[お題:正直]
[タイトル:正直者は馬鹿を見る。そして、馬鹿者は夢を見る]
「実を言うとね、高校の頃はこういう友達関係じゃ無くて、付き合うと思ってた」
自分で言っておきながら、その言葉に恥ずかしくなったのか、新木亜紗は缶ビールを思い切り呷った。
「・・・・・・なんで今更」
阿久津正義はそう答える。正義にとって見れば困惑も当然で、彼女の言う高校の頃とはもう十年も前になる。
「今更だから、でしょ。今なら間違っても間違いは起きないから・・・・・・言いたいこと言えるかなって」
正義は彼女がそう言いながら、彼の左手あたりを見ていることに気がついた。左手の薬指、そこで輝く指輪を。
「じゃあ、蜜璃がいる時に言ってくれ。二人は気まずい」
蜜璃とは、正義の妻である阿久津蜜璃のことだ。
蜜璃は今、寝室で小さく寝息を立てている。既に時刻は頂点を回っており、早寝早起きが基本の彼女は先に寝てしまったのだ。せっかくの友人を迎えていてもそのスタイルを崩さないのは、蜜璃の欠点でもあり、美点でもある。
正義と蜜璃が結婚して三年。何度か友人が泊まりに来たが、一度として彼女が起きていたことはない。その友人がどちらの友人か、はたまた異性、同性すら関係無く。
それを信頼と捉えて良いのか、正義には分からない。ただ事実として、正義がその信頼を失うような行為をしたことは無い。
こうして、亜紗と二人きりで酒に酔いながら話をしているのも、そんな実績があるから成せる技だ。
間違いはない。間違いは起きない。薬指で輝く銀色が証明だ。
「だから、じゃん、ね。失恋話も、高校の話も、気まずい話も、全部酒が進むでしょ? ただの肴だよ」
そして亜紗は挑発的な笑みを浮かべる。まるで正義を試しているかのように。
「それとも、肴以上を期待したの? 今更?」
「バカ言うなよ」
本当に何を言ってるんだ、この酔っぱらい。
きっと亜紗は揶揄っているだけだ。昔から、彼女はそういう性分だった。
しかし、確かに亜紗の言うとおりだと、正義は思う。
そして正義は新たに缶ビールを開けた。
「それに、あの頃に言われてても『バカ言うな』って言い返してた」
正義は亜紗に釣られるように、高校の頃を回想する。今とは違い、二人の文脈にまだ恋や愛があり得た頃。けれど、そうはならなかったあの頃を。
中学と高校の違いとは、義務教育かそうでないかだ。けれどそれを意識できないほど、高校への進学率は高い。
さらに正義が通っていたのは中高一貫の私立校だった。ならばそれ以上に変化はない。あるとすれば外部生だが、それも大抵は中学で既に出来上がっていたグループと馴染めず、外部生だけで固まるのがオチだ。
なので当然、高校デビューもない。ちょっと髪型を変えたりだとか、少しメイクで背伸びするとか、そんな内輪でイジる程度が関の山。
だから、その日の彼女を見た時は心臓が痛くなるほど驚いた。
高校の入学式の日、教室に入ってきた新木亜紗は長かった髪をバッサリと切り、髪色を紅葉のように鮮やかな赤に染めていた。
「どうしたんだよ、それ」
正義は亜紗に言った。おはようとか、久しぶりよりも先に、つい口をついて出てしまった。
「そりゃ、外部生に舐められる訳にはいかないからね。正義も染めなよ。なんか、強くなれる気がするから」
それが果たして本心かどうか。少なくとも、正義には本気で言っていたように見えた。
結局、亜紗は明るすぎるからという当然の理由で、黒染めさせられることになった。しかし亜紗の意思も硬く、何だかんだと理由を付けてその場を凌ぎを繰り返し、卒業まで赤茶色を維持していた。
破天荒でありながら、自身のアドリブ力と生存力で自己補完できるのが、彼女の特徴だった。
そんな亜紗に、街灯の光に吸われる蛾みたいに近づいたのが正義だった。
勿論、そんな奴は他にも大勢いた。亜紗はその性格で顔も静謐だったのだ。中学でも、高校でも人気が出ない訳がない。
その中で正義の特別だった点を挙げるとすれば、それは誰よりも先にその光に辿り着いたからという事だけだ。
「なあ、阿久津って新木さんと付き合ってるの?」
クラスメイトの外部生にそんなことを聞かれた事がある。
「いんや、ただの幼馴染だよ」
事実を伝えると、彼はホッとしたような顔をする。そして数日ほど経つと、彼の瞳は裏切り者を貶すような視線に変わっているのだ。
それが亜紗の幼馴染であるという事だった。一年生の頃にはその理由を知らなかったが、後にそれは、亜紗が告白を断る際の口実として正義を使っているからだと分かった。
「好きな人ができたら教えてよ。そしたら本当は何でもなかったんだよ、ってちゃんと言うからさ」
問い詰めて、出てきた言葉はそれだった。
さて、男女の幼馴染とは、往々にして幼馴染以上の意味を持たされやすい。実は好きなんだろうとか、本当は付き合ってるとか。特に小中では尚更で、亜紗と正義もまたそんな扱いを受けた。
だから、亜紗としては告白を断るのに使いやすかったのだろう。それは内部生では公然の秘密のように扱われ、外部生には失恋した男たちの噂話として広まった。結果として、亜紗が恋人を作らないための口実は、正義が恋人を作れなくなる理由にもなった。
今にして思えば、それは亜紗による作戦だったのかも知れない。外堀を埋めて、もう本当に二人が付き合う以外に、恋人は出来ないと、そんな風に持っていきたかったのだろうか。
けれど二人はそんな幼馴染に甘んじた。その関係が心地良かったという感情に正直になったからダメだったのか。あるいはお互いに、好きだという気持ちに正直になれなかったからダメだったのか。
答えは解なしだ。何故なら、ダメだったその先で、正義は幸福を掴んでいる。
「好きな人ができたから、もう口実には使わないでほしい」
三年の春先だった。正義がそう言うと、亜紗は驚きのあまり口を半開きにして、直後に繕うような笑顔を見せた。
「うん。分かった。今までごめんね」
その『ごめんね』の意味を測りかねているうちに、亜紗が言葉を続けた。
「で、誰なの? 正義の好きな人」
「・・・・・・和久さんだよ」
「和久さん? あぁ、和久さんね、和久さん」
和久さん──和久蜜璃。思えば高校から付き合い始めて、結婚まで行くのも珍しいかも知れない。ともかくこの先で、亜紗にチャンスが回ってくることは無かった。
「まぁ、正直に言うとさ」
さらに夜も更け、午前一時。
つまみを買いに行こうと言う亜紗に連れられて、正義はコンビニに向かっていた。
「すぐに別れると思ってたんだよね。その後チャンスあるかなぁ、って見てたらゴールしてた」
「ゴールって・・・・・・結婚のこと?」
「そう。人生の墓場とか、子供できてからが本番とか言うけどさ。やっぱり恋愛のゴールは結婚だよ。人生のゴールは知らないけどね」
「・・・・・・そうかなぁ?」
「違うの?」
亜紗は目を開いて、キョトンと顔を傾ける。
「そうだとも言えるし、そうでないとも言える」
「なんか複雑だね」
「寧ろシンプルだと思うけど」
部屋の明かりも少ない住宅街を夏風が吹き荒ぶ。亜紗の長い黒髪が揺れている。
「結婚したってだけだよ。本当に、それだけだ」
例えば、正義と蜜璃がただの同棲関係であったとして、その時に亜紗との宅飲みは許されるのだろうか。
きっと蜜璃は来客の有無に関わらず早く寝る。彼女は寝室で夢を見ている。その間、リビングで繰り広げられるあれやこれやを知ることはない。たとえ結婚していても、そうでなくとも。
「ふーん・・・・・・」
亜紗はその意味をきちんと把握するために考え込んでいる。もしかしたら、まだチャンスが・・・・・・なんて考えているのかも知れない。
そう考えている正義の方が、実はずっと引き摺っている。
けれどそれに正直になったところで、その先は地獄にしかならない。
間も無く、コンビニに辿り着く。その明かりに誘われた虫たちが、端の方で呻いている。
正義は考える。きっと正義も蜜璃も虫だった。光に集まって、そこで出会って結婚した。虫と光じゃ結婚できない。
もも塩、かわタレ、鮭とばにポテトチップス。帰り道のビニール袋の中には、そんなものが入っている。正直に言うなら、食べ切れる自信はない。正義も亜紗もいい歳だ。何でもかんでも食べられるような若さは既に陰りを見せている。
「ところでさ」
亜紗が口を開く。少し惑うようにしながらも、しっかりと言葉を紡ぐ。
「なんで蜜璃だったの?」
「え? あー・・・・・・」
果たして、正直に言うべきか。正義を少し迷いつつ、本心を話した。
「ちょうどいいと思ったっていうか。何となくさ、いるじゃん。同じくらいだなって相手。蜜璃がそうだって気がしたんだよね」
それを感じたのは、高校二年の時だ。
当時の高校では内部生と外部生のいがみ合いが多々あった。もちろん直接的な何かがあった訳じゃない。ただそれぞれのグループ内での陰口や、SNSの裏垢での罵り合いは日常茶飯事だった。
内部生はエスカレーター式だからどうせ馬鹿だとか。そんな外部生の言い分は、身内感を羨んでるだけの嫉妬に過ぎないとか。
けれど亜紗からそんな話を聞いたことはなかった。亜紗は相手を蔑まない。
だから高校二年の時に、内部生だけの文化祭打ち上げをした時、亜紗は呼ばれなかった。
勿論、他の内部生が全員いたという訳でもない。内部生の中でも、外部生に対して嫌悪感を抱いていない人間は呼ばれていない。
そして正義と蜜璃はそこで出会った。
だから正義は蜜璃を選んだ。
「亜紗はそういう人いない?」
「いたよ、前は」
その瞳は裏切り者を訴えているようだ。亜紗は正義を糾弾している。
けれどそれは買い被りというものだ。馬鹿は馬鹿といるのがお似合いで、現実よりも夢を見たがる。
内部生よりも外部生の方が頭が良かった。外部生よりも成績を落としたヤツほど外部生を敵視していた。
「これからもできるよ。社会はそうなってる」
エスカレーターはいつか終わる。光と虫が同じ場所にいるなんて不条理は高校生までだ。篩の目の大きさは大人になる程狭くなる。
「だといいね」
そう言った亜紗は少し寂しげだ。
虫の音が聞こえる。この羽音がどうか自分にだけ聞こえていて欲しいと、正義は心から願った。
6/3/2023, 9:24:38 AM