[お題:月に願いを]
[タイトル:月の裏に宇宙人がいると君だけが知っている]
「つまりだよ。月の裏側には宇宙人がいるのだよ」
オカルト雑誌を机に広げながら、檀深月は尊大に両手を広げて言う。大きめのニットキャップについたポンポンが揺れている。
ここ普通のファミレスだから、あんまりそういうのはやめてほしい。なんて言えないのは、深月のその性格を知っていながら、ファミレスを選んだのが國村夏津だからだ。
「NASAは意図的に真実を隠してるんだ。実際、中国の探査では宇宙人の小屋が見つかってるしね」
深月はさらに話を続ける。月の裏側が見えないのには理由があると。それは月の自転と公転が同じ周期であるからなのだが、偶然にしては出来過ぎているのだと。きっと、超技術を持つ宇宙人が人類に見つからないよう拠点を作るために細工をしたのだと。
深月は楽しげに話す。これが証拠だと言って差し出すのは読むのも難しい論文ではなく、ネットに転がる記事と、登録者一万人のYoutuberの動画と、怪しげな雑誌だ。
「ね、夏津もそう思うでしょ?」
オレンジジュースをストローで飲む夏津に、深月は食い気味に尋ねる。笑顔で、目を輝かせて。
「うん。深月は正しいよ」
だから夏津も笑顔で言う。ちゃんと笑顔を作れているだろうか。営業部の椎名さんに今度やり方を聞いてみよう。あの人の笑顔も中々に素敵だ。
「だよね! やっぱ夏津だなー! ほんと祐樹はあり得ない!」
祐樹とは、深月の元カレである早峰祐樹のことだ。なんでも、一ヶ月前に別れたらしい。
「あんまり元カレのこと喋るもんじゃないよ。ここファミレスだし」
そう言われた深月は、ハッとして手で口元を押さえる。そして僅かに目をキョロキョロとさせると、囁くような声で言った。
「祐樹ほんと最悪」
「小声ならオーケーって訳でもないよ」
そう指摘されて、深月はケラケラと笑う。ちゃんと冗談のつもりだったらしい。安心して夏津も笑う。ほんと、冗談で良かったと思う。
「時間、大丈夫なの?」
「えっ、あーほんとだ。そろそろ出よっかな」
深月はいそいそと広げた資料をかき集める。そして少し古くなったリュックに詰めて席を立った。
「私も行くよ。ここ奢るね。お金、ないんでしょ?」
「うぉー! さすが社会人! 金持ち!」
深月はそう言って、夏津の手を取る。
「金持ちではないよ」
本当に金持ちなんかではない。二十五歳、社会人としての当然にある貯金から、ミラノ風パスタとドリンクバーの代金を追加で出すだけなのだ。金持ちなら、もっと高いのを奢れるだろう。とはいえ、二十五歳のフリーターにとっては、これだけでも十分ありがたいものなのかもしれない。
「頑張ってね、深月」
ファミレスを出て目的地に向かう深月の背に声をかける。
「うん、ありがとう。絶対、人類を救ってみせるから!」
そして深月は手を振って戦地へと赴いた。そう、深月は人類を救うために戦っているのだ。向かう先は、国会だ。
一月、雪の降る季節。天気予報じゃ今日の夕方から降るらしい。そんな一月に行われる国会でのイベントといえば、予算委員会だ。
「・・・・・・ほんと、なんでこうなっちゃったんだろ」
夏津は思う。どうして好きな人の背中をこんな哀れみの感情で見なくてはならないのか。
街行く人の誰が気付けるだろうか。あの頭のニットキャップの内側にはアルミホイルが入っているのだと。彼女の向かう先は国会で、その眼前で仲間たちとプラカードを持って対宇宙人予算を作れと叫ぶのだと。
夏津はそんな人を好きになった。けれど大学で出会った当初はどちらも違った。夏津は深月を友達だと思っていたし、深月は宇宙人なんていないと思っていた。夏津が自身の感情に気づいたのは、紛れもなく深月が頭にアルミホイルを巻き出してからだ。
「戻りましたー、ってあれ?」
「あぁ、お帰り國村さん」
そう言ったのは、同じ事務部で同期の安住すみれだ。すみれは無類の噂好きであり、ゴシップ好きである。よく夏津に社内の色々なあれこれを仕込んでいる。
人事部の部長が不倫してるとか。営業部に最近入ったイケメンが二股してたとか。そんなロクでもないことばかりだ。
「ただいま。って、えと、椎名さん?」
「あ、お邪魔してます。お久しぶりです、國村さん」
そんなすみれの隣には珍しい人がいた。営業部の椎名八重だ。彼女もまた同期なのだが、部が違うのでそこまで接点はない。少なくとも、夏津は仕事以外で二人が話しているのを初めて見た。
「お久しぶりです。どうしたんですか? こんなところで」
「こんなところってことはないでしょ」
すみれはそう言って乾いた笑みを浮かべる。営業部と事務部。どちらが上ってことはないのだろうけど、やはり事務部からしてみれば、営業部の熱は凄まじい。とてもじゃないが自分ではできる気がしないと、夏津は思う。
「ちょっとお話してたんですよ。まあ、お話というか、その・・・・・・」
「うん。問い詰めてた。いやさ、中々認めないんだよね。ガード硬過ぎ!」
「いやいや、ほんとに違いますから」
「えと、なんの話?」
すみれは、よくぞ聞いてくれた! みたいな顔をした。
「いやね、椎名さん。実はアイドルと付き合ってるっぽいんだよね」
「アイドル?」
「本当に違いますから・・・・・・」
そう言って八重は否定のジェスチャーをする。その顔は困ったように苦笑いを浮かべている。しかし、その顔にはどこか、嬉しさが滲んでいるような気もする。なんというか、満更でもないという感じで。
なるほど、これはすみれが問い詰めたくなるのも分かる気がする。さらに相手がアイドルとなれば、尚更かもしれない。
「でも私見たんですよー? AMUSEの宇都美葵とご飯屋さんから出てくるの」
AMUSEといえば最近SNSで密かに話題になっている男性アイドルだ。当の宇都美葵は笑顔の似合う白い歯が特徴的で、そこそこの人気を博している。
「さっきも言いましたけど、高校の同級生だってだけですよ」
「でも二人きりだったんでしょ?」
「・・・・・・まぁ」
「ほらぁー!」
すみれはそら見たことかと言わんばかりに声を上げる。他の社員たちに聞こえてしまわないかとハラハラしてしまうが、彼らは無反応だ。
きっとこの押し問答を延々と続けていたのだろう。もうすぐ昼休憩も終わるというのに、周りの人達が机の上のあれこれを片付ける気配がない。この会社の事務職は女性が多く、皆ゴシップ好きである。
「まあまあ安住さん。もう休憩終わるし、それぐらいにしときましょうよ」
「うーん。そうね、続きは終わってからにしましょうか。ご飯行きましょうよ、椎名さん。もちろん國村さんも」
まあ、悪くはないと夏津は思う。どうせ、深月は仲間たちと打ち上げをするだろう。いつものことなので、流石に覚えてしまった。
しかし八重の反応は悪い。いやーちょっと、と気まずそうにしている。
「すみません、ちょっと今日は用事があって・・・・・・」
「まさか、例の彼と?」
「・・・・・・まぁ」
「ほらぁー!」
いよいよ昼休憩も終わりに差し掛かり、八重は営業部に戻っていった。帰りがけに「また今度、ご飯行きましょう!」と言っていたので、もしかしたら今後仲良くなれるかも知れない。
「でさ、國村さんはぶっちゃけどう思う?」
「何がですか?」
「椎名さん、付き合ってると思う?」
そう言われても、夏津にはほとんど情報がない。椎名八重とはまださほど話したことがなく、宇都美葵に至っては会ったことすらない。
しかし、今の会話だけで推測できることもある。
「まだ付き合ってないけど、椎名さんは結構気があるみたいな」
「そう! 私もそう思う。見た感じ、半分付き合ってる感じというか、両方その気はあるけど踏み出せないみたいな感じだと思うんだよね。彼がアイドルだから足踏みしてるのかなって感じ」
なるほど。さすがはゴシップ好きのすみれだ。素晴らしい分析力だと夏津は思う。しかし夏津には気になるところが一つあった。
「そういえば二人が一緒にいるの見たって言ってたけど『見た感じ』ってことは男女一緒にご飯ってだけじゃ確定じゃないんだ?」
「そうね。ま、黒寄りの白! かな? 私もたまに男友達とご飯くらい行くし」
「なるほど」
なるほど、と言っておく。実のところ夏津の頭は『黒寄りの白』に支配されていた。その言葉を頭の中で何度も繰り返していると、すみれが声をかけてきた。
「ところでどうする? ご飯、二人だけでも行く?」
「え? あー・・・・・・」
『黒寄りの白』
男女二人きりの食事に色恋の文脈が全くない訳じゃない。もちろん、それは客観の話であって、当の本人たちはなんの気なしに楽しく食事している事もあるのだろう。
女と女ならどうだろうか。男と男なら? すると突然に話は主観に切り替わる。本人たちにその気があるなら、そう。ない、なら、ない。男女ではきっぱりそう思えないのは、恋愛とは切っても切り離せない種と性の問題があるからだと夏津は思う。
けれど同性愛というのはその実、動物界でも珍しいものではない。子孫を残せるメスに目もくれず、オスと一生を共にするゲイのペンギンがいる。アフリカゾウだって同性で鼻を絡めてキスをする。
そう思うと、種と性に思考を支配された人間の方が、動物よりもよっぽど動物的だ。例えば男性アイドルが一人の女性とご飯なんて、タブー中のタブーであるように。
しかしそれにも実のところ段階がある。
アイドル界隈には男女問わずに『ガチ恋営業』なるものがある。それはわざと異性のファンに自分を好きになるような行動をする事だ。ボディタッチを多くしたり、より個人的な話をしたり。そうして自分に恋させることで、よりファンを依存させるのだ。その先に何があるかは推して知るべしと言ったところ。
恋する彼らにとって見れば、異性との一対一のご飯は完全アウトだ。逆に言えば、ガチ恋営業をしていなければ、アイドルであっても比較的暖かく迎えられる。あくまで比較的だが。
つまり、ガチ恋してる人にとって『黒寄りの白』は黒だ。
じゃあ夏津にとっては? 夏津は自分自身に問いかける。深月を好きになった自分にとって、同性であるすみれとご飯に行くことは黒か、白か。
「ごめんなさい安住さん。さっき外食したし、今日はなしでお願い」
「あー、分かった、分かった」
二度繰り返すすみれは、少しニヤついている。夏津は思う。きっと自分は、さっきの八重と同じような顔をしている。その気はあるけど、踏み出せない。そんな意気地なしの女の顔。その癖、付き合ってないのに付き合ったつもりの、そんな嫌な顔だ。
就業後、今日は残業が少なく、夏津はまだ明るいうちに街に出ることができた。
今からなら、まだ深月が活動しているところを見られるかもしれない。
実のところ、夏津はまだ深月の抗議活動を直接見たことは無かった。Twitterの『ヤバいやついる』のツイートに添付された写真の端っこで、プラカードを持つ深月を見つけた時だけだ。
まだやっているかは五分五分だ。でもそんなこと関係ないと、夏津は国会を目指した。相手の仕事終わりに連絡なしで待ち合わせたい、そんな乙女心が原動力である。
国会前に訪れると、既に活動家たちは撤収作業をしている途中だった。大きなプラカードをいくつも白いバンに閉まっている。
けれどその中に、深月の姿は見えない。どこに行ったのだろうと思い、彼らのうちの一人に声をかける。帽子を目深に被った大学生くらいの男だ。
「すみません。ちょっといいですか?」
「・・・・・・はい? なんでしょうか」
男は怪訝な表情を浮かべている。
「えと、檀深月を知りませんか? 私、深月の、その・・・・・・友達、で」
「あぁ! 檀さんの。檀さんならそちらにいますよ。ちょっと、まあ、今トラブルになってるので、後から向かった方がいいかもしれませんが」
そう言われて、彼が指す方を見ると、確かにそこには深月がいた。バンからかなり離れた木の下で、何やら誰かと話している。
「ありがとうございます」
それだけ言って、夏津は木に向かう。近づくにつれて、深月が話している相手の顔が鮮明に見えてくる。そして、その顔を完璧に認めた時、夏津は足を止めた。夏津にとっては時間が止まったような感覚だった。
「早峰、祐樹・・・・・・?」
小声で、その名前を呟く。深月が話しているのは、彼女の元カレの早峰祐樹だ。
「だから、なんで分かんないんだよ!」
祐樹のその怒声に、ようやく夏津の時間が動き出す。夏津は身体の動くままに、近くの木に隠れた。
「分かってるよ。大丈夫、祐樹のそれは思考誘因装置によるものなんだよ。宇宙人の技術は理解し難いと思うけど、扱うものはただの電磁波だって知ってれば、アルミホイルひとつで防げる程度のものなんだよ」
「っ、だからぁ!」
祐樹は声を荒げる。めちゃくちゃなことを言っているのは深月の方なのに、余裕を無くしているのは祐樹の方だ。
「だから、なに? いいよ、宇宙人さん。言いたいことがあるなら言いなよ。私は負けないから」
もう深月は、目の前の祐樹を早峰祐樹として認識していなかった。そこにいるのは早峰祐樹という端末を使って人類と話す宇宙人である。
祐樹ももう、何度も言われて慣れたのだろう。それをいちいち訂正せずに、彼女に攻撃を仕掛ける。
「中国は宇宙人の小屋なんて見つけてない。あれは隕石の衝突でできた、ただの岩石だ。それをジョークで言い始めたのが広まっただけだ」
「中国が小屋を否定し始めたのは、随分と遅れてからだよ。中国はアメリカに追いつこうと必死だから、宇宙人に媚びを売ってるんだ」
目眩がする。横で盗み聞きしてるだけなのに。それでも祐樹は必死に否定する。きっと、それが祐樹の愛なのだ。夏津には分かる。明後日を向く愛する人に、きちんと今日を向いて欲しいのだ。その気持ちは、心臓が張り裂けそうなほど分かる。
「中国が宇宙人と繋がってる訳がない。宇宙人がいる証拠なんか誰も、どの国も、どの機関も持ってない。グレイを連れた局員の写真はエイプリルフールのフェイク写真だ。UFO写真のほとんどはゴミと光で説明できる。宇宙人がいる証拠なんて何処にもない」
「それならどうして各国は次々と宇宙軍を設立したの? それこそ本当は宇宙人を見つけている証拠だよ」
「宇宙軍の設立目的は宇宙空間の衛星兵器への対策だ。決して宇宙人対策じゃない」
「そんなの建前に決まってる。宇宙人の存在を隠すために言ってるだけ」
「隠す意味がない」
どちらも引く様子はない。祐樹が具体例を挙げ、深月が空論で返す。その二人のやり取りを夏津は羨ましく感じた。
祐樹が深月の言葉にすぐに返せるのは、それだけ調べてきたからだろう。彼女の宇宙軍を打ち砕けるほどの、焼夷弾にも似た情報の群れを祐樹は従えている。先に知っていなければ、調べることすらできない。それはつまり、彼らが何度もその話題を話し合ったということだ。夏津の知らない場所で、夏津の知らない時間で。
その口論の情報の渦こそが、二人の築き上げた時間の重厚さの証だった。
羨ましいと、素直に思う。妬ましいと、そう思う。これは黒寄りの白なんかじゃない。明確な、宇宙よりも暗い漆黒だ。
夏津は深月にガチ恋している。同性ゆえのボディタッチが、同性ゆえの個人的な話が、夏津を深月に沼らせる。
けれどガチ恋は百パーセント報われない。好きな人と結婚できるステージにファンはいない。アイドルが結婚するのは同業者か同級生かマネージャーだ。
ガチ恋は報われない。報われないと知っていて、だけど絶対に抜け出せない。それは恋よりも虚しくて尊いと、夏津は思う。
だから夏津は飛び出した。二人のいる場所に行く。
「あっ、夏津!」
先に気づいたのは深月だった。深月は大型犬みたいに擦り寄って、夏津の手を取る。ボディタッチに心臓が跳ねる。
「助けて、夏津。祐樹が宇宙人に脳みそ支配されてる」
「うん、うん。大丈夫だからね、深月」
「あんた、確か・・・・・・」
どうやら、祐樹は一度しか会っていないのに覚えているようだ。そういうところがモテるんだろうなと、夏津は思う。
「深月の友達の、國村夏津です」
「あぁ、そうだ、あんただ。あんたは・・・・・・まともそうだ」
祐樹は夏津の頭を見ていう。深月やその仲間たちは、思考誘因装置の影響を防ぐために、皆アルミホイル入りの帽子を被っている。軽くヘアゴムで縛っているだけの夏津は、分かりやすく彼らと違う。
祐樹は縋るように言う。
「あんたの方からも言ってくれ、もういい歳して何してんだって」
二十五歳。確かにいい歳だ。結婚するには、身を固めるには良い歳だ。
「深月が正しい」
「え?」
夏津の返答に、祐樹は呆気に取られている。獣を見るような表情で、夏津を見る。
「深月が正しい。あなたは宇宙人に脳をやられている」
その言葉に深月は目を輝かせる。対して、祐樹は侮蔑の表情を浮かべた。
ガチ恋は報われない。報われないけれど、真剣に愛している。だから、皆んな好きな人の全てを肯定する。他に武器がないから、肯定することでしか愛を表せない。同級生にはなれない。マネージャーにはなれない。報われない百パーセントに、計算ミスがあると信じずにはいられない。
「じゃあ、二人で馬鹿みたいに騒いでろよ。それで人生棒に振ってろ。もう二度と関わらない」
祐樹はそう吐き捨てて、どこかへと消えた。
夏津は深月と祐樹の馴れ初めを知らない。どうして深月がこうして反宇宙人活動家になったのか、どうして祐樹がそこまでそれを嫌悪するのか。夏津は何も知らない。きっと、二人の間で何かあったのだろうと推測して、それ以上は心に毒だと蓋をする。夏津は今の深月しか見ない。
深月は宇宙人の手先を退けた夏津を羨望の眼差しで見ている。
「すごい! すごい! さすが夏津!」
そうして深月は夏津に抱きついた。
「大丈夫、大丈夫だよ。深月。私は絶対にあなたの味方だから」
その後、夏津は深月に連れられて、彼女の仲間の打ち上げに参加した。相変わらず、彼らの会話は意味不明で、まるで宇宙人と会話しているようだった。けれど夏津の返答にノーは無い。全てを肯定したその先に、本当のゴールがあると信じている。それは決して結婚では無い。ゲイのペンギンは結婚なんてしてない。アフリカゾウは永遠を誓わない。ただ漠然と、深月に恋する自分を夢見ている。
その日の夜、夏津は夢を見た。各国の宇宙軍が月の裏側を軍事侵略する夢だ。
焼夷弾が降り注いで月のクレーターが増える。黒焦げのグレイの死体が宇宙空間を彷徨っている。中国人が何人かの宇宙人を船に乗せて逃す。アメリカ人が徹底的にと、核を降らせと叫ぶ。
その辺りで夏津は飛び起きた。まだ夜中の二時だ。月はよく見えない。分厚い雪雲に塞がれている。
夏津は月に願う。お願いだからその裏側を見せないで。さもなければ、いっそ壊れて。うさぎもカニも見えないほどグズグズに壊れて、月光なんて輝かないほど徹底的に朽ち果てて。
その時になって、ようやく夏津はその恋を終わらせられるのだ。
[お題:いつまでも降り止まない、雨]
[タイトル:赤い傘の少女]
雨粒の形といえば、上が尖って下が丸い、いわゆる雫型を想像してしまう。けれどそれが間違いであると、この中学校の中で唯一、宇井晴翔だけが知っていた。
晴翔が窓の外を見たのはごくごく平凡な理由である。
端的に言って、授業に飽きたのだ。
教師の説明は一切合切全部同じに聞こえてくるし、言葉の意味は全く取れない。完全に集中が切れたのだ。雨音のせいも少しはあるかもしれない。
そうなると必然的に黒板から目を逸らしたくなるものである。窓際の席というのも都合が良かった。こんな風にして晴翔は外を見た。そこに映る、梅雨空を。
「えっ」
幾千、幾万の雨粒たちを前にそんな間抜けな声を上げてしまう。
窓の外では雨粒が空中に縫い付けられていた。どれ一つとして落ちることなく、空中に留まっている。ふと気づけば、黒板を打つチョークの音も聞こえなくなっている。教室を見渡すと誰一人としてシャーペンを動かしていない。全く動く気配の無い友人の長谷部文彦は、少し気味が悪く、また少し面白い。
晴翔は結論づけた。時間が止まったんだ!
晴翔は窓を開けて雨粒のうちの一つを掴んだ。不思議なことに(既に不思議なことしか起きていないのだけれど)雨粒は形を崩さずに指の上に乗った。全く、濡れているという感じがしない。晴翔は何となく、宇宙飛行士が水を飲む時に、水の玉がフワフワと浮いていたことを思い出した。
けれど雨粒の形は、玉でも雫でも無い。その形は下側が凹んだ饅頭のようであった。
晴翔はそれを確認すると満足して、雨粒を教室の中に放り投げた。それは直線的に動くと、壁や人に当たって向きを変え、しばらくするとまた空中に止まった。
それは晴翔の心の深い部分を刺激する。これは雨粒の量を増やせば、もっとすごい動きをするんじゃないか?
かくして、晴翔はまた窓と向き直る。いそいそと、手のひらから溢れんばかりの雨粒をかき集めていく。
その時、ふと視界の下側に、何かが動く影を認めた。
「・・・・・・あれって、傘?」
グラウンドを囲う金網の外を悠々と歩く、赤い傘を差した人影があった。
自分の他にも、この時が止まった世界を動ける人がいる。
そう気づいた晴翔は、急いで教室を飛び出した。階段を降りて、一目散に昇降口を目指す。
追いついてどうするのかは決めていない。ただ晴翔は思う。きっと、こんな出会いは他に類を見ない。何よりも劇的で、何よりもロマンティックだ。とにかく、この出会いは一生モノの奇跡体験になる。そんな予感がする。
全てが止まったグラウンドを足早に駆ける。身体に当たる雨粒が、ピンポン玉みたいに次々と飛んでいく。一度動いた雨粒が、また別の雨粒に当たって動いて、そしてまた──。そんな風にして、晴翔を中心として雨粒は限りなく散乱していく。
それは傘の人影も同じだ。既に傘の人影自体は見えなくなったが、どの向きに行ったのかはわかりやすい。家と家の間から、上に向かって次々と散乱する雨粒が見えた。その散乱具合が、学校に近いほど激しく、遠いほど少ない。その少なくなっていったゼロ地点に、傘の人影はいる。
「ねぇ!」
ようやく追いついた時、その日の空は幻想的な輝きを見せていた。二人分の散乱が混ざり合い、鬩ぎ合い、打ち消しあい、かくして作り上げられたそれはまるで、ひっくり返したばかりのスノードームだ。いや、雪ではないので、レインドームだろうか?
晴翔の声を聞いた人影は、驚いた様子で振り返った。
水色の長靴に、黄色い雨ガッパ。長い髪は雨のせいか少しうねっていて、程よくすいた前髪からは大きな茶色の瞳が覗く。年齢は晴翔の少し下か、もしかしたら同じかもしれない。とにかく、傘の人影は、赤い傘がよく似合う可愛らしい女の子だった。
「・・・・・・なに?」
傘の少女は淡白に答える。
「いや、えと、あのさ。すごくない、これ」
晴翔はそう言って、目の前の雨粒を弾いてみせる。トントントンと連鎖して、いくつかが少女の元に届いた。
「全然」
少女は本当につまらなそうにそれだけを答えると、翻って歩き出した。また散乱が始まる。
「えっ、ちょっと待って!」
晴翔は急いで追いかけると、止まらない少女の横を並走した。目線にある傘が少し危ない。
「これさ、一体なんでこうなったのか、分かる?」
「知らない、ついてこないで」
その言葉に一瞬、晴翔の心は折れそうになる。
「でも、他に当てないしさ」
言葉に出した時は、ただ少女に着いていくための方言でしかなかった。しかし冷静に考えてみれば、本当に当てがない。先生も、友人も、皆止まってしまっている。この様子じゃ家に帰っても同じだろう。父も母も、ペットのハスキー犬も。皆止まってしまっている。動かし方は分からない。雨粒がいくら触っても餅型のままだったように、きっと彼らもそのままだ。
「・・・・・・いや、本当に当てないんだよ」
「私には関係ない」
少女は頑なだ。晴翔は半分、泣きそうになっていた。
「・・・・・・お願い、本当に、とにかく止まってよ」
少女は無言で歩き続ける。
「・・・・・・お願い」
目に涙を溜めながら、そのうち晴翔は立ち止まった。先に折れたのは晴翔の方だった。
少女は赤い傘を揺らしながら、立ち尽くす晴翔に知らんぷりで歩き続ける。
その背中を見ていよいよ晴翔は限界に達した。俯きながらスンスンと鼻を鳴らして、瞳からは涙を流す。
「うるさい」
「・・・・・・ぐすっ、うぇ、えっ?」
顔を上げると、少女がこちらを向いて立ち止まっていた。
「うるさいから、もう今日はやめる」
「へ?」
そして、少女は傘を閉じた。それは不思議な閉じ方だった。自分を内側に巻き込むように、傘の先端を上に向けたまま、バサリと閉じた。
次の瞬間、全てが動き出した。
道路に次々と波紋が生まれる。電線が揺れる。雲が動く。鳥が鳴く。雨粒が、重力を思い出す。
そして少女は何処にもいない。
「っ、ど、どこ行ったの? ねぇ! ねぇ!」
しかし返事は何処からも聞こえてこない。雨音だけが鼓膜を震わせている。ずぶ濡れの晴翔は、もはや泣き跡は何処にも見つからない。
「なんだったんだ、ほんと」
呆けて立ち尽くす晴翔を動かしたのは、後ろから来た車の運転手の怒号にも似た注意だった。
その後、晴翔がおとなしく学校に戻ると、そこではちょっとした騒ぎになっていた。騒ぎの元となったのは赤い傘の少女でも、時が止まった事でもない。晴翔の瞬間移動事件である。
「なあ、どうやったんだよ、晴翔」
「だ、か、ら、瞬間移動じゃないんだって」
晴翔は友人の文彦の質問攻めを受けていた。
晴翔が消えた瞬間を見ていたのは、文彦を含めた数人のクラスメイトだけだった。教師にしてみれば、晴翔は目を盗んで勝手に教室を出ていった問題児でしかない。あと少し遅れていたら、授業を止めて何人もの教師が探しに出るところだったらしい。危機一髪である。
そんな教師の焦りと無関係に、より刺激的な噂が一瞬で広まった。それが瞬間移動。特にそれを間近に見ていたクラスメイトや文彦にとって見れば、大興奮の一大スクープ! 義務教育途中の中学生に、これを黙ってろなんて言うのは酷な話である。
とはいえ、事実はもう少しロマンティックであり、もう少し切ない。晴翔の中に残った赤い傘と少女の影は、スティックのりみたいにべったりと張り付いている。
「じゃあ、なんなんだよ」
そして、教師にお叱りを受けた学校の帰り道。文彦は真実を詳らかにしようと奮起している。
「時間が止まった、みたいな」
「みたいな?」
「いや、止まった。本当だって! なんかこう、雨が全部空に張り付けられるみたいにさ」
「ぜんぜんわかんねー!」
文彦は頭の後ろに手を組んでそう言った。
「本当なのに・・・・・・」
「えぇ・・・・・・?」
信じられない、といったその表情に、晴翔は文句をつけたくなる。瞬間移動だってあり得ないだろ。
「あとは、あれ、傘を持った女の子にあった。赤い傘の──」
「・・・・・・まじ?」
言葉を遮って、文彦の驚き声が轟いた。驚き過ぎて、組んだ手も解けている。
「まじだけど」
「えっ、お前知らないの?『赤い傘の女』」
「なにそれ」
そして文彦は語り出す。『赤い傘の女』と呼ばれる都市伝説を。
これはとあるお屋敷暮らしの姫様のお話。
その子は大変見目麗しく、たいそう愛されて育ったそう。なにせ江戸の大名様の長女だそうで。いつもお高い着物をお召しになり、その姿は天女と見紛うほど。しかし姫様は少々、奔放なところがありまして。雨の日に産まれたからか、雨が好きなんです。雨が降るのを見ると、もう一目散に外に出てしまう! お着物も台無し! 屋敷の者に何度注意されてもやめはしません。
そこで、大名様は言います。
「じゃあ、せめて傘を持っておくれ」
姫様はこれを了承しません。なにせ、彼女は雨に打たれるのが好きなので。それでも長く説教されると、渋々傘を持ち歩くようになります。真っ赤な傘を。
そんなある日、街に雨が降りました。大変激しい、川が唸るような大雨です。
「あら、なんて素敵!」
姫様は踊るように外に出ます。赤い傘なんてお屋敷に置いてきぼり。顔から何までずぶ濡れです。
さて、暫く楽しんだあと、ふと屋敷の者の声が聞こえてきます。どうやらこちらに向かってくるよう。姫様はさぞかし困り果てました。濡れていることは誤魔化せそうです。なにせ大雨なので。傘があっても関係ないほどの大雨なので。しかし、肝心の傘がない!
「あぁ、どうしましょう。これでは怒られてしまいます」
嘆いた姫様の前に、一人の女が現れます。赤い傘を差した女です。
女は言います。
「どうでしょう。わたくしの傘、いりませんか?」
女は珍しい物を着ていました。いわゆる、白装束です。
しかし姫様はそんなこと気にしません。それよりも大事なことがあるのです。
「あら、いいのかしら。どうもありがとう」
姫様は女から赤い傘を受け取ります。すると女はニヤリと笑って、言います。
「次はあなたの番」
なにがなにやら、姫様はわかりません。ただ女は歩いてどこかに消えてしまいました。
けれども姫様は間に合いました。屋敷の者が来る前に、傘を手に入れました。
そして、もう来るぞと身構えた時、ふと雨が止みました。実のところ、通り雨だったのです。
雨が止んだので、姫様は傘を閉じます。
さて、屋敷の者がこの通りを過ぎたとき、姫様はどこにもいませんでした。皆が三日三晩探しましたが、姫様は見つかりません。
きっと川に飲まれてしまったのだろう。皆がそう考えて、数年が経ちました。街に噂が流れたのです。
雨の日に姫様を見た! って。噂の主に尋ねると、姫様にこう言われたらしいです。
「どうでしょう。わたくしの傘、いりませんか?」
姫様はまるで血のような真っ赤な傘を差していたのです。
「みたいな感じ」
文彦が話し終えた頃には、既に二人の帰路の分岐点に立っていた。しかし文彦は感想を聞きたいらしく、暫く動かずに突っ立っていた。
「・・・・・・まあまあ怖いな」
「おーい、それだけかよー。話して損した」
それだけ言うと、文彦は家の方へ歩き出した。もっと気の利いたことを言えばよかっただろうか? 色々と考えながら、結局その背中に掛けたのは「じゃあなー!」だった。
そして晴翔も帰路に着く。その途中で、何度も文彦の語った『赤い傘の女』を反芻した。
「・・・・・・赤い傘、雨」
都市伝説の『赤い傘の女』と晴翔が出会った赤い傘の少女。その共通点は二つだけ、赤い傘と雨。それだけが、しかしどうしても引っかかる。
「まぁ、でも『傘、いりませんか?』なんて言われてないしな」
この都市伝説の肝はそこだ。赤い傘と雨は、ただのアイテムでしかない。
『赤い傘を渡すと入れ替わる』
それこそが唯一、肝心なことだ。であれば、少女の行動はやはりおかしい。なぜなら、なんとも渡しやすい相手がいたのに、少女は無視してどこかへ行こうとしたからだ。もし都市伝説通りなら、少女は晴翔に傘を渡そうとしたはずだ。
だから関係ない。都市伝説は都市伝説。あの奇跡の瞬間は、ただの奇跡の瞬間。
晴翔はそう結論付けた。そして改めて帰路に着く。心機一転というやつだ。
既に雨の上がった帰り道、晴翔は思う。いつかの雨の日、また出会えたら、その時は名前くらいは聞いてみたいなと。
果たして、次の日の朝、時間は再び止まる。今は梅雨時、傘を差すのにこれ以上の時期はない。
「嘘だろ」
そう言いながら雨粒に触れる。するとものの見事に散乱し、家の庭にレインドームを作り上げた。
一階に降りると、ハスキー犬が宙に浮いていた。名前はゲンゴロウ。ちょうど戯れている所だったらしく、ゲンゴロウの前にいる母が一見気味の悪い笑顔を浮かべて跳ねている。たいへん楽しそうだ。
「どこかにいるかな、あの子」
しかし、今回は探すのも大変だ。前回はその姿が見えたから追ったが、今回はそうじゃない。そもそも、この街にいるかも分からないのだ。あんな風に一瞬で消えることができる以上、もしかしたら日本にすらいないかも知れない。
それでも、晴翔は靴を履いた。出る直前には、また雨に降られたら敵わないからとレインコートを着た。今回は走るのではなく、自転車を使う。最悪でも、街を一周くらはしてみよう。そんな気持ちで晴翔は時間の止まった世界に飛び出した。
前回は学校を少し出たところまでしか行かなかったので、実のところそこまで変化を感じていなかった。
しかし今回は違う。大通りに出ると、時間が止まることの特異性を嫌でも意識する事になる。
晴翔はいつも通り、横断歩道を渡ろうと思って立ち止まる。なぜなら、赤信号だから。ハッとしたのは数秒後、時間が止まっているのだから赤信号が変わるわけないじゃないか。
そして青信号なのに動かない車たちも大勢いる。どれだけ後ろにいても気づかない歩行者も。一つの電線から動かないカラス。空中にスマホを落とすサラリーマン。固まった笑顔を崩さない小学生たち。
時間が止まっているからといって、道路の真ん中を行くことには抵抗があった。もし急に動き出したらと思うと、とてもじゃないが行けない。なにせ時間を動かす権利を持つのは晴翔じゃない。何処にいるかも分からない、あの少女の方なのだから。
そのまま晴翔は三時間ほど自転車を進めた。時間が止まっているので正確ではないが、疲れ具合としてはそのぐらいだろうと、晴翔は思う。
既に校区外に出ていた。文彦と一緒にいったイオンモールが近い。地方都市の数少ない遊び場である。
この三時間の間、時間が再び動き出す事はなかった。前回が十分も無いくらいだと考えると、もういつ動き出すのかは読めない。
そろそろ帰ろうか、と晴翔は思う。
実のところ、今日は金曜日だ。つまり、学校がある。もし今、時間が動き出したら、今度は家から消えたと騒ぎになるだろう。当然、学校にもバレる。
流石に二回目はまずい。どれだけ怒られるか分かったもんじゃないし、何よりクラスメイトからの追求が面倒くさい。
仕方ない、と晴翔は来た道をそのまま引き返した。時には諦め肝心だと、心に言い聞かせながら。
その道中、道の先に赤い傘の少女がいた。
「えっ!?」
思わず出した大声に、少女がビクッとして傘から顔を覗かせる。あの時の少女だ。うねった長い髪。すいた髪の、茶色い瞳。
その少女は、はぁ、とため息を吐いた。
「またあんた?」
少女はそれだけ言うと、問答無用で傘を閉じようと──
「いや、待って、待って!」
ギリギリで駆け寄って、ぐいと傘を持ち上げる。中の少女の顔がよく見える。
「なに。だって、また泣くでしょ」
「泣かない! ぜーったい泣かないから! とにかく話をしようよ! お願い!」
それを聞いた少女はまたため息を吐いた。深く、深く、本当に嫌そうに。
それでも少女は「分かった」と言った。
二人はイオンモールの駐車場にあるベンチに腰掛けた。少女が「立って話すのは疲れる」と言ったからだ。もちろん、晴翔に拒否権はない。
ベンチには草の茂った屋根があったが、少女は傘を差したまま座った。昨日と同じ真っ赤な傘を。一応、顔が見えるようにと、少し斜めに差してくれている。
「えっと、とりあえず名前を教えて欲しいな。なんて呼べばいい?」
「・・・・・・トヨトミアマネ。豊臣秀吉の豊臣に、雨の音で雨音。雨音でいい。そっちは?」
「ウイハルト。名前の方は晴れに飛翔の翔で、晴翔。宇井は・・・・・・、えと」
「晴翔、分かった。晴翔」
雨音と名乗った少女は、そう繰り返した。可愛らしい声で何度も名前を呼ばれるとくすぐったい。
「それで、話ってなに?」
「ああ、その。やっぱりこれのことだけなんだけど」
晴翔はそう言って、どこをともなく辺りを指す。そこらかしこで止まっている雨粒たちを。止まってしまった時間を。
「私が時間を止めた」
雨音はそれだけ言うと。終わりだけど、という顔をする。
「えと・・・・・・雨音さん? それだけ?」
「さんはいらない。雨音でいい」
聞きたいのはそこじゃないのだけれど。
「じゃあ雨音、もっと詳しく聞きたいんだけど」
雨音は軽くため息を吐いた後、渋々といった様子で語り出した。
「私が傘を開くと時間が止まる。私は傘が開いてる間しかこの世界に存在できないから、私の世界はいつも止まってるよ」
晴翔はその説明を飲み込むのに少し時間が掛かった。傘を開くと時間が止まる。傘が開いている間しか存在できない。確かに、それなら色々と合点がいく。雨音がいつも傘を開いていることも。傘を閉じたら消えたことも。同時に時間も動き出したことも。
色々と腑に落ちる一方、聞きたいことも増えていく。
「え、でも、存在してないのに傘を開けるのはどうして?」
「そこは私もよく分からないんだけど・・・・・・なんて言うか、意識だけがある空間で、たまに『傘を開ける』って思う瞬間がある。その時に開くと、世界の時間が止まってて、毎回雨が降ってる。だからたぶん、開けるって思うのは雨が降ってる時なんじゃないかな」
なるほど、と思うと同時に、晴翔は処理しきれない領域の話だと理解した。これは考えても分からないことで、考える必要のないことだと。なにせ他にも聞きたいことはある。
「じゃあ雨音って本当は何歳くらいなの? 見た感じはあんまりだけど、その説明だと存在してない分、実は俺より年上だったりする? 俺は十四歳」
「年齢はわかんないけど、産まれは一九六四年。私も聞きたいことあるんだけど今って何年なの?」
「っ──」
「晴翔?」
一九六四年。現在は二〇二三年である。年齢に換算すれば五十九歳だ。
それだけの時間、雨音は一人だったのか。意識だけの空間で、一人ぼっち。そこから出た世界も時間は止まっていて、結局独り。
そんな悲しい事があるのか。
「今は・・・・・・今は二〇二三年だよ」
「ふーん。じゃあもう流石に昭和は終わったんだ?」
「昭和の次は平成だけど、それも終わって令和になったよ」
「えっ、二つ? 二つも変わったの?」
これには流石に驚いたらしい。呆気に取られている。
「いや、でも、うーん。そっかぁ。まぁ、そうかぁ。言われてみれば、晴翔は私の名前に全然反応しなかったし、流石に時代が違うってことかぁ」
「名前?」
「名前。雨音なんて、あの時は恥ずかしくて言えなかったよ。もう吹っ切れたけど」
言われて気づく。確かに、昭和の名前といえば○○子みたいな感じを想像する。雨音はどちらかといえば現代の、それもDQNネームよりだ。
「いい名前だと、俺は思うよ」
晴翔は素直にそう言った。瞬間、雨音はハッとした表情で晴翔を見つめた。少しだけ、頬が赤い。
「ふ、ふーん。別に嬉しくないけど」
雨音はそう言って目を逸らした。そのまま雨音は早口で捲し立てる。
「で、他にも聞きたいことあるんじゃないの? 一番聞きたいこと、さっさと聞かないと、いつ私の気分が変わるから分からないから」
「うん、えと、じゃあ──」
本当に聞きたいこと。一番聞かなくてはならない最重要事項。
「どうして、時間が止まった世界で、俺だけが動けるの?」
雨音は待ってましたと言わんばかりの表情をして──けれど、その目の奥は少し寂しげに──言った。
「それは、晴翔が権利者になったからだよ。次の『赤い傘の女』になる権利のね」
『赤い傘の女』そのことはしっかりと覚えている。文彦に教えて貰った、あの都市伝説のことだ。
「それって都市伝説の?」
「そう。あくまで伝説に準えて『赤い傘の女』って言ってるだけだから、本当は男でもいいんだよ。この赤い傘を受け取りさえすれば、男でも女でも、何でもいい」
「じゃあ、その傘が・・・・・・あの都市伝説の傘ってこと?」
ここまで色々と超常現象に遭ってきたが、流石にすぐには信じられない。なにせあの都市伝説に出てくるのは江戸の大名だ。つまり江戸時代。先程、昭和産まれの雨音が二つ違いと言っていたが、江戸時代はさらに三つ、計五つ前だ。
「そうだよ。だからたぶん、あの伝説自体は白装束の女か、姫様本人が書いたんだろうね。赤い傘が開いてる間が描写されてるから。もし姫様なら、自分で天女みたいとか笑っちゃうけど」
雨音はそう言って、本当に笑っている。
晴翔もいよいよ状況が飲み込めてきた。つまり──
「つまり、その傘を俺に渡せば、それで雨音は解放されて、俺の番になるんだね」
確認のつもりで、丁寧に言葉を吐く。
「バカなこと言わないで。私は渡すつもりはない」
雨音はキッと鋭い目線を晴翔に向ける。そして真っ赤な傘をより強く握り直した。
晴翔は思う。もしこれが本当なら、雨音も誰かから渡されたということになる。でもどういう理由で渡されたのだろうか? 一番手っ取り早い渡し方はすぐに思いつく。
『時間を動かしたいなら、この傘を持って』
これで終わりだ。どうしようもないあの世界で、確実に渡せる方法。こんなこと誰でも思いつける。こんなチャンスはいくらでもあった筈だ。五十年近い年月を重ねる中で、きっと何度でも。
それでも、渡さなかった理由は?
「どうして?」
「どうしてって、当たり前でしょ。晴翔は悪い人じゃないから」
そして雨音はボソッと、名前を褒めてくれたし、と付け加える。
「えっ?」
「どうせ、独りぼっちで、寂しくて、可哀想だなって思ったんでしょ?」
「うん」
「あってるよ。独りぼっちで寂しいよ。何度も発狂して、何度も吐きそうになったよ。何も食べてなかったから何も出てこなかったけどね。だから、こんなことを良い人に任せるのは間違ってる。良い人に、こんな思いをして欲しくない」
雨音はこれまでで一番感情の籠った言葉を吐いた。切実で、思わずこっちが泣きそうになる。あぁ、もう、絶対泣かないって言ったのに。
「・・・・・・でも、次の番は俺なんでしょ?」
「あくまで、今、権利があるのが晴翔ってだけよ。何日かすれば別の人に移る。悪人に移るまで待つだけ」
それを続けて、もう五十年近く経ったんだろ。そう叫びたくなる。きっと雨音自身、薄々勘付いている。悪人は、実はそうそう居ない。世界中の人から選ばれるのか、あるいは日本人だけか。そこから悪人を引いて、さらに会わなくちゃいけなくて、そしてようやく傘を渡すチャンスがある。
「そんなの無理だよ。百年でも足りない」
「でも、他にないでしょ。もし良い人に渡してしまったら、きっと私は一生後悔する。それくらいならずっと独りぼっちの方がマシ」
「それなら──」
晴翔は覚悟を決める。この出会いが劇的で、ロマンティックであれと、そう願ったのは晴翔自身だ。だから自分も、それなりの覚悟と行動がいる。
「それなら、相合傘で傘を閉じるのは?」
「・・・・・・バカじゃないの」
「本気で言ってる。独りぼっちじゃ寂しくても、二人なら、雨が降り止まなくてもいい」
「本気でバカなのね。そもそも二人で傘に入るなんて、誰もやったことない。入れないだけならまだしも、最悪、どっちかは永遠に向こうの世界に取り残されるかもしれない。それに私たちは会ってまだ二日目でしょ?」
それなのに、命を賭けるなんて。雨音はそう言いたいのだろう。大丈夫、きちんと晴翔もそう思っている。きっと連日の超常現象の連続で、何らかの脳内ホルモンがドバドバ出たのだ。なんて痛々しい、ませたガキだろう。
あぁ、でも仕方がない。晴翔自身にはもう止められない。一目見た時からそうだ。これは一目惚れだ。晴翔はどうしようもなく恋に落ちている。
「雨音が好きだから」
こんなセリフも言えてしまう。テンションがおかし過ぎて、可笑しい。
「だったら、尚更入れられない。そんな理由であなたを連れていけば、親にも友達にも顔向けできない。そんなこと言うなら、もう──」
そして、雨音が傘を閉じるのを晴翔はいち早く察知した。先程と同じように、傘の端に手を掛ける。でも今度は止める為じゃない。一緒に中に入るため。
「ちょっと!」
雨音は精一杯の前蹴りを繰り出す。その足技は鋭く、痛い。晴翔は、心配蘇生を行う時は胸骨が折れるほど強くやるという話を思い出した。
蹴りに耐えて前進する。なんとか中に潜り込んで、傘を開け閉めするためのハジキを掴む。
「あっ!」
そんな天音の叫びを無視して、晴翔は思いっきり傘を閉じた。
バツン! と異音が轟く。まるで巨大なゴムが弾けたような轟音である。
その音に最初に気づいたのは、出勤してきたイオンモールの従業員だった。音に驚いてカラスが飛び立つ。やがて異音は、重厚な雨音の中に溶けて無くなった。
時間は再び進み出した。
「ごめんなさい」
助手席に乗る晴翔は、素直に気持ちを表す。謝罪先は、車を運転している母親だ。
「本当に思ってるの? って言うか、何度聞いても意味わかんないんだけど」
母親は真っ直ぐに道路の先を見据えながら、先ほどの晴翔の言い訳を繰り返す。
「イオンモールに行きたくなったから行ったけど、開く時間知らなかったから、とりあえず朝四時から自転車で行った?」
「そう」
「今日は金曜日じゃなくて、本当は土曜日だと思ってた?」
「そう」
「後ろの女の子は、偶然イオンモールで出会った?」
「そう」
当の女の子、豊臣雨音は後ろの席で寝ていた。ハスキーのゲンゴロウと、晴翔が乗ってきた自転車もあるので随分と狭い。その中で、雨音はぐっすりと寝ている。
「ぜーったい嘘ついてるでしょ」
「嘘じゃないって!」
こう言うしかない。現実の方が、よっぽど嘘らしいのだから。
顛末と言うほどの事もない。晴翔と雨音は、二人して傘から弾き出された。赤い傘は前回閉じた時と同じように虚空に消えたのだ。晴翔も雨音も中に居らず、傘だけが消えた。
雨音は言う。
「私は結果論が嫌いだから。あなたのした事、一生許さないから」
勝ち誇っていた晴翔はその言葉一つで意気消沈してしまう。ちょうど昨日、先生に怒られていた時と同じ気分だ。
そんな風に項垂れる晴翔を見かねたのか、雨音はさらに言葉を続けた。
「でも、まぁ、一応、ありがとう」
その言葉一つで、晴翔はまた調子を取り戻した。中学生男子とはそういう生き物だ。
その後、晴翔が母親を呼ぶまでの間に、雨音は寝てしまった。きっと、疲れが溜まっていたのだろう。五十年分の疲れが。それは想像を絶するものだ。ゲンゴロウのふわふわの毛が、少しでも安らぎになっていれば良いのだけれど。
説教はほどほどに終わり、晴翔はようやく前を向けるほどにメンタルが回復した。未だに雨は降っているようで、フロントガラスにポツポツと当たっている。
けれど、きっと永遠じゃない。いつか雨は終わる。雨音はいつも赤い傘に、水色の長靴に、黄色い雨ガッパだった。これからはもっと別の格好ができる。何を選ぶのかは雨音自身だ。もう雨音を縛るものはない。
そんな未来を思うだけで、晴翔はやはり顔を上げられる。時代のギャップとか、親がいないとか、雨音を待つ壁はまだまだ多い。その全てで力になれるとは思わない。ただいつか、雨に降られる雨音にそっと傘を差してあげたい。
向かう先に晴れ間が見える。未来を暗示するように、天使の梯子が輝いている。
[お題:あの頃不安だった私へ]
[タイトル:調律師は不協和音を鳴らさない]
「『なんか入院する事になったけど、カルアのあれは関係ないっぽいから安心してね』って、逆に安心出来ないんですけど」
スマホに届いたラインメッセージにそんな反応をしながら、しかし柊華流愛はホッと胸を撫で下ろした。
「あぁ、でも、そっかぁ、ウチのせいじゃなかったかぁ」
クラスメイトが入院したというのに、その反応は薄情で自分本位に見えるだろうか。しかし華流愛にしてみればそれは死活問題だった。
「『そうなんだ!』『入院大変だね』『お大事に!』」
ポンポンポンと、メッセージを送る。差し障りがないよう、最低限の短文を三つ。
夜の十一時にはまだ起きているようで、数秒後には知らないアイドルの横に『ありがとう』の文字があるスタンプが返ってきた。それに既読をつけてから、スマホをベッドに投げ捨てた。
「あー、でも、これあの娘たちにも送ってるよね・・・・・・?」
きっと送っているはずだ。邦城舞華はそういう人間だと華流愛は十分知っている。当事者であるとはいえ、三軍の自分へわざわざラインをした事がその証だ。
送っているからなんなんだ。どうせ何も解決しないだろう。一瞬、弛緩した感情がグイと引き締められる。自室という絶対的なプライベートの中で湧き上がった緊張感は、吐きそうなほど気持ち悪い。
「あーもう、まじでなんであんな事・・・・・・」
愚痴と共に自分の太腿を殴りつける。けれどアザが出来ないように慎重に。
それが起きたのはつい昨日のこと。体育の授業で行われたドッジボールで、華流愛の投げたボールが舞華の胸に当たったのだ。とはいえ、それはルールの範囲でのこと。当時の華流愛も、当たった瞬間はむしろ喜んでいた。舞華がそのまま倒れてしまうまでは。
『舞華ぁ! ねぇ、舞華!』
彼女の親友である冴島景の叫びが脳裏に貼り付いている。無理矢理引き剥がそうすると血が出てしまいそうなほど強烈に、鮮烈に。そして何よりキツイのは、その後の一軍女子たちの、あの目。
「っ、あぁ」
思い出しただけでも呻いてしまう。
まだ何かされた訳じゃないのに。
おかしな話だと自分自身思いながら、それでも恐怖は消えない。それほどに、スクールカーストの絶対制は華流愛の奥底に刻まれていた。
カーストというものはどこにだって存在するものだと華流愛は思う。その中でも、子供のくせに大人振りたいヤツが大勢いる高校生のスクールカーストが一番グロテスクだ。
知らぬ間に出来上がったこの階級は、しかし一生を決めるのに十分な火力を持つ。多感な時期に作り上げた自分の立ち位置に、信仰のように縋ってしまうからだ。
その意味で言えば、舞華の立ち位置は少し特殊だ。彼女は自分の立ち位置に固執している節は決して無かったが、それでもその振る舞いはカースト最上位そのものだった。文化祭の実行委員としてクラスの出し物を決め、部活じゃ一年生からバスケットボール部のスタメンに入っていた。端正な顔立ちはモデルのようにシュッとしていて、正直、羨ましい。もし生きるている時代が貴族社会の最盛であれば、壁の花になんて一秒たりともなりはしないだろう。
けれどそんな彼女が何より秀でていたのは、人の心を読む力だ。
変化に目敏く、心の機微を捉えるのが上手いのだ。無理をしている人には寄り添い、苛立っている人には少し距離を置いた。時間で解決するものと、そうでないものとを即座に判断できる力が彼女にはあった。
例えば、先ほどのメッセージで華流愛に『安心してね』と言ったように。舞華自身は、あの一軍女子の目線を見ていないにも関わらずだ。
そんな風な事を自然にできるのが彼女の特異性だった。舞華のアドバイスなら、きっと正しい。そう思わせるだけの信頼と実績を一年生の終盤には既に盤石なものとしていた。
逆に言えば、舞華はそれなりにクラスを動かせる立場にいたということだ。それはまるで、ピアノがどんな音を奏でるのかを決める調律師だ。自分がどんな音なのかは、自分ではなく、舞華が決める。舞華の、舞華による、舞華のためのクラス。そこから生まれたカースト制度は、心地の良い地獄だった。
あのメガネでオタクの男子は引っ込み事案だから三軍がいいだろうと、舞華は思う。するとその男子は本当に三軍になるし、そこで満足する。目立ちたがりのあのギャルっぽい女子は一軍かなと、舞華は思う。するとその女子は一軍に居て、いつも楽しそうに笑っている。
じゃあ、華流愛は? どんなところを三軍に相応しいと評価されたのか?
華流愛自身はこれっぽちも分からない。一つ言えることは、中学では三軍にいて、そこから高校デビューで一軍を目指していたという事だ。
三軍らしいその精神性を見抜かれていたのだろうか。けれど、どうだろうか。同じ三軍女子として楽しく過ごす彼女らに対して「私は違う」と思っている方が、ずっと醜いのではないか。華流愛は思う。きっとそんな風だから三軍なんだなと。
つまり、舞華にはカリスマ性があるのだ。絶対的な権力者の称号が、彼女には付いている。
その舞華を病院送りにした叛逆者こそが、柊華流愛だ。
舞華曰く、違うらしいが、あの体育の時点では間違いなくそうだった。
憂鬱に眩暈を覚える。頭痛もする。
「あー、もう、まじで学校行きたくないよぉ。もぉー・・・・・・」
舞華によって選ばれた一軍女子がどう思うのかは想像に難くない。たとえ舞華が華流愛に送ったものと同じようなメッセージを全員に送ったとして、それで彼女らが止まるとは思えない。何故なら、舞華は気遣いが出来る人だから。それもきっとただの気遣いだと思われる。むしろ傷つけた上に気遣いまでさせたと、怒りを増幅させるだけだ。
それも舞華自身があの教室に居れば変わるだろう。いつも通りの平凡さを取り戻せるはずだ。
けれど舞華はいない。彼女は入院する事になっている。調律師がいなければ、ピアノは不協和音を轟かす。
「・・・・・・うあぁー!!」
枕に顔を埋めて発狂する。どうせ大丈夫だと言い聞かせて、もう寝てしまおうと思っても、寝れない。そのうち、幻聴まで聞こえてくる。
『お前のせいだ』
景の声だ。ハツラツとした、突き刺すような声。
『お前のせいで舞華が死んだんだ』
違う。違うと否定したいのに、一向に自分の声は聞こえてこない。
あぁ、そうだ、と華流愛は思う。どうして気づかなかったのだろう。舞華は気遣いの人だ。あのメッセージが、華流愛のせいでないというその言葉が、ただの気遣いの可能性もあるじゃないか。
幻想の景が責め立てる。
『お前が舞華を奪ったんだ。お前が舞華を殺したんだ』
気づけば朝になっていた。全身汗だくで、心臓の鼓動がうるさくて仕方がない。相変わらず頭痛もする。
「おーい、華流愛ー? 早く起きて、って、アンタ大丈夫?」
「・・・・・・えっ?」
部屋に入ってきたのは母親だ。母は驚いたような表情を見せて華流愛に駆け寄った。
「ちょっと熱あるんじゃない?」
されるがままで熱を測ると、三八・〇度。
「仕方ないわね。学校休んで、病院行くわよ」
それを聞いた華流愛の表情は、少しだけ良くなった。
夕方に差し掛かった頃には、随分と熱は引いていた。病院で貰った解熱剤が効いているのだろうか。ここまで来ると、逆に罪悪感が湧き上がっている。皆んなが勉強している中で、自分だけ寝ているこの状況がどこかこそばゆい。
病院に行くことにも最初は抵抗があった。もし舞華と会ったらどうしようかと。もちろん、華流愛は外来なので会うことは無いはずだと、分かってはいたのだけれど。
すると突然、ピンポーン、とチャイムが鳴った。配達だろうか。母親は華流愛を病院に連れて行った後、すぐに出勤してしまったため、華流愛が出るしかない。
そうして、特に考えずに出たことが間違いだった。そこに立つ人を見た瞬間、心臓が激しく悲鳴を上げる。
「あれ、まぁちょっと元気そうじゃん。これ、プリント」
相変わらずのハツラツとした声をした、冴島景がそこにいた。
「えと、あっ、ありがとう」
少し吃りながら華流愛はプリントの入った茶封筒を受け取る。
「大事なのあるっぽいから、ちゃんと親に渡しなさいよ」
景は真っ直ぐな瞳で華流愛を見据えている。
舞華を中心に添えたカースト制度の中で、景の立ち位置は唯一無二だ。なにせ舞華が唯一無二なのだから、その親友である景も必然的にそうなる。舞華のいないあのクラスで、新たに船頭になれるとしたら、それはきっと景だけだ。
だから華流愛にしてみれば、これはチャンスだった。あのクラスにおける華流愛への悪感情の多寡を測るのに、これほど適切な人物は他にいない。
もう、こんな風に高熱を出して学校を休みたくはない。
「じゃ、もう帰るから。お大事に」
「ま、待って!」
「何?」
「あのさ。景ちゃんは、舞華ちゃんから何か聞いてない? 昨日、ウチにこんなメッセージ来てて」
華流愛はそう言ってラインの画面を見せた。
「『なんか入院する事になったけど、カルアのあれは関係ないっぽいから安心してね』? これがどうしたの」
「いや、さ。関係ないって、じゃあ何だったんだろうって思って」
「そんなの本人に聞けば。ライン持ってるんだし」
「でも、ほら、聞きにくいじゃん。ウチのせいかもしれないし」
「・・・・・・はぁ、いい性格してるね。ほんと」
そして景は気怠そうにしながら口を開いた。
「舞華は心臓の病気。まだ検査中で色々可能性探ってる途中だけど、最悪、一年で死ぬらしいよ?」
「えっ」
それしか言葉が出てこなかった。いちねんでしぬ。一年で死ぬ? 舞華が?
「まって、えっ、それ本当?」
「嘘つく意味ある? 言っとくけど、病気で心臓が弱ってたからって理由はあるにせよ、倒れた直接の原因はアンタのボールだから」
「っ、いや、あの──」
景は続きを聞かずに足早に駆けていった。顔も見たくないと、嫌悪の表情を浮かべながら。
数時間後、家のリビングで呆然と座り込む華流愛の元へ母親が帰宅した。
「ただいま」
「・・・・・・あっ、おかえりママ。これ、プリント」
母はプリントを受け取ると、中身を確認しながら華流愛に言った。
「結構顔色は良くなったわね。これなら明日から学校行けそうからしら」
それを聞いた華流愛はビクッと肩を振るわせた。
「いやだ」
「え?」
「いやだ、行きたくない。ねぇ、お願いママ。ウチ、学校行きたくないよぉ」
それ以降の問答を華流愛はよく覚えていない。とにかく「行きたくない」だけをひたすら繰り返していたと思う。途中で帰宅した父も交えて行われた家族会議は〇時を回っても続いた。
果たして、次の朝、華流愛は学校には行かなかった。次の日も、その次の日も。三ヶ月ほど経って、華流愛は通信制の高校に転校した。
そして月日は流れる。カーストから離れた華流愛の精神は、程よく安定した。今や、華流愛も大学生だ。大学デビューで派手なことはしなかった。メイク道具が増えたくらいだ。それでも身の丈にあった、控えめなメイクだ。
「家庭教師か・・・・・・」
そんな華流愛の差し当たっての問題は、バイト先を決めることだ。これは高校時代に、勝手を許してくれた両親への恩返しの意味が大きい。服やメイク道具やその他諸々、自分のことは自分で責任を持ちたい。
そして華流愛が目をつけたのが家庭教師だ。個人による、一対一の関係。居酒屋とか、カラオケとかも考えたが、そこにはやはり複雑な人間関係が見え隠れする。人が集まると、どうしてもそこにカーストを見てしまいそうになるのだ。
「うん、家庭教師だな」
一コマ、九〇分。時給は一八〇〇円から二六〇〇円。相場をよく知らない華流愛は、とりあえず始めてみることにした。
大学二年性の頃、家庭教師のバイトを続け、それなりの経験と評判を積んでいた。
そんなある日、新たに生徒が決まった。女子高校生らしく、学校に行っていない分、基礎を一通りやり直したいとのことだ。
名前は『邦城舞華』
「冗談でしょ」
そんな訳がない。どんな確率だよ。きっと同姓同名の別人だ。そんな願望は授業初日に打ち砕かれた。
「久しぶり」
「何のことですか、邦城さん」
「その伊達メガネ、変装のつもりなら笑っちゃうからやめて」
そして舞華は楽しそうに笑う。
「華流愛だから、指名したんだよ」
その言葉に華流愛の中の何かが疼く。舞華に選ばれた、光栄だ、なんて。調律師の美しい手解きを思い出してしまう。
やっぱり、カーストは消えない。一生、永遠に。
「・・・・・・分かったよ、舞華ちゃん。久しぶり」
そう言って、華流愛は伊達メガネを外した。
「うん、久しぶり」
舞華は改めてそう言った。その顔は穏やかで、とても死にかけてたようには思えない。
舞華の部屋は引っ越したばかりなのか、段ボールが多い。その分、埃も少ないので有難い。家によってはハウスダストがどうしてもキツイのだ。
「初日は勉強よりも、信頼を築くために色々と話したりするんだけど、いる?」
「いるでしょ、そりゃ」
舞華は即答した。相変わらず、舞華は人の心を読むのが上手い。話を聞きたいのは華流愛の方だった。
「じゃあ、私から質問しても良いかな?」
「いいよ。ていうか、一人称それだっけ?」
「・・・・・・あのさ、心臓大丈夫なの?」
「あー、初手それかぁ」
舞華は困ったように頬を掻いた。
「うーん、なんて言うか、勝手に治った、的な? お医者さんもよく分かんないらしいんだよね」
「そうなんだ・・・・・・」
不思議なこともあるもんだねぇ、と舞華は唸る。
対して華流愛が思うのは。そうだろうな、だ。あの舞華なら病気くらい自分で治せる。そんな風に思えてしまうのだ。
「じゃあ、景ちゃんとは・・・・・・」
「景? あぁ、景はまぁ、愛想尽かされちゃって。病院生活のうちにアイドルハマっちゃってさぁ」
「アイドル? へー」
それを聞いて思い出したのは、舞華が使っていたスタンプだ。名前は何だったか、後で確認してみよう。
「じゃあ、その、どうして私を選んだの?」
「え、だって華流愛はさ、ずっと勉強してたじゃん。絶対頭良いって思ってたから」
それを聞いて納得する。やっぱり舞華は、きちんと見ていてくれてたんだなと。
それこそが華流愛が三軍にいた理由だった。スクールカーストにおける三軍とは大抵、オタク、運動音痴、変わり者。そしてガリ勉。
「まだ私があの高校行ってた時ってさ、ちょうど大学受験がどうのって言ってた時期だったじゃん。受験は高ニの夏からって。だから、そっとしとこうって言ってたんだけどね。いやー、やっぱあそこじゃ集中できなかったかぁ」
舞華が言っているのは、きっと転校のことだ。けれど、本当はそんな理由じゃない。本当は舞華を苦しめて、その報復が怖かっただけだ。逃げただけだ。
もちろん、そんなこと舞華は知ってるに決まってる。知っていて、そうでない理由を与えてくれた。
与えられた手を取って、華流愛は引かれるままに歩き出す。
「うん。おかげで国立だよ」
舞華はそれに笑顔で返す。
「だから、私も国立行けるようにお願いね。柊せんせ」
舞華が目指すのは、華流愛と同じ大学だった。うまくいけば、一年くらいは一緒に登校出来るかもしれない。舞華の隣に景はいない。舞華の隣は空いている。
だから大丈夫だ。不安に押しつぶされそうな高校生の柊華流愛へ、その道は間違っていない。舞華の調律ほどに美しい音色は他に無い。
舞華の隣で、不協和音は鳴らない。
[お題:逃れられない呪縛]
[タイトル:呪いの地平にファンはいない]
元アイドルという肩書は空気よりも軽いらしい。
七つ目のお祈りメールを削除しながら、宇都美葵はため息をついた。
二十八歳、高校中退。芸能界であればさほど目立たない学歴は、しかし社会においては悪目立ちにしかならない。
やはり、正社員になれないのだろうか。無論、自分が高望みをしている自覚はない。宇都美が何より優先するのは、完全週休二日制かつ祝日休みである。その他の収入や勤務地、福利厚生はとりあえず何でもいい。職種は営業なら経験が活かせそうだと思っている。事務は無理だ。この歳から始めるデスクワークなんて地獄にしか思えない。
この就職活動の中で、宇都美が手に入れたものといえば、メンタルの切り替え方だけだ。
すくと立ち上がると、一つだけ深呼吸をする。腕を上方に、そして軽く力を込めて伸びをすると、右肘のあたりがパキリと鳴った。音が鳴ったにもかかわらず、それが逆に部屋の静けさを意識させた。
部屋の中では時計の針の音だけが響いている。言うまでもなく、右回り。
宇都美は思う。いったい何度あの時計の針を左に回せば自分はやり直せるのだろうかと。
軽くスマホを弾いて出した数字は二一九〇回。およそ三年前にまで遡る。
「宇都美、この後飯でもいかない?」
レッスン終わりの帰り道、同じAMUSEのメンバーである浅倉泰介からそんな言葉をかけられた。
「あー、悪い。この後用事あるわ」
「用事?」
「そう、用事」
あえて内容をはぐらかしたことに、一瞬浅倉は嫌な表情を見せたが、その後すぐにいつも通りの柔らかさを取り戻した。
「ま、プライベートだしな。んじゃ、お疲れ」
浅倉はそう言って夜の街に消えていった。きっとどこか知らない飯屋を探しにいったのだろう。路地裏にあるような隠れ家的お店を探すのが浅倉の趣味だ。
浅倉が何を嫌がったのか、宇都美には分かっている。
そうはならない。そうはならないと、宇都美は心の中で誓った。
「誕生日おめでとう、八重」
「ありがと、じゃ、いつも通りここは奢りね」
スーツ姿の椎名八重はそう言うと、店員を呼んで唐揚げをもう一皿追加した。
「これ私のだから」
「分かってるよ」
椎名は宣言通り、唐揚げを胃袋の中に次々と収めた。細身の身体によく収まるものだな、と感心する。食事制限を課されている宇都美にとっては、その食べっぷりは羨ましい限りだ。
「・・・・・・八重はさ、最近仕事どうなの?」
「ん、うーん、普通? かな?」
「昔は外回りきついって言ってたじゃん」
「もう二年目だよ? 流石に慣れた、みたいな」
「みたいな?」
「いや、慣れた。うん、慣れたね、もう」
そして椎名はハイボールで喉を鳴らす。出会ったばかりの高校生の頃は、これほど大食女になるとは思わなかった。
椎名八重は高校の頃の同級生だ。国立大学を卒業して以降、現在は不動産営業の仕事をしている。少し時代遅れの職場らしく、毎月のノルマに対していつも愚痴を漏らしていた。
「そっちこそどうなのよ」
「もちろん慣れたよ」
「いや、そりゃ慣れてるでしょ、葵は。私が大学で無駄に経済学んでる間、ずぅーとやってたんだから」
その言葉に、皮肉の意味はない。椎名がそういうことを言わない性格なのは重々承知している。だからそこに嫌味な意味を見出すのは、宇都美の偏屈な性格によるものだ。
ずっとやってたのに、まだその程度。そんな風に繋げてしまうのは。
けれど現実もまたそんな風な色を見せる。アイドルという職業でありながら、異性と二人きりで食事をしていても問題はない。バレる心配をしなければならないほどファンはいないし、スキャンダルが取り沙汰されるほどの価値はない。男性アイドルという業界でのAMUSEの宇都美葵の立ち位置は、その程度のものだった。
「一応グループの中じゃ人気は上から三番目だよ。それなりに調子はいい、かな」
五人組の上から三番目。下から数えた方が早いその順位に、しかし宇都美は縋るほかない。ライブパフォーマンスにおける中央の三人に入っていることが、宇都美の中のプライドを守る唯一の盾だった。
「ふーん、まぁ、調子がいいなら、いいね」
椎名が興味無さげなのは、上から三番目の意味をよく分かっていないからだ。椎名は昔からアイドルに興味の無いタイプだった。口を開いて語るのは、いつだって小説の話だ。
椎名は分かっていない。アイドルのルールを漠然としか知らない。
「ねぇ、宇都美はさ、恋人とか欲しくないの?」
だからそんな言葉を言えてしまう。アイドルはみんな恋人がいないのだと純粋に信じている。
「ま、仕事が仕事だからね」
「そう? 私は欲しいけどなー、彼氏」
そんな月並みなアピールに気づかない訳がない。なんの好意も無ければ、接点の消えて久しい二人の男女が何度も会う訳がない。
男女の友情はあり得るのか? 宇都美の出した答えは「ある」だ。だけど椎名の答えは? この時の宇都美はまだ知らない。
「それじゃあ、またね。ご馳走様!」
椎名はそう言うと、住宅街の方へ消えていった。家は近くにあるらしい。
夜の風に煽られながら、椎名の「またね」の声を頭の中で反芻する。記憶の中にある高校生最後の日、その時の椎名の声と重なる。全く同じ「またね」。椎名は変わらず、アイドルの幻想を信じている。
『アイドル!? すごいね、応援してる。上京しても、何年経っても、ずっと応援してるよ。またね』
その呪いの言葉が忘れられない。あり得ないほど拗らせている。
もちろんそれを表にする事はない。少なからずいるファンに対してあまりにも失礼で、あまりにも不誠実だ。もちろん、宇都美はファンを愛している。ファンはきっと、あの時の椎名以上に宇都美葵を応援しているのだ。グッズは高い。握手券も高い。ライブ代も高い。対して椎名が支払うのは、一年に一度の誕生日で夜ご飯を奢るばかりだ。
事実だけを言うなら、宇都美葵は誠実なアイドルだ。アイドルになってから恋人を作った事はないし、イベントも病気以外で欠席した事はない。
しかし、その理由はファンに対する誠実さではない。宇都美の想いはやはり椎名八重にある。宇都美が守りたいのは、椎名が思うアイドル像だ。皆んなに笑顔を振り撒き、たった一人のものには決してならない。そんな徹底的なアイドル像を。
内心は自由である。憲法によって保障された自由の地平がそこにはあった。
「なぁ、宇都美」
さて、そろそろ帰ろうかと歩き始めた時、後ろから声をかけられた。
「っ、あ、浅倉・・・・・・」
振り返ると、そこには浅倉泰介がいた。彼の持つ重厚な筋肉が、服の上からでもよく分かる
「今の、彼女か?」
「いや・・・・・・」
言葉が詰まって、うまく言い訳が立たない。いや、それはおかしい、だって椎名とは付き合ってる訳じゃない。何も問題はない。
「あー、いや、責めてる訳じゃないんだ。江刈にも彼女いるらしいしな」
「江刈が?」
江刈とはAMUSEのメンバーの江刈亮のことだ。細身でタレ目のイケメンで、AMUSEの中では浅倉と揃って人気二台巨頭である。
「あぁ、だから、まぁ、なんだ。気をつけてくれってだけだよ。江刈も彼女と会う時は軽く変装したり、家で会ったりしてるから、宇都美も頼むな」
浅倉はそれだけ言って、また闇夜へ消えた。
まだ付き合ってないのに。なんて、言い訳はきっと聞かないだろう。浅倉からすれば、いや、ファンからすれば、異性と二人きりはそれだけでアウトだ。
宇都美はしばらく呆然と佇んでいた。心の中の遥なる地平が、呪いに犯されて喘鳴を上げている。
「・・・・・・」
宇都美はスマホを取り出した。ラインを開いて、無料通話をかける。
「『どうしたの、葵? 私なんか忘れ物してた?』」
その声に決心がつく。『またね』と同じ声。逃れられない呪縛の声。
「八重って、この辺に住んでるんだよな?」
「『・・・・・・そうだけど、なに?』」
「今から家行ってもいい?」
「『へっ? 家、いや、いいけど・・・・・・いいの?』」
「いい、行きたい」
「『ん、分かった。ちょっと、三十分後でもいいなら』」
何となく、椎名の声が上擦っている気がした。
「了解。それまで暇つぶししておくよ」
そして、宇都美は歩き出した。三十分はそれなりに長い。どこで時間を潰そうか、まだ決まらない。決められない。
静かな部屋の中で、ガチャリと鍵が開く音が聞こえた。数十分ぶりの時計の針以外の音だ。
「ただいまー」
部屋の中に八重の声が響く。
「おかえり」
そうシンプルに返すと、八重は改めて「ただいま」と言った。
「どうだった? メールきた?」
「ごめん、またダメだった」
「そう・・・・・・ま、大丈夫、大丈夫。私の収入だけでも結構あるしね。焦らず、ね」
八重はそう言って、左側に背負ったバッグを置いた。その左手の薬指にはキラリと輝く指輪がある。
「そうは言っても、焦るよ。せっかく安定のために辞めたのに」
「うーん、そうね、でも、そうね」
言葉を探す彼女に、反応を間違えたと察した。そんな風に惑わすつもりは無かった。
「ごめん、頑張るよ」
「頑張るのは、面接の時だけね? 今はしっかり休んで。じゃあご飯作ってくるから、またね」
『またね』
その言葉のために、宇都美葵はここにいる。当時で言えば数百人か、結局、数千人か数万人にまで伸びたファンを踏み台にして、宇都美葵は呪われながら生きている。
呪いから逃れる術はない。
[お題:昨日へのさよなら、明日との出会い]
[タイトル:ネペレーの涙]
花澤瑛太が赤羽遥に一目惚れした理由を突き詰めるなら、それはきっと、二人が世界の終わりに立っていたからだろう。
「いいじゃないか、最期くらい」
「い、や。私たちは最期までビジネスライクよ。それに最期、最期って言って、いつも生きてるじゃない」
何十回目かのお誘いは、いつも通りの空振りに終わった。助手席に座る遥は瑛太に見向きもせず、目の前の二〇〇二年製造の分厚いパソコンと睨めっこしている。
車のバッテリーからの電力供給で動くそれは、当然のようにインターネットには接続されていない。もはやパソコンは記録と計算のためのノート代わりでしか無く、遥もそれ以上を求めてはいなかった。
カタカタとキーボードを打つ遥を、瑛太は無言で見つめた。相変わらずのタッチタイピングで、遥は画面から目を離さない。そこにツラツラと並べられる文字列を、まるで我が子のように見守っている。
「・・・・・・」
「・・・・・・なに、暇なの? あと十分で終わるから、そしたらソリティアして良いわよ」
「僕のことソリティア大好きな人だと思ってる?」
「あら、マインスイーパーの方だった?」
実のところ、どちらも大好きだった。過去形なのは、ここ数年でやり過ぎてもう飽きてしまったからだ。
そう、わずか数年だ。世界から国境が消え、核弾頭が消え、銃が消えて数年。地球は史上最も静かな時を刻んでいる。代償は九十九パーセントを超える動植物の命だ。
「いんや、どっちもやらないよ。十分でも、一時間でも、永遠にでも、赤羽がパソコンを使ってよ」
「わかった。ありがとう」
瑛太はそれを聞くと、胸ポケットからタバコを取り出した。今や珍しいマイルドセブンの箱である。しかし中身はセブンスターが二本、ウィンストンが一本、ハイライトが一本、よく分からないのが二本。
瑛太はセブンスターを二本取り出すと、一本を遥に差し出した。
「お一ついかが?」
「珍しいことするのね」
「ちょっと、いいことを思いついてね」
「いいこと?」
そう言って首を傾ける遥に、瑛太は「いいから、いいから」とタバコを咥えさせた。遥は拒否することなく受け入れた。
それから瑛太は自分で咥えたもう一本のタバコに火を点けると、すぅと息を吸った。そしてタバコの先端を遥の咥えているタバコの先端に押し付ける。するとジジジ、と火が移った。いわゆる、シガーキスだ。
「これくらい許してよ」
「・・・・・・ま、別にいいわ。これくらいなら」
これくらいが限界だ。本当にキスなんてしてしまうと、びっくりするくらい簡単に死んでしまう。
遥はタバコに慣れていないのか、時折りコホコホと咳をした。それでもタバコを吸わされたことに文句は言わなかった。
健康被害なんて、今さらどうでもいいのだ。健康はとっくの昔に害され過ぎている。もしもMRI検査を行っていたのならば、二人の臓器に影が見つからない場所はないだろう。
瑛太は煙を吐きながら窓の外を見た。
しんと静まり返った灰色の雲。タバコの煙にも似た雲のようなそれは、どこか淡く輝いていて、その裏に太陽があるとは思えない不気味な均一さを持っていた。
あれは雲じゃない。
死にかけの人類はそれを『ネペレー』と呼んだ。
ネペレーとは、ギリシャ神話に登場する女神の名だ。主神ゼウスがイクシオンを罰する計略の為に、妃であるヘラに似せて雲を象って作ったとされている。
その計略とは、一言で言えば身代わりだ。ゼウスはヘラに言い寄るイクシオンに対して、ヘラにそっくりのネペレーを用意することで、彼がどんな反応をするのかを試したのだ。果たして、イクシオンはゼウスによって罰を受けることになる。イクシオンの行動は、押して知るべしだ。
あの雲のような何かが『ネペレー』とするなら、人類はまさにイクシオンである。人類が欲望のままに手を出した結果が、罰──すなわち、世界の終わりだった。
「おっ、降ってきたな」
ふわふわと、それは落ちてくる。『ネペレー』から落ちてくるそれは、雪にも灰にも埃にも似ていた。ある人は、それを『ネペレーの涙』と表現した。
吸いかけのタバコを外へ捨てると、急いで窓を閉めた。遥も同じようにしてから、言葉を発した。
「『ネペレーの涙』が止んでから、また降り始めるまで約十六時間ってとこね」
そしてパソコンに向き直り、記録をつける。
『旧フランス領、ディジョン、05:47から21:39』
実のところ、これが何に生きるのかを瑛太は把握していない。それどころか、この記録行為を無駄だとさえ思っている。今、それを止めないのは、遥が瑛太のタバコを止めないのと同じ理由だ。
どうせ世界は終わっているのだから、好きにすればいいと、それだけだ。
「それじゃあ、次はマルセイユに向かいましょう」
「はいはい。了解ですよ、お姫様」
こんなキザなセリフもこの状況なら何のそのだ。その後に欠伸をしてしまったので、結局はカッコつけれていないのだけれど。
「欠伸なんて、らしくないわね。私たちは眠ってはいけないのに」
──『ネペレー』について 著:赤羽遥
『ネペレー』の発生理由は不明。後述する適応に関する実験で起こった事故の可能性を提示したい。
『ネペレー』の発生時期は二〇一八年の十二月末。一夜にして地球を覆った。
『ネペレー』は常に僅かに発光しており、世界を包んでいくその様は、夜明けにも似ていたという。その日から朝も昼も夜も消え、地球全体が常に淡い白夜のようになっていた。
『ネペレー』の降らせた俗に『ネペレーの涙』と呼ばれる物質は動植物の内部に侵入すると、ある種の進化を促すとされる。九十九パーセントの動植物はそれに適応できずに死亡するものとされる。
一方、進化に適応できた場合、適応できた者(以下、適応者)は『ネペレー』の降らせる物質のみで生存が可能になる。しかし植物の減少によって、空気中の酸素濃度が下がれば、思考が不可能になり実質的に死亡する事になると考えられる。
適応者は代償として三大欲求を禁止される。しかしこれは不可能を意味する訳ではない。法律のようなものであり、これを破れば死亡する。
およそ一年で、適応者以外の動植物は死滅すると考えられる。その後、数年で酸素濃度が下がり、遅れて適応者も死滅するだろう。まさしく、世界の終わりである。
オンボロの4WDで、途中休憩を挟みながら八時間ほど走らせると、目的地のマルセイユについた。ここまでくると『ネペレーの涙』は降っておらず、また待ちぼうけをすることになった。
「つまり、その記録を取るためには、一度『ネペレーの涙』を待ってから、それが止んだ後に、もう一度降るまでの時間を測らなくちゃいけないんだね?」
「そういうことよ」
「うーん、そうかぁ」
瑛太が残念そうに声を漏らしたのは、地面に降り積もった『ネペレーの涙』を見たからだ。その厚さから察するに、つい先ほど止んだばかりのようである。
もちろん、それに遥が気づいていない訳がない。より正確な記録のためには、時間は必要経費である。
遥の見立てでは、およそ二十四時間立ち止まる必要があるとのことだ。
二人は気分転換に車の外へ出た。車外でのタブーは、走ることだ。積もった『ネペレーの涙』を巻き上げて吸引してしまうと、苦しくて仕方がない。
人気のないマルセイユの古い街並みには、独特の死の雰囲気が漂っていた。といってもこれはマルセイユに限った話ではなく、世界中の都市、地方、自然や海ですら起こっている。
「生存者はいなさそうだね」
瑛太の言葉に対して、遥は興味なさげに「最初から期待してない」と返した。
しばらく歩いて辿り着いたのは、カトリック教会のマルセイユ大聖堂だ。ガタついた扉を開けることができず、二人して中央扉の前に腰掛けた。
五分ほど沈黙が続いたのち、瑛太はようやく口を開いた。
「・・・・・・そう言えば、ずっと聞いてこなかったんだけどさ」
「どうしたの?」
「あの記録は何のためにつけてるんだい?」
「あー、あれ、言ってなかったかしら?」
遥は勿体ぶることも、惜しむこともなく、淡々と理由を話し出した。
「簡単に言うと、私は今日を探しているの」
「今日?」
「そうよ」遥は無言で肯く。
「適応者である私たちの命題は、何よりも自身の人間性を担保することだと思うの。三大欲求を失い、太陽を失い、永遠に明るい世界をただ生きるだけじゃ人間らしくない。そこで私が考えたのは、人間性は規則正しい生活の中にあるんじゃないかってことよ。
そして規則正しい生活のためには、この新しい世界での一日を定義する必要がある。
じゃあ質問だけど、今日と昨日と明日を遮るものは何かしら?」
瑛太は少し考えてから言った。
「時間じゃないかな。時計は未だにきちんと動いているよ」
「確かに一日は二十四時間ね。でも、それは少し近代的過ぎる考え方だわ」
そう言われても、瑛太はあまりピンと来ない。遥に続きを促す。
「例えば、人類がまだ狩猟採集民族として活動していた頃は時計なんて無かった。でもだからと言って、そこに一日という考え方が無かった訳じゃない。
私の考えを言うと、今日というのは太陽のことだと思うの。日の出と共に活動を始めて、日の入りと共に活動を終えることが、原始的な人間らしい『今日』じゃないかしら」
「日の出? 日の入り? ちょっと待ってくれ、太陽を失ったと言ったのは、君の方じゃないか。確かに太陽と共にする生活が人間らしい気はするけれど・・・・・・」
遥は肯いて答える。
「だから、それが答えよ。『記録は何のためにつけているんだい?』のね」
大聖堂から車に戻ってきた二人は、すぐにパソコンを起動した。その中にある記録を見るためだ。
「ほら、これ。ディジョンの記録。05:47から21:39の『ネペレーの涙』が止んでいた時間。これを見て気づかない?」
瑛太の頭に浮かんだのは、先ほど遥が言っていたことだ。
「日の出と、日の入り?」
「そうよ。まだ全然統計が取れていないけれど、私はそうだと睨んでる。つまり、太陽光を浴びているところでは『ネペレーの涙』は降らないの」
遥は、他にもあるわと言って、別の都市の記録を次々と出していた。確かにどれも、朝から夕方にかけて『ネペレーの涙』が降り止んでいる。
確かに、遥の言説は正しい。けれど、これじゃ正しいだけだ。瑛太は自身の中の感情を抑えられずに言葉を吐いた。
「・・・・・・じゃあ、これでもっと数を取れればそれで終了かい?」
「ええ、まぁ、そうね」
遥はキョトンとした顔でそう告げた。
「そうか、うん、そうか」
瑛太は自身の失望を悟られないよう努めた。しかし、本当に隠しきれていたのか、瑛太にはこれっぽっちも分からなかった。
車に遥を一人残して、瑛太は再びマルセイユ大聖堂に向かった。本当は目的地なんてどこでも良くて、ただひたすらに歩きたい気分だった。
瑛太は思う。失望とは期待の裏返しなのだろうと。期待が大きければ大きいほど、その反動は凄まじい。身勝手だと考えながらも、瑛太は感情を止められずにいた。
「世界の終わりに、選ばれし適応者になった二人の男女。出会いは劇的だ。たった一人、自暴自棄で車を爆走させる男。その前に突然現れたもう一人の生存者。ミステリアスな彼女は言う『目的のために手伝って欲しい』
これで期待するなって方がおかしいだろ」
それがどうした。今日とか、昨日とか、明日とか。もっと『ネペレー』の核心に迫るような何かじゃないのか。人類を救えるような何かじゃないのか。
間も無く、瑛太は大聖堂に辿り着く。そして、そう言えばと気がついた。ここは祈る場所だ。
「あぁ、神様、どうかお願いします。どうか、赤羽遥の推測が失敗であって下さい。どうか」
瑛太は口に出して、ハッとした。どうしてそんなことを祈ってしまったのか。自身の中のどす黒さに戦慄すら覚える。どうしてこんなに、自分は醜いのか。
そんな自身への戒めを嘲るように、頬に何かが触れた。
「あっ・・・・・・」
それは空から降ってきた。灰色の涙だ。
まだマルセイユに来て五時間しか経っていない。滅亡前のフランス時間と合わせるなら、正午過ぎだ。
「は、ははっ」
瑛太は間違いなく神様に祈った。『ネペレー』とは神の名前である。