[お題:月に願いを]
[タイトル:月の裏に宇宙人がいると君だけが知っている]
「つまりだよ。月の裏側には宇宙人がいるのだよ」
オカルト雑誌を机に広げながら、檀深月は尊大に両手を広げて言う。大きめのニットキャップについたポンポンが揺れている。
ここ普通のファミレスだから、あんまりそういうのはやめてほしい。なんて言えないのは、深月のその性格を知っていながら、ファミレスを選んだのが國村夏津だからだ。
「NASAは意図的に真実を隠してるんだ。実際、中国の探査では宇宙人の小屋が見つかってるしね」
深月はさらに話を続ける。月の裏側が見えないのには理由があると。それは月の自転と公転が同じ周期であるからなのだが、偶然にしては出来過ぎているのだと。きっと、超技術を持つ宇宙人が人類に見つからないよう拠点を作るために細工をしたのだと。
深月は楽しげに話す。これが証拠だと言って差し出すのは読むのも難しい論文ではなく、ネットに転がる記事と、登録者一万人のYoutuberの動画と、怪しげな雑誌だ。
「ね、夏津もそう思うでしょ?」
オレンジジュースをストローで飲む夏津に、深月は食い気味に尋ねる。笑顔で、目を輝かせて。
「うん。深月は正しいよ」
だから夏津も笑顔で言う。ちゃんと笑顔を作れているだろうか。営業部の椎名さんに今度やり方を聞いてみよう。あの人の笑顔も中々に素敵だ。
「だよね! やっぱ夏津だなー! ほんと祐樹はあり得ない!」
祐樹とは、深月の元カレである早峰祐樹のことだ。なんでも、一ヶ月前に別れたらしい。
「あんまり元カレのこと喋るもんじゃないよ。ここファミレスだし」
そう言われた深月は、ハッとして手で口元を押さえる。そして僅かに目をキョロキョロとさせると、囁くような声で言った。
「祐樹ほんと最悪」
「小声ならオーケーって訳でもないよ」
そう指摘されて、深月はケラケラと笑う。ちゃんと冗談のつもりだったらしい。安心して夏津も笑う。ほんと、冗談で良かったと思う。
「時間、大丈夫なの?」
「えっ、あーほんとだ。そろそろ出よっかな」
深月はいそいそと広げた資料をかき集める。そして少し古くなったリュックに詰めて席を立った。
「私も行くよ。ここ奢るね。お金、ないんでしょ?」
「うぉー! さすが社会人! 金持ち!」
深月はそう言って、夏津の手を取る。
「金持ちではないよ」
本当に金持ちなんかではない。二十五歳、社会人としての当然にある貯金から、ミラノ風パスタとドリンクバーの代金を追加で出すだけなのだ。金持ちなら、もっと高いのを奢れるだろう。とはいえ、二十五歳のフリーターにとっては、これだけでも十分ありがたいものなのかもしれない。
「頑張ってね、深月」
ファミレスを出て目的地に向かう深月の背に声をかける。
「うん、ありがとう。絶対、人類を救ってみせるから!」
そして深月は手を振って戦地へと赴いた。そう、深月は人類を救うために戦っているのだ。向かう先は、国会だ。
一月、雪の降る季節。天気予報じゃ今日の夕方から降るらしい。そんな一月に行われる国会でのイベントといえば、予算委員会だ。
「・・・・・・ほんと、なんでこうなっちゃったんだろ」
夏津は思う。どうして好きな人の背中をこんな哀れみの感情で見なくてはならないのか。
街行く人の誰が気付けるだろうか。あの頭のニットキャップの内側にはアルミホイルが入っているのだと。彼女の向かう先は国会で、その眼前で仲間たちとプラカードを持って対宇宙人予算を作れと叫ぶのだと。
夏津はそんな人を好きになった。けれど大学で出会った当初はどちらも違った。夏津は深月を友達だと思っていたし、深月は宇宙人なんていないと思っていた。夏津が自身の感情に気づいたのは、紛れもなく深月が頭にアルミホイルを巻き出してからだ。
「戻りましたー、ってあれ?」
「あぁ、お帰り國村さん」
そう言ったのは、同じ事務部で同期の安住すみれだ。すみれは無類の噂好きであり、ゴシップ好きである。よく夏津に社内の色々なあれこれを仕込んでいる。
人事部の部長が不倫してるとか。営業部に最近入ったイケメンが二股してたとか。そんなロクでもないことばかりだ。
「ただいま。って、えと、椎名さん?」
「あ、お邪魔してます。お久しぶりです、國村さん」
そんなすみれの隣には珍しい人がいた。営業部の椎名八重だ。彼女もまた同期なのだが、部が違うのでそこまで接点はない。少なくとも、夏津は仕事以外で二人が話しているのを初めて見た。
「お久しぶりです。どうしたんですか? こんなところで」
「こんなところってことはないでしょ」
すみれはそう言って乾いた笑みを浮かべる。営業部と事務部。どちらが上ってことはないのだろうけど、やはり事務部からしてみれば、営業部の熱は凄まじい。とてもじゃないが自分ではできる気がしないと、夏津は思う。
「ちょっとお話してたんですよ。まあ、お話というか、その・・・・・・」
「うん。問い詰めてた。いやさ、中々認めないんだよね。ガード硬過ぎ!」
「いやいや、ほんとに違いますから」
「えと、なんの話?」
すみれは、よくぞ聞いてくれた! みたいな顔をした。
「いやね、椎名さん。実はアイドルと付き合ってるっぽいんだよね」
「アイドル?」
「本当に違いますから・・・・・・」
そう言って八重は否定のジェスチャーをする。その顔は困ったように苦笑いを浮かべている。しかし、その顔にはどこか、嬉しさが滲んでいるような気もする。なんというか、満更でもないという感じで。
なるほど、これはすみれが問い詰めたくなるのも分かる気がする。さらに相手がアイドルとなれば、尚更かもしれない。
「でも私見たんですよー? AMUSEの宇都美葵とご飯屋さんから出てくるの」
AMUSEといえば最近SNSで密かに話題になっている男性アイドルだ。当の宇都美葵は笑顔の似合う白い歯が特徴的で、そこそこの人気を博している。
「さっきも言いましたけど、高校の同級生だってだけですよ」
「でも二人きりだったんでしょ?」
「・・・・・・まぁ」
「ほらぁー!」
すみれはそら見たことかと言わんばかりに声を上げる。他の社員たちに聞こえてしまわないかとハラハラしてしまうが、彼らは無反応だ。
きっとこの押し問答を延々と続けていたのだろう。もうすぐ昼休憩も終わるというのに、周りの人達が机の上のあれこれを片付ける気配がない。この会社の事務職は女性が多く、皆ゴシップ好きである。
「まあまあ安住さん。もう休憩終わるし、それぐらいにしときましょうよ」
「うーん。そうね、続きは終わってからにしましょうか。ご飯行きましょうよ、椎名さん。もちろん國村さんも」
まあ、悪くはないと夏津は思う。どうせ、深月は仲間たちと打ち上げをするだろう。いつものことなので、流石に覚えてしまった。
しかし八重の反応は悪い。いやーちょっと、と気まずそうにしている。
「すみません、ちょっと今日は用事があって・・・・・・」
「まさか、例の彼と?」
「・・・・・・まぁ」
「ほらぁー!」
いよいよ昼休憩も終わりに差し掛かり、八重は営業部に戻っていった。帰りがけに「また今度、ご飯行きましょう!」と言っていたので、もしかしたら今後仲良くなれるかも知れない。
「でさ、國村さんはぶっちゃけどう思う?」
「何がですか?」
「椎名さん、付き合ってると思う?」
そう言われても、夏津にはほとんど情報がない。椎名八重とはまださほど話したことがなく、宇都美葵に至っては会ったことすらない。
しかし、今の会話だけで推測できることもある。
「まだ付き合ってないけど、椎名さんは結構気があるみたいな」
「そう! 私もそう思う。見た感じ、半分付き合ってる感じというか、両方その気はあるけど踏み出せないみたいな感じだと思うんだよね。彼がアイドルだから足踏みしてるのかなって感じ」
なるほど。さすがはゴシップ好きのすみれだ。素晴らしい分析力だと夏津は思う。しかし夏津には気になるところが一つあった。
「そういえば二人が一緒にいるの見たって言ってたけど『見た感じ』ってことは男女一緒にご飯ってだけじゃ確定じゃないんだ?」
「そうね。ま、黒寄りの白! かな? 私もたまに男友達とご飯くらい行くし」
「なるほど」
なるほど、と言っておく。実のところ夏津の頭は『黒寄りの白』に支配されていた。その言葉を頭の中で何度も繰り返していると、すみれが声をかけてきた。
「ところでどうする? ご飯、二人だけでも行く?」
「え? あー・・・・・・」
『黒寄りの白』
男女二人きりの食事に色恋の文脈が全くない訳じゃない。もちろん、それは客観の話であって、当の本人たちはなんの気なしに楽しく食事している事もあるのだろう。
女と女ならどうだろうか。男と男なら? すると突然に話は主観に切り替わる。本人たちにその気があるなら、そう。ない、なら、ない。男女ではきっぱりそう思えないのは、恋愛とは切っても切り離せない種と性の問題があるからだと夏津は思う。
けれど同性愛というのはその実、動物界でも珍しいものではない。子孫を残せるメスに目もくれず、オスと一生を共にするゲイのペンギンがいる。アフリカゾウだって同性で鼻を絡めてキスをする。
そう思うと、種と性に思考を支配された人間の方が、動物よりもよっぽど動物的だ。例えば男性アイドルが一人の女性とご飯なんて、タブー中のタブーであるように。
しかしそれにも実のところ段階がある。
アイドル界隈には男女問わずに『ガチ恋営業』なるものがある。それはわざと異性のファンに自分を好きになるような行動をする事だ。ボディタッチを多くしたり、より個人的な話をしたり。そうして自分に恋させることで、よりファンを依存させるのだ。その先に何があるかは推して知るべしと言ったところ。
恋する彼らにとって見れば、異性との一対一のご飯は完全アウトだ。逆に言えば、ガチ恋営業をしていなければ、アイドルであっても比較的暖かく迎えられる。あくまで比較的だが。
つまり、ガチ恋してる人にとって『黒寄りの白』は黒だ。
じゃあ夏津にとっては? 夏津は自分自身に問いかける。深月を好きになった自分にとって、同性であるすみれとご飯に行くことは黒か、白か。
「ごめんなさい安住さん。さっき外食したし、今日はなしでお願い」
「あー、分かった、分かった」
二度繰り返すすみれは、少しニヤついている。夏津は思う。きっと自分は、さっきの八重と同じような顔をしている。その気はあるけど、踏み出せない。そんな意気地なしの女の顔。その癖、付き合ってないのに付き合ったつもりの、そんな嫌な顔だ。
就業後、今日は残業が少なく、夏津はまだ明るいうちに街に出ることができた。
今からなら、まだ深月が活動しているところを見られるかもしれない。
実のところ、夏津はまだ深月の抗議活動を直接見たことは無かった。Twitterの『ヤバいやついる』のツイートに添付された写真の端っこで、プラカードを持つ深月を見つけた時だけだ。
まだやっているかは五分五分だ。でもそんなこと関係ないと、夏津は国会を目指した。相手の仕事終わりに連絡なしで待ち合わせたい、そんな乙女心が原動力である。
国会前に訪れると、既に活動家たちは撤収作業をしている途中だった。大きなプラカードをいくつも白いバンに閉まっている。
けれどその中に、深月の姿は見えない。どこに行ったのだろうと思い、彼らのうちの一人に声をかける。帽子を目深に被った大学生くらいの男だ。
「すみません。ちょっといいですか?」
「・・・・・・はい? なんでしょうか」
男は怪訝な表情を浮かべている。
「えと、檀深月を知りませんか? 私、深月の、その・・・・・・友達、で」
「あぁ! 檀さんの。檀さんならそちらにいますよ。ちょっと、まあ、今トラブルになってるので、後から向かった方がいいかもしれませんが」
そう言われて、彼が指す方を見ると、確かにそこには深月がいた。バンからかなり離れた木の下で、何やら誰かと話している。
「ありがとうございます」
それだけ言って、夏津は木に向かう。近づくにつれて、深月が話している相手の顔が鮮明に見えてくる。そして、その顔を完璧に認めた時、夏津は足を止めた。夏津にとっては時間が止まったような感覚だった。
「早峰、祐樹・・・・・・?」
小声で、その名前を呟く。深月が話しているのは、彼女の元カレの早峰祐樹だ。
「だから、なんで分かんないんだよ!」
祐樹のその怒声に、ようやく夏津の時間が動き出す。夏津は身体の動くままに、近くの木に隠れた。
「分かってるよ。大丈夫、祐樹のそれは思考誘因装置によるものなんだよ。宇宙人の技術は理解し難いと思うけど、扱うものはただの電磁波だって知ってれば、アルミホイルひとつで防げる程度のものなんだよ」
「っ、だからぁ!」
祐樹は声を荒げる。めちゃくちゃなことを言っているのは深月の方なのに、余裕を無くしているのは祐樹の方だ。
「だから、なに? いいよ、宇宙人さん。言いたいことがあるなら言いなよ。私は負けないから」
もう深月は、目の前の祐樹を早峰祐樹として認識していなかった。そこにいるのは早峰祐樹という端末を使って人類と話す宇宙人である。
祐樹ももう、何度も言われて慣れたのだろう。それをいちいち訂正せずに、彼女に攻撃を仕掛ける。
「中国は宇宙人の小屋なんて見つけてない。あれは隕石の衝突でできた、ただの岩石だ。それをジョークで言い始めたのが広まっただけだ」
「中国が小屋を否定し始めたのは、随分と遅れてからだよ。中国はアメリカに追いつこうと必死だから、宇宙人に媚びを売ってるんだ」
目眩がする。横で盗み聞きしてるだけなのに。それでも祐樹は必死に否定する。きっと、それが祐樹の愛なのだ。夏津には分かる。明後日を向く愛する人に、きちんと今日を向いて欲しいのだ。その気持ちは、心臓が張り裂けそうなほど分かる。
「中国が宇宙人と繋がってる訳がない。宇宙人がいる証拠なんか誰も、どの国も、どの機関も持ってない。グレイを連れた局員の写真はエイプリルフールのフェイク写真だ。UFO写真のほとんどはゴミと光で説明できる。宇宙人がいる証拠なんて何処にもない」
「それならどうして各国は次々と宇宙軍を設立したの? それこそ本当は宇宙人を見つけている証拠だよ」
「宇宙軍の設立目的は宇宙空間の衛星兵器への対策だ。決して宇宙人対策じゃない」
「そんなの建前に決まってる。宇宙人の存在を隠すために言ってるだけ」
「隠す意味がない」
どちらも引く様子はない。祐樹が具体例を挙げ、深月が空論で返す。その二人のやり取りを夏津は羨ましく感じた。
祐樹が深月の言葉にすぐに返せるのは、それだけ調べてきたからだろう。彼女の宇宙軍を打ち砕けるほどの、焼夷弾にも似た情報の群れを祐樹は従えている。先に知っていなければ、調べることすらできない。それはつまり、彼らが何度もその話題を話し合ったということだ。夏津の知らない場所で、夏津の知らない時間で。
その口論の情報の渦こそが、二人の築き上げた時間の重厚さの証だった。
羨ましいと、素直に思う。妬ましいと、そう思う。これは黒寄りの白なんかじゃない。明確な、宇宙よりも暗い漆黒だ。
夏津は深月にガチ恋している。同性ゆえのボディタッチが、同性ゆえの個人的な話が、夏津を深月に沼らせる。
けれどガチ恋は百パーセント報われない。好きな人と結婚できるステージにファンはいない。アイドルが結婚するのは同業者か同級生かマネージャーだ。
ガチ恋は報われない。報われないと知っていて、だけど絶対に抜け出せない。それは恋よりも虚しくて尊いと、夏津は思う。
だから夏津は飛び出した。二人のいる場所に行く。
「あっ、夏津!」
先に気づいたのは深月だった。深月は大型犬みたいに擦り寄って、夏津の手を取る。ボディタッチに心臓が跳ねる。
「助けて、夏津。祐樹が宇宙人に脳みそ支配されてる」
「うん、うん。大丈夫だからね、深月」
「あんた、確か・・・・・・」
どうやら、祐樹は一度しか会っていないのに覚えているようだ。そういうところがモテるんだろうなと、夏津は思う。
「深月の友達の、國村夏津です」
「あぁ、そうだ、あんただ。あんたは・・・・・・まともそうだ」
祐樹は夏津の頭を見ていう。深月やその仲間たちは、思考誘因装置の影響を防ぐために、皆アルミホイル入りの帽子を被っている。軽くヘアゴムで縛っているだけの夏津は、分かりやすく彼らと違う。
祐樹は縋るように言う。
「あんたの方からも言ってくれ、もういい歳して何してんだって」
二十五歳。確かにいい歳だ。結婚するには、身を固めるには良い歳だ。
「深月が正しい」
「え?」
夏津の返答に、祐樹は呆気に取られている。獣を見るような表情で、夏津を見る。
「深月が正しい。あなたは宇宙人に脳をやられている」
その言葉に深月は目を輝かせる。対して、祐樹は侮蔑の表情を浮かべた。
ガチ恋は報われない。報われないけれど、真剣に愛している。だから、皆んな好きな人の全てを肯定する。他に武器がないから、肯定することでしか愛を表せない。同級生にはなれない。マネージャーにはなれない。報われない百パーセントに、計算ミスがあると信じずにはいられない。
「じゃあ、二人で馬鹿みたいに騒いでろよ。それで人生棒に振ってろ。もう二度と関わらない」
祐樹はそう吐き捨てて、どこかへと消えた。
夏津は深月と祐樹の馴れ初めを知らない。どうして深月がこうして反宇宙人活動家になったのか、どうして祐樹がそこまでそれを嫌悪するのか。夏津は何も知らない。きっと、二人の間で何かあったのだろうと推測して、それ以上は心に毒だと蓋をする。夏津は今の深月しか見ない。
深月は宇宙人の手先を退けた夏津を羨望の眼差しで見ている。
「すごい! すごい! さすが夏津!」
そうして深月は夏津に抱きついた。
「大丈夫、大丈夫だよ。深月。私は絶対にあなたの味方だから」
その後、夏津は深月に連れられて、彼女の仲間の打ち上げに参加した。相変わらず、彼らの会話は意味不明で、まるで宇宙人と会話しているようだった。けれど夏津の返答にノーは無い。全てを肯定したその先に、本当のゴールがあると信じている。それは決して結婚では無い。ゲイのペンギンは結婚なんてしてない。アフリカゾウは永遠を誓わない。ただ漠然と、深月に恋する自分を夢見ている。
その日の夜、夏津は夢を見た。各国の宇宙軍が月の裏側を軍事侵略する夢だ。
焼夷弾が降り注いで月のクレーターが増える。黒焦げのグレイの死体が宇宙空間を彷徨っている。中国人が何人かの宇宙人を船に乗せて逃す。アメリカ人が徹底的にと、核を降らせと叫ぶ。
その辺りで夏津は飛び起きた。まだ夜中の二時だ。月はよく見えない。分厚い雪雲に塞がれている。
夏津は月に願う。お願いだからその裏側を見せないで。さもなければ、いっそ壊れて。うさぎもカニも見えないほどグズグズに壊れて、月光なんて輝かないほど徹底的に朽ち果てて。
その時になって、ようやく夏津はその恋を終わらせられるのだ。
5/26/2023, 9:53:41 PM