[タイトル:ダミアンとジョンソン]
[お題:命が燃え尽きるまで]
東京に雨が降った。
粒の一つ一つが大きく、どこかぬめりけのある、鬱陶しい雨だった。オオスズメバチのダミアンが街路樹の枝に掴まったのには、そういう事情がある。
都会の雑踏に耳を澄ませながら、ダミアンは忙しなく触覚を動かす。濡れた羽でも飛べはするが、急いではいなかったので晴れを待った。数十時間かけて、ようやくこの地にたどり着いたのだから、どうせなら気持ちよく空を飛びたかった。
ダミアンが都会にやってきた理由は、以前から憧れがあったからだ。緑は茂っておらず、土の地面が少なく、聳え立つ建物は硬く、デカい。オオスズメバチにとっては、巣の作れない最悪の環境であった。しかし、そのことが逆にダミアンの興味を引いた。
「バカだな。すぐに死んじゃうよ、そんなところ」
寝食を共にする同じ巣の仲間たちは、決まってダミアンをバカにした。
「そんなこと言ってる暇があったら、働きなよ」
なぜって、だって働き蜂なんだから。女王蜂に尽くして、巣と種を大きくするのが、彼らの生きる理由だった。
「いいさ、おれひとりで行ってやる」
ダミアンは笑われながら、一人巣を飛び出した。働かない働き蜂。変わり者のダミアンは、こうして都会を目指した。
都会ではオオスズメバチの仲間を見つけることは出来なかった。キイロスズメバチや、アシナガバチは何度か見かけたが、近づくと警戒された挙句に追い返された。孤独を感じる日々も、それなりにあった。
一方で、自分を変わり者扱いするオオスズメバチたちが居ないことには心地よさを感じていた。こうしてダミアンが都会の喧騒に紛れるうちに、あの巣の仲間たちはあくせくと働いているのだ。ただ都会に来ただけで、不思議な充実感があった。
そんなある日、東京に雨が降った。
こりゃ、すぐには止まないな。なんて考えながら、羽を瞬いて水滴を飛ばす。
ブブブ、と羽音が轟いたが、人間たちに気づいた素ぶりはなかった。きっと、雨音に掻き消されてしまったのだろう。
「おや、こりゃ珍しい」
木の下の方で、そんな声が聞こえてきた。すると、先ほどのダミアンよりも大きな音を立てて、下から一匹のアブラゼミがやってきた。
「オオスズメバチなんて、中々見ませんな」
アブラゼミはそう言って、ダミアンの隣にとまった。ダミアンは驚いて目を丸くした。オオスズメバチである彼に、自ら近づいてくる虫を見るのは初めてだった。
アブラゼミはジョンソンと名乗った。ジョンソンは五日前に地上に出てきたばかりらしく、彼の抜け殻はこの樹の下の方にあった。
「せっかく羽があるのだから、もっと遠くに行けばいいのに」
ダミアンはジョンソンに言った。
ジョンソンはよもや生後五日とは思えない落ち着きようで答えた。
「あっしらの寿命は短いんで、飛び回るよりも、音を出したいんですな」
「音を」
「羽音を」
するとジョンソンは、ジジジ、と羽音を少し鳴らした。
ダミアンにとって、羽音とは威嚇行為か、でなければ飛んでいれば勝手に出るものだった。
「どうして鳴らしたいんだい」
だから、どうしても気になって、そう聞いた。するとジョンソンは少し考え込んでから、言った。
「仲間うちじゃ、もっぱら異性へのアピールですな。ただ、あっしはもはや子孫なんてどうでもいいんで、鳴らしたいから鳴らしてる、ってとこですかな」
そしてまた、ジジジ、と鳴らす。いい音でしょう? と言うジョンソンに、ダミアンは一つ頷いた。
「よければ、ご一緒にどうですかい? あなたも中々に良い羽音をお持ちでしょう」
そう褒められては、音を立てるのもやぶさかではない。
「じゃあ、雨が止むまで」
ダミアンはブブブと羽音を鳴らす。それに共鳴するように、ジョンソンも羽音を立てた。さらに、呼応するように、大粒の雨がガサガサと葉を打つ。二匹の虫と、自然の雨とのセッションが、街路樹を賑やかす。
「やはり、見込んだ通り、良い音ですな」
ジョンソンは幸せそうな声で言った。長年の夢が叶ったような、満ち足りた表情をしていた。
そういえば、とダミアンは思う。この辺りで、他のアブラゼミを見かけなかったな、と。
「・・・・・・にしても、雨が止むまで、ですかい」
五分ほど鳴らし続けたところで、途端にジョンソンは羽を止めて、哀しげな表情をした。
「でしたら、後二日ほど、雨が続いてほしいもんですな」
そして再び、ジョンソンは羽を鳴らした。
ジジジ、と。
その音は、ダミアンの憧れた都会の音ではない。もっと金属的で、鈍い音が、彼の想像する都会の音だった。
ジョンソンの羽音には、命が宿っていた。命を燃やして鳴らしていた。憧れを解する稀有なオオスズメバチは、そんなアブラゼミに敬意を表して言った。
「二日くらい、言ってくれれば付き合うよ。きみはおれの友人じゃないか」
言っておきながら、ダミアンは恥ずかしくなってそっぽを向いた。すると、ジョンソンの羽音が明らかに大きくなったので、ダミアンも負けじと音を鳴らした。
東京の人々は、そんな二匹など知る由もなく、ただ忙しなく働くのだった。
[タイトル:春に白いカーディガンを着たい]
[お題:夜明け前]
私の春が終わったのは、三月のことだ。
当時、高校三年生。第二志望の私立大学に合格し、第一志望不合格の悔しさもようやく薄れていた頃。
進学先は地方から地方への移動ではあったが、それでも初めての一人暮らしの始まりに変わりない。その事に胸を高鳴らせつつ、何かを忘れるために田んぼ道を征く。
その何かが何だったのか、今となっては思い出せない。私は見事に忘れることに成功していた。
白み出す前の空。消え去る前に、精一杯に輝く星の灯り。
夜明け前のこの時間に、外を歩くのが私の趣味だ。
大学受験のストレス。同級生のあの子のムカつく陰口。面倒くさい親の小言。うざいだけの親戚の集まり。
そうした日々の暗雲が、この田んぼ道を歩いているだけで陽炎のように揺らぐ。気がする。私の胸の奥底に沈んで、そこにある粉砕機にかけられて粉々になった上で、さらに奥にある無意識の海に不法投棄されている。気がする。
気がするだけだ。けれどこんな風に妄想をして、それで気が晴れるのだから、割のいい趣味だと思う。無料だし。ただ、カラオケで三時間、学生料金七〇〇円の田舎で、無料がストレス発散のセールスポイントになるのかは分からない。
春に指先がかかったようなこの時期はまだ肌寒く、私は防寒のために赤いカーディガンを着ている。
このカーディガンは、母が誕生日にプレゼントしてくれたもので、物持ちがよく、中学二年生に貰ってから未だに使っている。ただクラスメイトには、ずっと同じものをちみちみ使っている女だと思われたくないので、こうして誰とも出会わない時間にしか着ないことにしている。
思えば、この趣味を始めた当初から、カーディガンは使っていた。もちろん、寒過ぎず、暑過ぎずな、春先と晩秋だけ。それでも、このカーディガンには、死線を共に潜り抜けた戦友のような、不思議な信頼感があった。
実際、二度ほど死線があった。
例えば、この趣味が父親に見つかった時。カラッとした快晴の夏空に雷が降ったのを覚えている。
そんな暗い時間に、何かあったらどうするんだ!
私を想ってのことなんだと、今は理解できる。けれど当時の私にはこの趣味が全てで、酷く父親に反抗した挙句に、家を飛び出した。誰にも言わなかったが、実は学校でいじめられていて、気を紛らわす唯一の手段が、夜明け前の散歩だったのだ。だから、正しく死線だった。子供心特有の、死か散歩かの二元論に陥っていた。けれども、この通り、私は赤いカーディガンと共にこの死線を乗り越え──
いや、この死線は夏の出来事なので、赤いカーディガンは関係無かった。私は半袖半ズボンにサンダルで父親から逃げていたはずだ。私とカーディガンのハリウッドばりのミリタリーアクションは、去年の十一月に起きた。
人生で初めて、助けて! と、叫んだ。
私に抱きついてきたのは、近所でよく見かける爺さんだ。普段は優しそうな雰囲気を纏っており、子供たちからは名前をもじって『トト爺』と呼ばれていた。
トト爺は頬どころか、全身が紅潮しているように見えた。アルコールの匂いが鼻をつき、よく見ると、よれた白いシャツには吐瀉物の滓がついているようだった。
父親の言葉を思い出して、後悔を滲ませる。誰もが知り合いの田舎で、こんなことが起きるなんて思いもしなかった。
力では敵わず、もう一度叫ぶ。
すると、途端に背にのしかかっていた重量が消えた。
弱々しく前に倒れながら、振り向くと、そこにはトト爺と、彼が抱きつく赤いカーディガンがあった。私はカーディガンを身代わりにして抜け出たのだと、ようやく気づいた。
今しかない。そう思って走り出した。追いかける足音が、徐々に遠のくのを聞きながら、私は赤いカーディガンに別れを告げ──
そうだ。あの時、トト爺の手に渡った赤いカーディガンは後日戻ってきたが、不快感が優って捨てたのだ。つまり、今着ている赤いカーディガンとは別物で、この死線も越えていない。
何が戦友だ。
私はカーディガンに向かって悪態をつく。
死線なんて一つも越えていないじゃないか。
そんな記憶と妄想の狭間に耽るうちに、夜明けが訪れ始めた。東の空を日光が、淡いオレンジ色に染めていく。
そんな空を見ていると、ふと、首筋がほのかに汗ばんでいるのに気がついた。私はカーディガンを脱いだ。
もうすぐ、春だな。なんてことを思う。暦の上では既に春の只中だ。過去の日本人には、私の思慮はきっと笑われてしまうだろう。
春は出会いと別れの季節という。出会いだけなら、大学に入学する四月だけで十分だが、別れもとなると、高校を卒業する三月も含めるべきだろう。なるほど、過去の日本人は、中々にらしいことを言う。
それでも、私は三月を春とは認めない。私に別れなんて必要ないからだ。当然、別れるためには出会う必要がある。道端ですれ違っただけの人間を、出会ったとは言わないように、私はこれまでの人生で関わった人間と、出会ったとは思わない。
「すみません。少しいいですか」
当然話しかけられて、私は声のした方を振り向いた。
駐在さんだ。こんな朝早くから、ご苦労なことだ。
「何ですか?」
労いの意味を込めて笑顔を作る。今までも、この早朝徘徊を大人に注意されることはあったが、駐在さんにあったのは初めてだ。
「外岡俊樹さん、知ってますか?」
トのおかトしき、トト爺のことだ。
「はい。知ってますよ」
「いやー、そうですか。実はね、外岡さんがいなくなっちゃって。ほら、老人徘徊っていうんですかね。それで、今探してるんですけど。何か知ってますかね?」
私の脳内で、一瞬、暗い海に波紋が揺れる様子が立ち上がる。けれどすぐに霧散して、目の前に困ったように頬を掻く駐在さんが戻ってきた。
「ごめんなさい。知りません」
それを聞いた駐在さんは、明らかに気を落とした様子で「そうですか」と言うと、まだ暗い西の方へ消えていった。
「そっちにはいませんよ」
小声でそう言うと、自供は春の空気に消えた。
私は何を忘れていたのだろう。
私はトラウマなのに、どうして『赤い』カーディガンを再び使っているのだろう。
粉砕機は何を粉砕したのだろう。何が海に不法投棄されたのだろう。
例えばこの先、何らかの理由で私の大学進学が無かったことになるのなら。もっと言うと、どこかに拘束されて、誰にも出会うことができなくなるのなら。
いや、きっとそうなる。昔の日本じゃないのだから。現代の日本は、それを統治する警察は、きっと優秀だから。
だとしたら、別れの季節だけが私に残る。私の春は三月に終わる。
ああ、でもやっぱり、三月は春じゃない。認めるのが怖くて、私はまた歩き出す。忘れるために、夜明けを目指して歩き出す。
まだ夜明け前だ。夜明けを目指す限りは、夜明け前なんだ。
[お題:神様だけが知っている]
[タイトル:指切りげんまん]
白い菊の花が風に煽られて左右に揺れる。先ほどまで香っていた花の匂いも霧散して、教室は白鳥利樹の心を表したような虚無に包まれた。
「あっ、あのさ、利樹」
「・・・・・・どうした?」
利樹は項垂れていた頭をゆっくりと上げ、話しかけてきた友人を見据える。彼の顔には心配と哀れみがしっかりと見てとれた。いいヤツだな、と思いつつ、それに愛想よく応えられない自分が情けなくなる。
「いや、さ。俺、先に帰るから、その・・・・・・また、な」
「・・・・・・おう」
それだけを返すと、友人はそそくさと教室を後にした。既に放課を終えて、二十分は経っている。普段は何人かの受験生が教室に残っているのだが、この日は利樹と、先ほど帰った友人で最後だ。彼もタイミングを図っていただけだろう。しかしいつまでも利樹が動かないので、痺れを切らして話しかけたのだ。
静かな教室で、利樹は改めて前を向く。
目に入ったのは、白い菊の花。それはクラスメイトであり、恋人だった犬塚華奈子の机の上に置かれている。
悲しみが底をつき、次に出てきたのは怒りだった。人目を失って、いよいよ感情が溢れてくる。
「なんでだよ・・・・・・なんでなんだよ!!」
叫びは虚しく響いて──それだけだった。ここ数日、放課後は常にこうだ。虚無感で心を満たさないと、すぐに爆発してしまう。そしてすぐに考え込んでしまう。どうして、華奈子は自殺してしまったのだろうか。
彼女と最後に会った時のことを思い出す。
「大学生になったら結婚しようよ。すぐに、一年生のうちにさ。ね?」
可愛く首を傾ぐ華奈子に、利樹はよく考えもせずに「いいよ」と言った。すぐに、でもそれって結構難しいよな、と思いつつ、これはよくあるバカップルの会話だと、仔細を考えるのをやめた。
「よかった。嬉しい。絶対、だからね?」
二つ結びのおさげを揺らしながら、彼女はそう言って小指を立てる。それは二人の恋人としての約束の証だ。
指切りげんまん──よくある約束の証だが、二人の間では、口約束よりも強い拘束力を持っていることを意味する。要するに、指切りげんまんを伴った約束事を破れば、そのまま二人の仲が破れるのだ。二度と修復出来ないほどビリビリに。
だから利樹は躊躇った。仕方がないだろう。結婚なんて、高校生の自分にはまだよく分からない。大学生になったら結婚するという華奈子の願いが、どれほど切実なモノなのか、その多寡を図るには、まだまだ言葉が足りなかった。
なかなか小指を立てない利樹に、華奈子が不安げに口を開く。
「・・・・・・ダメ?」
「ダメじゃないよ。ダメじゃないんだけどさ」
煮え切らない態度のまま、利樹はのろのろと小指を立てた。それを俊敏に華奈子が掴む。
気づけば指切りげんまんの形に絡み合っていた。
「はい、指切りげんまん。嘘ついたら、拳で、殴る」
「拳で?」
「そう、拳で。げんまんって、拳に万って書くらしいよ? 握り拳で、一万回殴るんだって」
「そりゃ、怖いな。絶対、結婚しないとだな」
それを聞いた華奈子はくふくふと笑う。そんな彼女の幸せそうな笑みに、利樹は惚れたのだと、改めて思い直す。もう、将来はどうでもよくなった。小指に力を込める。
「指切りげんまん。絶対だ、絶対」
「うん、絶対」
こんな出来事があった次の日の朝、連絡網によって、犬塚華奈子の訃報が届いた。
利樹が帰路に着いたのは、さらに三十分が経ってからだった。様子を見にきた担任に、家に帰るよう言われたのだ。
ふらふらとよろめきながら、無気力に歩を進める。足取りは日に日に重くなるばかりだ。
どうして犬塚華奈子は自殺をしたのか。その言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。
実のところ、恋人であったはずの利樹は、自殺をしたという事以上の情報を知らなかった。それもそのはずで、二人の恋仲は親の公認では無かったのだ。華奈子の両親にすれば、ただのクラスメイトの一人にすぎない。どうやって死んだのかも、遺書に何が書かれていたのかも、そもそも遺書があったのかも分からない。葬儀も親族間で執り行うらしく、利樹は死体にすら会えない事が、今日、確定した。
当てもなく歩く──なんて事ができていれば、もう少し気が楽だったのかもしれない。利樹は学校から一番近い踏切を目指した。
例えば、この世に神様がいるのだとして。
神様は全知全能なのだとして。
神様ならこの問いに答えられるのか。
「どうして死んだんだよ、華奈子」
呟いて、踏み切りに突入する。隣の道路では、シルバーのセダンが止まっていて──すぐに発進した。
そのまま利樹も踏み切りを横断した。
渡り切ってから、立ち止まって嗚咽を漏らす。胃液が喉元まで競り上がり、不快感が口の中を満たす。
「おえっ」
吐瀉物は出なかった。
そのうち、カンカンカンと踏み切りが鳴り、後ろで遮断機が降りた。
例えば、この世に神様がいるのだとして。
死ねば神様に会えるのか。会えるのならば、質問はできるか。その答えに嘘はないか。指切りげんまんをしてくれ。とにかく教えて欲しい。どうして、華奈子は死んだんだ。
学校の裏掲示板に書かれていた、人間の悪辣さを思い出す。自称、犬塚華奈子の親友と、自称、犬塚華奈子の恋人が語る──騙る、自殺の理由を。便所の落書きとも言うべきそれらを、思い出す。
踏み切りが五月蝿い。
気づけば走り出していた。踏み切りへと足が動く。風を切る轟音が、すぐそこに迫っている。
次の瞬間、耐え難い衝撃が利樹の身体を襲った。
そのまま力に逆らわず、ゴロゴロと地面に転がった。アスファルトに肘を擦りむいて痛みを覚える。
痛みがある事に、利樹は驚いた。
呆然としている隙に、電車が目の前を通り過ぎた。
「なにやってんだよ!」
事態を飲み込むよりも先に、声が聞こえた。声の主は、利樹の胴から顔を上げ、仰向けの利樹に馬乗りになった。
友人だ。今日の放課後に、利樹に声をかけたあのクラスメイトが、電車に轢かれるすんでのところでタックルをしたのだ。
「・・・・・・・・・なんで、ここに・・・・・・?」
「俺が、まだ死んでないんだから、まだ死ぬんじゃねぇよ!」
友人は質問には答えずに、そんな事を言ってくる。けれど彼には、それだけの事を言う権利があった。
「・・・・・・尾けてたのかよ。悪趣味だな、お前らは。先に帰ってろよ。嘘吐き姉弟」
二卵性双生児。ゆえに似てはいないが、彼──犬塚圭吾と犬塚華奈子は、確かに弟と姉の関係だ。
「その嘘で、お前は助かったんだから、嘘ついてもいいだろ。感謝しろ」
「いーや、ダメだ。一万回は殴られてくれ」
と言いながら、圭吾とは指切りげんまんをしていなかったことを思い出した。
きっと、華奈子は指切りげんまんの話を弟にもしていたのだろう。一万回殴るという言葉に反応してか、圭吾は何も言わなくなった。
「・・・・・・どいてくれよ。人が見てる」
「っ、あ、あぁ」
反対側の道路で、主婦らしき人影がチラチラとこちらの様子を伺っていた。一度冷静になったのか、妙に全体を俯瞰してしまう。
二人して立ち上がり、適当に砂埃を払う。気まずい空気を裂いたのは圭吾だった。
「とりあえず、歩いて話そう」
「・・・・・・あぁ」
今度こそ当てもなく歩き出す。お互いの歩調を合わせ、住宅街を練り歩いた。
「なんで、死のうとしたんだよ」
「なんとなくだよ。なんとなく、身体が動いたんだ」
嘘はついていない。華奈子の意思を知るために、死んで神様に会おうとした、なんて、なんとなく以外の言葉で表現のしようがない。
「最悪だな」
圭吾はバッサリと切り捨てた。
「最悪だ。あー、ほんと最悪だ。姉さんが、利樹が死ぬのを望むと思うのか」
「華奈子の意思なんて分かんないだろ。俺は華奈子が死ぬのを望んでなかったけど、死んだ。事故でも、病気でもなくて、自殺で。もう分かんねーよ、神様にしか」
神様だけだ。神様だけが、どうしてこうなったのかを知っている。
そう考えていたから、初めのうち、圭吾の言葉が上手く飲み込めなかった。
「それが分かったら、死ぬのをやめるか?」
圭吾は真っ直ぐに利樹の目を見据えて言った。
「・・・・・・・・・・・・そりゃ、まぁ、理由は無くなるな」
「じゃあ、教えてやる。姉さんは遺書を残してたんだ。そして、俺はスマホでそれを撮影した」
「────えっ、いや、は?」
圭吾は戸惑いの声を無視して、彼自身のスマホを取り出した。その中に、華奈子の遺書が入っている。
浮き足立つ利樹に、圭吾はピシャリと制して言った。
「ただ、これを見せる前に約束してくれ、この遺書を見る代わりに、自殺はしない。絶対にしないって」
利樹はそう言って、小指を一本立てた。
「・・・・・・もし、破ったら?」
恐る恐る聞くと、圭吾は当然だと言わんばかりに胸を張って、答えた。
「拳で殴る。一万回」
それを聞いて、利樹は決心がついた。彼の小指を、小指で絡めとる。
「分かった。死なないよ、絶対」
圭吾はそれに安堵して、浅く息を吐いた。
「・・・・・・よし、それじゃあ、見せてやる」
指がスマホに触れる。流麗に操作する、その指先に迷いは見えない。きっと、何度も見返したのだろう。家族が死ぬと云うのは、どんな気持ちなのだろうか。現在の、利樹の痛みとはまた違うのだろうか。
そんな事を考えながら利樹は待った。もう喚かない。静かに待つ。そう約束したのだから。
やがて、圭吾の指が止まった。そっと画面をこちらに向ける。
「ほら」
パソコンの画面を写した写真だった。画面の中のワープロソフトには、びっしりと文章が書かれている。
『まずは、ごめんなさい。そして、さようなら。
なんでこういう決断をしたのか、それはこれを読んでいるあなたたちのせいではありません。なんて、まぁ、私は死んじゃうから、誰が読むかなんてわかんないんだけど。でも、違うでしょう、きっと。約束を守ってくれるあなたたちなら、これを彼らには見せないと信じています。
最近、クラスメイトに約束を破られる事が多かったです。そんな事で、と思うかもしれないけれど、チリも積もればと云うやつです。まぁ、要するに人を信じるのが辛くなってきました。指切りだけで信じていたはずなのに、気づけば目とか仕草を見て判断していました。そして、そんな自分が嫌になりました。だから、誰のせいというなら、きっと私はのせいです。まぁ、自分で殺すと書いて自殺なので当然ですね。
最後に、利樹くん。約束を破ってしまってごめんなさい。言い訳がましく聞こえるかもしれないけれど、私にはあなたが結婚してくれるようには見えませんでした。
あっ、これは愚痴みたいなものだから、利樹くんには見せないでね。後追いとか、最悪だから。もし伝えるなら、絶対に止めてね、約束だよ圭吾』
そこまで読んで、利樹は目を逸らした。空を扇いで、涙を堪える。全身の体温が上がっている気がする。
「分かったか? だから、お前は死んじゃダメなんだよ。俺は、そう姉さん約束したんだから」
よく見ると圭吾の目も腫れている。彼の訴えに、曖昧に返事しかできない。
「っ、あぁ、ああっ!」
この遺書はこう云っている。
利樹が本心から結婚を願えなかったから、華奈子が死んだ。最後の一歩を歩ませたのは利樹だ。あの日の嘘を、華奈子は敏感に感じ取っていた。
罪悪感を噛み締める。砕いて、飲み込む。すると、血の味がした。
利樹は爪が食い込むほど、強く拳を握り締めた。そして思いっきり、自分の顔面を殴りつける。
「お、おい──」
圭吾はそう言いつつも、止めはしない。その行動の意図を理解している。
どう考えても、華奈子の背を押したのは利樹だ。その罪を償う方法を、死ぬこと以外で思いつかない。命は命でしか贖えない。けれど、死ぬことは許されない。そういう約束だ。華奈子とも、圭吾とも約束をした。だから死なない。その代わり──
利樹はもう一度、自分を殴る。もう一度、何度も、何度も。一万回に達するまで、何度でも。
通りがかりの人々が息を呑んで、すぐに立ち去る。平穏な住宅街の中で、自分を殴って血を流す男がいる、なんて、恐怖以外のなにものでもない。
もしかしたら通報されるかもしれない。内申に響けば、推薦も使えなくなるかもしれない。大学に行けないかもしれない。自分を殴りつけながら、冷静に頭を回す。そして、殴り続ける。
一万回はまだ先だ。
[お題:世界の終わりに君と]
[タイトル:爪楊枝じゃ広辞苑に敵わない]
「この線を越えると、世界が終わるから気をつけてね」
青木宇海は公園内に落ちていた木の棒で地面に一本の線を書くと、微笑んでいるようにも、怒っているようにも見える微妙な表情で言った。
表情を上手く読み取れないのは、きっと逆光のせいもある。今は夕暮れ時で、太陽と宇海と乙坂創は一直線に並んでいた。
「分かった」
創はそれだけ答えて目を閉じた。
そして耳を澄まして合図を待つ。
鳥の囀り、木々の揺れ、道路を行き交う車。様々な音の中で、創が待っていた音は中々来ない。
「おーい、早くしてくれ」
創は宇海を急かす。創はこれをさっさと終わらせたがっていた。世界を、なんて壮大で誇大な話では無く、宇海の持ち寄ったこのゲームを、だ。
小学生の放課後と言えば、クラスの奴らはもっぱらスマホにゲームなのだが、残念な事に創にはまだそれらは与えられていなかった。
『若いうちから楽をすればバカになる』とは父親の言だ。それを聞くたびに創は、一人きりでマラソンをする姿を思い浮かべる。自分以外の全員がタクシーを使っているのに、一人で歩いて、最下位で、それで何が身につくと言うのだろうか。
勿論、この不満を直接ぶつけることも多々あったが、父親の頑とした態度は一度として崩れたことはない。
そのうち、創もスマホの話題を出す事は無くなった。けれどそれは、父親の言葉を受け入れたわけでも、心が折れてしまったわけでもない。創は見つけたのだ、自分以外のスマホを持っていないクラスメートを。自らの足で命を燃やすマラソンランナーを。
「よーい、ドン」
宇海の声は、先程よりもずっと近くで聞こえた。それは距離感を狂わす為の策で、宇海の常套手段だ。
線を越えれば世界が終わる──なんて言っているが、結局のところ、これはただのチキンレースだ。スマホを持たない子供達が考え抜いたお遊びに過ぎない。幸か不幸か、スマホに夢中な昨今の子供達のお陰で公園は広々と使えた。野球もサッカーも出来ない昨今の公園事情もあったのだろう。出来上がった空白の公園では、目を瞑って歩いても支障はなかった。
とはいえ、安全過ぎてもつまらないので『世界の終わり』なんて言葉だけでも盛り上げようとしているのだ。宇海はそういう、大きな事が好きなタチだ。プールよりも海が好きで、手持ち花火よりも打ち上げ花火が好き。
ある日、宇海は言った。
「私は爪楊枝より広辞苑が好きだよ」
今にして思えば、これほど宇海を表すのに最適な言葉は他にない。
百科事典棒という概念がある。文字を数字に置き換えて(A=01、B=02、C=・・・・・・)、百科事典の文書を全て数字にする。それを連ねて、頭に『0.』を付ければ0〜1までの範囲の長い小数点以下の数字ができる。それは爪楊枝の先端から一センチの間に必ずあるので、そこにぴたりと合う場所を精巧な技術によって一本の傷をつける。すると、爪楊枝は百科事典と同じだけの情報を持てる。勿論、百科事典で無くとも、あらゆる文章を爪楊枝に込めることが可能だ。『アルジャーノンに花束を』も、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』も。
ところで、そんな風に精巧な傷をつける技術は無いので、百科事典棒はあくまでも理論上の話になる。だからって、それよりも広辞苑が好きと言う宇海の言葉が、百科事典棒へのバカバカしさを意味するものでは決して無い。
「広辞苑の持つ情報は文書だけじゃないよ。紙の薄さ、破れにくさ、色、匂い、重さ、ページを捲る時に感じるクオリア。どれを取っても爪楊枝には無いからね」
さっき百科事典棒について悠々と語った口で彼女は言う。
だから、爪楊枝にどれだけ完璧に傷をつけられたとしても、広辞苑の方が大きいのだと。
けれど、だ。創はそんな彼女の語り口を聞いて思った。それならスマートフォンの方が大きいんじゃないだろうか。
創が緩慢に歩き出して一分ほど。危険な障害物はないとはいえ、目を瞑って歩くのにはそれなりに勇気がいる。さらに言えばこれはチキンレースで、一歩でも線の外に出たら終わりだ。ともすれば、慎重にならざるを得ないというもの。
「ふふっ、腰ひけてるよー!」
宇海が笑いながら揶揄う。
声の場所から察するに、彼女がいる位置は線とはかなり離れている。何せ角度が違うのだ。僅かに感じる夕陽の光を頼りにすれば、角度だけは分かる。
後はもう、勘任せで止まるしかない。
一歩ずつ確実に進む。しかし世界を終わらせないように。
吹き抜けた風が産毛を揺らす。住宅街じゃあまり感じられない自然の匂いが香る。爪楊枝では表せない情報の洪水に飲まれながら足を踏み出す。足の裏に地面と小石の感覚がある。靴越しでもきちんと分かるのが不思議だ。
「ここ──ここだ」
創はついに立ち止まった。
目蓋を開けると、目の前には宇海がいた。いつの間に移動したのだろう。後ろ手に組んで前屈みになっている。目の奥を覗くように、下から見上げていた。
「残念、世界は終わらなかったね」
創はそれを聞いてようやく気づいた。ちょうど宇海と自分との間に線がある。世界の終わりの線が。
「ほんとう、危なかった。ギリギリ世界が終わらなくてよかったよ」
創がそう答えると、宇海は困ったように笑うので、思わず口を開いた。
「宇海は世界が終わって欲しいの?」
「うーん。どっちでもいいかな。世界が終わっても宇宙があるなら別に」
なるほど、やはり宇海はスケールが大きい。
「それに、世界はもう終わってるよ」
「え?」
すると宇海は創の手を握った。ぐいと引っ張って、創を線の外側に連れ去る。
かくして、世界は終わった。
風の匂い、鳥の囀り、夕陽の暖かさ、樹々のざわめき。
どれを取っても何も変わらないけれど、確かに世界は終わっていた。
「ねぇ、知ってる? スマホは世界と繋がる事が出来るらしいよ。だから、スマホを持たない私達の世界は終わってるの」
そしてそんな事を言ってのける。どうやら、線を越えたから、というわけではないらしい。
「そういう意味なら、僕も世界が終わってもいいかな」
少し頬を赤くして創は言う。夕陽の赤だと誤魔化すには、態度が忙しなさすぎる!
創は思う。いずれ自分も宇海もスマホを持つだろう。中学生か、あるいは高校生で。スマホには世界が入っている。爪楊枝に百科事典を刻まなくても、百科事典はスマホに入っている。
宇海はそれでも広辞苑を開くだろう。何の気なしに世界を終わらせて、自分の五感で世界を旅するのだ。
さて、その時に創は、一体どうするだろうか。
家に帰った創はその日の夜、父親に頼み込んだ。
「スマホはいいから、広辞苑を買って欲しい」
[お題:最悪]
[タイトル:貴族と民主主義と宇宙人]
「はい、私は確かに、宇宙人に連れ去られました」
約五十年前に失踪した女性、神宮寺千鶴のインタビュー映像はその一言から始まった。
「はい、あっ・・・・・・まずは、私について、ですか? えと、私は神宮寺千鶴です。歳は二十四歳、あ、いや七十四? 二十四で大丈夫? 分かりました。あと、結婚はしていませんが、婚約者はいました。仕事は、まあ、事務仕事を。ええ、そうです。よく調べられてるんですね」
インタビュアーの声は聞こえない。音声ファイルの破損か、それともマイクを千鶴の方にしか付けていなかったのか。ともかく、このミスによって仕事がおれの元に入った。
おれの仕事は失踪したインタビュアーに変わってこの映像の質問部分を推測し、この映像と抱き合わせでどこかのエセ科学雑誌に売りつけることだ。
インタビュアーは知人であり、彼が消える直前にこのメモと共に映像が送られてきた。
『俺は消える。売るなり消すなり、好きにしてくれ』
その真意を確認するよりも先に、彼は音信不通となった。彼はその実、友人の多い人間であったので、その中からおれを選ぶ理由があるとすれば、金の無さしかない。ならばメモ書き通り売ってやろう、となるのは自然な事だった。
「私が宇宙人に連れ去られたのは早朝です。朝に一人で散歩をするのが日課で・・・・・・ええ、健康の為です。そこで、その二十分くらい、だったと思うんですけど、目の前に霧が掛かったんです。最初は朝靄だと思っていたんですが、どんどん深くなっていって・・・・・・気づいたら、目の前で動かしてるはずの自分の手も見えなくなるくらいで。はい、そこから晴れたら、もう宇宙船でした。
船内は一つの町のようでした。緑のある住宅街です。ただ、家の一軒一軒が全く同じ形で、地面はプラスチックのように妙に軽かったのを覚えています。はい、なんというか、歩いた時の感覚が。ヒールを履いていたら、そのまま突き抜けてしまうんじゃないかというほどでした。
それで、幾らかその町を探索すると、私以外にも人を見つけました。ええ、宇宙人じゃなくて、地球の人です。みんな日本人でした。いや、ちょっと勝手に名前を出すのは・・・・・・じゃあ、えと、適当に。
まず会ったのがニシジマという男です。彼は作業着を着ていました。工場勤務だったらしく、朝一番に職場に来たら、霧があってという事で。他にも大学生のサトウさん、保育園の先生をしていたハヤシさんも、やっぱり霧があって、と。
その場にいた人はもう六人くらい──私を含めて全員で十人いました。そして皆さんの名前を聞くよりも先に、舟の主が、宇宙人が現れたんです。
宇宙人は人類と同じ人形でした。緑色の皮膚で、背は二・五メートルはありましたけど、確かに二足歩行で、二本腕でした。周りは、特にハヤシさん辺りがパニックになってましたけど、私はちょっと感動しちゃって。ほら、人間が地球を支配できた理由って、二足歩行じゃないですか? これが出来たから、脳が活性化した。だから、私たちは間違ってなかった、私たちは解答を出していたって、そんな気分になったんです。ただ、彼らが日本語を話し出した時に、ようやくタチの悪いドッキリを疑いました。
けれど、それは違う。ドッキリなんかじゃない、と。そう気づいたのは、あまりに喚いて宇宙人の話を遮っていたハヤシさんが・・・・・・殺された時です。そして、偶数の方が都合がいいからと、知らない三十歳くらいの方も同じように。いや、それはちょっと・・・・・・すみません」
ようやく呆けから抜け出たおれは、秒数と質問文を書き記した。千鶴の困惑ぶりから「どんな風に殺されましたか?」といったところだろうか。千鶴の話を頭に落とし込むのに時間がかり、質問文が短絡になっている。
にしても、だ。この話にはあまりにもリアリティが無い。これは金にならないかも知れない、と感じながらも再生ボタンを押した。
「宇宙人はまず、私達を攫った理由を説明しました。それは至極単純で、ある意味、私はそれを聞いて彼らに協力する気になりました。
彼らは実験の為に攫ったと言いました。といっても試験管で薬品を混ぜたり、水素爆弾の威力を測ったりするようなものじゃありません。心理学実験です。彼らは、人間の心を知りたがっていました。そして、もし実験を無事に終えれば、特別な技術を与えると。
彼らはまず、私達を八人を四人ずつの二グループに分けました。片方を貴族、もう片方を奴隷として、好きに振る舞うように、と。貴族とは華やかで、富んでいて、傲慢である。奴隷とは見窄らしく、貧しく、使役されている。この役割を持ったままこの町で暮らす。それが、彼らの行った・・・・・・私達の参加した実験です。
環境と肩書によって、人の行動はどう変わるのか、という実験だと思います。この実験を私は知っていたので、きっと、だから生き残れたのでしょう。
はい、そうです。スタンフォード監獄実験と、それは酷似していました」
スタンフォード監獄実験、とおれはスマホに入力した。
出てきたのは『スタンフォード監獄実験』触れ込みは、史上最悪の心理実験。間違いなくこれだと思い、詳細を調べた。
それはアメリカのスタンフォード大学で行われた心理学実験である。平凡な大学生を看守役と受刑者役に分け、その役を実際の刑務所に似た施設で演じさせた。
実験の目的はだいたい千鶴の語っていた通りの──特殊な肩書や地位を与えられると、人はその役割に合わせて行動してしまうという事を証明しようとしていた──ようだ。
囚人役は足首に鎖をかけられ、ナイロンストッキングで作った帽子をかぶせられた。看守役には制服とサングラスが与えられている。そして、それぞれを演じた。
結果はどうなったか。スタンフォード監獄実験は数日で制御不能に陥る。
平凡な学生であった看守役達は囚人役を虐待するようになり、囚人を服従させる為のあらゆる手段を考え抜いた。辱め、監禁、暴力、にまで発展し、六日目にて実験は中止した。その間、精神を錯乱させた囚人が実験を離脱することもあったという。
これは環境と肩書で人は変わるという一つの例として広く知られる事になる。
「私は貴族でした。そして、ニシジマも。サトウは奴隷役になりました。決め方は恐らく、ランダムです。はい、宇宙人がその場で指名しました。
貴族には町の全ての区画を自由に出入りできる権利、そして法律を作る権利を与えられました。対して、奴隷にはたった一室のみと足枷が。彼らが許可なく外に出たら、罰を与えるように、と。
はい。私を見てもらえれば分かると思いますが、私達はあの町で一切歳を取りませんでした。何か、彼らの特殊な技術のようです。実験を長くできるように、と。
・・・・・・そうです。食事は娯楽としての食事以外必要としませんでした。きっと食欲があったら、もっと悪辣なものになっていたでしょう。
実験の終了条件? それは、宇宙人が満足したら、です。彼らを満足させる必要が私達にはありました。
そして、実験が始まりました。
開始と同時に、ニシジマが法律を作りました。法律は貴族、奴隷を合わせて民主的に決める、というものです。
ええ、私も驚きました。その場にいる誰もが、貴族としての振る舞い、奴隷としての振る舞いをするべきだと考えていましたから。
宇宙人を満足させる。環境と肩書によって人は変わるという証拠を見せれば、解放される。そう思うのは自然な事です。何せ私達はスタンフォードの学生とは違い、小遣い稼ぎでは無く、命を掛けていました。目の前で二人を殺されたんです。すぐに終わらせたいと思うのが、自然でしょう?
けれどニシジマは民主主義を掲げました。明らかに長期戦を想定しています。結果──ニシジマの想定は合っていて、私達は五十年目に解放されたわけですが。
けれど当時は、宇宙人すら反対していました。『それでは実験にならない』と。しかしニシジマはこれに毅然とした態度で応じていました。
彼は要求特性というものについて説明しました。何でも、被験者が実験の狙いを推測して、それに合った行動をとると、実験にならないと。だから、自分達の好きにさせろ、というのがニシジマに言い分です。
宇宙人もこれは認めざるを得ませんでした。何せ実験にならないなら、ただ人間を飼っているだけです。そんな無意味な事はない。
その結果、民主主義国家が樹立しました。投票は匿名で行われ、法を作る権利を奴隷にも与えました。私達にとって都合が良かったのは、貴族と奴隷が同数であった事。どちらかに有利な法は作れない。表面上は、ですが。
そうです。これはどちらか一人が裏切れば終わる平和でした。ニシジマが本当に想定していたのはそこです。ニシジマは、サトウに全区画を自由に動き回れる許可を与えました。その代わりに言う通りの投票をするように、と。
それが分かったのは、実験が始まって十年ほど経ってからです。気づけば私達の国は、貴族有利の法律だらけになっていました。暴力や窃盗を起こしても貴族の方が罪が軽く、奴隷が部屋の外で過ごせる場所が少しづつ狭まっていました。
それでも奴隷が反乱を起こさなかったのは、民主主義という前提があったからです。その実、中身は腐り切っていたわけですが。
それから私達はニシジマとサトウを裁判に掛けました。簡易的な、ですが。勿論、奴隷達は彼らに罰を求めました。けれど、私達は──
すみません。私達もスタンフォード監獄実験と同じく、役に成り切っていました。いや、十年間も貴族でいれば、それは立派な貴族です。私達はサトウにのみ罰を求めました。もしこれが通れば、これまでと同じです。サトウが貴族側についても、奴隷側から消えても、貴族の有利に変わりはありません。
貴族と奴隷の溝はそれ以降、埋まる事は決して無く、むしろ深まっていきました。サトウに求めた罰は投票への不参加。そしてニシジマには立法への不参加です。
はい、そうです。この罰は明らかに私達に有利でした。実験としてはここで終わっていたのでしょう。貴族は貴族であり、奴隷は奴隷のまま。ニシジマが居なくても貴族は自分達に有利な法律を掲げましたし、奴隷の扱いは年々酷くなるばかり。それからは何も変わらず、さらに四十年経ったあたりで、私達は解放されました。
この五十年で、宇宙人は一体何が分かったのでしょう? 人間のこんなものを見せられて、一体何になったのでしょう?
あなたはどう思いますか? ハヤシさん。あなたは一番のラッキーですよ。宇宙人の歳を取らない技術だけを掠めて、実験には参加しないで。羨ましい限りです。宇宙人は殺さずにそのまま家に帰したんですよね?
え? ああ、インタビューアーさんの事ではないですよ。分かるんです、私には。そういう技術を貰いました。
ねえ、ハヤシさん。そんなのズルじゃないですか? あなたが居れば、一体貴族と奴隷のどっちだったんでしょうね?」
インタビューはそこで終わった。
おれは──林鉄兵は即座に身支度を済ませた。この映像を見ているのは、とあるホテルの一室だ。
ドアノブに手を掛けたと同時、扉がドンドンと叩かれる。
特殊な技術を貰った──それがどんな技術なのかは分からない。しかし、それは不老を可能にする宇宙人の技術だという事だけは確かだ。
ところでスタンフォード監獄実験で、最初に精神崩壊を起こした大学生は、その実、実験に耐えられなかった訳ではない。実験中に宿題ができないと分かると、精神崩壊のフリをして実験を辞めたのだ。けれどその演技は世界中の誰もを魅了した。彼の叫びは今なお、多くの教科書に載っている。