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[お題:失恋]
[タイトル:恋愛戦線前哨基地]

 失恋を語る人間は、得てして失恋をしていないと、半崎朱莉は思う。
 告白を断られたとか、実は恋人がいたとか、好きな人には別に好きな人がいたとか、付き合ったけど向こうから別れを切り出されたとか。朱莉が友人から聞いてきた失恋話とはこんなところだ。
 朱莉は思う。果たして、こんな経験をしたその瞬間に恋を失うのだろうか、と。
 きっと違う。自分ならもっと引き摺る。ただ付き合えなかったり、付き合うのを辞めたりするだけで、そこから魔法みたいに恋が消える訳じゃない。
 きっと恋は蒸発に近い。沸点を超えても一瞬で消える訳じゃなく、ぶくぶくと音を立てて少しずつ消えていく。その後の空になった鍋の底こそ失恋だ。
 だから、失恋した人間にとって見れば、失恋したことなんて過去のどうでもいいことなのだ。失った恋の抜け殻ほど食えないものはない。愚痴るにせよ、語るにせよ、感情の籠った失恋しかけの沸騰水を人は好む。

 だから、まだ大丈夫だ、と朱莉は思う。
 何周も空回りをしたが、まだ間に合う。まだ彼女の鍋の中には水が残っているはずだ。
 これは昨日の夜、ラインでの同級生からの告白を、実質断ってしまった事に起因する。

 
「『好きです、付き合って下さい』か・・・・・・」
 高校の同級生である宮藤聖子からのそんなラインの通知をマジマジと見つめる。
 面白みも変哲も無い告白だ、と朱莉は思った。後から馴れ初めを聞かれたとして、そこで期待されているようなものじゃ無い。朱莉の好みとしても、もっと劇的な方がくるものがある。
 しかし、これこそ聖子がこの恋愛戦線で行う主要作戦なんだと朱莉は気づいている。
 二人の関係の特殊性、それ故にシンプルに。
 保育園からの幼馴染で、同性で、親友。二人きりで温泉に行ったこともあるし、プールに行けば更衣室のロッカーは隣同士だ。
 そんな関係の相手が、自分に好意を持っている。幼馴染でもクラスメイトでも親友でも無く、恋としての好意を持っている。その事実に目眩がして、しかしすぐに持ち直す。これで彼女の告白がもっと重苦しければ、耐えられなかったかも知れない。
 昨今はLもGもBも普通らしい。なんて事を聞いた覚えはあるが、実際矢印を向けられるのは初めてだ。
 だからこその困惑もあったのかも知れないが、朱莉としては親友だったということの方がキツイ。これを断ったとして、どんな風に会えばいいのか。あるいは受け入れたとして、どんな態度を取ればいいのか。
 思い返せば、ボディタッチは少し多めだったのかも知れない。他の人の名前を呼ぶよりも、朱莉を呼ぶ時の方が少しだけ上擦っていたかも知れない。その笑顔を他の人に見せている所を見たことは無かったかも知れない。あるいはそれら全部が、彼女にとって親友らしい普通のことで、恋として意識したのはつい先ほどのことかも知れない。
 彼女の心の鍋にはどれほどの水が入っているのか。それだけ沸騰し終えるまで時間がかかる。沸騰が終わらなければ元には戻れない。
「わんちゃん間違いだったりしないかな」
 そう思って既読を付けないように通知だけで確認してて、もう一時間が経とうとしている。聖子がラインでの告白を、返事が来るまで何度も見返さないほど、豪胆な人間だとは思えない。
「なさそうかなぁ、あー、ヤバ。どうしよう」
 その実、朱莉は友達が多いタイプでは無い。聖子の他に親友と呼べるような、それこそ卒業しても関係を続けると確信できるような相手はいない。
 そして、そんなこと聖子も知っているはずなのだ。知っていて、勝負を仕掛けた。同情でも、お試しでも、付き合えればとりあえず勝ちだ。
『ごめんなさい』の六文字を打つことが、こんなにも恐ろしい事だとは思はなかった。いっそ電話や対面であれば、勢いで何とかなったかも知れない。
 もう仕方がない、覚悟を決めよう。
 付き合うなら、付き合うで別に構わない。今、他に付き合いたいと思うほど好きな相手はいない。それに、親友と恋人で何が変わるのかもよく分からない。キスやそれ以上を求められて、だから何だという話だ。お試しとか、相手がいないからとかいう理由で付き合っても、やる時はやる。
 それに『ごめんなさい』の六文字よりも『いいよ』の三文字の方が難易度が低い気がした。
 そしてライン画面を開くとほぼ同時、先ほどの告白文が取り消された。
『宮藤聖子がメッセージの送信を取り消しました』
 そんな文面が画面で踊る。馬鹿にしたような腹踊り。
「いやいや、待って待ってなにそれ」
 二度目の告白文は来ない。
 三十分ほど待って、朱莉は『なんかメッセージ送った?』と聞いた。
 すると返ってきたのは『気にしないでいいよ』だった。
 
 次の日、二年三組の教室で、朱莉は聖子におはようと言った。
「おはー」
 聖子はいつも通り、笑顔で答える。昨日の今日なので、ついその笑顔を意識してしまう。そう考えると、友人同士の挨拶でそうそう笑顔は作らないかも知れない。
 聖子曰く「リアルの人間関係は、幸不幸問わず、リアルというだけでキツイ」らしい。
 それを身を持って実感する。
 聖子は普段から映画にドラマに小説にと、創作に触れている人間で、だからこその言葉なのだろう。けれど今の朱莉にとって、その言葉は別の意味に感じられた。
 昨日は意識しなかったあれこれが、気になって仕方がない。断る、断らないの先に見えていた未来が、本人を前にしてより鮮明に映る。
 折れてしまいそうなほど華奢な指。発色の良い整った唇。差し込む朝日を照り返して輝く仄かな茶髪。爛々と煌めく茶色の瞳は、髪のそれよりも更に鮮やかだ。どれをとっても美しく思えてきて──
「あれ、こんなに美人だったけ、聖子って」
 そんな風に口をついて出てしまう。それで慌ててくれれば、新しい何かが始まっていたのかも知れない。
「もうー、お世辞も程々にしてよ。そりゃ、まぁ、最近ちょっと色々やってるけどさ」
 いつもの調子で、聖子は言う。
 いつも通り、いつもの調子。そう、聖子は何も変わっていない。告白をしておいて、そしてそれを送信取り消ししておいて、何も変わっていないのだ。
 変わったのは、勝手にドギマギしている朱莉の方だ。
「色々?」
「色々。スチーマー買ったり、洗顔変えたり、メイク覚えたり。まぁでも、やってる人はやってるし、普通になった、って感じかな?」
 そう言われて彼女の肌を覗くと、確かに艶やかな気がする。
「へー、何の為に?」
「へ? そりゃあ思春期ニキビとか、我々避けられないじゃない? だからだけど・・・・・・」
 聖子は訝しげに言う。
 彼女の肌にニキビらしき物は見られない。あるいは、無いことこそが努力の証なのか。もしくは天性のそれか。少なくとも朱莉は中学生の頃から悩まされている。
「あのさ、どうしたの? 今日ちょっと変だよ?」
 聖子は急にそんな事を言い出す。それにドキリとして、心臓が悲鳴を上げる。思わず動かした手の小指が机の端に当たって痛みが走った。
 違う、と朱莉は思う。立場が違う。こんな思いをするのは、自分では無く、聖子のはずだ。
 あるいは、聖子も内心はこうなのか。もしくは、聖子は最初から恋をしていて、朱莉の知るいつもの聖子は、ずっと恋を意識した状態だったのか。
 だとしたら、それが失恋するのにどれほどの時間がかかる? 沸騰が始まって、そして終わるまで、どれだけ聖子と離れ離れになればいい?
「何でも無いよ、何でも無い」
 二回言った。昔に聖子が教えてくれた、朱莉の嘘をつく時の癖。
 しかし聖子は「ふーん」と、それだけ返す。
 それで、ようやく朱莉は気づいた。彼女の恋は蒸発し始めている。
 普段のコミュニケーションという前哨戦から可能性を見出し、本戦という名のラインでの告白を敢行した。その結果、敗北を悟ったのだ。
 きっと、あの時ギリギリで既読を付けていたのだろう。そして、三十分後に来たのは恍けるような返事。これでまだ、脈があると考えられる人間がどれだけいるだろうか。
「・・・・・・ねぇ、聖子」
「んー、なに?」
 彼女の双眸と直にかち合う。大きな茶色の瞳の中に、朱莉は自分の顔を見た。小さくて、ぼやけていても分かる。その顔は、可笑しいくらい口角を上げていた。
 朱莉は直ぐに目を逸らして前を向いた。
「え? ちょっと、何? 何なのー?」
 聖子の困惑が耳だけでも分かる。
 そして、自分が今何を言おうとしたのかを悟った。
 きっとこのまま何も喋らなければ、いつも通りになれる。放っておけば、聖子の沸騰は全ての水を消し去る。彼女は勝手に失恋する。それだけの覚悟が、あの一文にあった。今なら分かる。
 親友も幼馴染も同性も、全部風に吹かれて飛んで行ってしまった。そこにあった好感とか愛とか全部が恋に変わった。あの一文で!
 今なら間に合う。今言えば、付き合える。まだ彼女の鍋の中には水が残っている。沸騰水が喘鳴を上げながら暴れている。
 それをまるで魔法のように抑えられる力が、今の朱莉にはある。
 失恋を失恋でなくする方法は、相手が掬い上げる他ない。
 今ならまだ、今なら!
 その時、目の前をふわりとした柔らかい両手で包まれる。
「え、と?」
「だーれだ?」
 聖子だ。そんな事は直ぐに分かる。けれど、どうしてこんな事をしたのかは全く浮かばない。
「聖子?」
「せいかーい!」
 聖子は目隠しを外して、朱莉に笑顔を見せる。本当に愛くるしい笑顔だ。
 あぁ、そういえば、彼女はずっとこうだった。一体、何が変わるのか。この最大限の愛を見せる聖子は、告白前も告白後も変わらない。きっと、朱莉から告白しても。
 
 そして、その日は終わる。下校して、お風呂に入って、ご飯を食べて、ベッドの上で情けなくうずくまる。
 朱莉はラインを開いた。
『宮藤聖子がメッセージの送信を取り消しました』
 既読をつけることも、消すこともできないシステムメッセージ。けれど、その裏にある一文を明確に覚えている。
 朱莉は思う。どうして彼女は、一時間で消してしまったのだろうか。
 それはきっと、聖子もまた、この関係を終わらせたくなかったからだ。もしかしたら恋人になれるかもという甘酸っぱさと、関係が終わってしまうかも知れないという恐怖の狭間で、彼女は一時間しか覚悟を持ち続けることが出来なかった。
 それに、だ。親友から恋人に変わって、一体何が変わるのか。幼馴染と恋人では何が違うのか。今で満足しているなら、今のままで良いんじゃないのか。
 恋人じゃなくても、一生を添い遂げるなら、それで。
 二人はお互いに前哨戦をし続ける。本戦には至らない。たった一度合ったそれは、僅か一時間で休戦した。
 前哨には、前哨陣地がいる。それは主要陣地の前に張り、敵の情報収集や警戒をする警戒部隊の為の陣地だ。なので通常、彼らはある程度抵抗したら退却する。だからこそ、陣地と呼んでいるのだ。
 けれど、二人は違う。そこにあるのは恒久的な貯水槽であり、それは永久に沸騰し続ける。なので陣地ではなく、基地と呼ぶべきだ。
 前哨基地は互いに強固で、陥落は容易ではない。その唯一のチャンスは、つい昨日潰えてしまった。
 だからこそ、朱莉は前哨戦を続けるしかない。聖子ですら一時間しか持たなかった、あの告白の締め付けるような感覚を、今の自分が耐えられる気がしない。
 そんな臆病な弾丸が、一体どこに届くというのか。
 前哨戦は終わらない。それを終わらせるには、火力が余りにも足りなさ過ぎる。
 薪を焚べよ。弾丸を込めろ。失恋にはまだ早い。
 
 

6/3/2023, 3:40:15 PM