なっく

Open App

[お題:神様だけが知っている]
[タイトル:指切りげんまん]

 白い菊の花が風に煽られて左右に揺れる。先ほどまで香っていた花の匂いも霧散して、教室は白鳥利樹の心を表したような虚無に包まれた。
「あっ、あのさ、利樹」
「・・・・・・どうした?」
 利樹は項垂れていた頭をゆっくりと上げ、話しかけてきた友人を見据える。彼の顔には心配と哀れみがしっかりと見てとれた。いいヤツだな、と思いつつ、それに愛想よく応えられない自分が情けなくなる。
「いや、さ。俺、先に帰るから、その・・・・・・また、な」
「・・・・・・おう」
 それだけを返すと、友人はそそくさと教室を後にした。既に放課を終えて、二十分は経っている。普段は何人かの受験生が教室に残っているのだが、この日は利樹と、先ほど帰った友人で最後だ。彼もタイミングを図っていただけだろう。しかしいつまでも利樹が動かないので、痺れを切らして話しかけたのだ。
 静かな教室で、利樹は改めて前を向く。
 目に入ったのは、白い菊の花。それはクラスメイトであり、恋人だった犬塚華奈子の机の上に置かれている。
 悲しみが底をつき、次に出てきたのは怒りだった。人目を失って、いよいよ感情が溢れてくる。
「なんでだよ・・・・・・なんでなんだよ!!」
 叫びは虚しく響いて──それだけだった。ここ数日、放課後は常にこうだ。虚無感で心を満たさないと、すぐに爆発してしまう。そしてすぐに考え込んでしまう。どうして、華奈子は自殺してしまったのだろうか。


 彼女と最後に会った時のことを思い出す。
「大学生になったら結婚しようよ。すぐに、一年生のうちにさ。ね?」
 可愛く首を傾ぐ華奈子に、利樹はよく考えもせずに「いいよ」と言った。すぐに、でもそれって結構難しいよな、と思いつつ、これはよくあるバカップルの会話だと、仔細を考えるのをやめた。
「よかった。嬉しい。絶対、だからね?」
 二つ結びのおさげを揺らしながら、彼女はそう言って小指を立てる。それは二人の恋人としての約束の証だ。
 指切りげんまん──よくある約束の証だが、二人の間では、口約束よりも強い拘束力を持っていることを意味する。要するに、指切りげんまんを伴った約束事を破れば、そのまま二人の仲が破れるのだ。二度と修復出来ないほどビリビリに。
 だから利樹は躊躇った。仕方がないだろう。結婚なんて、高校生の自分にはまだよく分からない。大学生になったら結婚するという華奈子の願いが、どれほど切実なモノなのか、その多寡を図るには、まだまだ言葉が足りなかった。
 なかなか小指を立てない利樹に、華奈子が不安げに口を開く。
「・・・・・・ダメ?」
「ダメじゃないよ。ダメじゃないんだけどさ」
 煮え切らない態度のまま、利樹はのろのろと小指を立てた。それを俊敏に華奈子が掴む。
 気づけば指切りげんまんの形に絡み合っていた。
「はい、指切りげんまん。嘘ついたら、拳で、殴る」
「拳で?」
「そう、拳で。げんまんって、拳に万って書くらしいよ? 握り拳で、一万回殴るんだって」
「そりゃ、怖いな。絶対、結婚しないとだな」
 それを聞いた華奈子はくふくふと笑う。そんな彼女の幸せそうな笑みに、利樹は惚れたのだと、改めて思い直す。もう、将来はどうでもよくなった。小指に力を込める。
「指切りげんまん。絶対だ、絶対」
「うん、絶対」
 こんな出来事があった次の日の朝、連絡網によって、犬塚華奈子の訃報が届いた。


 利樹が帰路に着いたのは、さらに三十分が経ってからだった。様子を見にきた担任に、家に帰るよう言われたのだ。
 ふらふらとよろめきながら、無気力に歩を進める。足取りは日に日に重くなるばかりだ。
 どうして犬塚華奈子は自殺をしたのか。その言葉だけが頭の中をぐるぐると回る。
 実のところ、恋人であったはずの利樹は、自殺をしたという事以上の情報を知らなかった。それもそのはずで、二人の恋仲は親の公認では無かったのだ。華奈子の両親にすれば、ただのクラスメイトの一人にすぎない。どうやって死んだのかも、遺書に何が書かれていたのかも、そもそも遺書があったのかも分からない。葬儀も親族間で執り行うらしく、利樹は死体にすら会えない事が、今日、確定した。
 当てもなく歩く──なんて事ができていれば、もう少し気が楽だったのかもしれない。利樹は学校から一番近い踏切を目指した。

 例えば、この世に神様がいるのだとして。
 神様は全知全能なのだとして。
 神様ならこの問いに答えられるのか。
「どうして死んだんだよ、華奈子」
 呟いて、踏み切りに突入する。隣の道路では、シルバーのセダンが止まっていて──すぐに発進した。
 そのまま利樹も踏み切りを横断した。
 渡り切ってから、立ち止まって嗚咽を漏らす。胃液が喉元まで競り上がり、不快感が口の中を満たす。
「おえっ」
 吐瀉物は出なかった。
 そのうち、カンカンカンと踏み切りが鳴り、後ろで遮断機が降りた。

 例えば、この世に神様がいるのだとして。

 死ねば神様に会えるのか。会えるのならば、質問はできるか。その答えに嘘はないか。指切りげんまんをしてくれ。とにかく教えて欲しい。どうして、華奈子は死んだんだ。
 学校の裏掲示板に書かれていた、人間の悪辣さを思い出す。自称、犬塚華奈子の親友と、自称、犬塚華奈子の恋人が語る──騙る、自殺の理由を。便所の落書きとも言うべきそれらを、思い出す。
 踏み切りが五月蝿い。
 気づけば走り出していた。踏み切りへと足が動く。風を切る轟音が、すぐそこに迫っている。
 次の瞬間、耐え難い衝撃が利樹の身体を襲った。

 そのまま力に逆らわず、ゴロゴロと地面に転がった。アスファルトに肘を擦りむいて痛みを覚える。
 痛みがある事に、利樹は驚いた。
 呆然としている隙に、電車が目の前を通り過ぎた。
「なにやってんだよ!」
 事態を飲み込むよりも先に、声が聞こえた。声の主は、利樹の胴から顔を上げ、仰向けの利樹に馬乗りになった。
 友人だ。今日の放課後に、利樹に声をかけたあのクラスメイトが、電車に轢かれるすんでのところでタックルをしたのだ。
「・・・・・・・・・なんで、ここに・・・・・・?」
「俺が、まだ死んでないんだから、まだ死ぬんじゃねぇよ!」
 友人は質問には答えずに、そんな事を言ってくる。けれど彼には、それだけの事を言う権利があった。
「・・・・・・尾けてたのかよ。悪趣味だな、お前らは。先に帰ってろよ。嘘吐き姉弟」
 二卵性双生児。ゆえに似てはいないが、彼──犬塚圭吾と犬塚華奈子は、確かに弟と姉の関係だ。
「その嘘で、お前は助かったんだから、嘘ついてもいいだろ。感謝しろ」
「いーや、ダメだ。一万回は殴られてくれ」
 と言いながら、圭吾とは指切りげんまんをしていなかったことを思い出した。
 きっと、華奈子は指切りげんまんの話を弟にもしていたのだろう。一万回殴るという言葉に反応してか、圭吾は何も言わなくなった。
「・・・・・・どいてくれよ。人が見てる」
「っ、あ、あぁ」
 反対側の道路で、主婦らしき人影がチラチラとこちらの様子を伺っていた。一度冷静になったのか、妙に全体を俯瞰してしまう。
 二人して立ち上がり、適当に砂埃を払う。気まずい空気を裂いたのは圭吾だった。
「とりあえず、歩いて話そう」
「・・・・・・あぁ」
 今度こそ当てもなく歩き出す。お互いの歩調を合わせ、住宅街を練り歩いた。
「なんで、死のうとしたんだよ」
「なんとなくだよ。なんとなく、身体が動いたんだ」
 嘘はついていない。華奈子の意思を知るために、死んで神様に会おうとした、なんて、なんとなく以外の言葉で表現のしようがない。
「最悪だな」
 圭吾はバッサリと切り捨てた。
「最悪だ。あー、ほんと最悪だ。姉さんが、利樹が死ぬのを望むと思うのか」
「華奈子の意思なんて分かんないだろ。俺は華奈子が死ぬのを望んでなかったけど、死んだ。事故でも、病気でもなくて、自殺で。もう分かんねーよ、神様にしか」
 神様だけだ。神様だけが、どうしてこうなったのかを知っている。
 そう考えていたから、初めのうち、圭吾の言葉が上手く飲み込めなかった。
「それが分かったら、死ぬのをやめるか?」
 圭吾は真っ直ぐに利樹の目を見据えて言った。
「・・・・・・・・・・・・そりゃ、まぁ、理由は無くなるな」
「じゃあ、教えてやる。姉さんは遺書を残してたんだ。そして、俺はスマホでそれを撮影した」
「────えっ、いや、は?」
 圭吾は戸惑いの声を無視して、彼自身のスマホを取り出した。その中に、華奈子の遺書が入っている。
 浮き足立つ利樹に、圭吾はピシャリと制して言った。
「ただ、これを見せる前に約束してくれ、この遺書を見る代わりに、自殺はしない。絶対にしないって」
 利樹はそう言って、小指を一本立てた。
「・・・・・・もし、破ったら?」
 恐る恐る聞くと、圭吾は当然だと言わんばかりに胸を張って、答えた。
「拳で殴る。一万回」
 それを聞いて、利樹は決心がついた。彼の小指を、小指で絡めとる。
「分かった。死なないよ、絶対」
 圭吾はそれに安堵して、浅く息を吐いた。
「・・・・・・よし、それじゃあ、見せてやる」
 指がスマホに触れる。流麗に操作する、その指先に迷いは見えない。きっと、何度も見返したのだろう。家族が死ぬと云うのは、どんな気持ちなのだろうか。現在の、利樹の痛みとはまた違うのだろうか。
 そんな事を考えながら利樹は待った。もう喚かない。静かに待つ。そう約束したのだから。
 やがて、圭吾の指が止まった。そっと画面をこちらに向ける。
「ほら」
 パソコンの画面を写した写真だった。画面の中のワープロソフトには、びっしりと文章が書かれている。

『まずは、ごめんなさい。そして、さようなら。
 なんでこういう決断をしたのか、それはこれを読んでいるあなたたちのせいではありません。なんて、まぁ、私は死んじゃうから、誰が読むかなんてわかんないんだけど。でも、違うでしょう、きっと。約束を守ってくれるあなたたちなら、これを彼らには見せないと信じています。
 最近、クラスメイトに約束を破られる事が多かったです。そんな事で、と思うかもしれないけれど、チリも積もればと云うやつです。まぁ、要するに人を信じるのが辛くなってきました。指切りだけで信じていたはずなのに、気づけば目とか仕草を見て判断していました。そして、そんな自分が嫌になりました。だから、誰のせいというなら、きっと私はのせいです。まぁ、自分で殺すと書いて自殺なので当然ですね。
 最後に、利樹くん。約束を破ってしまってごめんなさい。言い訳がましく聞こえるかもしれないけれど、私にはあなたが結婚してくれるようには見えませんでした。
 あっ、これは愚痴みたいなものだから、利樹くんには見せないでね。後追いとか、最悪だから。もし伝えるなら、絶対に止めてね、約束だよ圭吾』

 そこまで読んで、利樹は目を逸らした。空を扇いで、涙を堪える。全身の体温が上がっている気がする。
「分かったか? だから、お前は死んじゃダメなんだよ。俺は、そう姉さん約束したんだから」
 よく見ると圭吾の目も腫れている。彼の訴えに、曖昧に返事しかできない。
「っ、あぁ、ああっ!」
 この遺書はこう云っている。
 利樹が本心から結婚を願えなかったから、華奈子が死んだ。最後の一歩を歩ませたのは利樹だ。あの日の嘘を、華奈子は敏感に感じ取っていた。
 罪悪感を噛み締める。砕いて、飲み込む。すると、血の味がした。
 利樹は爪が食い込むほど、強く拳を握り締めた。そして思いっきり、自分の顔面を殴りつける。
「お、おい──」
 圭吾はそう言いつつも、止めはしない。その行動の意図を理解している。
 どう考えても、華奈子の背を押したのは利樹だ。その罪を償う方法を、死ぬこと以外で思いつかない。命は命でしか贖えない。けれど、死ぬことは許されない。そういう約束だ。華奈子とも、圭吾とも約束をした。だから死なない。その代わり──
 利樹はもう一度、自分を殴る。もう一度、何度も、何度も。一万回に達するまで、何度でも。
 
 通りがかりの人々が息を呑んで、すぐに立ち去る。平穏な住宅街の中で、自分を殴って血を流す男がいる、なんて、恐怖以外のなにものでもない。
 もしかしたら通報されるかもしれない。内申に響けば、推薦も使えなくなるかもしれない。大学に行けないかもしれない。自分を殴りつけながら、冷静に頭を回す。そして、殴り続ける。
 一万回はまだ先だ。

7/4/2023, 3:05:19 PM