なっく

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6/6/2023, 4:16:51 AM

[お題:誰にも言えない秘密]
[タイトル:鏡の中では]

 高校一年生になった津々楽都にとって、最も忌むべきものは鏡だ。
 母に選んで貰った洗顔クリームを使い、都は顔を白色で満たした。しっかりと肌に馴染ませつつ、必要な皮脂までこぞって落としてしまわないよう、素早く落とす。
 そして化粧水、乳液、クリームと一通りを終えるとパッと顔を上げる。
 洗面所の鏡に映る都の顔は、相変わらず普通の顔だ。
 平凡な女子高生の顔。二重で、童顔で、少し膨れていて、思春期ニキビにはそれなりに抗えている。そんな普通な顔を、都は睨みつける。
 気に入らない。
 そんな思いの丈を目力に変えて繰り出すと、鏡の中の自分も同じ顔をする。鏡の中の顔が崩れると、都は少し気が晴れた。
 少し断っておくと、これは都が自分の顔を嫌っているという事ではない。そんな風に思うのは自分の母に対してあまりにも失礼で、その実、都は母を尊敬していた。
 だからこそ、順調に成長を続ける自分の顔が気に入らなかった。都には自分の顔が時限爆弾にしか思えない。
 鏡に映る都が問う。果たしてお前の顔は、一体どちらの母親に似るのだろう?

 津々楽奏恵と津々楽美珠がパートナーシップ宣誓を行なったのは、都が産まれる三年前だ。それを聞いたのは都が小学生の頃、自分の名前の由来を調べる宿題を出された時だ。
「『都』は人で溢れているから、色んな人といっぱい関わって欲しい、って意味があるのよ」
 そう言ったのは奏恵の方の母だ。美珠もうんうんと強く頷いている。
 当時の都は、深く考えずにこれを聞いていた。同性パートナーの両親の口から出る『色んな人』が、その実どんな意味合いを持っているかなんて、小学五年生に分かるはずも無かった。
「まぁ、ぶっちゃけると都が元気なら何でもいいんだけどね」
 美珠のその言葉に、奏恵は「それじゃ宿題にならないでしょ」と返す。けれどその顔は優しさに溢れていて、決して美珠の言葉を否定するものじゃない。
「他にどんな名前がありましたか?」
 都は担任が示した質問リストに従って尋ねた。
「他? 他ねぇ・・・・・・」
「あ、ほらあれは? ミエとか」
「ミエ?」
 ミエについて、美珠は適当な紙にスラスラとその漢字を書いた。
「『美恵』って、お母さんたちの名前?」
「そう。二人から一文字ずつ取って、美恵。都が産まれる前はこうしようって言ってなかったっけ」
 曖昧に尋ねる美珠に対して、奏恵はきちんとその時のことを覚えているようだ。
「その名前考えてたのもっと前だったと思うけど・・・・・・確か、パート──じゃなくて結婚した時に、子供できたら一文字ずつ取ろうみたいな話してて・・・・・・」
「あー、そうだっけ」
 盛り上がる二人に対して、都は何故か寂しさを覚えた。何か質問して混ざらなきゃ、という気持ちが沸々と湧き上がる。
「えと、結婚っていつしたの?」
「・・・・・・そうねぇ、都が産まれる三年前かな」
 実のところ、厳密には結婚ではないのだが、それを都が知るのはもう少し後になっての事だ。
「それじゃあ・・・・・・」
「うん?」
 言葉を詰まらせる都に、奏恵が心配そうに顔を見る。
「・・・・・・いや、やっぱり何でもない」
「そう? 宿題はこんな感じでいいの?」
「うん。大丈夫」
 その実、都には他に気になることがあった。それは最近、友人の神志名鈴音に言われて気になり出した事だ。

「都ちゃんのお母さんってどっちなんだろうね?」
「どういう事?」
 放課後、小学校からの帰り道で鈴音の質問に都は困惑してしまう。都は周りに自分の両親がどちらも母親である事は隠していない。友人たちも特段気にするような素振りを見せなかったので、都がその手の話題で気に病んだ事は無かった。
 だから、この時はまだ鈴音の質問の意図は全く分からなかった。
「いやさ、ほら、保健の授業で習ったじゃん。子供って男女から出来るんだって、都ちゃんはどうなんだろうって」
「え、あー。確かに、どうなんだろう」
 この時になって、都はようやく理解した。今までは父親が居なくても特段気にすることは無かったが、それは父親が全く存在していないという話ではない。自分が存在しているという事が、父親がいる証拠だった。
 だとしたら、ようやく鈴音の疑問に立ち返る。
 都を産んだのは、一体どちらなのだろうか、と。

 そんな疑問を抱えながら、都は中学生になった。この時になると、都は父親については寧ろどうでもよくなってきていた。
 何かあったから、というわけではない。寧ろ何もなさすぎて、興味を無くしていた。鈴音もあれ以降父親について言及する事は無かった。中学生にもなると、それがどれほどセンシティブな話題であるかに気付き始めたのだ。
 けれど、いくら話題を避けていても、当人である都が逃げ切れるわけが無い。友人たちが美容やファッションについての話をするので、当然、都もそれを知りたがった。必然的に鏡の前に立つことが増えて、それは自分の顔をより意識させた。
 小学生の頃からずっと成長した自分の顔。まだまだ大人らしくはないその顔に、しかし確実に大人に近づいているという感覚があった。
 母親に近づいている。どちらかの母親に。
「私って母親似らしいんだけど、都はどう思う?」
 鈴音のそんな言葉を思い出す。彼女の母親の写真を見せられて、そう尋ねられたのだ。確かに鈴音と彼女の母は似ていた。
 鈴音にとっては何気ないその質問が、都の心に波風を立てた。

 どちらの母も間違いなく都を愛している。都もまた、母親の事が好きだった。だからこそ、どちらが産んだのかを言わない言わない母親たちに不信感を募らせた。
 母親たちにとっては、どうでもいい事なのかも知れない。都は間違いなく二人の娘で、どちらが産んだのかは重要じゃない。養子縁組や再婚などで、血の繋がっていない親子なんてごまんといる。
 そして間違いなく、都の遺伝子は片方からしか貰っていない。血の繋がりをどうでもいいと切り捨てるには、都はまだまだ年月が足りない。特に身体の成長と性を意識する度、どうしても頭に母親たちの顔が浮かんだ。

 ある日、都は意を決して二人に尋ねた。
「私はどっちの子供なの?」
 反抗期というのもあったのかも知れない。それがどれだけ残酷な質問か、その瞬間まで全く気づいていなかった。
 奏恵はそれを聞くと、途端に泣き崩れてしまった。ごめんなさいと繰り返す奏恵に呆気に取られていると、美珠が都を優しく抱きしめた。
 美珠がどんな顔をしているのかは分からない。ただそうされていると、何故か自分も涙が出てきそうになった。
「どちらが産んだのかなんてどうでもいいでしょ?」
 そう言った美珠に、都は言葉も返せず頷いた。
 ようやく都は気づいた。どちらが産んだのかなんてどうでもいい、というのは母親たちの願望だった。努めてそうでなくてはならないのだ。二人の娘であるというのなら、遺伝子に拘ってはいけない。たとえ心の端で気にしていても、口に出してはいけない。都が二人の娘だというのなら、絶対に。

 それ以降、都はその話題を口に出さなくなった。都は奏恵と美珠の娘である、という事だけが重要だと自分に言い聞かせたのだ。それは大変な事では無かった。どちらなのかを知っている母親たちに比べると、全くと言っていいほど大変じゃない。
 けれど遺伝子は残酷に真実を告げる。大人になる程どちらかに近づく。鏡の中の都が、誰も言わない秘密を暴こうともがいている。鏡の中の自分は二人の娘ではなく、どちらかの娘だった。
 都は高校生になった。より大人になったが、どちらに近いかは意識しなければ分からない。自分が童顔である事に都は感謝した。
「行ってきます」
 都は二人の母に告げる。母二人も同じように返した。
 それを聞くと、都は玄関の扉を開ける。二人の顔は見ないまま、都は学校に向かう。
 朝には母の顔を見ないのが通例になっていた。鏡を見た直後だと、どうしても意識してしまうからだ。

 通学途中、道の端に猫を見つけた。特徴的な白と茶の真鱈模様の猫だ。その後ろには子猫がいる。白地に上から黒のソースを垂らしたような模様。
 都が近づくと、二匹は一目散に逃げ出した。二匹で知らない家の塀の中へと入っていく。
 都はそれに満足して、改めて学校に向かった。
 

 
 

6/4/2023, 6:54:26 PM

[お題:狭い部屋]
[タイトル:自由意思、in、ステンレススティール]

 小佐野丞は自分の日記を読み返していた。ここ一年と八ヶ月かけて貯めた、夢日記を。
「『遊園地、ピエロに追いかけられる。観覧車が転がる』」
 六十ページまで埋まっている日記帳(代わりのA4ノート)のうち、二ページ目。六月七日の日記だ。
 そして次に五ページ目、七月二日の日記を開く。
「『遊園地、ジェットコースターが崩れる。赤と黄色の風船が空に舞っている』」
 遊園地に関する夢日記はもう一つある。十ページ目、八月二十三日。
「『遊園地にいる。子供がいる。その子供は誰かを待っている気がする』」
 日付に関連があるとは思えない。これらの夏の日に、遊園地に行ったという記憶も無い。そして遊園地が何度も夢に見てしまうほど好きだという事も無い。確かに、友人グループや恋人、家族と行けば楽しいだろうが、自ら誘って行ったり、一人で行ったりするほどの熱は無い。丞にとって遊園地は、そこらの公園や商業複合施設と変わりない。特段気にするとこのない存在だ。
 なのに、遊園地の夢を三度見ている。この記録をつける前と合わせるなら、五度だ。
 同じ場所の、別の夢。
 これの意味するところが、心の底では遊園地に行きたがっているとか、その程度ならそれでもいい。ただ実のところ、丞はそれ以上の意味があって欲しいと願っていた。
 承は一ページ目を開く。
「『狭い部屋にいる』」
 一ページ目の一行目から十行目。ずらりと並んだそれは、十日間、同じ夢を見続けた事を意味する。
 さらに三ページ目。上から三行目までと、五行目から八行目、そして十行目。
「『狭い部屋にいる』」
 十二ページ、十五ページ、二十二から三十七ページ、四十一ページ、四十五から五十二ページの全行。
「『狭い部屋にいる』」
 そして六十ページ、最初から五行目までと最後の行。最後の行は、今朝追加したものだ。
「『狭い部屋にいる』」
 こうして見返して、丞は今更ながら背中に悪寒を感じた。こんなにも見ていたのか、と。
 今の丞には狭い部屋がその実どんな部屋だったのかという記憶がない。何畳か、窓はあるか、とんな扉か、家具はあるか、その全てが思い出せない。ただ狭い部屋にいたという曖昧な記憶だけが、起きたての丞には残っていた。
 それはまるですれ違う美女の香水が鼻に残り、顔も見ていないのに情緒を掻き乱すようなモノである。丞は日記をつけ始めて六ヶ月経った頃から、狭い部屋に偏執病的に取り憑かれるようになった。

 何がなんでもその正体を明かさなくてはならない。
 
 そう感じて、さらに一年二ヶ月。未だに狭い部屋の扉は固く閉ざされている。
「・・・・・・そろそろ、授業、か」
 時刻は十二時半。一時から始まる授業に間に合うには、残り五分以内にここを出る必要がある。
 丞は一般的な男子大学生だ。大学一年の五月辺りから夢日記をつけて始め、現在は二年の一月。後期の後半であるこの時期は、期末テストの出題傾向を教師が授業で話すことがある為、そうそう休む訳にはなかった。一年の時にはそれを友人に頼って、痛い目を見ている。漏れが無いようにするには、結局、自分で話を聞くのが一番確実だった。
 三分ほど経ち、部屋を出る。その時、振り返って自室を見た。一人暮らしの安アパートの中は当然のように狭い。けれど、やはり夢の中のあの部屋とは何かが違う。
 もっと無垢のように白く、ステンレススティールのようにしなやかで、狭い。いや、実のところそれらの要素が合っているかは曖昧だ。記憶は海に血を一滴垂らしたように溶けて見えなくなっている。一つ確かのは、ただ狭い。とにかく狭いのだ。それだけが唯一海に溶けずに悠々と漂っている。

 大学構内、授業の開始五分前。講師を務める准教授が、いそいそとプロジェクターの準備を進めている。
「それで、なんか分かったのか? 小佐野」
 友人の熊谷光の質問に、丞は面倒くさそうに返した。
「なーんにも。分かるわけねぇーっ」
「そうか、そりゃ残念」
 と、ちっとも残念そうな様子を見せずに光は言った。光には狭い部屋の話をしているが、彼自身は全く協力的では無い。夢の法則性を知る為に、丞は光にも夢日記をつけるよう言ったが「面倒くさい」の一言で返された。
「思ってねーだろ」
「ま、実際な」
 とはいえ、その程度の軽さの方が却って助かるというものだ。丞は既に夢について神経質になっていて、もし過剰な心配を向けられていれば、それに反比例するように精神は落ち込んでいただろう。
「だって、ただの夢だろ? どんな夢見たって現実が変わる訳じゃないんだしさ。例えば期末テストの日に悪夢見たら気落ちしそうではあるけどさ、それで赤点取る奴はどうせ取るだろ」
 この手の話は何度か聞かされた。光のいかに夢が夢であるかの例え話はバラエティーに富んでいる。少し前は『女優と付き合う夢を見ても付き合えない』その前は『落下する夢を見ても身体はベッドの上』だった。確かに、丞はまだ遊園地でピエロに追いかけられた試しは無い。
「別に、本当に狭い部屋に連れてかれるなんて思ってねぇよ。ただ異常だろ、なんていうか、ペースがさ」
「人によるだろ」
 光がぶっきらぼうに返すと、同時にチャイムが鳴った。授業開始の合図だ。
 授業中でも後ろの方では所々話し声が聞こえるが、光はその実真面目で、授業中は黙々とノートを取っている。それに釣られるように、丞もペンを走らせた。

「僕は狭い部屋にいる」
 自分の声がして、丞は慌てて振り返った。そして、自分がたった今、本当に振り返ったのかについて考えた。
 後方に見えたのは滑らかなステンレススティールだ。それはぐるりと丞を囲っている。ドーム状か、あるいは球状になっているようで、それはまるで小さなカプセルホテルのようだ。壁は手を伸ばせば届きそうな距離にあるが、本当に手を伸ばしても届かない。目は確かにステンレススティールを写しているが、その部屋を照らす光源の存在は見当たらない。
 夢だ。今、狭い部屋の夢を見ている。
 恐らく、授業の途中で寝てしまったのだ。夢を見るほどに熟睡してしまっている自分の愚鈍さに言葉が見つからない。
 とにかく、直ぐに起きなくては。准教授はとても面倒くさい、もとい厳格な類の知識人なのだ。
 そして、丞は目を覚ました。自分の意思で、何かのスイッチを押すように、いつも通り起きた。

 けれどその実、丞は光によって起こされていた。
「そろそろ起きろよ、見つかるぞ」
「・・・・・・・・・・・・あ、あぁ。ごめん、ありがとう」
 光はそれに手を振って返す。一方の丞はまだ呆然としていた。自分が起こされたという事実を受け入れるのに時間がかかっていたのだ。
 ややあって、それは何の問題も無いと気づく。普段にしたって自分で起きているつもりでも、自室では目覚まし時計が甲高い悲鳴を上げていた。それと変わりはない。
 そして冷静になると、この夢を日記に書かなくては、と思い至った。そしてバッグから夢日記を取り出し、六十ページを開く。
 今日の日付である最後の行、その端に小さく『二時十五分にも同じ夢を見た』と加えた。
 書き終えると夢日記をしまい、再び授業と向き合う。
 
 その違和感に気づいたのは、直後のことだ。
 丞が疑問に思ったのは、どうして自分は夢日記を持ってきているのだろう、という事だ。
 夢は時間が経つほど曖昧になっていくので、寝起きと同時に書き始めるのは理に叶っている。だから丞は、旅行に出かけた際や実家に帰省した際には、きちんと夢日記を持って帰る。
 逆に言えば、そうでなければわざわざバッグに入れる事はない。大学で夢を見る、なんて事を前提に授業に来るほど、丞は不真面目では無い。
 けれど丞は夢日記を持ってきていた。
 夢日記はそもそもただのA4ノートだ。間違ってバッグに入れていた可能性はある。しかしどうして今日に限って? 寝落ちして、さらに夢を見た今日に限って、どうして。
 すると、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
 しまった、考え事をしていて最後の方を聞き逃していた。
「なぁ、熊谷、テストについて先生なんか言ってたか?」
「なに、また寝てたのか?」
「そうじゃないけど、まぁ、そう」
「どっちだよ」
 そして光は自身のノートを見せた。
「写真撮っておけよ」
 なるほど、と思い。スマホを取り出す。そう言えば前もこんな風な流れだったな、と感じた時には既にシャッターを押していた。
 写真を確認すると、やっぱりそこには既視感があった。
 そうだ、前回のテストでも聞き逃して写真を撮らせて貰っていたのだ。そしてその時は光の記入ミスで出題範囲を取り違えていた。
 丞は念の為、近くの別の生徒にもテストの話を聞いたが、今度はちゃんと合っているようだった。
「信用ねぇー。ま、前回やらかした分、今回は真面目に聞いたって」
 そう言って、光は薄く笑った。
 前回とは違う。大学という同じ場所、テスト前という同じ時期、けれど別の──何か。
 それは大学生であれば特段珍しい事じゃないのかも知れない。期末テストは前期後期、一年から四年で全てある。たった二回同じ状況だったというだけで違和感を抱くのは、それこそ違和感があるというものだ。
 それでも、気になるのはどうしてか。頭の中で、観覧車が回っている気がする。

 授業を終え、帰りの地下鉄に乗っている途中、丞は再び寝落ちした。
 最近、寝不足だったかも知れないと、狭い部屋の中で思う。
 改めてそのステンレススティールと向き合うと、驚くほど近くにあった事に気づく。手を伸ばしても届かないが、目の先には確かに壁がある。目測だけで言うならば、十センチも無いほどだ。なのに手は届かない。手が何かに触れた感触が全くない。
 そういえば、この狭い部屋の中で自分の身体を見た試しがないな、と丞は思った。
 眼球を動かして、どうにか見ようとしても、どこもかしこもステンレススティールだ。融通の効かない夢だな、と丞は文句を付けた。
 明晰夢というものがある。夢が夢であると自覚しながら見る夢のことだ。この明晰夢を見る人の中には、夢を自在にコントロールできる者もいるらしい。
 全く羨ましい限りだ。夢を夢と知りながら、全く思い通りにならないこの狭い部屋を見ながら思う。

 丞はまだ目覚めようと思わない。何故かは自分でも分からないまま、しかしタイミングを待っている。何かが起こるはずだ。目覚ましのような、熊谷光のような、何かが起こって、その時に自分は目覚めようと思うのだろう。
 自由意志について考える。自分は確かに、自分の意思で目覚めていたはずだった。しかし、それは違うと知った瞬間、自由は音を立てて崩れ去った。その実、このステンレススティールの内側は何も変わっていないというのに。
 しかし、そこには自由があるはずなのだ。夢とは脳みその中で起こるものであり、脳みその中に自分はいる。手足の運動も、視覚も、全ては脳みその中で処理される。だから夢は時にリアルを感じられるのだ。脳みそが自分自身の、自由の地平でなければ、一体どこにそれがあるというのか。
 まだ夢は覚めない。
 この狭い部屋を抜け出せば現実がある。今、自分は電車に揺られている。
 揺られているはずだ。
 
 
 

6/3/2023, 3:40:15 PM

[お題:失恋]
[タイトル:恋愛戦線前哨基地]

 失恋を語る人間は、得てして失恋をしていないと、半崎朱莉は思う。
 告白を断られたとか、実は恋人がいたとか、好きな人には別に好きな人がいたとか、付き合ったけど向こうから別れを切り出されたとか。朱莉が友人から聞いてきた失恋話とはこんなところだ。
 朱莉は思う。果たして、こんな経験をしたその瞬間に恋を失うのだろうか、と。
 きっと違う。自分ならもっと引き摺る。ただ付き合えなかったり、付き合うのを辞めたりするだけで、そこから魔法みたいに恋が消える訳じゃない。
 きっと恋は蒸発に近い。沸点を超えても一瞬で消える訳じゃなく、ぶくぶくと音を立てて少しずつ消えていく。その後の空になった鍋の底こそ失恋だ。
 だから、失恋した人間にとって見れば、失恋したことなんて過去のどうでもいいことなのだ。失った恋の抜け殻ほど食えないものはない。愚痴るにせよ、語るにせよ、感情の籠った失恋しかけの沸騰水を人は好む。

 だから、まだ大丈夫だ、と朱莉は思う。
 何周も空回りをしたが、まだ間に合う。まだ彼女の鍋の中には水が残っているはずだ。
 これは昨日の夜、ラインでの同級生からの告白を、実質断ってしまった事に起因する。

 
「『好きです、付き合って下さい』か・・・・・・」
 高校の同級生である宮藤聖子からのそんなラインの通知をマジマジと見つめる。
 面白みも変哲も無い告白だ、と朱莉は思った。後から馴れ初めを聞かれたとして、そこで期待されているようなものじゃ無い。朱莉の好みとしても、もっと劇的な方がくるものがある。
 しかし、これこそ聖子がこの恋愛戦線で行う主要作戦なんだと朱莉は気づいている。
 二人の関係の特殊性、それ故にシンプルに。
 保育園からの幼馴染で、同性で、親友。二人きりで温泉に行ったこともあるし、プールに行けば更衣室のロッカーは隣同士だ。
 そんな関係の相手が、自分に好意を持っている。幼馴染でもクラスメイトでも親友でも無く、恋としての好意を持っている。その事実に目眩がして、しかしすぐに持ち直す。これで彼女の告白がもっと重苦しければ、耐えられなかったかも知れない。
 昨今はLもGもBも普通らしい。なんて事を聞いた覚えはあるが、実際矢印を向けられるのは初めてだ。
 だからこその困惑もあったのかも知れないが、朱莉としては親友だったということの方がキツイ。これを断ったとして、どんな風に会えばいいのか。あるいは受け入れたとして、どんな態度を取ればいいのか。
 思い返せば、ボディタッチは少し多めだったのかも知れない。他の人の名前を呼ぶよりも、朱莉を呼ぶ時の方が少しだけ上擦っていたかも知れない。その笑顔を他の人に見せている所を見たことは無かったかも知れない。あるいはそれら全部が、彼女にとって親友らしい普通のことで、恋として意識したのはつい先ほどのことかも知れない。
 彼女の心の鍋にはどれほどの水が入っているのか。それだけ沸騰し終えるまで時間がかかる。沸騰が終わらなければ元には戻れない。
「わんちゃん間違いだったりしないかな」
 そう思って既読を付けないように通知だけで確認してて、もう一時間が経とうとしている。聖子がラインでの告白を、返事が来るまで何度も見返さないほど、豪胆な人間だとは思えない。
「なさそうかなぁ、あー、ヤバ。どうしよう」
 その実、朱莉は友達が多いタイプでは無い。聖子の他に親友と呼べるような、それこそ卒業しても関係を続けると確信できるような相手はいない。
 そして、そんなこと聖子も知っているはずなのだ。知っていて、勝負を仕掛けた。同情でも、お試しでも、付き合えればとりあえず勝ちだ。
『ごめんなさい』の六文字を打つことが、こんなにも恐ろしい事だとは思はなかった。いっそ電話や対面であれば、勢いで何とかなったかも知れない。
 もう仕方がない、覚悟を決めよう。
 付き合うなら、付き合うで別に構わない。今、他に付き合いたいと思うほど好きな相手はいない。それに、親友と恋人で何が変わるのかもよく分からない。キスやそれ以上を求められて、だから何だという話だ。お試しとか、相手がいないからとかいう理由で付き合っても、やる時はやる。
 それに『ごめんなさい』の六文字よりも『いいよ』の三文字の方が難易度が低い気がした。
 そしてライン画面を開くとほぼ同時、先ほどの告白文が取り消された。
『宮藤聖子がメッセージの送信を取り消しました』
 そんな文面が画面で踊る。馬鹿にしたような腹踊り。
「いやいや、待って待ってなにそれ」
 二度目の告白文は来ない。
 三十分ほど待って、朱莉は『なんかメッセージ送った?』と聞いた。
 すると返ってきたのは『気にしないでいいよ』だった。
 
 次の日、二年三組の教室で、朱莉は聖子におはようと言った。
「おはー」
 聖子はいつも通り、笑顔で答える。昨日の今日なので、ついその笑顔を意識してしまう。そう考えると、友人同士の挨拶でそうそう笑顔は作らないかも知れない。
 聖子曰く「リアルの人間関係は、幸不幸問わず、リアルというだけでキツイ」らしい。
 それを身を持って実感する。
 聖子は普段から映画にドラマに小説にと、創作に触れている人間で、だからこその言葉なのだろう。けれど今の朱莉にとって、その言葉は別の意味に感じられた。
 昨日は意識しなかったあれこれが、気になって仕方がない。断る、断らないの先に見えていた未来が、本人を前にしてより鮮明に映る。
 折れてしまいそうなほど華奢な指。発色の良い整った唇。差し込む朝日を照り返して輝く仄かな茶髪。爛々と煌めく茶色の瞳は、髪のそれよりも更に鮮やかだ。どれをとっても美しく思えてきて──
「あれ、こんなに美人だったけ、聖子って」
 そんな風に口をついて出てしまう。それで慌ててくれれば、新しい何かが始まっていたのかも知れない。
「もうー、お世辞も程々にしてよ。そりゃ、まぁ、最近ちょっと色々やってるけどさ」
 いつもの調子で、聖子は言う。
 いつも通り、いつもの調子。そう、聖子は何も変わっていない。告白をしておいて、そしてそれを送信取り消ししておいて、何も変わっていないのだ。
 変わったのは、勝手にドギマギしている朱莉の方だ。
「色々?」
「色々。スチーマー買ったり、洗顔変えたり、メイク覚えたり。まぁでも、やってる人はやってるし、普通になった、って感じかな?」
 そう言われて彼女の肌を覗くと、確かに艶やかな気がする。
「へー、何の為に?」
「へ? そりゃあ思春期ニキビとか、我々避けられないじゃない? だからだけど・・・・・・」
 聖子は訝しげに言う。
 彼女の肌にニキビらしき物は見られない。あるいは、無いことこそが努力の証なのか。もしくは天性のそれか。少なくとも朱莉は中学生の頃から悩まされている。
「あのさ、どうしたの? 今日ちょっと変だよ?」
 聖子は急にそんな事を言い出す。それにドキリとして、心臓が悲鳴を上げる。思わず動かした手の小指が机の端に当たって痛みが走った。
 違う、と朱莉は思う。立場が違う。こんな思いをするのは、自分では無く、聖子のはずだ。
 あるいは、聖子も内心はこうなのか。もしくは、聖子は最初から恋をしていて、朱莉の知るいつもの聖子は、ずっと恋を意識した状態だったのか。
 だとしたら、それが失恋するのにどれほどの時間がかかる? 沸騰が始まって、そして終わるまで、どれだけ聖子と離れ離れになればいい?
「何でも無いよ、何でも無い」
 二回言った。昔に聖子が教えてくれた、朱莉の嘘をつく時の癖。
 しかし聖子は「ふーん」と、それだけ返す。
 それで、ようやく朱莉は気づいた。彼女の恋は蒸発し始めている。
 普段のコミュニケーションという前哨戦から可能性を見出し、本戦という名のラインでの告白を敢行した。その結果、敗北を悟ったのだ。
 きっと、あの時ギリギリで既読を付けていたのだろう。そして、三十分後に来たのは恍けるような返事。これでまだ、脈があると考えられる人間がどれだけいるだろうか。
「・・・・・・ねぇ、聖子」
「んー、なに?」
 彼女の双眸と直にかち合う。大きな茶色の瞳の中に、朱莉は自分の顔を見た。小さくて、ぼやけていても分かる。その顔は、可笑しいくらい口角を上げていた。
 朱莉は直ぐに目を逸らして前を向いた。
「え? ちょっと、何? 何なのー?」
 聖子の困惑が耳だけでも分かる。
 そして、自分が今何を言おうとしたのかを悟った。
 きっとこのまま何も喋らなければ、いつも通りになれる。放っておけば、聖子の沸騰は全ての水を消し去る。彼女は勝手に失恋する。それだけの覚悟が、あの一文にあった。今なら分かる。
 親友も幼馴染も同性も、全部風に吹かれて飛んで行ってしまった。そこにあった好感とか愛とか全部が恋に変わった。あの一文で!
 今なら間に合う。今言えば、付き合える。まだ彼女の鍋の中には水が残っている。沸騰水が喘鳴を上げながら暴れている。
 それをまるで魔法のように抑えられる力が、今の朱莉にはある。
 失恋を失恋でなくする方法は、相手が掬い上げる他ない。
 今ならまだ、今なら!
 その時、目の前をふわりとした柔らかい両手で包まれる。
「え、と?」
「だーれだ?」
 聖子だ。そんな事は直ぐに分かる。けれど、どうしてこんな事をしたのかは全く浮かばない。
「聖子?」
「せいかーい!」
 聖子は目隠しを外して、朱莉に笑顔を見せる。本当に愛くるしい笑顔だ。
 あぁ、そういえば、彼女はずっとこうだった。一体、何が変わるのか。この最大限の愛を見せる聖子は、告白前も告白後も変わらない。きっと、朱莉から告白しても。
 
 そして、その日は終わる。下校して、お風呂に入って、ご飯を食べて、ベッドの上で情けなくうずくまる。
 朱莉はラインを開いた。
『宮藤聖子がメッセージの送信を取り消しました』
 既読をつけることも、消すこともできないシステムメッセージ。けれど、その裏にある一文を明確に覚えている。
 朱莉は思う。どうして彼女は、一時間で消してしまったのだろうか。
 それはきっと、聖子もまた、この関係を終わらせたくなかったからだ。もしかしたら恋人になれるかもという甘酸っぱさと、関係が終わってしまうかも知れないという恐怖の狭間で、彼女は一時間しか覚悟を持ち続けることが出来なかった。
 それに、だ。親友から恋人に変わって、一体何が変わるのか。幼馴染と恋人では何が違うのか。今で満足しているなら、今のままで良いんじゃないのか。
 恋人じゃなくても、一生を添い遂げるなら、それで。
 二人はお互いに前哨戦をし続ける。本戦には至らない。たった一度合ったそれは、僅か一時間で休戦した。
 前哨には、前哨陣地がいる。それは主要陣地の前に張り、敵の情報収集や警戒をする警戒部隊の為の陣地だ。なので通常、彼らはある程度抵抗したら退却する。だからこそ、陣地と呼んでいるのだ。
 けれど、二人は違う。そこにあるのは恒久的な貯水槽であり、それは永久に沸騰し続ける。なので陣地ではなく、基地と呼ぶべきだ。
 前哨基地は互いに強固で、陥落は容易ではない。その唯一のチャンスは、つい昨日潰えてしまった。
 だからこそ、朱莉は前哨戦を続けるしかない。聖子ですら一時間しか持たなかった、あの告白の締め付けるような感覚を、今の自分が耐えられる気がしない。
 そんな臆病な弾丸が、一体どこに届くというのか。
 前哨戦は終わらない。それを終わらせるには、火力が余りにも足りなさ過ぎる。
 薪を焚べよ。弾丸を込めろ。失恋にはまだ早い。
 
 

6/3/2023, 9:24:38 AM

[お題:正直]
[タイトル:正直者は馬鹿を見る。そして、馬鹿者は夢を見る]

「実を言うとね、高校の頃はこういう友達関係じゃ無くて、付き合うと思ってた」
 自分で言っておきながら、その言葉に恥ずかしくなったのか、新木亜紗は缶ビールを思い切り呷った。
「・・・・・・なんで今更」
 阿久津正義はそう答える。正義にとって見れば困惑も当然で、彼女の言う高校の頃とはもう十年も前になる。
「今更だから、でしょ。今なら間違っても間違いは起きないから・・・・・・言いたいこと言えるかなって」
 正義は彼女がそう言いながら、彼の左手あたりを見ていることに気がついた。左手の薬指、そこで輝く指輪を。
「じゃあ、蜜璃がいる時に言ってくれ。二人は気まずい」
 蜜璃とは、正義の妻である阿久津蜜璃のことだ。
 蜜璃は今、寝室で小さく寝息を立てている。既に時刻は頂点を回っており、早寝早起きが基本の彼女は先に寝てしまったのだ。せっかくの友人を迎えていてもそのスタイルを崩さないのは、蜜璃の欠点でもあり、美点でもある。
 正義と蜜璃が結婚して三年。何度か友人が泊まりに来たが、一度として彼女が起きていたことはない。その友人がどちらの友人か、はたまた異性、同性すら関係無く。
 それを信頼と捉えて良いのか、正義には分からない。ただ事実として、正義がその信頼を失うような行為をしたことは無い。
 こうして、亜紗と二人きりで酒に酔いながら話をしているのも、そんな実績があるから成せる技だ。
 間違いはない。間違いは起きない。薬指で輝く銀色が証明だ。
「だから、じゃん、ね。失恋話も、高校の話も、気まずい話も、全部酒が進むでしょ? ただの肴だよ」
 そして亜紗は挑発的な笑みを浮かべる。まるで正義を試しているかのように。
「それとも、肴以上を期待したの? 今更?」
「バカ言うなよ」
 本当に何を言ってるんだ、この酔っぱらい。
 きっと亜紗は揶揄っているだけだ。昔から、彼女はそういう性分だった。
 しかし、確かに亜紗の言うとおりだと、正義は思う。
 そして正義は新たに缶ビールを開けた。
「それに、あの頃に言われてても『バカ言うな』って言い返してた」
 正義は亜紗に釣られるように、高校の頃を回想する。今とは違い、二人の文脈にまだ恋や愛があり得た頃。けれど、そうはならなかったあの頃を。


 中学と高校の違いとは、義務教育かそうでないかだ。けれどそれを意識できないほど、高校への進学率は高い。
 さらに正義が通っていたのは中高一貫の私立校だった。ならばそれ以上に変化はない。あるとすれば外部生だが、それも大抵は中学で既に出来上がっていたグループと馴染めず、外部生だけで固まるのがオチだ。
 なので当然、高校デビューもない。ちょっと髪型を変えたりだとか、少しメイクで背伸びするとか、そんな内輪でイジる程度が関の山。
 だから、その日の彼女を見た時は心臓が痛くなるほど驚いた。
 高校の入学式の日、教室に入ってきた新木亜紗は長かった髪をバッサリと切り、髪色を紅葉のように鮮やかな赤に染めていた。
「どうしたんだよ、それ」
 正義は亜紗に言った。おはようとか、久しぶりよりも先に、つい口をついて出てしまった。
「そりゃ、外部生に舐められる訳にはいかないからね。正義も染めなよ。なんか、強くなれる気がするから」
 それが果たして本心かどうか。少なくとも、正義には本気で言っていたように見えた。
 結局、亜紗は明るすぎるからという当然の理由で、黒染めさせられることになった。しかし亜紗の意思も硬く、何だかんだと理由を付けてその場を凌ぎを繰り返し、卒業まで赤茶色を維持していた。
 破天荒でありながら、自身のアドリブ力と生存力で自己補完できるのが、彼女の特徴だった。
 そんな亜紗に、街灯の光に吸われる蛾みたいに近づいたのが正義だった。
 勿論、そんな奴は他にも大勢いた。亜紗はその性格で顔も静謐だったのだ。中学でも、高校でも人気が出ない訳がない。
 その中で正義の特別だった点を挙げるとすれば、それは誰よりも先にその光に辿り着いたからという事だけだ。

「なあ、阿久津って新木さんと付き合ってるの?」
 クラスメイトの外部生にそんなことを聞かれた事がある。
「いんや、ただの幼馴染だよ」
 事実を伝えると、彼はホッとしたような顔をする。そして数日ほど経つと、彼の瞳は裏切り者を貶すような視線に変わっているのだ。
 それが亜紗の幼馴染であるという事だった。一年生の頃にはその理由を知らなかったが、後にそれは、亜紗が告白を断る際の口実として正義を使っているからだと分かった。
「好きな人ができたら教えてよ。そしたら本当は何でもなかったんだよ、ってちゃんと言うからさ」
 問い詰めて、出てきた言葉はそれだった。
 さて、男女の幼馴染とは、往々にして幼馴染以上の意味を持たされやすい。実は好きなんだろうとか、本当は付き合ってるとか。特に小中では尚更で、亜紗と正義もまたそんな扱いを受けた。
 だから、亜紗としては告白を断るのに使いやすかったのだろう。それは内部生では公然の秘密のように扱われ、外部生には失恋した男たちの噂話として広まった。結果として、亜紗が恋人を作らないための口実は、正義が恋人を作れなくなる理由にもなった。
 今にして思えば、それは亜紗による作戦だったのかも知れない。外堀を埋めて、もう本当に二人が付き合う以外に、恋人は出来ないと、そんな風に持っていきたかったのだろうか。
 けれど二人はそんな幼馴染に甘んじた。その関係が心地良かったという感情に正直になったからダメだったのか。あるいはお互いに、好きだという気持ちに正直になれなかったからダメだったのか。
 答えは解なしだ。何故なら、ダメだったその先で、正義は幸福を掴んでいる。

「好きな人ができたから、もう口実には使わないでほしい」
 三年の春先だった。正義がそう言うと、亜紗は驚きのあまり口を半開きにして、直後に繕うような笑顔を見せた。
「うん。分かった。今までごめんね」
 その『ごめんね』の意味を測りかねているうちに、亜紗が言葉を続けた。
「で、誰なの? 正義の好きな人」
「・・・・・・和久さんだよ」
「和久さん? あぁ、和久さんね、和久さん」
 和久さん──和久蜜璃。思えば高校から付き合い始めて、結婚まで行くのも珍しいかも知れない。ともかくこの先で、亜紗にチャンスが回ってくることは無かった。


「まぁ、正直に言うとさ」
 さらに夜も更け、午前一時。
 つまみを買いに行こうと言う亜紗に連れられて、正義はコンビニに向かっていた。
「すぐに別れると思ってたんだよね。その後チャンスあるかなぁ、って見てたらゴールしてた」
「ゴールって・・・・・・結婚のこと?」
「そう。人生の墓場とか、子供できてからが本番とか言うけどさ。やっぱり恋愛のゴールは結婚だよ。人生のゴールは知らないけどね」
「・・・・・・そうかなぁ?」
「違うの?」
 亜紗は目を開いて、キョトンと顔を傾ける。
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」
「なんか複雑だね」
「寧ろシンプルだと思うけど」
 部屋の明かりも少ない住宅街を夏風が吹き荒ぶ。亜紗の長い黒髪が揺れている。
「結婚したってだけだよ。本当に、それだけだ」
 例えば、正義と蜜璃がただの同棲関係であったとして、その時に亜紗との宅飲みは許されるのだろうか。
 きっと蜜璃は来客の有無に関わらず早く寝る。彼女は寝室で夢を見ている。その間、リビングで繰り広げられるあれやこれやを知ることはない。たとえ結婚していても、そうでなくとも。
「ふーん・・・・・・」
 亜紗はその意味をきちんと把握するために考え込んでいる。もしかしたら、まだチャンスが・・・・・・なんて考えているのかも知れない。
 そう考えている正義の方が、実はずっと引き摺っている。
 けれどそれに正直になったところで、その先は地獄にしかならない。

 間も無く、コンビニに辿り着く。その明かりに誘われた虫たちが、端の方で呻いている。
 正義は考える。きっと正義も蜜璃も虫だった。光に集まって、そこで出会って結婚した。虫と光じゃ結婚できない。
 もも塩、かわタレ、鮭とばにポテトチップス。帰り道のビニール袋の中には、そんなものが入っている。正直に言うなら、食べ切れる自信はない。正義も亜紗もいい歳だ。何でもかんでも食べられるような若さは既に陰りを見せている。
「ところでさ」
 亜紗が口を開く。少し惑うようにしながらも、しっかりと言葉を紡ぐ。
「なんで蜜璃だったの?」
「え? あー・・・・・・」
 果たして、正直に言うべきか。正義を少し迷いつつ、本心を話した。
「ちょうどいいと思ったっていうか。何となくさ、いるじゃん。同じくらいだなって相手。蜜璃がそうだって気がしたんだよね」
 それを感じたのは、高校二年の時だ。
 当時の高校では内部生と外部生のいがみ合いが多々あった。もちろん直接的な何かがあった訳じゃない。ただそれぞれのグループ内での陰口や、SNSの裏垢での罵り合いは日常茶飯事だった。
 内部生はエスカレーター式だからどうせ馬鹿だとか。そんな外部生の言い分は、身内感を羨んでるだけの嫉妬に過ぎないとか。
 けれど亜紗からそんな話を聞いたことはなかった。亜紗は相手を蔑まない。
 だから高校二年の時に、内部生だけの文化祭打ち上げをした時、亜紗は呼ばれなかった。
 勿論、他の内部生が全員いたという訳でもない。内部生の中でも、外部生に対して嫌悪感を抱いていない人間は呼ばれていない。
 そして正義と蜜璃はそこで出会った。
 だから正義は蜜璃を選んだ。
「亜紗はそういう人いない?」
「いたよ、前は」
 その瞳は裏切り者を訴えているようだ。亜紗は正義を糾弾している。
 けれどそれは買い被りというものだ。馬鹿は馬鹿といるのがお似合いで、現実よりも夢を見たがる。
 内部生よりも外部生の方が頭が良かった。外部生よりも成績を落としたヤツほど外部生を敵視していた。
「これからもできるよ。社会はそうなってる」
 エスカレーターはいつか終わる。光と虫が同じ場所にいるなんて不条理は高校生までだ。篩の目の大きさは大人になる程狭くなる。
「だといいね」
 そう言った亜紗は少し寂しげだ。
 虫の音が聞こえる。この羽音がどうか自分にだけ聞こえていて欲しいと、正義は心から願った。
 

6/1/2023, 3:45:37 PM

[お題:梅雨]
[タイトル:4分33秒]

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