なっく

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[タイトル:花畑にパンジーが咲く]
[お題:花畑]

 アンティーク調の揺り椅子が緩慢な速度で揺れている。
 その様を僕は玄関から眺めている。犬走蓮花の一軒家は広いけれど、代わりにたった一部屋しかないので、玄関から全てが見渡せた。
 ベッド代わりのLOGOSのハンモック。キッチン代わりのパナソニック製IHクッキングヒーター。風呂とトイレはそのものが別々の扉の奥にあるけれど、たいていはこの一部屋に収まっている。
 しかし、肝心の犬走の姿が見えない。揺り椅子はひとりでに、主人の帰りを待つ犬の尻尾のように振れている。
 どうやら、たった今、彼女は椅子から降りてどこかへ行ってしまったらしい。
 戸を叩いて扉を開くまでの間に、どこかに逃げてしまったのか。もしくは、ただの偶然か。今にも止まりそうな揺り椅子の速度は絶妙で、とてもその判断はつきそうにない。
「犬走さーん!」
 僕の声が部屋に虚しく響く。目で見てわかったことが、耳で聞いてより深くわかっただけだ。犬走はここにいない。
 しかし、焦る事はない。彼女のいる場所は、二つに一つだ。すなわち、この部屋か、あるいは裏庭の花畑か。

「犬走さん」
 少し声を低くして言うと、犬走はビクッと肩を震わせた。背中越しでも、その動揺が容易に見て取れる。彼女は一平方メートルを隙間なく埋める、黄色いバンジーの花畑の隣にしゃがんでいた。格好はオーバーサイズの白いニットセーターに、紺のジーパン、そしてそれらに似合わないサンダルを履いている。彼女の藍色のペディキュアが、春先の少し肌寒い空気に抱かれている。
 彼女は恐る恐るといった様子で、こちらに振り向くと、バツの悪そうな苦笑いを浮かべた。
「き、北川、さん・・・・・・」
 僕は、はいそうですよ、犬走さん、と義務的な返事をした。僕が北川誠太郎である事はどちらも分かっているが、互いの立場をはっきりさせるために、改めて苗字で呼び合う。
「どのくらい進みましたか?」
「・・・・・・、じ、じゅう、かな?」
 犬走は、目を逸らしたまま、両の手のひらを広げて『十』を作る。
「・・・・・・十ページですか?」
「・・・・・・十文字、で、すぅ・・・・・・」
 消え入るようなか細い声。すると、犬走はプイッと顔を背け、花畑から溢れた花壇用の土を弄り出した。そして、何やら人に聞かせない程度の声量で、ぶつぶつと何事かを呟いている。
 あの日はパンジーを強風から守っていたからだ。次の日は暑すぎてノーパソがダメになる寸前だったから。さらに次の日は朝の星座占いが下から三番目だったから。などなど、小説家とは思えない子供じみた言い訳を述べている。
 およそ二分ほど、その様子を無言で見守っていると、遂に観念したのか、彼女は急に立ち上がって頭を下げた。
「すみません! まだ全然出来てません!」
 四十五度の素晴らしく美しいお辞儀である。これが小説新人賞を満票で勝ち取り、授賞式で涙ながらに下げた頭と全く同じであると思うと、なんともいえない気分になる。
「・・・・・・とりあえず、十文字を見せて下さい」
 僕がなんとかその言葉を絞り出すと、彼女はパッと頭を上げた。その顔には、良かった、許された! と書いている。残念ながら、その期待には応えられない。たとえその十ページが文学史に残る名文であろうとも、担当編集者として、締切を守らないのを当たり前と思わせてはいけない。この社会をまるで知らない小説家と、社会を繋ぐのが僕の役目なのだから。
 
『花畑にパンジーが咲く』
 ノートパソコンに立ち上げられたWordアプリには、その十文字がひっそりと添えられていた。
 作業机に座る犬走の横で、それを認めると、極めて穏やかな表情で目を閉じる。
 なるほど、と思う。なるほど。
 そして、深く息を吸って、静かに吐く。何か言おうとしたが、中々言葉にならない。ここまで長く続く絶句は初めての経験だ。
「あの、頑張ります。頑張るので、頑張ります」
 おまけに書いた張本人が、こんな慰めをしてくる。今から頑張れるなら、もっと前から頑張ってほしかった。
「・・・・・・頑張ってください。とりあえず、今日は今から缶詰めです。後一週間で十万字に達していなかったら、プロットなしで編集者会議も通さないなんて横暴はもう二度とできないですからね」
 犬走はあからさまに怪訝な表情をして、サッとパソコンに向き直った。一文字ひらがなを入れては、一文字消してを繰り返している。
「少し、外の空気を吸ってくる」
 僕が居ては集中できないだろう。
 玄関から裏庭に出て、パンジーの花畑が見える場所に行く。家の壁にもたれると、電子タバコを取り出して水蒸気をふかす。
 タバコ休憩、というものがどれだけの会社に残っているのかわからないが、これをしたくなる気持ちはよくわかる。仕事のストレスは、仕事のうちに打ち消してしまいたい。
 少し感情がなだらかになった。すると、不思議なもので、ずっと視界入っていたはずのパンジーが目に止まる。そこから、先ほどの十文字が思い出され、そして頑張っている犬走の姿が浮かび上がる。
 頑張っている。犬走はいつだって頑張っている。でもそれだけでは生きていけなよな、と思いながら、僕は水蒸気を口と鼻から吹き出した。


 犬走蓮花は直情的な作家だ。自分の目と肌で感じた、現代の現在を、パワフルなワードセンスでフィクションに落とし込む。それも、プロットと呼ばれる小説の骨組みを作らずに、感情の揺れ動くまま、一気に一つの作品を書き上げる。その代わりに、何も思いつかなければ、文字通り一文字も書けない。無理に絞り出して十文字が限度である。
 そして、並の小説家と負けず劣らずの変人奇人っぷり、さらには締切を守らず、加えて世間知らずときた。やがて多くの出版社が、その才能を惜しみつつ、彼女に別れを告げた。小説において、一作限りの天才も少なくはない。そういった、後にコアなファンによって密かに語られる『消えた天才小説家』の地位に甘んじるのだろう、と多くが思った。
 実際、二作目は泣かず飛ばずだった。華々しくデビューした、衝撃的な一作目から、時間が経っていたのもあったのだろう。犬走に新人賞を与えた出版社も、二作目のこの結果を見て手を引いた。そこから数年ほど、彼女は完全に消息を絶った。

 そして、ある日突然、三作目が発表される。それが犬走の運命を、そして僕の運命を変えた。
『久しぶり誠太郎。私のこと覚えてる?」
 ある日、僕の元にやってきた電話の主に、全く心当たりはなかった。深夜三時に電話を掛けてくる非常識な友人はいなかったし、残念ながら、寂しくて声を聞きたくなった、なんて言ってくれる恋人もいなかった。
『どちら様でしょうか』
 少しもイラつきを隠さずに言った。しかし向こうにはこちらの感情は一切伝わっておらず、粛々と会話が続く。
『犬走蓮花です。小学校以来だけど、覚えるよね』
 名前を聞いて、記憶の奥底から怪物がフラフラと立ち上がる。十数年もの歳月を超えて、思い起こす彼女の声は、電話の主よりもずっと甲高かった。けれど、深夜三時にアポなしで電話をするという、この常識知らずが、彼女が犬走蓮花だという確信を与えた。
『あ、あぁっ、久しぶり! どうしたの、こんな、こんな時間に』
 この時ばかりは本当に驚いた。犬走蓮花は僕の憧れだったからだ。
 恋や好きでは無く、憧れ。彼女が新人賞を取る以前から、つまり小学生の頃から、彼女は自身の非凡をこれでもかと全身で表現していた。
 一言でいえば、破天荒、だ。生徒の誰よりも校長先生と仲良くなり、気に入らないクラスメイトとは殴り合い、イジメには断固として屈しなかった。少なくとも、僕にはイジメに見えていたが、果たして犬走にその気があったかどうか。彼女にしてみれば、ただの一対複数人の喧嘩だったのかもしれない。
 こうした、彼女の自分を貫き通すその在り方に、僕は憧れていた。決してそうなることは出来なかったが、僕の起源には確かにそれがある。
 そんな小学校時代が終わり、僕は犬走とは別の中学に通うことになる。進学先が真面目な校風であったことも相まって、あまり犬走の噂を聞くことは無かった。しかし、その数年後には小説新人賞受賞という形で、彼女の破天荒の続きを見せつけられることになる。
 それから犬走の二作目執筆期間中に、僕は大学生を卒業して出版社に入社する。いつの間にか出されていた二作目が、古本屋の端に置かれていくうちに、僕は編集者の仕事をすることになった。
『うん、えと、私が小説を書いてることは知ってるよね?』
 犬走の声は少し不安げだ。
『勿論、僕の界隈で、知らない人はいないと思うけど』
『そう、界隈。誠太郎の界隈のことで、ちょっと頼み事があるの』
 犬走は、どこからか僕が出版社に入社した情報を掴んでいた。そのコネを利用したい、という。
『私の三作目を、誠太郎の出版社から出して欲しいの。今の私じゃ、自費だとほとんど見てもらえないから』
 今に思えば、この時、聞こえてきた衣擦れの音は、きっと頭を下げた時の音だ。姿勢のいい、四十五度。あの四十五度のおかげで、彼女は小学校の校長に随分と気に入られていた。
 僕はどうするべきか、しばらく考えて、彼女の顔を思い出してから、言った。
『・・・・・・ウチは持ち込みやってないから』
『・・・・・・』
 電話口で黙りこくる犬走に、ただ、と続ける。
『掛け合うだけ、掛け合ってみる。勿論、中身を確認して、だけど。とりあえず、原稿を僕の方に送って欲しい。それを読んで判断する』
『・・・・・・分かった』
 この言葉は、どんな感情を元にして吐かれたのか。少なくとも、僕には『嬉しさ』ではないように思えた。

 この時、僕に送られて来た三作目は、悪くなかった。一作目ほどのパワーはなかったが、現代をシニカルに礼賛した歪さは、癖になる読後感があった。それは、この原稿を受け取ってくれた先輩編集者も同じだったようで、間も無く発刊が決まる。犬走の、第二と言っていい小説家人生が始まり、僕にとっては第一の担当編集人生が始まる。

 僕は、二十分ほど経って、そろそろ部屋に戻って様子をみようという気になった。ただし、彼女の様子を見るのは、慎重に、が原則だ。集中が途切れやすく、さらには集中するまでに時間がかかるので、もし激励が不必要なら、音も立てずに退散すべきだ。
 玄関をそっと開けて、中を覗き見る。犬走は作業机にはいなかった。彼女はノートパソコンを持って、揺り椅子に座り、穏やかに揺られている。
 犬走にとって、この揺れが肝要だ。彼女は肉体と精神は深く結びついていると考えている。つまり、肉体が揺らされれば、感情も揺れ動くと思っているのだ。なんて無理筋な論理だろう、と思う。それでも、彼女はこの方法で、多くの人々を魅了した小説家だ。それが彼女の世界観だ。
 その時、ふと気づく。どうして、今日初めてこの家に訪れた時に、揺り椅子が揺れていたのか。
 彼女は、きっとあの揺り椅子に座って仕事をしていた。そして、感情が揺れたのだ。自分で書いた『花畑にパンジーが咲く』という一文に。そして、実際にパンジーを見ようとした。現代の現在を正確に書き起こすために、現実に咲いているパンジーの情報が欲しかったのだ。
 であれば、僕はなんて無粋なことをしたのだろう。これが僕の仕事だと割り切ればそれまでだが、この小説家に対して、そんな対応は間違っている。
 なぜなら、彼女は犬走蓮花なのだから。
 破天荒で、常識知らず。そして人を動かす力があり、僕の憧れ。
 真剣にノートパソコンと向き合う彼女の表情は、どんな地上の花よりも美しく見えた。
 
 僕は静かに扉を閉じて、もう一度パンジーの花畑の前に来た。

『花畑にパンジーが咲く。

 黄色のモザイクが風に揺らぐ。
 
 春の鳳蝶が、パンジーを選んでいる。

 好きにすればいい。

 君の好きにすればいい。
 
 どれを選んでも、きっと正しい』

 あ、そうか、と僕は気づく。電子タバコの水蒸気を吸い込んで、消えた現代のストレスの隙間で思考する。
 僕の憧れが、犬走を特別にしている。
 犬走は僕の憧れであるために、頑張っている。
 どうしてそう思えたのか。僕は先ほど犬走がしゃがんでいたところに行って、腰を落とす。溢れている花壇の土を拾い上げて中に戻し、少し引き抜かれたパンジーを植え直した。
 あの犬走蓮花に、たった一平方メートルでもパンジーが育てられるものか。
 これが証拠だ。犬走はパンジーの話を書くためにパンジーを植えた。現実を映す彼女が、現実を自ら作り上げた。この捏造が、僕が急かしたことで生まれたのでなければ、もはや僕にこの仕事は向かない。
 
 花畑にパンジーが咲く。

9/17/2023, 5:06:18 PM