[お題:狭い部屋]
[タイトル:自由意思、in、ステンレススティール]
小佐野丞は自分の日記を読み返していた。ここ一年と八ヶ月かけて貯めた、夢日記を。
「『遊園地、ピエロに追いかけられる。観覧車が転がる』」
六十ページまで埋まっている日記帳(代わりのA4ノート)のうち、二ページ目。六月七日の日記だ。
そして次に五ページ目、七月二日の日記を開く。
「『遊園地、ジェットコースターが崩れる。赤と黄色の風船が空に舞っている』」
遊園地に関する夢日記はもう一つある。十ページ目、八月二十三日。
「『遊園地にいる。子供がいる。その子供は誰かを待っている気がする』」
日付に関連があるとは思えない。これらの夏の日に、遊園地に行ったという記憶も無い。そして遊園地が何度も夢に見てしまうほど好きだという事も無い。確かに、友人グループや恋人、家族と行けば楽しいだろうが、自ら誘って行ったり、一人で行ったりするほどの熱は無い。丞にとって遊園地は、そこらの公園や商業複合施設と変わりない。特段気にするとこのない存在だ。
なのに、遊園地の夢を三度見ている。この記録をつける前と合わせるなら、五度だ。
同じ場所の、別の夢。
これの意味するところが、心の底では遊園地に行きたがっているとか、その程度ならそれでもいい。ただ実のところ、丞はそれ以上の意味があって欲しいと願っていた。
承は一ページ目を開く。
「『狭い部屋にいる』」
一ページ目の一行目から十行目。ずらりと並んだそれは、十日間、同じ夢を見続けた事を意味する。
さらに三ページ目。上から三行目までと、五行目から八行目、そして十行目。
「『狭い部屋にいる』」
十二ページ、十五ページ、二十二から三十七ページ、四十一ページ、四十五から五十二ページの全行。
「『狭い部屋にいる』」
そして六十ページ、最初から五行目までと最後の行。最後の行は、今朝追加したものだ。
「『狭い部屋にいる』」
こうして見返して、丞は今更ながら背中に悪寒を感じた。こんなにも見ていたのか、と。
今の丞には狭い部屋がその実どんな部屋だったのかという記憶がない。何畳か、窓はあるか、とんな扉か、家具はあるか、その全てが思い出せない。ただ狭い部屋にいたという曖昧な記憶だけが、起きたての丞には残っていた。
それはまるですれ違う美女の香水が鼻に残り、顔も見ていないのに情緒を掻き乱すようなモノである。丞は日記をつけ始めて六ヶ月経った頃から、狭い部屋に偏執病的に取り憑かれるようになった。
何がなんでもその正体を明かさなくてはならない。
そう感じて、さらに一年二ヶ月。未だに狭い部屋の扉は固く閉ざされている。
「・・・・・・そろそろ、授業、か」
時刻は十二時半。一時から始まる授業に間に合うには、残り五分以内にここを出る必要がある。
丞は一般的な男子大学生だ。大学一年の五月辺りから夢日記をつけて始め、現在は二年の一月。後期の後半であるこの時期は、期末テストの出題傾向を教師が授業で話すことがある為、そうそう休む訳にはなかった。一年の時にはそれを友人に頼って、痛い目を見ている。漏れが無いようにするには、結局、自分で話を聞くのが一番確実だった。
三分ほど経ち、部屋を出る。その時、振り返って自室を見た。一人暮らしの安アパートの中は当然のように狭い。けれど、やはり夢の中のあの部屋とは何かが違う。
もっと無垢のように白く、ステンレススティールのようにしなやかで、狭い。いや、実のところそれらの要素が合っているかは曖昧だ。記憶は海に血を一滴垂らしたように溶けて見えなくなっている。一つ確かのは、ただ狭い。とにかく狭いのだ。それだけが唯一海に溶けずに悠々と漂っている。
大学構内、授業の開始五分前。講師を務める准教授が、いそいそとプロジェクターの準備を進めている。
「それで、なんか分かったのか? 小佐野」
友人の熊谷光の質問に、丞は面倒くさそうに返した。
「なーんにも。分かるわけねぇーっ」
「そうか、そりゃ残念」
と、ちっとも残念そうな様子を見せずに光は言った。光には狭い部屋の話をしているが、彼自身は全く協力的では無い。夢の法則性を知る為に、丞は光にも夢日記をつけるよう言ったが「面倒くさい」の一言で返された。
「思ってねーだろ」
「ま、実際な」
とはいえ、その程度の軽さの方が却って助かるというものだ。丞は既に夢について神経質になっていて、もし過剰な心配を向けられていれば、それに反比例するように精神は落ち込んでいただろう。
「だって、ただの夢だろ? どんな夢見たって現実が変わる訳じゃないんだしさ。例えば期末テストの日に悪夢見たら気落ちしそうではあるけどさ、それで赤点取る奴はどうせ取るだろ」
この手の話は何度か聞かされた。光のいかに夢が夢であるかの例え話はバラエティーに富んでいる。少し前は『女優と付き合う夢を見ても付き合えない』その前は『落下する夢を見ても身体はベッドの上』だった。確かに、丞はまだ遊園地でピエロに追いかけられた試しは無い。
「別に、本当に狭い部屋に連れてかれるなんて思ってねぇよ。ただ異常だろ、なんていうか、ペースがさ」
「人によるだろ」
光がぶっきらぼうに返すと、同時にチャイムが鳴った。授業開始の合図だ。
授業中でも後ろの方では所々話し声が聞こえるが、光はその実真面目で、授業中は黙々とノートを取っている。それに釣られるように、丞もペンを走らせた。
「僕は狭い部屋にいる」
自分の声がして、丞は慌てて振り返った。そして、自分がたった今、本当に振り返ったのかについて考えた。
後方に見えたのは滑らかなステンレススティールだ。それはぐるりと丞を囲っている。ドーム状か、あるいは球状になっているようで、それはまるで小さなカプセルホテルのようだ。壁は手を伸ばせば届きそうな距離にあるが、本当に手を伸ばしても届かない。目は確かにステンレススティールを写しているが、その部屋を照らす光源の存在は見当たらない。
夢だ。今、狭い部屋の夢を見ている。
恐らく、授業の途中で寝てしまったのだ。夢を見るほどに熟睡してしまっている自分の愚鈍さに言葉が見つからない。
とにかく、直ぐに起きなくては。准教授はとても面倒くさい、もとい厳格な類の知識人なのだ。
そして、丞は目を覚ました。自分の意思で、何かのスイッチを押すように、いつも通り起きた。
けれどその実、丞は光によって起こされていた。
「そろそろ起きろよ、見つかるぞ」
「・・・・・・・・・・・・あ、あぁ。ごめん、ありがとう」
光はそれに手を振って返す。一方の丞はまだ呆然としていた。自分が起こされたという事実を受け入れるのに時間がかかっていたのだ。
ややあって、それは何の問題も無いと気づく。普段にしたって自分で起きているつもりでも、自室では目覚まし時計が甲高い悲鳴を上げていた。それと変わりはない。
そして冷静になると、この夢を日記に書かなくては、と思い至った。そしてバッグから夢日記を取り出し、六十ページを開く。
今日の日付である最後の行、その端に小さく『二時十五分にも同じ夢を見た』と加えた。
書き終えると夢日記をしまい、再び授業と向き合う。
その違和感に気づいたのは、直後のことだ。
丞が疑問に思ったのは、どうして自分は夢日記を持ってきているのだろう、という事だ。
夢は時間が経つほど曖昧になっていくので、寝起きと同時に書き始めるのは理に叶っている。だから丞は、旅行に出かけた際や実家に帰省した際には、きちんと夢日記を持って帰る。
逆に言えば、そうでなければわざわざバッグに入れる事はない。大学で夢を見る、なんて事を前提に授業に来るほど、丞は不真面目では無い。
けれど丞は夢日記を持ってきていた。
夢日記はそもそもただのA4ノートだ。間違ってバッグに入れていた可能性はある。しかしどうして今日に限って? 寝落ちして、さらに夢を見た今日に限って、どうして。
すると、授業の終了を告げるチャイムが鳴った。
しまった、考え事をしていて最後の方を聞き逃していた。
「なぁ、熊谷、テストについて先生なんか言ってたか?」
「なに、また寝てたのか?」
「そうじゃないけど、まぁ、そう」
「どっちだよ」
そして光は自身のノートを見せた。
「写真撮っておけよ」
なるほど、と思い。スマホを取り出す。そう言えば前もこんな風な流れだったな、と感じた時には既にシャッターを押していた。
写真を確認すると、やっぱりそこには既視感があった。
そうだ、前回のテストでも聞き逃して写真を撮らせて貰っていたのだ。そしてその時は光の記入ミスで出題範囲を取り違えていた。
丞は念の為、近くの別の生徒にもテストの話を聞いたが、今度はちゃんと合っているようだった。
「信用ねぇー。ま、前回やらかした分、今回は真面目に聞いたって」
そう言って、光は薄く笑った。
前回とは違う。大学という同じ場所、テスト前という同じ時期、けれど別の──何か。
それは大学生であれば特段珍しい事じゃないのかも知れない。期末テストは前期後期、一年から四年で全てある。たった二回同じ状況だったというだけで違和感を抱くのは、それこそ違和感があるというものだ。
それでも、気になるのはどうしてか。頭の中で、観覧車が回っている気がする。
授業を終え、帰りの地下鉄に乗っている途中、丞は再び寝落ちした。
最近、寝不足だったかも知れないと、狭い部屋の中で思う。
改めてそのステンレススティールと向き合うと、驚くほど近くにあった事に気づく。手を伸ばしても届かないが、目の先には確かに壁がある。目測だけで言うならば、十センチも無いほどだ。なのに手は届かない。手が何かに触れた感触が全くない。
そういえば、この狭い部屋の中で自分の身体を見た試しがないな、と丞は思った。
眼球を動かして、どうにか見ようとしても、どこもかしこもステンレススティールだ。融通の効かない夢だな、と丞は文句を付けた。
明晰夢というものがある。夢が夢であると自覚しながら見る夢のことだ。この明晰夢を見る人の中には、夢を自在にコントロールできる者もいるらしい。
全く羨ましい限りだ。夢を夢と知りながら、全く思い通りにならないこの狭い部屋を見ながら思う。
丞はまだ目覚めようと思わない。何故かは自分でも分からないまま、しかしタイミングを待っている。何かが起こるはずだ。目覚ましのような、熊谷光のような、何かが起こって、その時に自分は目覚めようと思うのだろう。
自由意志について考える。自分は確かに、自分の意思で目覚めていたはずだった。しかし、それは違うと知った瞬間、自由は音を立てて崩れ去った。その実、このステンレススティールの内側は何も変わっていないというのに。
しかし、そこには自由があるはずなのだ。夢とは脳みその中で起こるものであり、脳みその中に自分はいる。手足の運動も、視覚も、全ては脳みその中で処理される。だから夢は時にリアルを感じられるのだ。脳みそが自分自身の、自由の地平でなければ、一体どこにそれがあるというのか。
まだ夢は覚めない。
この狭い部屋を抜け出せば現実がある。今、自分は電車に揺られている。
揺られているはずだ。
6/4/2023, 6:54:26 PM