[お題:透明な水]
[タイトル:ゴミ山の宝船]
「ねぇ、ハイド! ねえったら!」
ジキルはハイドの背に声をかける。しかし裸足でかけるゴミ山は、ガシャガシャと音を鳴らし、ジキルの声を掻き消していく。
ハイドはジキルよりも足が長く、その分走るのも速い。絶えず上がり続ける煙も相まって、見失わないよう着いていくのが精一杯だ。
「はぁっ、はぁっ」
ハイドは息を漏らしながらぐんぐんと先へ進む。いつもそうだ、とジキルは心の中で悪態をつく。
そう、いつもそうなのだ。ハイドはいつだって真っ直ぐで、ジキルのことなんて見えていない。いつも二人一緒にいるのは、ただジキルが付いていっているだけなのだ。
けれど、今日は違う。その話題を持ってきたのはシギルの方だった。ジキルが先で、ハイドが後。だから、追い越されっぱなしは鼻につく。
もうすぐゴミ山を抜けて森に着く。そこからさらに数分走れば目的地だ。
(よし、森にさえ入れば!)
ジキルがハイドに話したのは、それがある場所だけだ。だからハイドは道なりに進むしかない。対してジキルは近道を知っている。
けもの道を進むハイドを尻目に、ジキルは横の草むらに入る。
木漏れ日と虫の音を浴びて進む。時折り鋭い葉先に肌を切られ、微かな吐息を漏らした。増えた傷は三、四本。大した数じゃないなとジキルは思う。この身体に刻まれた傷の数が『いっぱい』から増える事はない。
間も無く、シギルは目的地に着いた。
そこには草を薙ぎ倒し、木を傾けて佇む給水車があった。
まだハイドは来ていない。
やった! 勝った! 心の中で歓喜するジキルの元へ、遅れてきたハイドが木々の間から顔を出した。
「おっ、早いなジキル」
「まあね」
フンと鼻を鳴らしたジキルには目もくれず、ハイドは給水車に近づいた。
「で、これがあの、あれ、くるま? って言うの? これに透明な水が入ってるんだ? ・・・・・・あれ、なんか不貞腐れてる?」
「なんでもない。いや、うん。これに入ってるよ。ほら、ここ、ここ」
ジキルはそう言って、給水車の後方にある蛇口を捻ってみせた。
するとそこからドバドバと、透明な水が溢れてきた!
「すごい! 本当に透明な水だ! すごい、すごい」
そう言ってはしゃぐハイドを見ていると、ジキルはなんだかとても幸せな気持ちに包まれた。
ハイドとジキルは時に競い合うライバルだが、根本的に家族である。ゴミ山で暮らす四十二人の親族の中でも、同姓で歳の近い二人は、よく一緒の仕事に駆り出されていた。その中で育まれるのは紛れもない家族愛で、それは一時の感情で消え去るものではないのだ。
だからジキルは、これを見つけることが出来て良かったと心から思った。
「ねぇ、ジキル。これだけあれば、皆んなの分もきっと足りるね」
ハイドの笑顔が眩しくて仕方がない。ジキルは必死に何度も肯いた。
これを見つけたのはちょうど昨日のことだ。森近くのゴミ山でプラスチックを集めている最中に、怪物の咆哮にも似た轟音を聞いたのだ。
「えっ、なっ、なに?」
つい漏らした独り言は、怪物の咆哮に対するものだった。ドォン! という轟音は地響きが起きていると錯覚させるほど大きく、今まで聞いたことのない音だった。
次いで、微かに聞こえたのがガラガラとズリ落ちるような音。
それを聞いて、ようやくジキルは察した。山の上辺りから何かが落ちてきたんだ!
そうして音の方へと駆けて行った。その音の先に、一キログラム十円のプラスチックよりも価値の高いモノがあるに違いない。いや、そうであってくれ。そう思いながらジキルは森に入った。
このゴミ山は、とある発展途上国のゴミ集積所である。元々は緑の綺麗な盆地であったのだが、土地の所有者によって、ゴミ山へと変えられてしまった。
ジキルとハイドが生まれた時には既にゴミ山であり、彼らは産まれながらにして、スカベンジャーとしての生活を余儀なくされた。
彼らの仕事は、ゴミ山からゴミを集めて金に変えることだ。
プラスチック、紙、ペットボトル。一キロ数十円のこれらを集めて金に変えていく。貧困層にとってはこれが大きな資金源になるため、ここから出ように出られないのだ。
そんな訳で、このゴミ山は本物の山に囲まれた盆地にあるのだが、当然、そこにはゴミを運ぶための道が整備されている。
特に山に囲まれたこの場所では、山を開いて道を作る必要があった。
ジキルが給水車を見つけた時、まだタイヤがカラカラと空回っていた。ふと上を見上げると道の端が削れており、そこからズリ落ちて来たのだとわかる。
何らかの事故が起きたんだと、ジキルは理解した。
同時にジキルの中にあったのは、これをどうにかして解体しなくてはならないと言うことだった。
ガラスも、タイヤも、ワイパーも、エンジンも金になる。ジキルにとって、それは降って湧いた天からの贈り物であり、まごう事なき宝船だった。
そうしてジキルは給水車に近づいた。後ろに回ると、菱形に人のようなマークと、何やら色々な機能が付いており、適当に触ってみる事にした。
そのうち、ジキルは当たりを引いた。蛇口を捻ったのだ。
ドバドバと、透明な水が溢れ出す。
「えっ、わっ! 水! 透明だ!」
思わず声を上げて驚いてしまう。透明な水を見たのは人生でも数えるほどだった。この地域では、雨水ですら濁っている。
ジキルはこの時、我を忘れていた。裸になると、たまたま持っていたペットボトルに水を溜めて全身にかけた。肌を洗うと泥が落ち、下から本来の肌の色が覗いた。傷の少ない綺麗な肌だ。たっぷりと浴びた後は、何度も何度も水を飲んだ。吐きそうほど飲んで、けれど吐くのは勿体ないと堪える時間が、人生で一番の幸福だった。
これだけの水があれば、きっと家族全員に行き渡る。幸福はまだまだ続く。
けれど、幸福はいつか終わる。紛れもない現実の中にジキルは生きている。
カシャン、と音が聞こえた。
あまりにも突然だったので、ジキルは飛び上がって後退りしてしまう。なにせ、その音がとても近い場所で鳴ったのだ。
急いで服を着て音の方へ向かう。給水車の前方へと。
「っ──!?」
叫びそうになるのを、声を殺して堪える。
そこには運転席からダラリと腕を垂らして項垂れる人間がいた。指の先から血が滴っており、割れたガラス片で、幾つもの切り傷が出来ている。
「し、死んでる?」
もはや願望だった。もし生きているなら、ジキルは水を盗んだ事になってしまう。どんな報復があるのか分からない。
恐る恐る、運転手の手に触れる。まだ手には張りがある。脈の測り方なんて知っている筈もない。ジキルはただただ手に触れ続けた。なぜそれを十分以上も続けたのか、ジキル自身にも分からなかった。
まだ、運転手は動かない。
「よいしょ、と。とりあえずこのくらいでいいかな」
ハイドはそう言って、幾つかのペットボトルを地面に置いた。水を溜めるためのペットボトルだ。
ジキルがハイドにだけこの事を言ったのには理由がある。あまり事を大きくすれば、親族以外のスカベンジャーにも知られかねないからだ。
もちろん、全てを独占するつもりはないが、ある程度は自分たちのモノにしておきたいのだ。しかし、車の解体には時間がかかり過ぎてしまう。そこでとりあえず、水だけは確保しておこうというのが、今回の作戦だった。
蛇口を捻って、水をペットボトルに溜めていく。その間、手持ち無沙汰になったハイドは辺りを探索し始めた。
「あんまり遠くに行かない方がいいよ。猪とか居たら襲われるかも」
「ま、それもそうだな」
そう言いながらも、ハイドは歩く事をやめない。そのままの速度でハイドは車の前方へと進んだ。
「ここには何も無いんだな」
ハイドは運転席の中を見て言った。
「うん。昨日来た時から何も無かったよ」
「でも、これ血がついてない? なんか、血っぽいガラスいっぱいある」
「うん。昨日からそうだったよ。きっと、僕が来る前に逃げ出したんだと思う」
「ふーん」
ハイドはそれだけ言って、また後方に戻って来た。
「そろそろ溜まった?」
「そうだね、とりあえずこれだけ一旦持って行ってよ」
ジキルはハイドに水が満杯になったペットボトルを五本渡した。まだ空のペットボトルが数本ある。
「持てる数だけでも先に運んだ方が、効率いいでしょ?」
「ま、そうだな」
そして何の文句も言わずに、ハイドはペットボトルを持って家に戻った。相変わらず、ハイドの帰り道はけもの道だった。
間も無く、残りのペットボトルにも水が溜まった。
「さて、行くか」
水が満杯に入ると、ペットボトルは案外重い。これは近道をした方がいいな、とジキルは思った。
草木を分けてジキルは進む。重いモノを持っている分、僅かな石ころにも足を取られやすい。
案の定、ジキルは倒れた木に足を引っ掛けて転んでしまった。
「はぁっ、はぁっ、あれ?」
ジキルは不思議に思った。どうして足に力が入らないのだろうと。
「はぁっ、はぁっ」
呼吸がどんどん荒くなる。まともに声も出せない。いや、大丈夫だ。きっとハイドが見つけてくれる。
そう考えて、すぐに気がついた。無理だ。ジキルは今、誰も知らない近道の途中にいる。
どうして力が入らないのか、ジキルに心当たりは無い。強いてあるとすれば、それは神様からの天罰に他ならない。
コロコロと、目の前にペットボトルが転がってくる。透明な水。透かした先の葉の葉脈すら鮮明に見える。ジキルにとって、透明であるという事は何よりも綺麗であるという証だった。
透明な空気があれば、それは綺麗な空気と呼んでいた。
泥を落として透けて見えるようになったペットボトルには「綺麗になった」と言った。
水もそうだ。その筈だ。けれどジキルは知らなかった。水以外にも透明な液体はある。それがどれだけ水のような見た目でも、決して中身は違うモノだ。
何より、ジキルは見落としている。ここに来るような車がどんな車なのかを。このゴミ集積所にやってくる車が積んでいるモノは──
「はぁっ、はぁっ」
また息が荒くなる。
地に伏したジキルが想うのは家族のことだ。
ハイドはきちんと水を届けられただろうか。あれだけの水があれば、今年は誰も死なずに済むかも知れない。少し寝たら、すぐに行こう。この水を皆んなに飲ませてあげたいんだ。
あぁ、そうか。彼にもきっと家族が居たんだろうな。
遠くでハイドの声が聞こえる。何か叫んでいる。うるさいな、もう、眠れないじゃないか。死体でも見つけた訳じゃあるまいし。
[お題:理想のあなた]
[タイトル:壁になってる暇なんて]
余命三ヶ月を切った邦城舞華が願うのは、もし生まれ変わったら推しの家の壁になりたいということだった。
舞華は男性アイドルグループ『AMUSE』のライブ映像を前に、推しカラーの水色のサイリウムと顔入りの推しうちわを振り回している。そこが病室でさえなければ、多くの人が彼女に向ける目線は好奇なものになっていただろう。
舞華は思う。むしろそっちの方が良かったなと。今は両親も、友人も、その目線には憐れみが混じっている。本当は元気が無いのに心配させまいとしているんだろうとか、だからこっちも一緒に乗ってあげようとか。そんな雰囲気を出している。それするなら察されないようにしろよ、なんて言ったことはないけれど。
狂ったように推しうちわを振り回して、病室の空気を循環させる様を、どうしてそんな風に見られなくてはならないのか。サイリウムが生み出す光の軌跡は、空元気と気遣いで出来てる訳じゃない。
まあ、でもタイミングが悪かったのだろうと思う。舞華が推しにハマったのは、病気が判明したのとほとんど同じ時期で、確かにそこには因果関係がチラリと見える。つまり、重病で沈んでいた心に、するりとアイドルが入ってきたのだと。
けれどそうではないと舞華だけが知っている。きっと病気でなくても、舞華は彼にハマっていた。AMUSEのメンバーである瀬名亘は、それほど舞華の理想だった。
舞華が推しに出会ったのはおよそ一年前、高校の体育の授業で倒れる二日前のことだ。
AMUSEは朝のニュース番組で、新進気鋭の五人組アイドルグループとして紹介されていた。
『皆さんおはようございます!AMUSEです!』
センターの浅倉泰介が明朗快活に言う。服の上からでもわかるほど筋肉質で、ベリーショートの体育会系だ。その両隣が細身でタレ目の江刈亮と、白い歯の笑顔が眩しい宇都美葵。よく話を振られるのが、天然でボケ担当の六岡蓮。そして微笑むことすらしない仏頂面が瀬名亘だ。
中央の三人が人気なんだな、と舞華は思った。パフォーマンスでの歌割りが明らかに多いのだ。六岡蓮もトークでは目立っている。
だからこそ、逆に瀬名亘が目についた。
無口の仏頂面。どうしてアイドルを志望したのかも分からないくらい、アイドルに向いていない。そんな印象だった。
気になって調べ始めたのがターニングポイントだったと、舞華は今さら思う。
アイドルはスカウトされて始めたらしく、アイドル自体に愛はないということ。熱狂的なファンは気持ち悪いと思っているということ。そんなことをネットの配信で言ってしまい、炎上したことがあるということ。
ファンの掲示板で『瀬名辞めろ』の文字が出てこない日はない。
見ているだけで気持ち悪くなるようなその有様に、吐き気すら覚えた。そしてこうも思う。これを直接受ける瀬名亘は、どんな気持ちでアイドルをしているのだろう。
答えは分からない。どれだけ探しても、彼がアイドルを続ける理由を語るシーンは見当たらなかった。
確かにアイドルらしくない。ファンへの態度は最悪で、パフォーマンスも突き抜けているわけではない。トークもお世辞にも面白いとは言えない。ただ──
「顔かっこいいな、瀬名くん」
突き詰めるとそれだけなのかもしれない。じゃないと調べることすらしなかっただろう。徹底的なファンへの冷たさ。アイドルへの無頓着さ。ファンからのバッシング。それでもなお、アイドルを続ける彼が、どこか愛おしく感じたのだ。
それが舞華に始めて推しができた瞬間だった。
ライブ映像を見終わり、グッズを片付けていると、病室に父親が入ってきた。
「今、大丈夫か?」
父親の目線は推しグッズを経由してから舞華に移った。
「うん。大丈夫だよ」
父親は舞華の推し活には寛容だ。どんなグッズも頼めば買ってくれる。理由は病気にある。残り少ない余命を、自由に生きて欲しいという親心だ。
それを分かっていて利用するのは正直、気が引ける。最初の頃は病気様々だと思っていたが、余命が明確になった今ではそんなことは言えなくなった。
かといって、推し活をやめるつもりはない。一生推すと決めて、本当に一生推せる人間がこの世にどれだけいるのか。少なくとも、舞華は一生推すと決めている。一生が終わっても推す。できるなら推しの家の壁になりたい。推しの一生を見ていたい。
「それで、どうしたの?」
なんとなく、父親の態度が落ち着かない。
「あー、実はな、舞華にお客さんが来てるんだ」
「お客さん?」
すると突然、病室の扉が開いた。
「・・・・・・どうも」
そこにはひょっこりと半身を出した瀬名亘がいた。
「ん? え、は!?」
そんな情けない声を出してしまう。いる! 確かにいる! 瀬名亘が仏頂面でそこにいる!
「初めまして」
そんな一言で心臓が跳ね上がる。これはまずい、ただえさえ少ない余命がさらに縮んでしまいそうだ。後ろから入ってきたカメラも気にならない。
「は、はじめまして・・・・・・えっと、あの、あの!」
続きの声が出ない。何もかも上手くいかない。なにせ、聞きたいことが多すぎる。
「実は、お父さんから俺のファンだって聞いて、それでまぁ、サプライズで」
瀬名亘は辿々しく説明する。要するに、父親が彼らの番組に連絡をしたのだ。余命幾許もない娘に、大好きなアイドルを直接合わせてやりたいと。そんなところだろう。
「実際見て、どう?」
「えっ、えっと、すごくかっこいいです」
素直な感想だ。それを聞いた瀬名亘は微かに笑う。
笑っている。瀬名亘が笑っている。その笑顔から目が離せない。でも、どういう理由で?
「あの、瀬名く・・・・・・瀬名さんは、私がファンで嬉しいですか?」
瀬名亘は一瞬きょとんとした顔をして、声を大きくして言った。
「もちろん! 俺を推してくれてありがとう。舞華ちゃん」
その言葉を頭の中で繰り返す。
ありがとう。その文字列を瀬名亘の口から聞いたのは初めてだった。どの映像にもそんな記録はない。
なんか、イメージと違う。
瀬名亘ならきっと「別に普通」としか言わない。そんな優しく微笑まない。それは六岡蓮や、宇都美葵のすることだ。いや、そもそも瀬名亘ならこんなところに来ない。
瀬名亘が言葉を続ける。
「重い心臓の病気なんだってね。大丈夫、きっと諦めなきゃ大丈夫だから」
瀬名亘なら、言わない。そんな無責任に寄り添わない。もっと冷たく突き放してくれる。理想の瀬名亘なら、きっと──
そこから十分ほど話して、テレビクルーは病室を去った。瀬名亘は最後まで笑顔だった。張り付いた嘘の笑顔。帰りに渡されたのはサイン色紙だ。案外、字が綺麗なことを初めて知った。
そして一年後、舞華はまだ生きている。医者は奇跡だと言い、両親は泣いていた。間も無く退院できるらしい。もう既に退院の準備を始めている。
「これどうするの?」
母親が段ボールを指して言う。
「あー、一応、とっとく」
「はいはい。それから、時間あるなら勉強しときなさい。二年も学校行ってないんだから」
「分かってるよ」
そう、分かっている。なにせ未来は続くのだ。いつまでもではないが、それなりに長く続く。
壁になってる暇なんて、無い。
[お題:突然の別れ]
[タイトル:ニョルニョン]
どうやら本当にニョルニョンは居なくなってしまったらしい。
どうして突然! もう五年も一緒に居たのに!
二時間かけてひっくり返した部屋の中で、千堂由梨は心の中で悪態をついた。確かに、思い返せばここ二、三日姿を見なかったのだが、まさか本当に居なくなっているとは思わなかった。
ここ数日の飲み会で頭がやられていたのだ。ニョルニョンのことに全く気が回っていなかった。そういえばニョルニョンにご飯あげてないなと、ようやく気づいたのが今朝のことである。
そこから二時間かけてニョルニョンを探した。必死だった。何十冊もの本を床に落とすと、ページの幾つかが折れた。布団を別の場所に移動させて下を確認し、しばらくしてまた移動させて下を確認した。冷蔵庫の中では缶ビールが生温くなっている。台所には輪切りのちくわが転がるばかり。箪笥の衣類は全て机の上だ。果たして、どこにもニョルニョンはいない。
不注意な自分が恨めしい。由梨の中にある喪失感は、次第に自身への怒りに変わっていた。
どうして二日前に家に帰らなかった? どうして昨日すぐに寝てしまった? どうして今さら気づいた? 全ては過去のことだ。進み続ける時間の矢は後ろには返らない。なので、必然仕事の時間もすぐそこに迫っている。
「あーもう、メイク・・・・・・服も、アイロンかけなきゃ」
と、そこまで喋って、自分が声を出していることに由梨はようやく気がついた。行動をいちいち口にする人はほとんどいない。特に部屋に一人きりであれば尚更だ。
明らかに普段じゃない。由梨の心はドーナツのように、あるいはコーヒーカップのように穴が空いていた。ちょうどニョルニョンがすっぽりとハマりそうな穴である。
それでも仕事は休めない。仕事を休めるかどうかはニョルニョンがいるかいないかではなく、カレンダーが土日祝日であるかである。
二十分ほどで身支度を済ませた。適当に済ませたメイクでは、いつもより血色が悪い。同僚からイジられそうで憂鬱だ。穴の空いた心には憂鬱がよく沁みる。
外に出るとふざけたような朝日が照っていた。馬鹿にしてんのか、と言いたくなるが、口には出さない。同じ失敗はしない。代わりに朝ごはんを食べていないお腹がグゥと鳴った。
途中でコンビニに寄ろう。確か地下鉄の近くにあったはずだ。
コンビニ、そう、コンビニだ。
ニョルニョンを拾ったのもコンビニだった。けれど地下鉄近くではなく、むしろ駅と真逆に一時間ほど歩かなければならない、病院内のコンビニである。
そんなことをつい思い出してしまう。これはミスだ。穴の空いた心じゃ理性がすり抜けてしまう。
果たして、由梨は地下鉄に背を向けた。もしかしたらと由梨は思う。もしかしたら、あのコンビニにニョルニョンはいるんじゃないか。
けれど、ニョルニョンはそこにいない。本当は由梨も知っているのだ。けれど、それを思い出すことを、由梨の心が許さない。
ニョルニョンとはドーナツであり、コーヒーカップであり、ちくわなのだ。
けれど由梨は気づかない。まずは牛を球と見れなくては。さもなくばニョルニョンはニョルニョンのままである。