なっく

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[タイトル:春に白いカーディガンを着たい]
[お題:夜明け前]

 私の春が終わったのは、三月のことだ。

 当時、高校三年生。第二志望の私立大学に合格し、第一志望不合格の悔しさもようやく薄れていた頃。
 進学先は地方から地方への移動ではあったが、それでも初めての一人暮らしの始まりに変わりない。その事に胸を高鳴らせつつ、何かを忘れるために田んぼ道を征く。
 その何かが何だったのか、今となっては思い出せない。私は見事に忘れることに成功していた。
 白み出す前の空。消え去る前に、精一杯に輝く星の灯り。
 夜明け前のこの時間に、外を歩くのが私の趣味だ。
 大学受験のストレス。同級生のあの子のムカつく陰口。面倒くさい親の小言。うざいだけの親戚の集まり。
 そうした日々の暗雲が、この田んぼ道を歩いているだけで陽炎のように揺らぐ。気がする。私の胸の奥底に沈んで、そこにある粉砕機にかけられて粉々になった上で、さらに奥にある無意識の海に不法投棄されている。気がする。
 気がするだけだ。けれどこんな風に妄想をして、それで気が晴れるのだから、割のいい趣味だと思う。無料だし。ただ、カラオケで三時間、学生料金七〇〇円の田舎で、無料がストレス発散のセールスポイントになるのかは分からない。

 春に指先がかかったようなこの時期はまだ肌寒く、私は防寒のために赤いカーディガンを着ている。
 このカーディガンは、母が誕生日にプレゼントしてくれたもので、物持ちがよく、中学二年生に貰ってから未だに使っている。ただクラスメイトには、ずっと同じものをちみちみ使っている女だと思われたくないので、こうして誰とも出会わない時間にしか着ないことにしている。
 思えば、この趣味を始めた当初から、カーディガンは使っていた。もちろん、寒過ぎず、暑過ぎずな、春先と晩秋だけ。それでも、このカーディガンには、死線を共に潜り抜けた戦友のような、不思議な信頼感があった。
 実際、二度ほど死線があった。
 例えば、この趣味が父親に見つかった時。カラッとした快晴の夏空に雷が降ったのを覚えている。
 そんな暗い時間に、何かあったらどうするんだ! 
 私を想ってのことなんだと、今は理解できる。けれど当時の私にはこの趣味が全てで、酷く父親に反抗した挙句に、家を飛び出した。誰にも言わなかったが、実は学校でいじめられていて、気を紛らわす唯一の手段が、夜明け前の散歩だったのだ。だから、正しく死線だった。子供心特有の、死か散歩かの二元論に陥っていた。けれども、この通り、私は赤いカーディガンと共にこの死線を乗り越え──
 いや、この死線は夏の出来事なので、赤いカーディガンは関係無かった。私は半袖半ズボンにサンダルで父親から逃げていたはずだ。私とカーディガンのハリウッドばりのミリタリーアクションは、去年の十一月に起きた。
 人生で初めて、助けて! と、叫んだ。
 私に抱きついてきたのは、近所でよく見かける爺さんだ。普段は優しそうな雰囲気を纏っており、子供たちからは名前をもじって『トト爺』と呼ばれていた。
 トト爺は頬どころか、全身が紅潮しているように見えた。アルコールの匂いが鼻をつき、よく見ると、よれた白いシャツには吐瀉物の滓がついているようだった。
 父親の言葉を思い出して、後悔を滲ませる。誰もが知り合いの田舎で、こんなことが起きるなんて思いもしなかった。
 力では敵わず、もう一度叫ぶ。
 すると、途端に背にのしかかっていた重量が消えた。
 弱々しく前に倒れながら、振り向くと、そこにはトト爺と、彼が抱きつく赤いカーディガンがあった。私はカーディガンを身代わりにして抜け出たのだと、ようやく気づいた。
 今しかない。そう思って走り出した。追いかける足音が、徐々に遠のくのを聞きながら、私は赤いカーディガンに別れを告げ──
 そうだ。あの時、トト爺の手に渡った赤いカーディガンは後日戻ってきたが、不快感が優って捨てたのだ。つまり、今着ている赤いカーディガンとは別物で、この死線も越えていない。
 何が戦友だ。
 私はカーディガンに向かって悪態をつく。
 死線なんて一つも越えていないじゃないか。
 
 そんな記憶と妄想の狭間に耽るうちに、夜明けが訪れ始めた。東の空を日光が、淡いオレンジ色に染めていく。
 そんな空を見ていると、ふと、首筋がほのかに汗ばんでいるのに気がついた。私はカーディガンを脱いだ。
 もうすぐ、春だな。なんてことを思う。暦の上では既に春の只中だ。過去の日本人には、私の思慮はきっと笑われてしまうだろう。
 春は出会いと別れの季節という。出会いだけなら、大学に入学する四月だけで十分だが、別れもとなると、高校を卒業する三月も含めるべきだろう。なるほど、過去の日本人は、中々にらしいことを言う。
 それでも、私は三月を春とは認めない。私に別れなんて必要ないからだ。当然、別れるためには出会う必要がある。道端ですれ違っただけの人間を、出会ったとは言わないように、私はこれまでの人生で関わった人間と、出会ったとは思わない。
 
「すみません。少しいいですか」
 当然話しかけられて、私は声のした方を振り向いた。  
 駐在さんだ。こんな朝早くから、ご苦労なことだ。
「何ですか?」
 労いの意味を込めて笑顔を作る。今までも、この早朝徘徊を大人に注意されることはあったが、駐在さんにあったのは初めてだ。
「外岡俊樹さん、知ってますか?」
 トのおかトしき、トト爺のことだ。
「はい。知ってますよ」
「いやー、そうですか。実はね、外岡さんがいなくなっちゃって。ほら、老人徘徊っていうんですかね。それで、今探してるんですけど。何か知ってますかね?」
 私の脳内で、一瞬、暗い海に波紋が揺れる様子が立ち上がる。けれどすぐに霧散して、目の前に困ったように頬を掻く駐在さんが戻ってきた。
「ごめんなさい。知りません」
 それを聞いた駐在さんは、明らかに気を落とした様子で「そうですか」と言うと、まだ暗い西の方へ消えていった。
「そっちにはいませんよ」
 小声でそう言うと、自供は春の空気に消えた。
 
 私は何を忘れていたのだろう。
 私はトラウマなのに、どうして『赤い』カーディガンを再び使っているのだろう。
 粉砕機は何を粉砕したのだろう。何が海に不法投棄されたのだろう。
 
 例えばこの先、何らかの理由で私の大学進学が無かったことになるのなら。もっと言うと、どこかに拘束されて、誰にも出会うことができなくなるのなら。
 いや、きっとそうなる。昔の日本じゃないのだから。現代の日本は、それを統治する警察は、きっと優秀だから。
 だとしたら、別れの季節だけが私に残る。私の春は三月に終わる。

 ああ、でもやっぱり、三月は春じゃない。認めるのが怖くて、私はまた歩き出す。忘れるために、夜明けを目指して歩き出す。
 まだ夜明け前だ。夜明けを目指す限りは、夜明け前なんだ。
 

9/13/2023, 8:25:52 PM