なっく

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[お題:逃れられない呪縛]
[タイトル:呪いの地平にファンはいない]

 元アイドルという肩書は空気よりも軽いらしい。
 七つ目のお祈りメールを削除しながら、宇都美葵はため息をついた。
 二十八歳、高校中退。芸能界であればさほど目立たない学歴は、しかし社会においては悪目立ちにしかならない。
 やはり、正社員になれないのだろうか。無論、自分が高望みをしている自覚はない。宇都美が何より優先するのは、完全週休二日制かつ祝日休みである。その他の収入や勤務地、福利厚生はとりあえず何でもいい。職種は営業なら経験が活かせそうだと思っている。事務は無理だ。この歳から始めるデスクワークなんて地獄にしか思えない。
 この就職活動の中で、宇都美が手に入れたものといえば、メンタルの切り替え方だけだ。
 すくと立ち上がると、一つだけ深呼吸をする。腕を上方に、そして軽く力を込めて伸びをすると、右肘のあたりがパキリと鳴った。音が鳴ったにもかかわらず、それが逆に部屋の静けさを意識させた。
 部屋の中では時計の針の音だけが響いている。言うまでもなく、右回り。
 宇都美は思う。いったい何度あの時計の針を左に回せば自分はやり直せるのだろうかと。
 軽くスマホを弾いて出した数字は二一九〇回。およそ三年前にまで遡る。


「宇都美、この後飯でもいかない?」
 レッスン終わりの帰り道、同じAMUSEのメンバーである浅倉泰介からそんな言葉をかけられた。
「あー、悪い。この後用事あるわ」
「用事?」
「そう、用事」
 あえて内容をはぐらかしたことに、一瞬浅倉は嫌な表情を見せたが、その後すぐにいつも通りの柔らかさを取り戻した。
「ま、プライベートだしな。んじゃ、お疲れ」
 浅倉はそう言って夜の街に消えていった。きっとどこか知らない飯屋を探しにいったのだろう。路地裏にあるような隠れ家的お店を探すのが浅倉の趣味だ。
 浅倉が何を嫌がったのか、宇都美には分かっている。
 そうはならない。そうはならないと、宇都美は心の中で誓った。

「誕生日おめでとう、八重」
「ありがと、じゃ、いつも通りここは奢りね」
 スーツ姿の椎名八重はそう言うと、店員を呼んで唐揚げをもう一皿追加した。
「これ私のだから」
「分かってるよ」
 椎名は宣言通り、唐揚げを胃袋の中に次々と収めた。細身の身体によく収まるものだな、と感心する。食事制限を課されている宇都美にとっては、その食べっぷりは羨ましい限りだ。
「・・・・・・八重はさ、最近仕事どうなの?」
「ん、うーん、普通? かな?」
「昔は外回りきついって言ってたじゃん」
「もう二年目だよ? 流石に慣れた、みたいな」
「みたいな?」
「いや、慣れた。うん、慣れたね、もう」
 そして椎名はハイボールで喉を鳴らす。出会ったばかりの高校生の頃は、これほど大食女になるとは思わなかった。
 椎名八重は高校の頃の同級生だ。国立大学を卒業して以降、現在は不動産営業の仕事をしている。少し時代遅れの職場らしく、毎月のノルマに対していつも愚痴を漏らしていた。
「そっちこそどうなのよ」
「もちろん慣れたよ」
「いや、そりゃ慣れてるでしょ、葵は。私が大学で無駄に経済学んでる間、ずぅーとやってたんだから」
 その言葉に、皮肉の意味はない。椎名がそういうことを言わない性格なのは重々承知している。だからそこに嫌味な意味を見出すのは、宇都美の偏屈な性格によるものだ。
 ずっとやってたのに、まだその程度。そんな風に繋げてしまうのは。
 けれど現実もまたそんな風な色を見せる。アイドルという職業でありながら、異性と二人きりで食事をしていても問題はない。バレる心配をしなければならないほどファンはいないし、スキャンダルが取り沙汰されるほどの価値はない。男性アイドルという業界でのAMUSEの宇都美葵の立ち位置は、その程度のものだった。
「一応グループの中じゃ人気は上から三番目だよ。それなりに調子はいい、かな」
 五人組の上から三番目。下から数えた方が早いその順位に、しかし宇都美は縋るほかない。ライブパフォーマンスにおける中央の三人に入っていることが、宇都美の中のプライドを守る唯一の盾だった。
「ふーん、まぁ、調子がいいなら、いいね」
 椎名が興味無さげなのは、上から三番目の意味をよく分かっていないからだ。椎名は昔からアイドルに興味の無いタイプだった。口を開いて語るのは、いつだって小説の話だ。
 椎名は分かっていない。アイドルのルールを漠然としか知らない。
「ねぇ、宇都美はさ、恋人とか欲しくないの?」
 だからそんな言葉を言えてしまう。アイドルはみんな恋人がいないのだと純粋に信じている。
「ま、仕事が仕事だからね」
「そう? 私は欲しいけどなー、彼氏」
 そんな月並みなアピールに気づかない訳がない。なんの好意も無ければ、接点の消えて久しい二人の男女が何度も会う訳がない。
 男女の友情はあり得るのか? 宇都美の出した答えは「ある」だ。だけど椎名の答えは? この時の宇都美はまだ知らない。

「それじゃあ、またね。ご馳走様!」
 椎名はそう言うと、住宅街の方へ消えていった。家は近くにあるらしい。
 夜の風に煽られながら、椎名の「またね」の声を頭の中で反芻する。記憶の中にある高校生最後の日、その時の椎名の声と重なる。全く同じ「またね」。椎名は変わらず、アイドルの幻想を信じている。
『アイドル!? すごいね、応援してる。上京しても、何年経っても、ずっと応援してるよ。またね』
 その呪いの言葉が忘れられない。あり得ないほど拗らせている。
 もちろんそれを表にする事はない。少なからずいるファンに対してあまりにも失礼で、あまりにも不誠実だ。もちろん、宇都美はファンを愛している。ファンはきっと、あの時の椎名以上に宇都美葵を応援しているのだ。グッズは高い。握手券も高い。ライブ代も高い。対して椎名が支払うのは、一年に一度の誕生日で夜ご飯を奢るばかりだ。
 事実だけを言うなら、宇都美葵は誠実なアイドルだ。アイドルになってから恋人を作った事はないし、イベントも病気以外で欠席した事はない。
 しかし、その理由はファンに対する誠実さではない。宇都美の想いはやはり椎名八重にある。宇都美が守りたいのは、椎名が思うアイドル像だ。皆んなに笑顔を振り撒き、たった一人のものには決してならない。そんな徹底的なアイドル像を。
 内心は自由である。憲法によって保障された自由の地平がそこにはあった。

「なぁ、宇都美」
 さて、そろそろ帰ろうかと歩き始めた時、後ろから声をかけられた。
「っ、あ、浅倉・・・・・・」
 振り返ると、そこには浅倉泰介がいた。彼の持つ重厚な筋肉が、服の上からでもよく分かる
「今の、彼女か?」
「いや・・・・・・」
 言葉が詰まって、うまく言い訳が立たない。いや、それはおかしい、だって椎名とは付き合ってる訳じゃない。何も問題はない。
「あー、いや、責めてる訳じゃないんだ。江刈にも彼女いるらしいしな」
「江刈が?」
 江刈とはAMUSEのメンバーの江刈亮のことだ。細身でタレ目のイケメンで、AMUSEの中では浅倉と揃って人気二台巨頭である。
「あぁ、だから、まぁ、なんだ。気をつけてくれってだけだよ。江刈も彼女と会う時は軽く変装したり、家で会ったりしてるから、宇都美も頼むな」
 浅倉はそれだけ言って、また闇夜へ消えた。
 まだ付き合ってないのに。なんて、言い訳はきっと聞かないだろう。浅倉からすれば、いや、ファンからすれば、異性と二人きりはそれだけでアウトだ。
 宇都美はしばらく呆然と佇んでいた。心の中の遥なる地平が、呪いに犯されて喘鳴を上げている。
「・・・・・・」
 宇都美はスマホを取り出した。ラインを開いて、無料通話をかける。
「『どうしたの、葵? 私なんか忘れ物してた?』」
 その声に決心がつく。『またね』と同じ声。逃れられない呪縛の声。
「八重って、この辺に住んでるんだよな?」
「『・・・・・・そうだけど、なに?』」
「今から家行ってもいい?」
「『へっ? 家、いや、いいけど・・・・・・いいの?』」
「いい、行きたい」
「『ん、分かった。ちょっと、三十分後でもいいなら』」
 何となく、椎名の声が上擦っている気がした。
「了解。それまで暇つぶししておくよ」
 そして、宇都美は歩き出した。三十分はそれなりに長い。どこで時間を潰そうか、まだ決まらない。決められない。


 静かな部屋の中で、ガチャリと鍵が開く音が聞こえた。数十分ぶりの時計の針以外の音だ。
「ただいまー」
 部屋の中に八重の声が響く。
「おかえり」
 そうシンプルに返すと、八重は改めて「ただいま」と言った。
「どうだった? メールきた?」
「ごめん、またダメだった」
「そう・・・・・・ま、大丈夫、大丈夫。私の収入だけでも結構あるしね。焦らず、ね」
 八重はそう言って、左側に背負ったバッグを置いた。その左手の薬指にはキラリと輝く指輪がある。
「そうは言っても、焦るよ。せっかく安定のために辞めたのに」
「うーん、そうね、でも、そうね」
 言葉を探す彼女に、反応を間違えたと察した。そんな風に惑わすつもりは無かった。
「ごめん、頑張るよ」
「頑張るのは、面接の時だけね? 今はしっかり休んで。じゃあご飯作ってくるから、またね」

『またね』
 その言葉のために、宇都美葵はここにいる。当時で言えば数百人か、結局、数千人か数万人にまで伸びたファンを踏み台にして、宇都美葵は呪われながら生きている。
 呪いから逃れる術はない。
 

 
 

5/23/2023, 5:10:28 PM