なっく

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[お題:世界の終わりに君と]
[タイトル:爪楊枝じゃ広辞苑に敵わない]

「この線を越えると、世界が終わるから気をつけてね」
 青木宇海は公園内に落ちていた木の棒で地面に一本の線を書くと、微笑んでいるようにも、怒っているようにも見える微妙な表情で言った。
 表情を上手く読み取れないのは、きっと逆光のせいもある。今は夕暮れ時で、太陽と宇海と乙坂創は一直線に並んでいた。
「分かった」
 創はそれだけ答えて目を閉じた。
 そして耳を澄まして合図を待つ。
 鳥の囀り、木々の揺れ、道路を行き交う車。様々な音の中で、創が待っていた音は中々来ない。
「おーい、早くしてくれ」
 創は宇海を急かす。創はこれをさっさと終わらせたがっていた。世界を、なんて壮大で誇大な話では無く、宇海の持ち寄ったこのゲームを、だ。

 小学生の放課後と言えば、クラスの奴らはもっぱらスマホにゲームなのだが、残念な事に創にはまだそれらは与えられていなかった。
『若いうちから楽をすればバカになる』とは父親の言だ。それを聞くたびに創は、一人きりでマラソンをする姿を思い浮かべる。自分以外の全員がタクシーを使っているのに、一人で歩いて、最下位で、それで何が身につくと言うのだろうか。
 勿論、この不満を直接ぶつけることも多々あったが、父親の頑とした態度は一度として崩れたことはない。
 そのうち、創もスマホの話題を出す事は無くなった。けれどそれは、父親の言葉を受け入れたわけでも、心が折れてしまったわけでもない。創は見つけたのだ、自分以外のスマホを持っていないクラスメートを。自らの足で命を燃やすマラソンランナーを。

「よーい、ドン」
 宇海の声は、先程よりもずっと近くで聞こえた。それは距離感を狂わす為の策で、宇海の常套手段だ。
 線を越えれば世界が終わる──なんて言っているが、結局のところ、これはただのチキンレースだ。スマホを持たない子供達が考え抜いたお遊びに過ぎない。幸か不幸か、スマホに夢中な昨今の子供達のお陰で公園は広々と使えた。野球もサッカーも出来ない昨今の公園事情もあったのだろう。出来上がった空白の公園では、目を瞑って歩いても支障はなかった。
 とはいえ、安全過ぎてもつまらないので『世界の終わり』なんて言葉だけでも盛り上げようとしているのだ。宇海はそういう、大きな事が好きなタチだ。プールよりも海が好きで、手持ち花火よりも打ち上げ花火が好き。
 ある日、宇海は言った。
「私は爪楊枝より広辞苑が好きだよ」
 今にして思えば、これほど宇海を表すのに最適な言葉は他にない。
 百科事典棒という概念がある。文字を数字に置き換えて(A=01、B=02、C=・・・・・・)、百科事典の文書を全て数字にする。それを連ねて、頭に『0.』を付ければ0〜1までの範囲の長い小数点以下の数字ができる。それは爪楊枝の先端から一センチの間に必ずあるので、そこにぴたりと合う場所を精巧な技術によって一本の傷をつける。すると、爪楊枝は百科事典と同じだけの情報を持てる。勿論、百科事典で無くとも、あらゆる文章を爪楊枝に込めることが可能だ。『アルジャーノンに花束を』も、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』も。
 ところで、そんな風に精巧な傷をつける技術は無いので、百科事典棒はあくまでも理論上の話になる。だからって、それよりも広辞苑が好きと言う宇海の言葉が、百科事典棒へのバカバカしさを意味するものでは決して無い。
「広辞苑の持つ情報は文書だけじゃないよ。紙の薄さ、破れにくさ、色、匂い、重さ、ページを捲る時に感じるクオリア。どれを取っても爪楊枝には無いからね」
 さっき百科事典棒について悠々と語った口で彼女は言う。
 だから、爪楊枝にどれだけ完璧に傷をつけられたとしても、広辞苑の方が大きいのだと。
 けれど、だ。創はそんな彼女の語り口を聞いて思った。それならスマートフォンの方が大きいんじゃないだろうか。

 創が緩慢に歩き出して一分ほど。危険な障害物はないとはいえ、目を瞑って歩くのにはそれなりに勇気がいる。さらに言えばこれはチキンレースで、一歩でも線の外に出たら終わりだ。ともすれば、慎重にならざるを得ないというもの。
「ふふっ、腰ひけてるよー!」
 宇海が笑いながら揶揄う。
 声の場所から察するに、彼女がいる位置は線とはかなり離れている。何せ角度が違うのだ。僅かに感じる夕陽の光を頼りにすれば、角度だけは分かる。
 後はもう、勘任せで止まるしかない。
 一歩ずつ確実に進む。しかし世界を終わらせないように。
 吹き抜けた風が産毛を揺らす。住宅街じゃあまり感じられない自然の匂いが香る。爪楊枝では表せない情報の洪水に飲まれながら足を踏み出す。足の裏に地面と小石の感覚がある。靴越しでもきちんと分かるのが不思議だ。
「ここ──ここだ」
 創はついに立ち止まった。
 目蓋を開けると、目の前には宇海がいた。いつの間に移動したのだろう。後ろ手に組んで前屈みになっている。目の奥を覗くように、下から見上げていた。
「残念、世界は終わらなかったね」
 創はそれを聞いてようやく気づいた。ちょうど宇海と自分との間に線がある。世界の終わりの線が。
「ほんとう、危なかった。ギリギリ世界が終わらなくてよかったよ」
 創がそう答えると、宇海は困ったように笑うので、思わず口を開いた。
「宇海は世界が終わって欲しいの?」
「うーん。どっちでもいいかな。世界が終わっても宇宙があるなら別に」
 なるほど、やはり宇海はスケールが大きい。
「それに、世界はもう終わってるよ」
「え?」
 すると宇海は創の手を握った。ぐいと引っ張って、創を線の外側に連れ去る。
 かくして、世界は終わった。
 風の匂い、鳥の囀り、夕陽の暖かさ、樹々のざわめき。
 どれを取っても何も変わらないけれど、確かに世界は終わっていた。
「ねぇ、知ってる? スマホは世界と繋がる事が出来るらしいよ。だから、スマホを持たない私達の世界は終わってるの」
 そしてそんな事を言ってのける。どうやら、線を越えたから、というわけではないらしい。
「そういう意味なら、僕も世界が終わってもいいかな」
 少し頬を赤くして創は言う。夕陽の赤だと誤魔化すには、態度が忙しなさすぎる!
 
 創は思う。いずれ自分も宇海もスマホを持つだろう。中学生か、あるいは高校生で。スマホには世界が入っている。爪楊枝に百科事典を刻まなくても、百科事典はスマホに入っている。
 宇海はそれでも広辞苑を開くだろう。何の気なしに世界を終わらせて、自分の五感で世界を旅するのだ。
 さて、その時に創は、一体どうするだろうか。

 家に帰った創はその日の夜、父親に頼み込んだ。
「スマホはいいから、広辞苑を買って欲しい」

6/8/2023, 2:45:04 AM