、彼が自殺をするようには思えなかった。
植木先生は時速百キロほどで高速道路の中央分離帯に突っ込んで死んだ。
「事故・・・・・・事故、か」
踏み切りが上がる。けれど、私は足を踏み出せずにいる。
植木先生は何を伝えたかったのだろう。日々に疲れていた私に、どうしろと言いたかったのだろう。
『あくまで解釈でしかないのです』
あの日、彼はそう言っていた。ならば私もそれに倣おう。恋の終わりと、人生の終わりが重なり合った今こそ、『多世界解釈』を解釈すべきだ。
あるいは、希望を持て、という話かもしれない。
二つの世界がある。大木を思い浮かべる。一つは植木先生が生きている、という。もう一つは、植木先生が死んだ、この世界。
たとえこの世界では死んでいても、別の世界では生きている。だから、悲しみは必要ない、とか。
いや、それではまるで、植木先生が自分の死を予測していたようだ。植木先生は自殺ではなく、間違いなく偶発的な事故だ。
あるいは、てきとうに生きろ、という話しかもしれない。
思えば『てきとう』をやけに強調していた。あらゆる世界が同時に存在しているのだから、何かを選んでも、また別の何かを選んだ自分がいる。それはつまり、どのドーナツを選んでも、本質的に変わりがない、ということだ。
ピカチュウを選んだ私がいるように、ポン・デ・リングを選んだ私がいて、ダブルチョコレートを選んだ私がいる。
受験に失敗した将吾がいて、受験に成功した将吾がいる。
だから、何を選んでもいい。てきとうでいい。どうせ全ての世界があるのだから。
これはあり得そうな解釈だった。
踏み切りが喘鳴をあげる。
涼やかな夏の風が吹いている。
「そう、例えば、私が死んでも──」
蝉がうるさい。
電車が近づく。
「──私は生きている」
私は、一歩足を踏み出した。
×
家に帰った私は、胃に入っていた全てを便器に吐き出した。
酸っぱい匂いが鼻をつき、それがさらに吐き気を刺激する。全身が気怠さに襲われ、トイレの床にそのままへたり込んだ。
私は死ねなかった。
ただ、死ぬのが怖かった。
どうして、あのギリギリになるまで気づけなかったのか不思議なくらいだ。私は確かに、死神をこの目で見た。
そこまで自分を追い詰めて、ようやく納得のいく答えを見つけた。
これだ、絶対にこれだ。私はもう、そう決めた。
即ち、てきとう、ではなく、真剣に生きろ、と。
あなたが生きていることを選んだこの世界は、あなたが死ぬことを選んだ世界の上に成り立っている。
人は生きる度に、人を殺している。
だから真剣に生きなくてはならない。あらゆる屍を踏み越えて、私は生きているのだから。
それを選んだのは自分なのだから。
ピカチュウが嫌だったなら、嫌と言ってポン・デ・リングを取ればよかった。そうしなかったのは私だ。植木先生は死にたくなかったのなら、残業終わりに眠い目をこすりながら運転なんてせず、タクシーでも使えばよかった。
あらゆる選択肢は目の前にある。どうすればいいのか、なんて自分で決めればいい。
私は水で口を濯ぐと、自分の部屋に閉じ籠った。勉強机に座り、カバンから道具を取り出す。
数学、ではない。それは既に必要な量に届いている。
大学受験に真剣に取り組む。心機一転には既に遅いかもしれない。浪人して親に迷惑をかけることになるかもしれない。それでも挑まない訳にはいかない。私の足元には、私の知る限り、二つの死体があるのだから。
英語、国語、物理に世界史。合格点に足りない教科は多くある。
さて、一体どれから始めようか。
11/22/2023, 9:55:22 AM