なっく

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[タイトル:猿人にLINEは向かない]
[お題:君からのLINE]

 哀しげに眉を八の字に曲げる僕の表情が見えるほど真っ暗な画面の上で、ひび割れが白色を覗かせる。僕のスマホの、この黒が、電源オフやスリープといった、正しい手順の黒色ではないことは重々に承知している。それでも、奇跡を願わずにいられないのは、この高性能な板への依存度が高いことの証左か。そんなことを考えながら、僕は祈るようにうずくまり、長々と電源ボタンを押した。
 果たして、刺激的で痛々しいブルーな光彩は、一つとして現れない。
 はぁ、と一つため息を吐く。吐く、とはいったものの、その文脈は決して能動的ではない。なみなみと注がれたオレンジジュースを飲もうとして、つい手が震えて零してしまった時と同じ類いの、やるせ無さに対するため息。出発から終点まで、自分しか出てこないというのに、どうして僕はマイナスを被っているのか。
「あーあ、やらかした」
 たっぷり十分ほど無意味と格闘して、ようやく出てきた言葉がそれだった。大した反響もせずに部屋に消える。それが目の前に広がる無常をさらに強調して、僕の心を地に落とす。
 スマホを落とした。スマホ画面が割れた。電源がつかない。とても悲しい。
 僕たちの祖先である猿人が、僕の顔を見たら、きっと鼻で笑うだろう。
 そんなことで気を落としているのかい? と。
 まあ、彼らに言わせれば、きっと現代人はみんなパッとしない表情をしている。僕らがスマホに届くLINE通知一つで一喜一憂する間に、彼らは直接愛を伝えるのだ。
「・・・・・・・・・・・・しかたない」
 母の雷撃か、父の鉄槌か、あるいはその両方と、充分な時間を糧にして、僕のスマホは再び機能を取り戻すだろう。それまでは「しかたない」を胸に刻んで、我慢するほかない。
 現在時刻は夜十一時。大学受験を控えた高校三年生にとっては、暗記科目でもしたいところだが、残念ながらそんな気分では無い。両親の機嫌が悪い深夜と早朝は避けて、明日の夕方にでも話そう。
 そう決めてから、僕はベッドに横になった。そうして流れるような動作でスマホに充電器を差し込む。するといつも聞こえるはずの音が聞こえず、それでようやくハッとした。なんて無意味なことをしているんだ。
 途端にバカらしくなって、乱暴に充電器を外すと、ベッドに備え付けの小テーブルにスマホを置いた。乱暴とも丁寧ともつかない、なんとも微妙な手遣いだった。


「今日はまた、なんとも悲しそうな顔をしているね、穂浪クン」
 言葉は背中から投げられた。しかし、三年一組の教室内で僕をカタカナの『クン』を付けて呼ぶ人間は一人しかいない。なぜ声を聞いてカタカナだと分かるのかと問われれば、それはカタカナとしか思えないほど、独特な『クン』の発音をしているからだ。探偵役が、自身の推理を披露する時に、当て馬になった助手役の名前を、上から目線で呼ぶ時のそれに似ている。
「なんで後ろから顔が分かるんだよ、小野寺」
 そう言いながら振り向くと、気持ちの悪い微笑みを湛えた、小野寺修が真後ろの席に座っていた。長い藍色の髪を後ろ手に纏め、多少の化粧を施したその様は、高校生というよりも大学生に雰囲気が近い。それでも首から下は制服なので、下手なコスプレを見ているような違和感がある。
 この男を見ていると、改めてこの高校の自由さ思い知らされる。女子は大半がメイクをしているし、スカート丈は短いし、髪も染めている。対する男子はというと、こちらも似たようなもので、派手な髪型髪色、着崩した制服、全身クロムハーツに、全身グッチまでいる。
 こうした自由な校風の代わりに失ったのは学力である。自由を売りにした当時の高校偏差値六十・五から、落ちに落ちて現在では四十に近い。とはいえ、ここにしか入れなかった僕は、誰に文句を言える立場でもない。
「教室に入る時に見たんだ。今日はなんとも風通しのいい日だからね」
 小野寺にそう言われて、教室を見渡す。時間は既にホームルーム二分過ぎであるが、三十人クラスで僕を含めて六人しか来ていなかった。
 高校三年のこの時期は自由登校である。簡単に分けると、登校しているのが大学受験組、していないのは就職組か、あるいは既に進学先が決まっている人だ。
 確かに、風通しはかなりいい。正直に言って、この時期がこれまでの高校生活の中で一番過ごしやすい。就職組の中には友人も多くいるが、やはり同じ目的を持っている仲間といた方が、気持ちが前に向く。
 ところで担任もまだ来ていない。時計は二分過ぎから、間も無く三分過ぎに変わろうとしている。先生まで自由な校風というのは、同市内の高校では中々に珍しいものであろう。
「ところで」
 そっぽを見ていた首を無理矢理に捻るような、強めの口調で小野寺が言う。
「もう一人、悲壮的な顔をしてる人がいる」
 何か、妙に真剣な顔で、彼はそう続けた。先ほどまでの微笑みとのギャップと相まって、変な緊張感がある。
「だれ?」
「・・・・・・穂浪クンから見て、右上の子」
「なんで名前で呼ばないんだよ」
 文句を言いつつ、少し前に向き直ってその場所を確認する。そこにいたのは、この高校では珍しい黒髪、ノーメイクの女子、藤宮千夏だ。おしゃれに興味がないというよりも、そんなことしている暇があるなら勉強したい、という真面目ちゃん系で、少し周囲から浮いている。そして、この高校を選んだ理由がわからないくらいには頭が良い。一度模試の成績を見せ合ったことがあるが、志望校の判定にBより下は無かったはずだ。
 そんな藤宮は、普段から猫背気味なのだが、確かに今日はその丸みが一段と深い。悲壮、という言葉が服を着て歩いている、というレベルで悲壮感が漂っている。
「ど、どうしたの、アレ」
 僕は動揺しながら小野寺に聞いた。しかし、彼は全くわかりません、という様子で首を横に振る。
「顔を見てそう思っただけだよ」
 彼がそう言った矢先、ガラガラと勢いよく教室の扉が開かれた。
 担任だ。
 彼はごめんごめんと、軽く言いながら教卓に着くと、日直に号令を掛けるよう促した。今日の日直は小野寺だ。
「起立!」
 それなりに張った小野寺の声に合わせて、教室のほぼ全員がサッと立ち上がる。しかし、たった一人だけ、藤宮千夏だけがワンテンポ遅れていた。
 彼女の真面目さは、何も勉強だけに起因するものではない。こうした日々の何気ない場面での、混じり気のない礼節にこそ、藤宮を真面目たらしめる何かがあったはずだ。
 しかし、今日の彼女はどこかおざなりだった。慌てて引き摺った椅子が、床との間でギィと高音を立て、さらに後ろの席に当たって鈍い音を鳴らす。
 朝の挨拶を終えて座った後も、どこか上の空で、担任の声なんて聞こえていません、という風だった。
 果たして、彼女に何があったのだろうか。
 僕はそのことが無性に気になった。
 スマホを壊した僕よりも、よっぽど悲壮的な悲壮感を纏うクラスメイト。
 気にならないわけがない。願わくば、僕よりもよっぽど不幸であってくれと、そんな邪な気持ちを抑えながら
僕はチャンスを待った。
 
 朝のホームルームの後、僕は直接、藤宮に聞いてみることにした。
 彼女の席に近づいて、一言だけ。
「何かあったの?」
 そう言いながら、彼女の前に立って、驚く。
 上目遣いで僕を見上げる彼女は、目尻に涙を溜めていた。かと思うと、今度はみるみるうちに頬を紅く染め、それまでの哀愁が一瞬で消え去る。
「どの口がっ」
 藤宮の声はか細く、独り言のように小さかったが、そこには確かな怒気が混じっていた。
「えっ?」
 意味の分からないまま立ち尽くしていると、藤宮は僕を押し除けてさっさと教室を出て行ってしまった。
 結局、僕は彼女を怒らせただけで、答えを知ることはできなかった。


 僕は復旧したスマホで、LINE画面を開く。雷撃も鉄槌も乗り越えて手に入れたそれは、時間の隔たりを感じさせないほど手に馴染んだ。データはあの日、壊してしまった時のそのままである。二週間前に時が戻ったような錯覚を受ける。
 小野寺からのLINEが数百件溜まっている。散々返せと言われていたので、公式のクマのLINEスタンプを一つだけ返しておいた。
 その時、ふと気になって、藤宮とのLINEを開いた。大学受験組でLINEグループを作った時に交換したものだ。
『メッセージの送信を取り消しました』
『メッセージの送信を取り消しました』
『メッセージの送信を取り消しました』
 その三つのシステムメッセージは、藤宮が機嫌を損ねていた日の一日前のものだ。つまり、スマホが壊れていた時に送られて、消されたもの。
『なんて送ったの?』
 今更ながらに、LINEで尋ねる。
 二十分ほど経って返ってきたのは『なんでもない』という素っ気ないものだった。
 藤宮との関係は何も変わっていない。元々の関係が進退のあるものではなかったので、相変わらず、お互いにただのクラスメイトのままである。
 これに気づいていれば、何か関係が変わっていたのだろうか。
 その答えは、もう藤宮にしかわからないのだろう。
 
 どこか、遥か昔の猿人が、僕をケラケラと嘲笑っている気がした。

9/15/2023, 6:59:43 PM