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[お題:昨日へのさよなら、明日との出会い]
[タイトル:ネペレーの涙]

 花澤瑛太が赤羽遥に一目惚れした理由を突き詰めるなら、それはきっと、二人が世界の終わりに立っていたからだろう。

「いいじゃないか、最期くらい」
「い、や。私たちは最期までビジネスライクよ。それに最期、最期って言って、いつも生きてるじゃない」
 何十回目かのお誘いは、いつも通りの空振りに終わった。助手席に座る遥は瑛太に見向きもせず、目の前の二〇〇二年製造の分厚いパソコンと睨めっこしている。
 車のバッテリーからの電力供給で動くそれは、当然のようにインターネットには接続されていない。もはやパソコンは記録と計算のためのノート代わりでしか無く、遥もそれ以上を求めてはいなかった。
 カタカタとキーボードを打つ遥を、瑛太は無言で見つめた。相変わらずのタッチタイピングで、遥は画面から目を離さない。そこにツラツラと並べられる文字列を、まるで我が子のように見守っている。
「・・・・・・」
「・・・・・・なに、暇なの? あと十分で終わるから、そしたらソリティアして良いわよ」
「僕のことソリティア大好きな人だと思ってる?」
「あら、マインスイーパーの方だった?」
 実のところ、どちらも大好きだった。過去形なのは、ここ数年でやり過ぎてもう飽きてしまったからだ。
 そう、わずか数年だ。世界から国境が消え、核弾頭が消え、銃が消えて数年。地球は史上最も静かな時を刻んでいる。代償は九十九パーセントを超える動植物の命だ。
「いんや、どっちもやらないよ。十分でも、一時間でも、永遠にでも、赤羽がパソコンを使ってよ」
「わかった。ありがとう」
 瑛太はそれを聞くと、胸ポケットからタバコを取り出した。今や珍しいマイルドセブンの箱である。しかし中身はセブンスターが二本、ウィンストンが一本、ハイライトが一本、よく分からないのが二本。
 瑛太はセブンスターを二本取り出すと、一本を遥に差し出した。
「お一ついかが?」
「珍しいことするのね」
「ちょっと、いいことを思いついてね」
「いいこと?」
 そう言って首を傾ける遥に、瑛太は「いいから、いいから」とタバコを咥えさせた。遥は拒否することなく受け入れた。
 それから瑛太は自分で咥えたもう一本のタバコに火を点けると、すぅと息を吸った。そしてタバコの先端を遥の咥えているタバコの先端に押し付ける。するとジジジ、と火が移った。いわゆる、シガーキスだ。
「これくらい許してよ」
「・・・・・・ま、別にいいわ。これくらいなら」
 これくらいが限界だ。本当にキスなんてしてしまうと、びっくりするくらい簡単に死んでしまう。
 遥はタバコに慣れていないのか、時折りコホコホと咳をした。それでもタバコを吸わされたことに文句は言わなかった。
 健康被害なんて、今さらどうでもいいのだ。健康はとっくの昔に害され過ぎている。もしもMRI検査を行っていたのならば、二人の臓器に影が見つからない場所はないだろう。
 瑛太は煙を吐きながら窓の外を見た。
 しんと静まり返った灰色の雲。タバコの煙にも似た雲のようなそれは、どこか淡く輝いていて、その裏に太陽があるとは思えない不気味な均一さを持っていた。
 あれは雲じゃない。
 死にかけの人類はそれを『ネペレー』と呼んだ。

 ネペレーとは、ギリシャ神話に登場する女神の名だ。主神ゼウスがイクシオンを罰する計略の為に、妃であるヘラに似せて雲を象って作ったとされている。
 その計略とは、一言で言えば身代わりだ。ゼウスはヘラに言い寄るイクシオンに対して、ヘラにそっくりのネペレーを用意することで、彼がどんな反応をするのかを試したのだ。果たして、イクシオンはゼウスによって罰を受けることになる。イクシオンの行動は、押して知るべしだ。
 
 あの雲のような何かが『ネペレー』とするなら、人類はまさにイクシオンである。人類が欲望のままに手を出した結果が、罰──すなわち、世界の終わりだった。
「おっ、降ってきたな」
 ふわふわと、それは落ちてくる。『ネペレー』から落ちてくるそれは、雪にも灰にも埃にも似ていた。ある人は、それを『ネペレーの涙』と表現した。
 吸いかけのタバコを外へ捨てると、急いで窓を閉めた。遥も同じようにしてから、言葉を発した。
「『ネペレーの涙』が止んでから、また降り始めるまで約十六時間ってとこね」
 そしてパソコンに向き直り、記録をつける。
『旧フランス領、ディジョン、05:47から21:39』
 実のところ、これが何に生きるのかを瑛太は把握していない。それどころか、この記録行為を無駄だとさえ思っている。今、それを止めないのは、遥が瑛太のタバコを止めないのと同じ理由だ。
 どうせ世界は終わっているのだから、好きにすればいいと、それだけだ。
「それじゃあ、次はマルセイユに向かいましょう」
「はいはい。了解ですよ、お姫様」
 こんなキザなセリフもこの状況なら何のそのだ。その後に欠伸をしてしまったので、結局はカッコつけれていないのだけれど。
「欠伸なんて、らしくないわね。私たちは眠ってはいけないのに」



 ──『ネペレー』について 著:赤羽遥
『ネペレー』の発生理由は不明。後述する適応に関する実験で起こった事故の可能性を提示したい。
『ネペレー』の発生時期は二〇一八年の十二月末。一夜にして地球を覆った。
『ネペレー』は常に僅かに発光しており、世界を包んでいくその様は、夜明けにも似ていたという。その日から朝も昼も夜も消え、地球全体が常に淡い白夜のようになっていた。
『ネペレー』の降らせた俗に『ネペレーの涙』と呼ばれる物質は動植物の内部に侵入すると、ある種の進化を促すとされる。九十九パーセントの動植物はそれに適応できずに死亡するものとされる。
 一方、進化に適応できた場合、適応できた者(以下、適応者)は『ネペレー』の降らせる物質のみで生存が可能になる。しかし植物の減少によって、空気中の酸素濃度が下がれば、思考が不可能になり実質的に死亡する事になると考えられる。
 適応者は代償として三大欲求を禁止される。しかしこれは不可能を意味する訳ではない。法律のようなものであり、これを破れば死亡する。
 およそ一年で、適応者以外の動植物は死滅すると考えられる。その後、数年で酸素濃度が下がり、遅れて適応者も死滅するだろう。まさしく、世界の終わりである。



 オンボロの4WDで、途中休憩を挟みながら八時間ほど走らせると、目的地のマルセイユについた。ここまでくると『ネペレーの涙』は降っておらず、また待ちぼうけをすることになった。
「つまり、その記録を取るためには、一度『ネペレーの涙』を待ってから、それが止んだ後に、もう一度降るまでの時間を測らなくちゃいけないんだね?」
「そういうことよ」
「うーん、そうかぁ」
 瑛太が残念そうに声を漏らしたのは、地面に降り積もった『ネペレーの涙』を見たからだ。その厚さから察するに、つい先ほど止んだばかりのようである。
 もちろん、それに遥が気づいていない訳がない。より正確な記録のためには、時間は必要経費である。

 遥の見立てでは、およそ二十四時間立ち止まる必要があるとのことだ。
 二人は気分転換に車の外へ出た。車外でのタブーは、走ることだ。積もった『ネペレーの涙』を巻き上げて吸引してしまうと、苦しくて仕方がない。

 人気のないマルセイユの古い街並みには、独特の死の雰囲気が漂っていた。といってもこれはマルセイユに限った話ではなく、世界中の都市、地方、自然や海ですら起こっている。
「生存者はいなさそうだね」
 瑛太の言葉に対して、遥は興味なさげに「最初から期待してない」と返した。

 しばらく歩いて辿り着いたのは、カトリック教会のマルセイユ大聖堂だ。ガタついた扉を開けることができず、二人して中央扉の前に腰掛けた。
 五分ほど沈黙が続いたのち、瑛太はようやく口を開いた。
「・・・・・・そう言えば、ずっと聞いてこなかったんだけどさ」
「どうしたの?」
「あの記録は何のためにつけてるんだい?」
「あー、あれ、言ってなかったかしら?」
 遥は勿体ぶることも、惜しむこともなく、淡々と理由を話し出した。
「簡単に言うと、私は今日を探しているの」
「今日?」
「そうよ」遥は無言で肯く。
「適応者である私たちの命題は、何よりも自身の人間性を担保することだと思うの。三大欲求を失い、太陽を失い、永遠に明るい世界をただ生きるだけじゃ人間らしくない。そこで私が考えたのは、人間性は規則正しい生活の中にあるんじゃないかってことよ。
 そして規則正しい生活のためには、この新しい世界での一日を定義する必要がある。
 じゃあ質問だけど、今日と昨日と明日を遮るものは何かしら?」
 瑛太は少し考えてから言った。
「時間じゃないかな。時計は未だにきちんと動いているよ」
「確かに一日は二十四時間ね。でも、それは少し近代的過ぎる考え方だわ」
 そう言われても、瑛太はあまりピンと来ない。遥に続きを促す。
「例えば、人類がまだ狩猟採集民族として活動していた頃は時計なんて無かった。でもだからと言って、そこに一日という考え方が無かった訳じゃない。
 私の考えを言うと、今日というのは太陽のことだと思うの。日の出と共に活動を始めて、日の入りと共に活動を終えることが、原始的な人間らしい『今日』じゃないかしら」
「日の出? 日の入り? ちょっと待ってくれ、太陽を失ったと言ったのは、君の方じゃないか。確かに太陽と共にする生活が人間らしい気はするけれど・・・・・・」
 遥は肯いて答える。
「だから、それが答えよ。『記録は何のためにつけているんだい?』のね」

 大聖堂から車に戻ってきた二人は、すぐにパソコンを起動した。その中にある記録を見るためだ。
「ほら、これ。ディジョンの記録。05:47から21:39の『ネペレーの涙』が止んでいた時間。これを見て気づかない?」
 瑛太の頭に浮かんだのは、先ほど遥が言っていたことだ。
「日の出と、日の入り?」
「そうよ。まだ全然統計が取れていないけれど、私はそうだと睨んでる。つまり、太陽光を浴びているところでは『ネペレーの涙』は降らないの」
 遥は、他にもあるわと言って、別の都市の記録を次々と出していた。確かにどれも、朝から夕方にかけて『ネペレーの涙』が降り止んでいる。
 確かに、遥の言説は正しい。けれど、これじゃ正しいだけだ。瑛太は自身の中の感情を抑えられずに言葉を吐いた。
「・・・・・・じゃあ、これでもっと数を取れればそれで終了かい?」
「ええ、まぁ、そうね」
 遥はキョトンとした顔でそう告げた。
「そうか、うん、そうか」
 瑛太は自身の失望を悟られないよう努めた。しかし、本当に隠しきれていたのか、瑛太にはこれっぽっちも分からなかった。

 車に遥を一人残して、瑛太は再びマルセイユ大聖堂に向かった。本当は目的地なんてどこでも良くて、ただひたすらに歩きたい気分だった。
 瑛太は思う。失望とは期待の裏返しなのだろうと。期待が大きければ大きいほど、その反動は凄まじい。身勝手だと考えながらも、瑛太は感情を止められずにいた。

「世界の終わりに、選ばれし適応者になった二人の男女。出会いは劇的だ。たった一人、自暴自棄で車を爆走させる男。その前に突然現れたもう一人の生存者。ミステリアスな彼女は言う『目的のために手伝って欲しい』
 これで期待するなって方がおかしいだろ」

 それがどうした。今日とか、昨日とか、明日とか。もっと『ネペレー』の核心に迫るような何かじゃないのか。人類を救えるような何かじゃないのか。
 間も無く、瑛太は大聖堂に辿り着く。そして、そう言えばと気がついた。ここは祈る場所だ。
「あぁ、神様、どうかお願いします。どうか、赤羽遥の推測が失敗であって下さい。どうか」
 瑛太は口に出して、ハッとした。どうしてそんなことを祈ってしまったのか。自身の中のどす黒さに戦慄すら覚える。どうしてこんなに、自分は醜いのか。
 そんな自身への戒めを嘲るように、頬に何かが触れた。
「あっ・・・・・・」
 それは空から降ってきた。灰色の涙だ。
 まだマルセイユに来て五時間しか経っていない。滅亡前のフランス時間と合わせるなら、正午過ぎだ。
「は、ははっ」
 瑛太は間違いなく神様に祈った。『ネペレー』とは神の名前である。
 
 

5/22/2023, 4:11:19 PM