なっく

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[タイトル:ニョルニョン2]
[お題:良いお年を]

 ニョルニョンには口がないので、とりあえずこの小説にセリフはないということを最初に宣言しておこう。

「あー、いや、ニョルニョン以外は別に喋れるから、この地の文は嘘をついているよ」

 地の文を嘘つき呼ばわりとは失礼な、そんな人にはとりわけ酷い名前をつけてやろう。そうだな、とりあえず罵詈雑言あたりでいいんじゃないか? 罵詈が名字で、雑言が名前だ。
「あっ、テメェふざけんな!」と、罵詈が罵る。なるほど、名は体を表すとはこういうことをいうのだろう。
「おい! もっといい名前にしろ!」
 罵詈はそのようなことを、それを幾つもの言葉に言い換えながら、数分ほど喚いていたが、そのうち無駄だと気づき、大人しく自分の名前を受け入れた。

 というか、名前くらいさっさと受け入れなければ、前にも後ろにも進まない状況に罵詈はいる。不定形シュール生命体、ニョルニョンに部屋をジャックされているのだ。

 時期は年末。つまりは12月31日。罵詈はこのおめでたい日に、紅白を見ながらのんびりと過ごしていた。
「なるほど、ガキ使がなくても、それなりにいい日じゃないか。まあ、今年は元から無くてむしろ良かった気もするけど」
 去年はその寂しさに暮れ、酒に溺れる間に年を越したが、今年はそうはいかない。捻くれ者にとって、流行に乗ることも、ジジババの文化に傾倒するのも恥ずかしさの込み上げる行為だが、一度染まると易いものである。

 ありきたりに染まった。ロックンロールだけが素晴らしき人生ではないと知った年だった。

 まず集団で盛り上がることの楽しさを知ったのが3月のWBCだ。開幕から決勝まで全て見たわけではないが、特に準決勝のサヨナラ打、そして決勝のエンゼルス対決では胸が熱くなった。
 野球好きの友人とディスコードを繋いで同時視聴なんてこともした。そんなことは初めてだったし、自ら提案をすることになるとは思ってもみなかった。とにかく全てが素人なので、細かいルールも把握していなかったのだ。これがなければ、友人の阪神優勝記念スタ連に思わずブロックを決めていたことだろう。
 もちろん、熱かったのは野球だけじゃない。静かなる戦いの中にも、それはあった。10月には、藤井聡太が初の八冠制覇を成し遂げた。その速報を見たとき、1996年の羽生の七冠独占の瞬間が、あぶくのように記憶の底から溢れてきた。平屋の畳部屋で、一所懸命に父と将棋を指していた子供の罵詈にとって、それは車に撥ねられたかのような衝撃だったが、ついに七を超えた藤井八冠にはあまり衝撃を感じなかった。
 だって、彼はあまりにも強すぎる! 最初の数冠獲得で、八冠を確信した将棋指しは他にいくらでもいただろう。
 残念ながら将棋好きの知り合いはいなかったので、代わりに父の墓に報告に行った。それまで兄夫婦に任せきりだった墓掃除を一人で行い、最後に線香をあげて帰った。思い浮かべた父の顔は顰めっ面だ。羽生推し、なんて言葉は当時無かったが、とにかく父は羽生推しだった。羽生越えを喜べるかどうか、罵詈には想像に難くない。
「ああ、そうだ。でも99期はまだまだ先だから、それまでは藤井くんを呪ったりしないでくれよ」
 その後ならいい、という話でもないけれど。
 帰りがけの車の中で、そういえば父は特撮好きでもあったな、と思いを馳せる。ゴジラはどうだったか。アメリカでの歴史的大ヒットを、また報告してやらねばなるまい。

 素晴らしいことが多い一年だった。しかし、素晴らしい一年だったかと問われれば、それは即答できる問いではないだろう。光があれば影もある。そんなことは皆既日食を見ずとも理解できることだ。
 例えばビックモーター。例えばジャニーズ。例えばパーティ券。
 つまらないことするなよ、と憤った。ニュースに憤りを見せたのは初めてのことだった。
 仕事で大きなミスをしてからしばらく、何に対しても無関心な日々が続いていた。うつ病と診断されることが怖くて病院には行けなかったが、日に日に正気が欠けていくような気分だった。
 そこに訪れた2023年のビッグイベントども。きっと野球に将棋で上擦った心の所作が、逆向きへと振れたのだろう。
 SNSはしていなかった。アカウントが無いわけではなく、自分から発信をしない、という意味で。自分と対立する意見にいちいち苛立つようになってから、見ることすら辞めてしまったけれど。

 一喜一憂。まさに、そんな一年。死人と同化していた自分にとって、あまりにも人間らしい日々。
 そこで罵詈は考えた。もういっそ、そういう生き方をしてみよう。それが苦では無いことは、この一年を振り返ればわかることだ。

 ハロウィンにコスプレをしよう。クリスマスにケーキを食べよう。年末に紅白を見よう。誰にとってありきたりか、などは考えず、ひたすらに自分の中のステレオタイプを追求する。自分ルールは誰にも左右されるべきじゃない。
「あとは、まあ、あれかな」
 あれ、とは。もちろん阪神の『アレ』ではない。地の文で語るとなんとも味気ないので本人から言って欲しい。
「なんでだよ。ここまでいい感じだったじゃん。・・・・・・まあ、年越しジャンプだよ。年越す瞬間にさ、ジャンプするやつ」
 罵詈の憧れはやや昔の青春方向に偏っている。これだけで彼の青春の色が薄らいでいることがよく分かるが、もういい歳なので自重しよう、なんて、つまらないことをいうつもりもない。憧れるのをやめましょう、ともいわない。

 そんなこんなで、紅白を見ている時だった。
「ああ、有吉よ。おじさんにはそんなに分かりやくなかったよ」
 でも結構楽しめたな、なんて思っていると、部屋の窓がドンドンと叩かれた。
「っ、なんだ?」
 時刻は午後11時45分。この時間に、四階の窓を、それなりの強さで叩かれている。
 受け入れられない矛盾を突きつけられると、人は思考停止するらしい。無言のまま窓を──その内側のカーテンを──見つめていると、今度はカーテンがフワリと揺らめいた。
 脳みそのあらゆる場所が警告を発している。けれど、手も足も動く気配がない。
 間も無く、まるで巨体を引き摺るかのようにゆっくりと、音の正体が姿を表す。黒い触手。無数の目。不定形の肉体。まるでアメーバのようにブレているそれは、間違いなく、あの不定形シュール生命体、ニョルニョンだ!
「いや、いやいや」
 なんですか。
「なんですかじゃないよ。なんだよ、不定形シュール生命体って。俺の視点で、俺の知らない言葉を出すなよ」
 でも、他にいいようないじゃん。だって、シュール過ぎるじゃん、こいつ。
「知るかよ! というか、地の文なら、どうシュールなのかを説明しろよ!」
 もう、怒りっぽいなぁ。なんですか、焦ってるんですか?
「焦ってるんだよ! もう五分経ったから、あと十分で年越しじゃねぇか!」
 あー、年越しジャンプ。本気だったんですか?
「本気だよ、なんで本気じゃないと思ったんだよ」
 いや、まあ、ねぇ? まあ不定形シュール生命体は別に正式名称でもなければ正しい日本語でもないし、そんな言葉ないので別になんでもいいですよ。
 あー、でも、きちんと描写すると、後悔するの罵詈雑言さんですよ? この低燃費地の文だからこそ、ニョルニョンは『かわいい宇宙人』くらいの怖さに留まってるんですから。本気出すともはやクトゥルフ、SAN値ピンチは必死ですよ。
「ごめん、後半なんもわかんねーや」
 ・・・・・・はあ、ったく。
 罵詈はニョルニョンを見ていると、さも視界が裏返ったかのような奇妙な感覚に襲われた。
 まるで錯視を施した絵画が、そのまま現実に現れたかのようだ。
 パブロ・ピカソか、あるいはジョアン・ミロ。どちらもシュルレアリスムに傾倒した画家である。なるほど、だから不定形シュール生命体。シュールとは、元々シュルレアリスムの略語である。その意味は、非日常、そして超現実。
 まさしく、だ。ニョルニョンには現実的な正しさがまるでない。トンネル効果さながらに窓を貫通してきたことも、その姿形も、どちらも非現実。
 ニョルニョンには奥行きが存在しない。まるで二次元世界に生きる生命体だ。二次元を三次元に見せる錯視は何度も見たことがあるが、三次元を二次元に見せられたのは初めてだ。身体の黒があらゆる光を吸収し、あらゆる凹凸を感じさせない。それだけに、そこに浮かぶ目の一つ一つがよく見える。
 一重もあれば二重もある。まつ毛のあるもの、無いもの。見覚えのある茶色の目もあれば、外国人のようなブルーの瞳もある。
 見える部分だけで、高さは二メートルに届く。今は踊るように触手を動かし、ただ目を瞬いているだけだが、もし襲われればひとたまりも無いことは明らかだ。このままでは、ひき肉にでもされてしまうだろう。
 そんな観察を続けるうちに、さらに五分が経った。年越しまで残すところ、あと五分。
「・・・・・・いったい何なんだよ、ほんとうに。大人しく地の文の話聞いててもまるで何もわかんねぇ」
 そりゃそうだ。あれはニョルニョンであって、それ以上に当てはまる言葉はない。『木漏れ日』を英語に翻訳できないように、ニョルニョンは三次元世界に翻訳できない。
「じゃあ、どうすんだよ」
 どうするも何も、ニョルニョンいても年越しジャンプしていいじゃない。何なら、お願いして、一緒にジャンプして貰えば?
「ええ? いや、そうか。そう、だな」
 罵詈はようやく気づいた。まだ試していないことがある。どうしてそれを思いつかなかったのか。罵詈はもう、ありきたりに生きると決めていたのに。

 こんな経験があるだろうか? 新幹線の指定席で、あるいは映画館で、自分の席に知らない人が居たことが。確かにそこは自分の場所、なのに知らない誰かに占領されている。
 こんな時、どうする? ありきたりな回答は、しかし誰にとっても解答ではない。諦めて自由席に行き、車掌に券が見つかって、ようやく事情を話せる人もいるのだ。

「・・・・・・えと」
 
 深呼吸から始めよう。ゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐く。世界がそうそう変わらないなら、自分が変わるしかない。ただし、努めて緩やかに。地震もヒートショックも振れ幅が原因だ。心も同じだと、誰かは思う。

「すぅー、はぁー、すぅー、はぁー」

 そろそろ年越しのカウントを始めよう。残り20秒

「・・・・・・すみませんニョルニョンさん。退いてくれませんか?」

 するとニョルニョンは、途端に触手のうねりを辞めた。幾千もの全ての目を感傷的に細めており、そこには確かな寂しさが見えた。
 15秒。
 間も無く、部屋に入ってきた時と同じように、ニョルニョンは窓の中に沈んでいた。夜に溶けていくその様は、入ってきた時よりも僅かに素早い。
 10秒。

「・・・・・・そうか」

 ここでようやく、罵詈雑言こと、千堂匠はニョルニョンの目的に気がついた。あの不定形シュール生命体は、千堂と共に年を越そうとしていたのだ。
 彼女の代わりに、明けましておめでとうと言われるために。今年もよろしくお願いしますと言われるために。
 ニョルニョンには口がないので、言い合うことはできないけれど、それでもぶつける相手くらいにはなれるだろう。
 8秒。

「これも地の文が仕組んでるだけじゃないのか?」

 だったら何か問題が? どうせ、一人じゃ寂しいだろ?
 5秒

「おい! ニョルニョン!」

 千堂は大声を出した。妻を失ったとき以来、初めての大声だ。
 けれど、ニョルニョンは止まらない。もう窓から外に出てしまった。千堂は大慌てで窓を開いた。
 2秒。

「お前は、いったい誰のっ──」

 1秒。
 0秒。
 ハッピーニューイヤー。

 ここは四階。一般的なマンションの角部屋。ニョルニョンという超現実がそこからきたからといって、そこに足場があるとは限らない。
 おめでとう、千堂匠。きみは要望通り、年越しジャンプ達成だ。

「──っ、え?」

 まあ、最後に誰に伝わるかもわからないオチを加えよう。地の文らしく、ね。

 ニョルニョンとは、ドーナツであり、コーヒーカップであり、ちくわなのだ。これらは全くの同相である。同相でさえあれば何にでもなれる。ちくわなら、まあ、辰っぽい気がしなくもない。辰なら、まあ飛べなくもない。
 そして、今年は辰年だ。

 こんなつまらない連想ゲームでも、助かる命があれば暁光だ。初日の出には少し早いけれどね。
 
 二つは空を飛んだ。年を越す、という言葉が、なんだかSFチックで素晴らしい、なんてことを考えている。その実、誰もが一歳で経験することで、特別感などどこにもない。
 いいや、一年生きることすら特別だ。ありきたりは特別だ。
 細長くなったニョルニョンの背にのって、千堂はそんなことを考えた。

「ああっ、しまった。お題なのに、まだこれを言ってなかった」

 この小説をここまで読んだあなたへ、良いお年を!

12/31/2023, 6:54:51 PM